学位論文要旨



No 115742
著者(漢字) 洪,郁如
著者(英字)
著者(カナ) コウ,イクジョ
標題(和) 近代台湾女性史序説 : 日本植民統治下における「新女性」の誕生
標題(洋)
報告番号 115742
報告番号 甲15742
学位授与日 2001.01.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第280号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 長谷川,まゆ帆
 京都大学大学院教育学研究科 助教授 駒込,武
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、植民地社会の権力構造研究においてジェンダーの分析概念を導入することで、植民地統治の自明性を問い直し、相対化する試みである。そこでは被支配民族の行動選択の主体性に着目しつつ、同時にその主体性を制約している支配構造、植民地支配のあり方にも配慮した複合的なアプローチが必要となる。被統治者像の再構築作業は、台湾人男性を植民統治下の「抑圧される者」、台湾人女性を、「さらに抑圧される者」という「抑圧の程度」に基づく単純な差違図式を如何にして克服しうるのかにも関わっている。そうして植民地社会の権力構造に関わる諸変数を総合的に把握することにより、植民地と台湾人についてより有効な分析枠組みを提示することが必要である。

 こうした意図の下で本論文は、具体的には1895-1945年の日本植民統治時期における「新女性」の形成を手がかりとして、台湾社会の変容過程と日本による台湾統治の社会史的意味を明探ろうとするものである。その際に本論文は、台湾人女性のみを対象に通史的な叙述を試みることは避け、むしろ新女性を軸にして展開された植民地社会の構造的変動を直接的な研究対象とする。既往の女性史研究と本論文を差別化する最大のポイントはこの点にある。本論文が指すところの「新女性」とは、1920年前後に日本統治下の台湾において形成され、(1)生理的には纏足をやめ、かつ(2)日本教育を受けた女学生=女子教育の学歴の所有者として世間的にも認識されていた一つの世代ないしは集団であった。

 本論文の議論は植民地政治権力と台湾人家族という二つの軸に沿って行われる。

 第一に政治権力の軸であるが、本論文では分析概念としての「国民国家」を植民地に安易に転用する過ちを避けたい。明治以降の日本国家による家庭への千渉、または女子教育の成立は、最近の研究の中では常に近代化のプロセスの中に位置づけられているが、植民地社会を考察の対象とする本論文の場合、そこでの特殊な文脈をこそ洗い出し、植民地における国家権力自体の性格を把握した上で、基本的な変数として分析に用いることにしたい。

 第二に、もう一つの軸である台湾人の家族について、清朝時期以来の台湾エリート層の基本的性格は、移民社会における政治情勢の変化および支配者の交代に対処しつつ家の存続と利権を確保するための「家族戦略」の主体として位置づけられる。同時に家族の内部も決して一枚岩ではなく、植民地支配への対応の仕方には、世代間、男女間によって協力、抵抗における違いが見られ、そのような態度の違いは逆に従来の家族構成員の関係性に影響を与えていったと考えられる。

 政治権力と家族という二つの変数の相互作用のもとに新女性が形成されてくるが、このプロセスを明らかにするために、本文では「新女性」の誕生を扱う第一部(第二章〜第四章)、「新女性」の諸位相を明らかにする第二部(第五章〜第七章)に分けて論を進めた。

 まず第二章と第三章は、「新女性」への胎動として、解纏足運動と女子教育の展開過程に見られた諸問題を扱う。まず第二章では、女性の纏足が問題化され、社会改革のキャーンペンとして拡大されていく中で、元々は家庭内の存在であった女性に対し、植民統治権力と台湾人エリート層が、どのような変化を求めていたのかを分析する。それにより、両サイドの相互作用の中で生じた家族変容について明らかにする。次に第三章では、同一の構図を用いながら、解纏足とほぼ同時期に開始された台湾人女子教育の問題について論ずる。統治サイドの女子教育の政策的見地に関して、統治集団内部のズレに留意しながら、台湾人家庭の女子教育への期待と動機についても分析を行う。両者の姿勢の相違が女子教育の導入過程において如何なる形で現れていたのかが問題となる。内容面では家庭生活に現れる「日本色」と「在来色」の消長、制度面では整備の問題と制限に即し解明を試みる。そこで解纏足および教育を経験しつつある女性に見られる生活全般と思考様式における変化を、1920年代に入るまでの「新女性」への胎動の実態としてまとめる。

 続く第四章は、主に20年代の女子教育にまつわる諸環境を取り上げ、島内・島外の政治変動に対応して「新女性」がどのように形成されたのかを論じる。1920年前後は台湾の島内外の政治情勢が女子教育に反映された重要な転換期であり、さらにそれ以降に登場してきた「新女性」の体質は、この時期に行われた政策的調整と見解に大きく規定されていた。この認識に基づき、統治サイドでは植民地女子教育の位置づけに関する見直しと調整、台湾社会側では世代交代に伴いエリート男性に生じた女性の家庭的役割に対する期待の変化を検討する。次に1920年代以降、「新女性」と呼ばれた女子教育世代の誕生に焦点を当て、集団の規模と構成、ライフコース、文化の特質などいくつかの側面から分析する。

 以上の第一部では、公共的空間現れた事象をほぼ時系列に沿って考察したのに対し、第二部の各章は、主に家庭空間に視点を据えながら、恋愛、結婚、家庭へという人生の諸段階に対応しさせつつ、植民地の家族と政治の間における新女性の位相を問題とする。

 まず第五章では、1920年代の恋愛結婚思潮の出現を事例として、両性関係の変容に着目する。婚姻様式の変化を、新女性の誕生との関連で論じ、さらに世代間の見解の異同を検討しながら、エリート層において形成されつつあった婚姻様式の実態を、出会い、交際、結婚相手の選択条件、結婚儀礼の形態などに即して明らかにする。

 第六章では、政治との関わりの側面に眼を転じ、植民統治下での新女性の社会的活動圏について考察をめぐらす。特に抗日的社会運動との関連において、統治側の対応だけではなく、女性解放への見解および政治的立場の相違をめぐるエリート層内部の新旧知識人の衝突が、どのように活動範囲を制限し規定したのかについて、具体的なケース(彰化婦女共励会、彰化恋愛事件など一連のスキャンダル)を取り上げ、解明することにする。

 第七章は、新エリート家庭の形成を中心に考察する。まず、日本の新式教育を受けた世代の青年男女の描いた理想的家庭像について言説分析を通じ明らかにする。次にインタビュー資料等も利用しながら、実態面において新女性が担った妻・母・嫁役割を特に植民地政治と女性の家庭内役割の関わりから検討し、エリート層における新しい家庭文化の特徴を整理する。

 本文の考察から明らかとなった点は、次のようなものである。

 第一に、近代台湾女性史の展開を規定する二大要素は、日本国家による植民統治戦略と台湾社会の家族戦略であったが、植民地の政治的秩序が打ち立てられる過程で、ジェンダー関係が統治権力の構築と強化とを目的として使用されたことである。社会のエリート層への影響力の拡大を図る中で、家庭の経営に携わる台湾人女性らに対して、解纏足運動と女子教育の展開に見られるように一定の関心が払われた。しかしながら同時に、植民地統治はその必要性・合理性ということが第一であったことから、台湾人社会と家族に対する統制・介入の度合いは、統治上の必要とコストが考慮された結果、状況により局部的・限定的でもありえた点が重要である。実際に影響力行使の対象となった台湾人家族は、階層的に見ればエリート層に限定された。他方で支配者の交代や外的な政治情勢の変化によって被る損失を最少限に止めるために、台湾家族は独自の「家族戦略」を形成し、女性もその一つのコマとして組み込まれるようになった。

 第二に、こうした歴史的変動の過程の中で、一つの世代としての「新女性」の誕生は、近代台湾社会にとって画期的な意味をもっていた。エリート層における纏足の終焉と入れ替わりに、若い世代の女性の就学が徐々に普遍化し、台湾人女性のライフコースを大きく変容させた。女性自身の生活スタイルと意識面での変化について、活動圏の拡大、学縁関係の形成、教養の変化、「日本教育」における自己実現、植民地統治との関係性の生成などがもたらされた。そして女性の変容は今度は家族関係の変化として反映された。新女性がエリート層の妻となるのに伴い、家庭内の母・妻・嫁の役割に新たな変化がもたらされた。日本語を中心とする新女性の知識・技能は、台湾人エリート家庭の文明化の需要と、日本人の植民者社会の橋渡しという二つの側面において、とりわけ子供の教育問題と夫の職業上の交際が必要となる場面で欠かせない存在になった。彼女達は家政管理者であり、また夫の補佐を行う外交家であり、家庭教育の担い手ともなった。

 本論文が取り上げた日本植民統治下における家族と女性の関係性の再編は、近・現代台湾の社会構造を形成したという意味で、大きな歴史的意義をもつ。

 第一に、女性の学歴価値の成立である。「高女」に代表される女性の学歴価値は戦前の工リート層全体においてほぼ定着することになった。戦前においては教育資源を享有できるのはエリート層のみに限定されていたが、戦後に至ってはそれまで教育とは無縁であった民衆層をも含む国民教育の実施と経済的発展にともない、女性への教育投資を自らの家族戦略に取り入れる傾向が普遍化するようになった。

 第二に、女性の活動領域の多方向性の形成である。役割を家庭内に限定したり、もっぱら母役割に結び付けるような規範は希薄であり、こうした日本教育世代の女性たちの生き方は、戦後世代の台湾人女性にとっても見習うべき身近なモデルとなった。他方で、女性の家事労働は社会的規範によってプラスの価値を与えられることがなく、他の家族成員の支援や社会的サービスによって家事を代行するという傾向は戦後においてさらに拡大し、今日の膨大な共稼ぎ夫婦の存在を支えている。

 第三に、エリートの階層文化の変容である。この階層文化を支えているのは、日本教育を受けた女性たちに染み込んだ「高女」文化であった。国語=日本語という第一義的価値と共に習得された日本伝統と西洋のハイカラな「和洋折衷」のインテリ文化は、理科、地理・歴史、家事など「科学」知識の伝授、そして声楽、ピアノ、美術、生花、茶道などの文化的教養にかかわるもの、テニス、卓球、登山、水泳などのスポーツ、または短歌、俳句などの文学趣味など、さまざまな分野に亙った。ただしこの階層文化の変貌、すなわち「日本的世界」の浸透度には、日本語人と非日本語人(台湾語・客家語または原住民言語)の区分けに見られる階層的な区別が大きく関わっていた。日本の植民統治下の台湾では、エリート層と民衆層の経済的分化と同時に、階層の文化的な分化も進行していたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本植民統治下における台湾人「新女性」の誕生のプロセスおよび台湾社会における「新女性」をめぐる恋愛、結婚、家庭などの様態を、広範な資料捕猟と解読に基づいて描出した台湾近代女性史研究の力作である。ここで「新女性」とは、1920年代前後に台湾社会に登場した女性たちに与えられた呼称であり、漢民族の旧習である纏足の習慣から脱し、日本による新式教育を受けた人々、主として高等女学校卒業生で構成される人々をいう。本論文は「新女性」という存在が、植民地政治権力と被統治民族側の「家族戦略」の交錯するところに析出し展開したという視角を有効に貫徹させることによって植民地台湾社会の一断面を描出することに成功している。

 論文は、論文本体A4版254ページ(400字詰原稿用紙換算850枚)で、「第一章序論」を除き二部構成で全八章からなる。注は脚注として付されている。また、論旨を支えるため、5葉の図および17個の表が本論中に適宜埋め込まれている。巻末には周到な「資料・文献」の一覧が付されている。

 「第一章 序論」は、台湾近代女性史の先行研究のレビューである。初期の研究の主流であった「女性解放」論アプローチの限界が明確に指摘された後、近年のジェンダー論的視角からの研究の成果が吟味され、前記の植民地政治権力と被統治民族側の「家族戦略」の「二つの軸」という視角と「新女性」というフォーカスが提示される。

 「第一部『新女性』の形成」では、上記の視角に基づいて、台湾人上層階級家族の社会的標記であった纏足の習慣が廃され、植民地女子教育がしだいに新しい標記として受け入れられていき、1920年代までに新たな世代として「新女性」が形成されるプロセスが、時系列に沿った論述により示される。「第2章 『新女性』への胎動(その一)−解纏足運動」では、男性の辮髪とともに台湾人の身体的習慣の政治性を問題視する台湾総督府の慎重な誘導と中国での革金の影響のなかで、台湾人士紳(台湾人の家父長制権力)の家族戦略が転換して纏足習慣が廃されていく過程が示され、さらにそれによって影響された女性の世代別の諸相が示される。

 「第3章 『新女性』への胎動(その二)―植民地女子教育の展開」では、統治側の「同化主義」と「植民地主義」の揺れと台湾上層階級側の思惑とせめぎあいのなかで、植民地女子教育が導入されていく過程が示されるとともに、女性成員の就学に伴う家族の変化が分析され、纏足に代わって女子教育が新たな階層シンボルとなったことが示される。

 「第4章 『新女性』の誕生」は、1919年台湾教育令制定による植民地教育制度整備以後の女子教育の展開と台湾人エリートの女子教育観(女性の家庭的役割期待)の変化とを跡付け、1920年代までに新たなライフコースと文化(「高女文化」)を持った「新女性」が形成されたことを論じる。

 「第二部 『新女性』の位相」では、第一部での公共空間における事象への注目から家庭空間に視点を移しつつも、第一部と同様に植民地権力と台湾人の家族戦略の関係という視点から、家庭における「新女性」の諸位相を検討する。「第5章 婚姻様式の変容」では、植民地教育を受けた男性側の新エリートにおける「恋愛結婚」言説の登場と台湾大の学校体系の整備を背景として、「学縁」を出会いの様式とし「学歴」の釣合いを重視する婚姻様式が成立していったことを示す。植民地女子教育は、台湾社会上層階級にとっては、旧士紳と世代交代した新エリート男性にふさわしい文化(「高女文化」)を備えた配偶者を提供する制度として機能していくこととなったのである。

 1920年代は台湾近代政治史では新教育を受けた台湾人エリートによって様々な形の民族運動が展開された時期でもあるが、「第6章 運動参加の制限」は、その中心地でもあった彰化で起こった「新女性」をめぐる恋愛事件(いわゆる「彰化恋愛事件」)を題材として、統治側の抑圧のみならず、台湾社会内部の重欝する対立軸(「保守-革新」、「協カ-抵抗」)の磁場の中で、「新女性」の行動がどのような限界に直面していたかを考察している。

 「第7章 新エリート家庭の形成」は、夫となった新エリートの理想の家庭像、高女卒の嫁と「高女文化」を共有しない家族(姑など)との関係、および植民地政治との関係(日本人官吏やその妻との交際)から分析し、家庭に入った「新女牲」の位相を、近年続々と刊行されつつある口述歴史資料を十二分に活用して分析している。

 「第8章」は結論であり、「新女性」の析出過程の「規定要因」と「新女性」を焦点とした台湾人社会の「変容過程」とに分けて本論の論述が高度に要約された上で、その社会史的意義が台湾の戦後社会を展望しつつ論じられている。「新女性」の形成は、日本植民地統治時期において台湾人エリートの「家族戦略」に女性の役割が新たに組み込まれたことを意味するが、このことは、戦後台湾社会において定着している女性の学歴に対する高い評価と家族戦略における女性の対外的役割への高い期待の歴史的前提として、今日の台湾社会のあり方の一端を形作っているが、同時に、「新女性」の文化は「日本語人」である上層台湾人家庭を形作った文化として、非エリートの「台湾語人」の世界と対照的な階層性を有するものだった、ことが主張されている。

 以上が本論文の概要であるが、本論文の意義は、台湾近代女性史研究に見事な社会史的広がりを与えた、という点につきる。「新女性」という本論文の焦点は、実は従来の研究の主流である「女性解放」論的視角からの研究と同じである。しかしながら、筆者が序論で明確に指摘しているように、従来の視角は、1920年代の台湾人男性新エリートの「女性解放」にかかわる言説が求めているその方向に沿って関連事象や言説を再度なぞるという作業の範囲を出ておらず、したがって植民地期における台湾女性の社会的位相の実際を提示できていない。また、したがって、植民地における「女性解放」論的視角が当然目指すべき台湾近代の女性の位相に現われる植民地性や台湾人社会の家父長権力の様態に有効にアプローチすることができない。さらに、筆者が対象としている纏足問題が家族問題との関係で論じられたり、また女子教育が植民地教育と同化という観点から扱われたりしたことはあった。しかし、これらの既存の研究に対して、筆者は、(1)台湾社会上層階級の身分標記として女性の纏足と解纏足後女子教育とを台湾人社会側の独自の主体性(「家族戦略」)の一貫した表出ととらえ、(2)それと植民地権力の土着社会把握の戦略とのせめぎあいの中に「新女性」の形成過程と様態とを探るという視角を確立し、かつ(3)そのせめぎあいの実相を提示することに成功した。これらは、一方では、近年のジェンダー研究の成果を吸収するほか、日本植民地権力側について、駒込武などによって深化せしめられた日本の学界での研究成果を踏まえ、植民地女子教育が「同化」のイデオロギー的要請と統治コストの計算とのせめぎあいの中で政策化されるものととらえて、その政策の展開を押さえたことにより、ー方では、新聞史料の精査と近年の台湾で作成されている口述歴史資料を精密に読み解くことを通じて台湾入側の主体的戦略の存在を実際に提示したことによって、可能となったものである。この視魚により、筆者は植民地台湾社会における「新女性」の様態・位相を明瞭に描き出すとともに、その「高女文化」の植民地性と明瞭な階層性をも指摘しているのである。

 さらに補足すれば、「新女性」の位相とその文化の植民地性と階層性とを明確に描出したことは、台湾女性史研究の深化に新たな根拠地、ないし新たな出発点を据えることになったものと考えられる。「家族戦略」における女性の学歴取得の肯定、母役割への高度な拘束の不在、および対外的役割の肯定などの台湾人家庭における「新女性」の特質は台湾社会に定着し、戦後の政治における役割(地方政治家族を代表する公職選挙出馬)や経済的役割(家族企業における小さからぬ役割)、高学歴者の職業志向の強さなどに連続しているとの、筆者の指摘は、審査委員の現代台湾社会についての知見からも、少なくとも検証を試みるに足る仮説として首肯しうるものであり、これは台湾女性史研究に時系列の展望を広げるものである。一方、「新女性」の明確な階層性の指摘は、翻って同時代の非エリート層の女性、その家族とともに日本統治期も戦後も「台湾語人」であり続けた女性たちへのいっそうの関心を喚起するものといえよう。

 なお、本論文では、前述のように、日本の学界における日本植民地史研究の成果ばかりでなく、日本近代女性史研究の近年の成果が吸収され、台湾の事例と対比する形で論述の彫啄に生かされている。これは、本論文のようなテーマを扱うに際して当然のことではあるが、筆者が留学生であり、また今日の台湾の学界における台湾近代史研究において日本近代史研究の成果の吸収が不十分・未消化のまま、性急に成果を出そうとする傾向が見られることに鑑みれば、本論文が日本留学の機会・環境を十二分に生かした業績であることも、ここに一言触れるに値するものであろう。

 このように、本論文はその表題「近代台湾女性史序説」にふさわしい内容を有するものであるが、もちろん、問題無しとしない。

 第一に、本論文は既往の台湾女性史研究の問題意識には十分応答しているが、広く台湾近代史研究全般の問題意識への応答の意欲にややかけるきらいがある。例えば、筆者は「解纏足運動」において台湾士紳を台湾人の「家族戦路」の主体として見てその「近代志向」を所与のものとしている。だが、本論文ほどに士紳の行動と言説を語る資料を精査しているならば、この「近代志向」の来源と内実を問う問題意識を、少なくとも今後に問うべきものとしての留保をつけて提示しておくべきではなかったか、と思われる。

 第二に、植民地統治下台湾人の家族のあり方一般についての統計を用いた人口学的スケッチを書いているため、「新女性」をその形成と様態の面で明確な輪郭で描きつつも、社会変遷あるいは台湾人家族の変容全体における位置については読者にやや隔靴掻痒の感を与える。

 第三は長所のすぐ横にある問題点である。本論文の「新女性」ないしその「高女文化」の階層性の指摘は見事であるが、しかし、その指摘には、非エリート女性の様態と位相との具体的な対比が十分に伴っていない。これは、論述の焦点をぼやかさないための苦心に基づくもので、ー面やむをえないものであるが、エリート女性の言説の掘り下げをやや薄いものとしている。

 しかしながら、これらの欠点は本論文の価値を大きく損なうものでなく、本論文はその表題にふさわしい内容と水準とを有し、台湾近代史研究、特に研究の遅れている女性史研究、ひいては社会史研究に新たな視野を開くものである。よって、博士(学術)の学位を授与するに値する業績であると判断する次第である。

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