学位論文要旨



No 115739
著者(漢字) 片野,元
著者(英字)
著者(カナ) カタノ,ゲン
標題(和) 金属材料中の水素挙動に関する研究
標題(洋)
報告番号 115739
報告番号 甲15739
学位授与日 2001.01.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4827号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 森,実
 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 教授 柴田,浩司
 東京大学 教授 菅野,幹宏
 東京大学 教授 栗林,一彦
内容要旨 要旨を表示する

 水素脆化とは、水素の作用によって金属材料の延性が低下する現象である。構造材料にとって、この現象は単に靭性を低下させるだけではなく、遅れ破壊などの予想の難しい現象を引き起こす。水素脆化の起こりやすさは材料の種類によって大きく異なり、一般に腐食条件下で応力がかかっているときに生じやすく、高強度材料ほど顕著になる傾向がある。水素脆化は現代の社会基盤を支える鉄鋼材料だけではなく、様々な金属材料に共通して現れる現象である。水素脆化現象の解明には、材料中の水素挙動の研究が重要である。

 研究対象とする試料には、環境脆化が著しいが添加元素による延性発現効果を示すNi3Al多結晶体と、遅れ破壊が問題となる高強度鋼(SCM440)を選んだ。これらの材料には高強度であり、水素脆化が問題となる共通点がある。

 結晶中での水素挙動を明らかにするために、主たる研究手法としてトリチウムTEMオートラジオグラフィーを用いた。この手法では、試料中に存在する水素の所在をサブミクロンオーダーで検出することが可能であり、透過観察によって金属試料の微細組織中での水素分布を知ることができる。また測定精度の高い液体シンチレーションカウンターを用いたβ線測定法や、電気化学的透過法を用いて、結晶中の水素の拡散や濃度についての知見を得る。これらの手法組み合わせから、得られたデータを定量的に取扱い、オートラジオグラフィーの技術レベルを向上させ、結晶中の水素挙動解明を解明していくことを目的とした。

 第二章では金属材料に発現する環境脆化とはどのような現象であるのかを明らかにし、本研究の位置付けを明確にした。

 水素脆化に至るプロセスの中で、水素の集積・集合と脆化の二つの機構は、概要は明らかになっているが細部については未解明な問題が残されており、様々なモデルが提唱されている段階である。オートラジオグラフィーを用いて水素の分布を詳しく研究することは、水素脆化機構解明にとってもまた重要な足掛かりとなる。

 第三章では水素脆化研究に用いられる手法について示し、特に結晶中における水素挙動を明らかにする実験手法についてまとめた。また本研究で用いられた手法について詳しく述べている。オートラジオグラフィーは水素の所在位置を明確にできる数少ない手法の内の一つである。その原理は試料内部へチャージしたトリチウムからのβ線を写真乳剤で捉えるものであり、浅いながらも結晶内部に捕捉された水素の所在を知ることができる。TEMによる透過観察により、結晶中の微細組織に直接対照させて、トラップされた水素の位置を確定できる。トリチウムと軽水素には同位体効果があり、必ずしも軽水素の挙動と同じであるとはいえないが、他に代わる手法がないため、現状ではこの手法から得られる知見は極めて重要である。

 第四章では金属材料へのトリチウムオートラジオグラフィーの定量化法について詳しく述べた。

 液体シンチレーションカウンターによるトリチウムの定量方法は、非常に精度が高い。この手法を用いて、まず試料表面での水素濃度を定量化した。これにより表面から放射されるβ線数を正確に測定することができた。オートラジオグラフィーで観察される黒化銀粒子数を数え上げたところ、表面に到達するβ線数を上回った。これは写真乳剤がバックグランドや各種のノイズに対しても敏感に反応するためである。また黒化銀粒子は観察される粒径の小さいものほど出現数が多いという傾向がある。このことから、黒化銀粒子の粒径が微細なものほど、ノイズによって還元された可能性が高いといえる。

 そこで観察される黒化銀粒子はその粒径によって4段階に分類した。これに観察される黒化銀粒子のうちβ線によって還元される割合を示す黒化銀粒子評価係数をファクターとして乗じることで評価した。評価係数を定めたことで面積当たりの黒化銀粒子数nを求め局所的な水素濃度を算出することが可能になった。

 第五章では、Ni3Alについてオートラジオグラフィーを行ない、結晶中の水素分布を明らかにした。SEM観察では黒化銀粒子が観察視野に対し全面に一様な分布をしており、その分布には特徴が見られなかった。TEMによる透過観察でもこの傾向は同じであり、特徴的な様子がなく黒化銀粒子の分布は一様であった。Ni3A1へのボロン添加は劇的に脆化抑止効果を発現するにも関わらず、ボロン添加は黒化銀粒子の分布状態に大きな影響を及ぼさないことが明らかになった。

 さらに結晶中の微細組織に着目し、水素分布との関係を詳細に調べた。粒界では、粒界からの距離で黒化銀粒子の濃度に変化が見られるかどうかを調べたが、明瞭な相関関係は現れなかった。同様の調査を積層欠陥についても行なったが、強いトラップを示す結果は得られなかった。

 分布状況に対しては特徴が見られないが、個々のトラップサイトとしては,転位線や粒界転位が確認された。これらの欠陥構造にはトラップされやすいといえる。黒化銀粒子が一様な分布となるのは、熱平衡状態にある空孔等にトラップされる水素の割合が、その他の欠陥にトラップされる水素量を遥かに上回っているためと考えられる。

 第六章では高強度鋼の水素トラップサイトについて調べ、フェライト-セメンタイト界面やラス組織界面などの結晶粒内に形成される内部界面が水素のトラップサイトであることを明らかにした。またこのサイトが比較的低い温度で水素を放出することも示した。

 単純に昇温したときに水素の脱離状況をオートラジオグラフィーを用いて調べることで、内部界面と水素との結合エネルギーについての知見を得た。この結果、328Kで焼き戻したものでは、出現する黒化銀粒子数はほとんど減少しなかった。トラップされた水素は、この温度では脱離がほとんど起こらないことを示している。373Kで焼き戻したものでは、内部界面上に黒化銀粒子はほとんど現れなくなった。トラップサイトからの水素脱離が起こったといえる。内部界面の捕捉エネルギーは小さく、328Kから373Kの間の温度で水素が脱離されると結論される。

 第七章では二つの材料における水素のトラップサイトの傾向を比較した。高強度鋼では、Ni3Alとは対照的に水素の明瞭なトラップサイトが確認された。水素分布状態に大きな差が見られるのは、それぞれの金属材料が有する組織に起因するものと考えられる。

 Ni3Alのオートラジオグラフィーでは、水素の分布状態はボロン添加による影響を受けなかった。Ni3Alでは、ボロン添加が水素脆化抑制効果を持つことを水素分布という視点から説明することはできない。そこで電気化学的水素透過法を用いて、ボロン添加材が水素の動的挙動に与える影響について調べた結果、ボロン添加材では拡散係数がおよそ一桁小さくなることを明らかにした。

 水素挙動に対するボロンの効果は、その分布を変化させるものではなく、水素の集合過程において、局所に集合する水素の速度を減少させるものである。この効果によって脆化を抑制し材料の塑性変形を可能にしていると考えられる。塑性変形時のひずみ速度依存性と同様に、水素の集合速度が遅ければ局所的水素濃度の上昇は防止され、水素脆化が抑止される。

 また添加したボロンが粒界に濃化して水素トラップ効果が最大限に発現したモデルを作り、水素分布に与える影響を検討した。ボロンの水素トラップ効果は拡散係数から得られるジャンプ確率から導びいた。その結果、粒界付近での黒化銀粒子密度は、その外側の範囲と比較して1.6倍以下になった。現状のオートラジオグラフィーの精度ではこれを検出することは困難である。トラップ効果があっても黒化銀粒子数に大きな差異が得られないのは、粒界に濃化したボロン量が総量としては非常に少ないためと結論できる。

 第八章は、全章のまとめをしている。金属材料中の水素挙動を調べるためにトリチウムTEMオートラジオグラフィーおよびβ線測定法・水素透過法を応用した一連の研究の結果得られた知見の大要は以下のようにまとめられる。

 (1)液体シンチレーションカウンターを用いたトリチウム測定を行ない、水素放出過程における材料表面近傍での水素濃度の変化を調べ、表面近傍には一定量の水素がトラップされていることを明らかにした。このデータを用いて、TEMオートラジオグラフィーで一定の条件を満たす場合に水素濃度の定量化を行ない、局所的な水素濃度を定量的に論じることが可能となった。

 (2)Ni3Al結晶において、オートラジオグラフィーを用いて、結晶中にトラップされている水素分布を明確にした。その結果、Ni3Al結晶では水素の局所的な偏析は見られず、その分布は一様なものとなることが明らかになった。ボロン添加により劇的に水素脆性抑制効果が認められているが、ボロン添加の有無はオートラジオグラフィーで観察される水素分布には影響を及ぼさないことを明らかにした。ボロンの影響は水素の拡散には強く現れ、これが脆化抑止の一因として考えられる。

 (3)焼き戻しマルテンサイト組織を持つ高強度鋼では、水素は内部界面であるフェライトーセメンタイト界面にトラップされやすいことを明らかにした。また、焼戻しを行なわない組織では、ラス界面がトラップサイトとして働いていることもわかった。内部界面にトラップされる水素は、328〜373Kの室温よりやや高い温度でトラップサイトから容易に脱離することを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

 水素脆化は現代の社会基盤を支える鉄鋼材料だけではなく、様々な金属材料に共通して現れる現象である。水素脆化現象の解明には、まず材料中の水素挙動の研究が重要である。本論文は、トリチウムTEMオートラジオグラフィーを用いて、環境脆化が著しいが添加元素による延性発現効果を示すNi3Al多結晶体と、遅れ破壊が問題となる高強度鋼(SCM440)における水素分布について調べた。さらに水素拡散についても調べ、結晶中の水素挙動を明らかにする研究をまとめたもので、全八章からなる。

 第一章は「序論」である。水素挙動研究の中で、結晶中における水素トラップサイトの解明の重要性を示した。得られるデータの定量的取扱い、オートラジオグラフィーの技術レベルの向上といった本研究の目的について概説した。

 第二章「水素脆化研究の歴史」では金属材料に発現する環境脆化とはどのような現象であるのかを明らかにし、本研究の位置付けを明確にした。

 水素脆化に至るプロセスの中で、水素の集積・集合と脆化の二つの機構には未解明な問題が残されており、様々なモデルが提唱されている段階である。オートラジオグラフィーを用いて水素の集積サイトを明らかにしその分布を詳しく研究することは、水素脆化機構解明にとってもまた重要な足掛かりとなることを示した。

 第三章「水素挙動についての研究手法」では水素脆化研究に用いられる手法について示し、特に結晶中における水素挙動を明らかにする実験手法についてまとめた。また本研究で用いられた手法について詳しく述べその他の手法と比較し、限界点・長所・短所を明示している。

 第四章「トリチウムオートラジオグラフィーの定量化法」ではβ線測定法を用いたオートラジオグラフィーの定量化について詳しく述べた。

 液体シンチレーションカウンターを用いて、試料表面から放射されるβ線数を正確に測定し、試料表面での水素濃度を定量化した。オートラジオグラフィーで観察される黒化銀粒子はその粒径によって4段階に分類し、黒化銀粒子のうちβ線によって還元される割合を示す黒化銀粒子評価係数をファクターとして乗じることで、面積当たりに出現する黒化銀粒子数nを求めた。これにより局所的な水素濃度を評価することが可能になった。

 第五章「Ni3Al結晶中の水素分布の観察」では、Ni3Alについてオートラジオグラフィーを行ない、結晶中の水素分布を明らかにした。SEM観察では黒化銀粒子が観察視野に対し全面に一様な分布をしており、その分布には特徴が見られなかった。TEMによる透過観察でもこの傾向は同じであり、特徴的な様子がなく黒化銀粒子の分布は一様であった。Ni3Alへのボロン添加は劇的に脆化抑止効果を発現するにも関わらず、ボロン添加は黒化銀粒子の分布状態に大きな影響を及ぼさないことが明らかになった。

 第六章「高強度鋼中の水素分布の観察」では高強度鋼の水素トラップサイトについて調べ、フェライトセメンタイト界面やラス組織界面などの結晶粒内に形成される内部界面が水素のトラップサイトであることを明らかにした。

 また昇温したときに水素の脱離状況をオートラジオグラフィーを用いて調べることで、内部界面と水素との結合エネルギーについての知見を得た。内部界面の捕捉エネルギーは小さく、328Kから373Kの間の温度で水素が脱離されると結論される。

 第七章「Ni3Alと高強度鋼とのオートラジオグラフィー観察の比較」では二つの材料における水素のトラップサイトの傾向を比較した。高強度鋼では、Ni3Alとは対照的に水素の明瞭なトラップサイトが確認された。水素分布状態に大きな差が見られるのは、それぞれの金属材料が有する組織に起因するものと考えられる。

 また電気化学的水素透過法を用いて、ボロン添加材が水素の動的挙動に与える影響について調べた。その結果、添加されたボロンは水素の拡散係数へ影響を及ぼしており、拡散係数はおおよそ一桁小さくなることを明らかにした。

 第八章は「総括」である。

 以上のように、本論文は結晶中の水素分布をオートラジオグラフィーで観察するとともに、β線の直接測定による定量化法も開発した。水素脆性が重視される材料においても、その水素分布の相異が大きい場合があることを明らかにした。これらの成果は材料中の水素挙動の解明に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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