学位論文要旨



No 115743
著者(漢字) 市岡,利康
著者(英字)
著者(カナ) イチオカ,トシヤス
標題(和) 大強度極低温反陽子ビームの開発
標題(洋) Development of intense beam of ultracold antiprotons
報告番号 115743
報告番号 甲15743
学位授与日 2001.01.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第281号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 教授 兵頭,俊夫
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 教授 小牧,研一郎
 東京大学 教授 早野,龍五
 新領域創成科学研究科 教授 吉田,善章
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の目的は、大容量の反陽子蓄積トラップと、そこに溜めて冷却された反陽子のビームとしての引き出し法の開発である。

 設計・製作したトラップはCERNにある世界で唯一の低速反陽子源Antiprton Decelerator(AD)に繋ぎ、超低速でエネルギーの揃った反陽子ビームを引き出してエキゾチック原子生成と分光、反陽子による原子・分子の励起やイオン化など数々の実験を行なうことを計画している。特に、これまで可能でなかった一回散乱条件の下で反陽子の原子分子への捕獲初期過程を解明することは大きな目標のひとつである。この超低速反陽子の生成方式としては、ADからのエネルギー5.3MeVの反陽子(一分間に一発、1×107個、時間幅250nsのパルスとして供給される)をRadio Frequency Quadrupole減速器(RFQD)を用いて数10keVに減速し、更に図1に示すように、強磁場中に置かれた荷電粒子トラップに捕獲して電子冷却によって超低エネルギーにし、その後磁場中から引き出してビームを得ることを考えている。

 反陽子蓄積トラップの設計・製作

 電子冷却に本質的な磁場の発生には超電導ソレノイドを用意した。最高磁場は5Tで、コイルに対して内部の真空容器の位置を±2mm、1μmの精度で合わせられるようになっている。トラップの設計に当っては、以下の二つを考慮した。

 ・106〜8個の反陽子の冷却と蓄積

 ADはLow Energy Antiproton Ring(LEAR)の後継器であるが、LEARでのPenningトラップ(静磁場+調和ポテンシャル)を用いた実験によって比較的少数の反陽子(1〜105個)を電子冷却することが可能であることがわかっている。我々は反陽子をビームとして引き出すため、更に1〜3桁多くの反陽子を溜める必要がある。

 他方、荷電粒子トラップ中に多量に閉じ込められた粒子は、低温(デバイ長≪閉じ込め領域の大きさ)では非中性プラズマとして振舞う事が知られている。(我々の場合、密度108[cm-3]の粒子を10Kまで冷やすとするとデバイ長は20μm程度となり、十分プラズマとして扱える。)

・磁場中からの粒子の引き出し

このパルス間に電子冷却するためには数テスラの磁場が必要になる。この一方、一回散乱条件を満たすためには気体標的を用いるので標的容器内の圧力は高くなるが、トラップ中の圧力は、残留ガスとの消滅による反陽子のロスを防ぐためにもできる限り良くなければならない。現実的な見積りでは、標的周りで10-4Pa程度、トラップ内で10-10Pa以下とする必要があり、真空ポンプの排気速度を考慮して、この間の差動排気のために径数ミリの孔を数個設ける予定である。

 即ち、冷却された反陽子はソレノイド出口付近の磁場勾配に逆らって、しかも狭い孔を通過させて輸送してやらなければならない。このためには反陽子をトラップ中心軸近くに集めることが必要で、修士在学時に行ったシミュレーションでは、最初の径が1mm以内の粒子はトランスポート出来得ることが予想されている。

 以上の考察から明らかなように、開発すべきは非中性のプラズマを安定に閉じ込められ、かつ中のプラズマを引き出しその他に便利なように制御できる装置であった。

 電子冷却の利用できるトラップとしては主に質量分析他で使われるPenningトラップと、プラズマの閉じ込めに使われるMalmberg-Penningトラップがある。Penningトラップは精度の良い場によって内部の状態を精密にモニターする事が出来るが、トラップの領域は小さい。他方、本質的に多数の粒子を扱う非中性プラズマの分野に於いては、静磁場と箱型ポテンシャルを使うMalmberg-Penningトラップを用いてプラズマの閉じ込め時間・固有モード他の基本特性を調べる実験がなされて来たが、トラップの中心部には自己場以外の電場が存在しないため、外場等の擾乱に対してプラズマが不安定になりやすいと考えられる。これらに対し、我々のトラップはリング状の電極を多数配置する事により広い領域に渡って調和ポテンシャルの生成ができるのみならず、例えば電極表面に誘起される鏡像電荷の補正等も可能にした。このPenningトラップを大容量にした形のトラップは、1997年に京都大の毛利らによって開発されたものである。先の実験条件二点を考慮して製作したトラップの電極配置を図2に示す。トラップ中心には長さ10cmの調和ポテンシャル領域が設けられており、HVF・HVBはRFQからやってくる10keV程度のエネルギーの反陽子を捕獲するための高圧電極である。中心の隣にある電極の一つ(S)は方位角方向に四分割されており、この方向に回転する電場をかけられるようになっている。

 実験では、電子と陽子・H-イオンを用いて反陽子蓄積トラップの性能を確かめた。以下、順を追って説明する。

 電子プラズマの閉じ込めと制御

 まず、図3に閉じ込め時間に対する電子数の変化を示す。箱型ポテンシャルを形成した場合よりも調和ポテンシャルの方が倍程度よい特性を示している。また、以下に述べる回転電場をかけた場合には、閉じ込め時間も格段に長くなることが確認された。

 近年NIST、UCSDらのグループの研究により、方位角方向に分割された電極をもちいて回転電場を掛けることにより、プラズマの形状を制御できることがわかっている。我々も同様の手段により電子プラズマの制御に成功した。図4に、ZnOスクリーンとCCDカメラを用いてプラズマの磁場軸に垂直な方向のイメージを観測した一例を挙げる。電子数は1.1×108個、回転電場の周波数は500kHzから3MHzまでを15秒間で掃引し、その途中(2.7MHzあたり)で引き出したものである。

 また、適当な一定の周波数によってもプラズマの形状が制御できることを見付けた。

 H-イオンの捕獲と電子冷却

 次に、電子冷却の実験であるが、反陽子の代わりにH-イオンを用いた。図5に装置の概略を示す。トラップは図中Superconducting solenoidの中に置かれていて、デュオプラズマイオン源で発生させたH-イオンを、双極子磁場で曲げてトラップに打ち込んでいる。

 図??にその結果を示す。横軸の時間は、下流側のポテンシャルの壁を下げていくことに対応しており、遅く出て来た粒子程エネルギーが低いことを示している。イオンのみの閉じ込めと書かれているもの以外は、1.5×108個の電子をイオンの入射の70秒前にトラップ中に溜めておいた。打ち込んだイオン数は2×106個である。イオン打ち込みの際の電子プラズマの径は約12mm、イオンビームの径は約5mmで、ビームが電子プラズマの中心を貫く形になっていた。図中閉じ込め時間2.9secのイオンのみと電子が存在する場合とを較べると、予め電子が打ち込まれた場合に低いエネルギーのH-イオンが生成されていることがわかる。また、閉じ込め時間が長くなるにしたがって分布が低エネルギー側にずれて行く様子が観察された。更に回転電場によって電子を中心軸付近に集めておいてやると、冷却時間が速くなることも確認された。尚、H-イオンのみを閉じ込めた時に粒子数が〓になる時間は20秒程であり、その間、引き出されたイオンのエネルギー分布には大きな変化は見られなかった。

図1: RFQDからの反陽子の閉じ込め。予め電子を閉じ込めて冷やしておいたところへ反陽子を入射して捕獲・電子冷却し、整形した後に引き出す。

図2:ASACUSAトラップの電極配置。電極の内径は40mmである。

図3:Confinement time of electron plasmas

図4:回転電場による電子プラズマの制御。電子数1.1×108個、回転電場の周波数は500kHz-3MHz。図では白黒を反転してある。

図5:陽子またはH-入射のための装置。

図6:H-イオンの閉じ込め。予め電子を閉じ込めて冷やしておいたところヘイオンを入射し、引き出した。

 エネルギー1keVのH-イオンは図6にあるような方式で閉じ込めた。

冷却の効果を確認する際には、装置の都合上、冷え切ったH-イオンと電子との区別が付けられなかったため、イオンのみ引き出してそのエネルギー分布の変化を見ることにした。

図7:H-の電子冷却。「2.9sec H- only」は2×106個のイオンを2.9secの間閉じ込めて引き出したもので、他はそれぞれの閉じ込め時間電子と共存させたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、全6章、及び、appendixから成っている。第1章は、一般論、歴史的経緯、等、本研究の位置づけ、意義を理解するに必要となる学問的背景が簡単に記述されている。第2章は、本研究が開始されるに至った諸状況、特に最近CERNで運転が開始された反陽子減速器AD(Antiproton Decelerator)の現状と、これに関わって我が国を中心として進められているASACUSA (Atomic Spectroscopy And Collisions Using Slow Antiprotons)計画についてまとめている。第3章は、本研究の理論的基礎付けを与え、機器設計のガイドラインを与える非中性プラズマの概念、性質について、これまで知られているところを申請者の理解する範囲でまとめている。第4章は、本研究に用いた装置の設計思想と具体的な構造、材質、の選定がどのようにしてなされたか、について議論している。第5章は本研究の中心部であって、上の装置を使って実際に申請者が行った実験、及び、実験によって得られた結果についてまとめると共に、実験結果が意味するところを主に定性的に解析している。第6章は全体のまとめとなっている。

 ここで研究対象としている超低速反陽子ビームは、数10GeVの陽子と原子核の衝突において生じる

反応により生成される数GeVの反陽子をストレージリングにかき集め、stochastic coolingと減速、電子冷却を繰り返すことにより数10秒から数分といった巨視的時間をかけて数MeVとした後、RFQ(radio frequency quadrupole)減速器により数10keVに、そしてさらに電磁トラップ中での電子冷却により数10Kまで冷却した後、数eVの単色ビームとして取り出すことによって用意される。最終的なビームエネルギーは生成時の10億分の1以下という粒子発生装置としてはほとんど例のないものとなっている。このような超低速反陽子ビームは、プロトニウム( PP)をはじめとする反陽子原子の生成ダイナミックスの解明、準安定状態で真空中に生成される反陽子原子の精密分光、ひいては、反水素の大量生成とCPT対称性の検証等、といったこれまで実行不可能であった新しい研究を可能にすると期待される。

 論文申請者は、上に述べた超低速反陽子ビーム開発において、最終段の数10keVの反陽子の電磁トラップへの捕捉と冷却に関わる実験装置を設計、製作し、さらに、負の水素イオンを用いて冷却実験を行うことにより、その性能を確かめてしいる。

 反陽子を閉じこめるために設計された電磁トラップは、多重リングトラップと呼ばれる独特のものである。多重リングトラップは、(1)通常のペニングトラップに比べて格段に荷電粒子捕捉体積が大きく、(2)同時に捕捉領域内に外部電場が印加可能であるため、通常の井戸型トラップと異なり大型化し多数の粒子を捕捉しても、閉じこめ性能が劣化しないと言う著しい特徴を持っている。この2つの特徴を兼ね備えることにより、本研究で必要となる大量の反陽子捕捉、電子冷却が可能となった。一方、多重リングトラップは構造が複雑で、高い加工精度が要求されると同時に、極高真空条件下、液体ヘリウム温度下において、これを運転可能にする必要がある。これには多くの技術的困難が伴ったが、本申請者はこれらの問題を順次解決し、ほぼ所期の目的を達成した電磁トラップの作成に成功している。

 反陽子の冷却はあらかじめ電磁トラップに蓄えられたプラズマ状態にある電子との衝突によって達成される。ところで、強磁場中に捕捉された電子はシンクロトロン放射により自動的に冷却されるため、反陽子+電子の混合系は短時間のうちに(本研究の条件下では10秒程度)環境温度(本研究の場合は数10K)程度まで冷却されることになる。そのような電子プラズマが多重リングトラップ内でどのように振舞い、また、どのようにコントロールできるかには、知られていないことが多数あった。論文申請者は、井戸型トラップの研究で知られていた回転電場を加える方法を援用し、電子プラズマの動径分布をコントロールする事に成功した。また、プラズマの重心運動をモニターすることにより、プラズマに含まれる粒子数を決定した。このような非破壊的手法によるプラズマ診断は、実際に反陽子の冷却を行うとき、必須の技術となる。また、実験の過程で、多重リングトラップの閉じこめ性能は、予想通り井戸型トラップより優れていることも示している。

 論文申請者は、このように電子プラズマのコントロールに成功した後、負の水素イオンの電子冷却実験を行っている。負の電子イオンは束縛エネルギーが浅く、電子脱離断面積が大きいため、大変扱いにくいイオンであるが、トラップ全体を400K付近でベークした後、10K程度まで冷却することにより、残留ガスを極力減らし、実際に負の水素イオンを電子冷却する事に成功した。この際、上で述べた非破壊のプラズマ診断法をフルに用い、負の水素イオン打ち込み後の電子プラズマ温度の時間依存性を詳細に観測すると共に、モデル計算が、この振る舞いを再現できることを示した。これは、観測している現象が、概ね実験者のコントロール下にあることを示しており、超低速反陽子ビーム発生装置として十分使用可能であることを裏付けている。

結び

本研究は、10数人の研究者が関わる中型の実験的研究であるが、論文申請者は、研究テーマの設定、解析等実験の全般に関わり主体的に分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断される。よって、審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと判定した。

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