学位論文要旨



No 115750
著者(漢字) 安部,圭介
著者(英字)
著者(カナ) アベ,ケイスケ
標題(和) 州憲法の現代的意義 : ウォーレン・コート後のアメリカにおける人権保障の新しいあり方
標題(洋)
報告番号 115750
報告番号 甲15750
学位授与日 2001.02.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第157号
研究科 法学政治学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 寺尾,美子
 東京大学 教授 高橋,和之
 東京大学 教授 北村,一郎
 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 海老原,明夫
内容要旨 要旨を表示する

 建国以来、連邦制を採用するアメリカ合衆国では、「二重の立憲主義」、すなわち、憲法の面でも連邦憲法と各州の憲法が存在するという重層的な構造が採られ、人権保障についても、連邦憲法と州憲法がそれぞれ異なった役割を果たしてきた。当初、この両者の関係は、連邦憲法は連邦政府による人権侵害に対する歯止めとして働き、州憲法は州政府による人権侵害に対する歯止めとして機能するというものであったが、20世紀に入って、合衆国最高裁の判例により、連邦憲法の人権規定が第14修正のdue process clause(適正過程条項)を通じて次々と州に対して適用されるようになると、州憲法は次第に用いられなくなり、とりわけ連邦裁判所が市民的自由の主張に対して好意的な姿勢を示し、連邦憲法上の人権保障の充実を積極的に図っていた時代には、州憲法のことはほとんど忘れられていた。

 このような状況に変化が生じたのは、ウォーレン・コート(1953年-1969年)の幕切れ前後のことであった。1960年代末からの州憲法に対する関心の高まりは、1970年代、バーガ・コート(1969年-1986年)が連邦憲法上の人権の拡張傾向を抑え、特に刑事手続分野で「退却(retreat)」とも考えられる展開を見せる中で顕著なものとなり、1977年、ウォーレン・コートの司法積極主義を体現する存在であったブレナン裁判官がHarvard Law Reviewに州憲法の活用を促す論文を発表したことにより、決定的な流れとなった。州裁判所が州憲法を活用し、州民の人権に関する「最終判断者」の役割を積極的に引き受けることを促すこの動きは、「新司法連邦主義(new judicial Federalism)」と呼ばれ、アメリカ政治の舞台での「連邦の時代」の終焉と時を同じくしており、保守派による「連邦主義」の強調、言い換えれば、州の復権を基調とする潮流に対応しつつも、ウォーレン・コートの時代に築かれた人権保障の成果を確かなものとし、それを可能な限り押し広げようとする試みであった。そこでは、連邦憲法上の人権に「上乗せ」する形で州憲法を通じた人権保障を行うことが主張された。

 このような新司法連邦主義が直面した問題の1つは、州裁判所による司法審査の正統性の問題であった。司法審査の正統性に関する議論は、連邦レヴェルでは、その「民主主義的正統性」、すなわち、非民主的な部門である司法権が立法権や行政権の判断を覆すことの正統性という観点からなされてきたが、州レヴェルでは、連邦憲法と州憲法に類似した内容の規定がある場合において、対応関係にある連邦憲法の規定を解釈した合衆国最高裁の判例とは違った立場を州最高裁が州憲法について採ることの正統性という観点からなされた。そして、より具体的には、この問題は、州裁判所において連邦憲法上の主張と州憲法上の主張が同時に提出されている場合、どちらの主張を先に処理すべきかという点に関連していた。この点、各州の判例の立場は、常に合衆国最高裁に追随する「同調アプロウチ」、連邦憲法上の主張を先に処理し、それによって事件が解決されない場合にのみ州憲法を検討するが、州憲法の解釈においても、特に異なった立場を採るべき説得的な理由がない限り合衆国最高裁による連邦憲法の解釈とパラレルな立場を採るものとする「補充アプロウチ」、州憲法上の主張を先に処理し、合衆国最高裁の判例は参照材料にとどめるとする「州憲法優先適用アプロウチ」の3つに分かれた。しかし、もともとアメリカ憲法が人権の「二重の保障」を旨としていること、また、連邦憲法との関係で州による人権侵害が問題になる場合の大部分は第14修正違反であり、州裁判所が州憲法上、州による人権侵害がなかったと判断するまでは第14修正適用の前提条件であるステイト・アクションが完了していないことなどに鑑みれば、州憲法優先適用アプロウチを採ることが合理的であるものと思われる。

 ところで、人権保障のために州憲法を用いることが一定程度定着してきたと言われる現在、新司法連邦主義の登場以来の州裁判所判例の展開を振り返れば、そこには、連邦憲法とは異なった州憲法による人権保障の特徴が観察される。本稿は、その中心部分である第4章において「州憲法におけるステイト・アクション」(注参照)の問題を取り上げ、州憲法による人権保障の「上乗せ」と呼ばれる処理が本当に単なる「上乗せ」であると言えるのか、そこでは、別の人権が切り詰められているということはないのか、また、連邦憲法に比べて人権が拡張されている部分があるとすれば、それはどのような理由に基づくものなのかという問題関心から考察を行った。州憲法においては一般にステイト・アクションの要件の働く度合が小さいと言われるが、この点を確かめるため、まず、伝統的にステイト・アクションの要件の根拠とされてきたものを「憲法の一般原理」、「相手方当事者の自由」、「権力分立」、「条文の文言」、「起草者意思」、「連邦主義」の6つに分類し、連邦憲法の場合と比較しつつ検討した結果、州レヴェルでは、「相手方当事者の自由」以外の要因がほとんど働かないことが確認された。そこで、州憲法の下では、「権力分立」や「連邦主義」の考慮がかなり強く働く連邦の場合とは違って、ステイト・アクションの要件を廃し、相手方当事者の自由に一定の配慮を払いつつ私人間に人権保障を押し及ぼすことが可能であるものと考えられた。

 アメリカの判例および学説上、この領域の議論の中心を占めてきたのは「私有地における表現め自由」の問題である。そのきっかけとなったのは、合衆国最高裁が1970年代に判例を変更し、ショッピング・センタァでの表現活動を連邦憲法上保護しないものとしたことであった。これを受けてキャリフォーニア州最高裁は1979年,州憲法を通じてショッピング・センタァでの一般市民の表現活動を保護した。翌年、合衆国最高裁は、これを正統なものと認めた。すなわち、ショッピング・センタァでの表現活動に連邦憲法上の保護は及ばないものの、州がこれを保護することは連邦憲法に反するものではないとされたのである。

 そこで、本稿は、キャリフォーニア州におけるその後20年間の下級審判例の展開を追った。その分析を通じて明らかになったことは、(1)キャリフォーニア州では、表現の自由の文脈においてステイト・アクションの要件が廃されている、(2)その結果、私有地における表現の自由の問題は、土地所有者の財産権と一般市民の表現の自由の対立の問題と位置づけられ、両者を直接比較衡量することによって事件が処理されている、(3)比較衡量において重要視される要素は、(i)当該私有地の性格、目的、主たる用途、(ii)当該私有地を利用するよう一般市民が誘引されている度合およびその誘引の性格である、(4)私有地における市民の表現活動を保護する際に土地所有者の財産権が制約されることは、司法権を通じた州のポリス・パワァ(州民の一般的福祉の維持,増進を図る権限)の行使として説明されている、(5)土地所有者の財産権に対する制約が大きく、連邦憲法上の「収用(takings)」に当たる場合には,ポリス・パワァを根拠として土地の利用に規制を加えることが許されないため、表現の自由の主張がしりぞけられている、の5点であった。この分野でステイト・アクションの要件を完全に廃したのは50州中キャリフォーニア州のみであるが、要件を緩めるなどの形で近い立場を採った州はかなり見られ、そこでは、キャリフォーニア州と同様、ポリス・パワァを軸とした法的構成がなされている。キャリフォーニア州の立場は、例外的なあり方と言うよりは,州憲法上の人権保障の可能性を最大限に追求した。理念型的なものと位置づけられるのである。

 以上のことは、現代社会の現実に照らして人権保障を私人間に押し広げることが望まれる場面においては、大型ショッピング・センタァ所有者などの私人の強大な「事実上の力」を制約する権限が必要となるため、連邦の権限が小さく、州の権限が大きいアメリカの連邦制の下、州の広範な権限がかえって人権保障の射程の広さに結びつくことを示している。この意味で、州のみがポリス・パワァを持っていることは重要である。州憲法上の表現の自由の私人間への拡張は、州がその権限を行使することによって初めて実現したのである。

 「結びにかえて」では、社会権の分野を取り上げ、同様のことを別の角度から考察したアメリカ憲法に社会権の保障がないかのような誤解は今なお根強いが、実際には、連邦憲法に盛り込まれていないというだけのことで、合衆国を構成する50州はすべて州憲法に何らかの社会権規定を有している。特に、教育を受ける権利の実現を図ることは一貫して州の所管とされてきた。そして、この分野に関しては、現に州憲法に規定が置かれているということに加え、連邦裁判所と州裁判所の性格の違いがひときわ大きな意味を持っている。なぜなら、州裁判所は、(1)本来、広範な権限を持つコモン・ロー裁判所として柔軟な法創造に携ってきた伝統を有しており、(2)各州の実情に応じて機動的、積極的に社会権の実現に当たることができる上、(3)人種別学の解消のように市民の意見が分かれがちな場面では、「よそ者(outsiders)」(Burt Neuborne)と見られることの多い連邦裁判官と違って、地元の裁判官の判断のほうが関係者の理解、協力を得やすいからである。

このように見てくると、ウォーレン・コートからバーガ・コートへの交代を直接のきっかけとして州憲法上の人権保障が重視されるようになったことの根底には、アメリカ憲法の進展に伴って生じた、より深い理由があったことがわかる。政府の不関与を要求する「消極的自由」の保障がウォーレン・コートの下でひと通りなされた後、人権保障を私人間に広げようとすれば、強大な私人の「事実上の力」を制約するための権限が必要とされ、他方、社会権の充実を図る際にも、そのよりどころとなる権限、および、機動的、積極的に権利の実現に当たる裁判所の存在が不可欠であった、州政府自身が人種別の公立学校を運営する「法律上の人種別学」を違憲と宣言した合衆国最高裁のブラウン判決が実際には共学の実現に結びつかず、居住地域の違いに起因する「事実上の人種別学」やそれと表裏一体の関係にある都心の学校区と郊外の学校区との予算格差の問題(是正のためには州政府の積極的な措置を必要とする)が憲法訴訟の主要な争点となるにつれ、州裁判所が大きな役割を担うようになっていったことは、この流れを象徴している。新司法連邦主義と呼ばれる現象は、1950年代から1960年代にかけての連邦憲法の展開を受け、「アメリカ憲法」が州の持つ広範な権限を活用していっそうの人権保障に取り組みはじめたことを示すものだったのである。

(注)もともと「ステイト・アクション」という表現は合衆国憲法第14修正の文言に基礎を置くものであるので、「州憲法におけるステイト・アクション」という問題の立て方は一見奇異にも感じられるが、判例および学説上、実際にこのような位置づけの下に議論がなされている。

審査要旨 要旨を表示する

I 論文の主題

 200字原稿用紙に換算して約1820枚に上る本論文の主題は、アメリカ州憲法の特徴の解明と、連邦憲法と州憲法が並存する、アメリカの二重の立憲主義の構造およびその実態を明らかすることに置かれている。

 アメリカ合衆国の統治構造の基本にある連邦制度は、独立戦争を通して主権国家となった13の邦(State)が、その主権の一部を連邦政府に委譲する形で成立した。このため州には主権国家としての多くの基本的権能が残された。各州は各々独自の憲法を持ち、その下にそれぞれの立法、行政、司法機関を擁している。すなわちアメリカには、連邦と州という二重の憲法が存在するのみならず、それぞれの裁判所がそれぞれの憲法につき最終的解釈権限を行使するという、二重の違憲審査制度が存在している。

 違憲立法審査制度を他国に先駆けて発展させてきたことは、アメリカ憲法の大きな特徴である。この点については、これまでも多くの研究がなされてきた。しかし、そうした研究の対象は専ら連邦憲法に限られ、州憲法についての学問的関心は高くはなかった。このため、アメリカの違憲立法審査制度が、多重・多元的構造となっている点についても、それがアメリカ憲法の重要な特徴であるにもかかわらず、ほとんど学問的研究の対象とされてはこなかった。

 1970年以降、こうした傾向に変化をもたらす転機が訪れた。1950-60年代にかけて極めて積極的に基本的人権の拡大に関わった連邦最高裁は、70年代に入り、そうした態度に明らかな退潮を示し始めた。そして、人権拡充の舞台として州の裁判所の可能性が模索されるようになり、これを受けた州裁判所が、自らも長いこと忘れていた州憲法を「再発見」したからである。

 本論文は、このようなアメリカ法における最近の変化を直接的契機として書かれたものである。しかし本論文のねらいは、アメリカ憲法の最新の潮流の単なる紹介を越えたところに設定されている。その第一は、州憲法につきさまざまな角度から全体的・総合的考察を加え、州憲法の全体像を明らかにすることである。第二のそれは、州憲法と連邦憲法の差異および両者の相互関係を明らかにし、その上で、多重的違憲審査制度に支えられた、アメリカの二重の立憲主義の本質に迫ろうとすることである。

II 論文の概要

1 本論文は、大きく分けると、第1章から第3章までの総論部分と、個別具体的考察を展開した第4章の各論部分に分けられる。前半の総論部分では、州憲法全体についての歴史的考察、基本的特徴の把握、および憲法解釈に当たっての州憲法解釈と連邦憲法解釈の理論的関係など、州憲法全体にわたる総合的考察が行われる。分量にしてほぼ2分の1を占める各論部分では、州における独自の判例法形成が特に顕著な分野として、表現の自由を中心とした憲法の私人間適用という重要問題を取り上げ、丹念な分析が加えられる。その上で、最後に、各論的考察を通して獲得された知見をもって、総論でなされた考察の深化が試みられる。以下各章の内容を、やや詳しく紹介する。

2 まず、「はじめに」では、現代における州憲法考察の重要性を具体的に示す判例が提示され、論文全体への導入が行われる。アメリカの連邦最高裁は、有名なBrown判決で、公立学校における人種別学制度を連邦憲法に照らして違憲とする判断を示したが、居住地域の事実上の分離から生ずる別学状態を除去するには限界のあることが示されてきた。この判例は、そうした中にあって、州裁判所が、州憲法を用いて連邦裁判所では得られない救済を提供し、問題解決に向けて最先端の役割を担うようになってきたことを端的に示す事例である。州憲法は、今日のアメリカ憲法の理解に不可欠の存在となりつつある。

 以上のような導入部を受けて開始される総論部分は、まず第1章「概観」と題して、連邦憲法との比較における州憲法の全体的特色の把握から始まる。

 そこでは、州憲法が連邦憲法と異なる以下のような特色を持つことが紹介される。多くの州憲法が、長く詳細な規定を持っている。そのこともあって、憲法修正の頻度が連邦憲法よりはるかに多い。さらに連邦憲法とは対照的に、多くの州がその憲法の全面的改正を経験している。州民のイニシアティブによる改正手続が存在する州も相当数に上る。州裁判所も、連邦裁判所とは異なり、憲法改正・修正手続きに関する司法審査に積極的態度で臨むところが多い、などである。

 これら現象面での特色を概観した後、続く第2章「新司法連邦主義」の歴史的背景」では、州憲法と連邦憲法の関係が歴史的に考察される。まず第1節「州憲法による人権保障の先行性」では、州憲法の連邦憲法に対する先行性がいくつかの場面に分けて語られる。

 そもそも、アメリカの連邦憲法は、世界で最も古い成文憲法として語られることが多いが、実は、邦憲法はこれに先行して成立していた。しかも、これらの邦憲法は、それに先行した植民地時代以来の、各自治的コミュニティが連合して上位権力を創り上げていく動き−最も下位のレベルから始まって、水平レベルでの連合を通してより上位の権力を構築していく、まさに社会契約説を地でいくような社会統合のための作業の積み重ね−の延長線上に位置するものであった。

 次に、アメリカ憲法の母体である違憲立法審査制度の誕生においても、連邦司法部に先立つ州司法部の先行性が指摘される。さらに、人権保障の各分野における連邦最高裁のリーディング・ケースとされるさまざまな判例についても、これを先取りした州裁判所判例がすでに存在した場合の少なくなかったことが指摘される。

 第2節「アメリカ憲法の3段階:新司法連邦主義の視点から」では、現在の新司法連邦主義誕生に至るまでの歴史的経緯が3段階に整理される。第1節で明らかにされた意味での州憲法の先行性が維持された段階を第1段階とすれば、1925年以降、連邦最高裁が連邦憲法による人権保障を拡大し、州憲法が「忘れられた憲法」となり、州憲法に対する連邦憲法の優位が確立されていった過程は、第2段階として位置づけられる。さらに、1970年代以降、州憲法が再発見され、その重要性が増大し、連邦憲法と州憲法が並び立つようになった今日に至る段階が第3段階となる。

 第1段階から第2段階への変化は、連邦最高裁による、合衆国憲法第14修正due process条項の拡大解釈によってもたらされた。南北戦争を契機として成立したこの憲法修正は、(解放された元奴隷を含む)合衆国市民に対し、州権との関係で人権を保障するための修正であった。連邦裁判所は、憲法判例の積み重ねによって、同修正中の一般条項的規定due process条項の中に、連邦政府との関係で規定されている人権保障(第1修正から第10修正までのいわゆる「権利章典」)を漸次組み入れることにより、州権に対する人権保障を豊かにし拡大していったのである。

 こうした変化は、1950年代から60年代にかけて、当時の主席裁判官であったEarl Warrenの名を冠してウォーレン・コート(1953-69年)と称される時代の連邦最高裁によって、急速かつ顕著に推進された。この時代の連邦裁判所が人権関係の諸規定を広く解して、公立学校における黒人と白人の別学の廃止をはじめとする人種間の平等の実現、政教分離の徹底、言論・思想の自由の手厚い保護、憲法上の権利としてのプライヴァシ権の確立、選挙区割りの不平等の司法的な手段による是正、刑事被告人・被疑者の権利の保護の徹底など、各種の分野において人権保障を拡大する方向で、積極的に憲法判例法の形成を行ったことは、わが国でも広く紹介されている。

 1970年代に入ると、連邦最高裁判所の司法積極主義には、明らかな変化が現れ始める。Brown判決の事例に代表されるように、ウォーレン・コートの時代はまた、訴訟を通じて社会的不平等の是正や市民的自由の拡充などの社会改革を実現するという、新たな社会運動回路の発見とその発展の時代でもあった。連邦最高裁が、こうして増大した社会改革派の期待に冷淡な態度で臨むようになると、これらの人々の活動は、もう一つの裁判所である州裁判所に向けられるようになる。

 こうした中、州裁判所の側にも変化が現れる。少なくない数の州裁判所が、この新たな挑戦を受け止め、人権保障の分野において、独自の判例法形成に積極的態度を示すようになっていったのである。こうしてもたらされた州裁判所の活性化は、州憲法に関する学問的関心の高まりをもたらし、アメリカ各地のロー・スクールで州憲法が研究・教育の対象とされるようになり、それが州裁判所における更なる動きを拡大させるという、新たな循環が生まれた。それは人権保障の分野で、州裁判所が連邦裁判所と並び立つ主体としてその存在を主張する、「新司法連邦主義」の時代の到来であった。

 総論的部分の最後に当たる第3章「連邦憲法の解釈と州憲法の解釈」では、州憲法の司法審査制度を基礎づける憲法理論が考察される。まず「州裁判所による司法審査の正統性」と題する第1節では、州裁判所による違憲立法審査権の行使についての正統性の問題が扱われる。違憲立法審査制度の根幹をなす、裁判所の審査権限の正統性の問題は、連邦憲法との関係では、なによりもまず民主主義との関係で論ぜられてきた。多くの場合一義的解釈が不可能な人権保障に関わる憲法上の条文を根拠として、三権のうち最も「非民主」的な部門である司法部が、民主的部門である立法部や執行部の示した判断を覆すことをどのように正当化するかという課題である。

 州憲法については、この課題を取り巻く基本的条件に、連邦憲法との差異が見いだされる。第一に、州憲法はその変更が連邦憲法より容易であり、司法部の憲法判断に対しては、憲法修正をもってこれを変更するという道がより広く開かれており、実際にそうした例も少なくない。憲法の可塑性についてのこうした州憲法の特徴は、「民主的部門」である立法部に対し謙譲を示すべきであるという要請を、弱める方向に作用する。第二に、連邦裁判所の裁判官と比較すると、州裁判所の裁判官にはより多くの民主的基盤が与えられている場合が多い。裁判官を一般の選挙により選出している州は23州、州知事の任命による一定期間経過後に、州民投票による信任手続を定める州も15州に上る。

 以上の点を踏まえた上で、州裁判所による違憲審査権行使の正統性に関しては、むしろ、連邦憲法判例法との関係で、より深刻な別個の課題が提起されたことが指摘される。それは、連邦憲法の解釈と州憲法の解釈の異同という問題である。

 今世紀の人権保障分野の法創造の主役は連邦裁判所であった。このため、連邦憲法の解釈に関しては、多くの判例を基礎としてすでに精緻かつ洗練された判例法理が存在した。州憲法が「再発見」されたといっても、ほとんど独自の判例の蓄積を持たない州裁判所にとって、いかにして独自の憲法解釈を施し正当化していけばよいかという問題がまず提起されたのである。とりわけ、州憲法の「再発見」が連邦最高裁の保守化という政治的契機によってもたらされただけに、州憲法の解釈の正統性は、重大な課題として州裁判所に突きつけられることとなった。

 そこで、第2節「州裁判所の判例に見る連邦憲法と州憲法の関係」では、具体的な紛争事件の解決のため州裁判所が憲法解釈を行う際の、連邦憲法解釈と州憲法の関係が論じられる。州憲法中には連邦憲法と異なる規定が多く含まれており、州憲法独自の規定については基本的にこの問題は生じない。しかし、人権保障との関係で中心的役割を果たしてきた憲法条項に関して言えば、州憲法・連邦憲法に類似の規定が存在する場合が少なくない。

 この点についての各州の判例は、常に連邦憲法に追随する「同調アプロウチ」、特に異なった立場を採るべき説得的な理由がない限り連邦憲法のそれと同様の解釈を示す「補充アプロウチ」、州憲法上の主張を先に処理し、連邦裁判所の判例は参照材料にとどめるとする「州憲法優先適用アプロウチ」に分かれる。この節では、それらの紹介の後、アメリカの連邦制度の理論からすれば最も論理的に妥当な「州憲法優先的用アプロウチ」が、なぜ一番最後になってから現れたのかが問われ、「新司法連邦主義」が登場した歴史的文脈との関係で分析し説明される。

3 続いて、本論文は各論的考察を内容とする第4章に入る。第4章は、「州憲法におけるステイト・アクション:私有地における表現の自由の問題を中心に」と題し、憲法の私人間適用の問題が、表現の自由の問題を中心に考察される。憲法の私人間適用の問題は、アメリカにおいては、state action(州の行為)の問題として論じられる。これは基本的人権保障の判例法理が、「州は…してはならない」と規定する連邦憲法第14条修正の適用、言い換えれば、連邦裁判所による「州の行為」のチェックという構造の中で形成されてきたことによる。この、憲法の人権保障規定の適用にあたって政府の行為の存在を要件とするという基本的立場は、連邦憲法が連邦政府との関係で適用される場合にも、また州憲法の適用の場面でも、原則として採用されてきた。

 本章では、「ステイト・アクションの要件の存在理由」、言い換えれば、憲法の私人間適用を否定する理由として掲げられてきた諸論拠が提示され吟味される。それらは、(1)憲法の人権保障規定の歴史的・本質的性格、(2)私人の自律的領域や私的自由の保護の要請、(3)私人間の利益の調整は立法部に委ねるべきであるという三権分立原理、(4)条文の文言、(5)起草者意思、(6)連邦主義である。これらのうち(1)については、奴隷制を廃止した合衆国憲法第13修正や、州憲法中の労働基本権保障規定等、私人間適用を当然に予定する規定が憲法中に明文の形で存在するという矛盾点が指摘される。また(4)、(5)については、それらは決定的論拠とはなりえないことが、州憲法と連邦憲法の差異に目配りしつつ論じられる。さらに、(6)の連邦主義とは、連邦制度の下で州権を尊重せよという意味であり、連邦憲法および連邦裁判所を名宛人とする理由であるから、当然のことながら、州憲法に対しては働かない。

 そこで、残る要素である(2)および(3)という中心論点につき、本論文では、次のような重要な分析が展開される。(2)の、憲法の私人間適用は相手方私人の自由の侵害となるという議論は、相手方の自由があたかも天然自然に存在しているという前提に立った議論であり、それらの自由が国家権力に基礎づけられた私法秩序によって成立していることを看過するものである。さらにまた実際の諸判例が示すように、憲法の私人間適用が問題となるのは、対等な私人間の関係においてよりも、多くの場合、通常の個人より大きな力を行使しうる、会社等の団体との関係においてであることも指摘される。次に、最も重要な(3)の権力分立による理由づけとの関係では、次の点が指摘される。まず第一に、英米法の判例法主義の下では、公法私法を問わず、広範な法領域において、裁判所が、私人間の利益調整機能を含めた法形成機能を担ってきた。そしてこうしたコモン・ローの伝統をより強く継承しているのは、連邦裁判所ではなく、州裁判所である。州裁判所は、コモン・ローの担い手であり、コモン・ローの中心部分はもちろん私人間の紛争である。そうだとすると、州裁判所については、私人間適用への障害が小さいことになる。さらに第二に、連邦憲法と異なる州憲法修正の容易さも、裁判所が憲法に関する法形成機能を積極的に担うことへの壁を低くしている点にも言及がなされる。

 以上の分析を踏まえて、第4章第4節では、具体的な問題が取り上げられる。ショッピング・センター等の公衆に開かれた空間を中心とした、私有地における表現の自由の保障という問題である。本論文では、この問題に関しキャリフォーニア州の判例が検討されている。

 連邦最高裁は、パブリック・フォーラム論などにより、一時、表現の自由に積極的姿勢を示したが、後に消極姿勢に転ずると、この問題は州裁判所を舞台に争われるようになった。キャリフォーニア州の最高裁判所は1979年のRobins判決において、表現の自由を広く保障した州憲法に依拠して、私有地であるショッピング・センターの敷地内で一般市民が請願書の署名活動を行う自由を保障した。この判決の上訴を受け付けた連邦最高裁は、連邦憲法による保障を超えて州が人権の保護を拡大することは、それが連邦憲法上保障された土地所有者の財産権の侵害とならない限り、認められるという態度を明らかにした。なお、ここで特筆されるべきは、州裁判所も連邦裁判所も、このような形での司法権行使を、”ポリス・パワー”の行使として正当化したことである。ポリス・パワーは、州に残された政府としての権限を指すアメリカ憲法独自の法的用語である。通常、州が制定法を通して私有財産を制限し、土地利用規制を行うことを基礎づける際援用されるポリス・パワーによって、裁判所による憲法の私人間適用が正当化されたのである。

 その後このRobins判決をリーディング・ケースとして、同州の下級審裁判所において、私有地における表現の自由に関する多くの事件にっき判断が示された。そして、諸判例の蓄積の中で、次第にstate actionの問題は議論されなくなり、1980年代後半になると、Robins判決はstate action要件を廃したという解釈を前提として、判例法が形成されていくようになっていった。これらの判例の分析を通して立ち現れたのは、土地所有権者の財産権と表現者の自由との間の対立を、具体的事案のさまざまなファクターをきめ細かく分析した上で、総合的な比較衡量の手法を通して調整しようとする、伝統的なコモン・ロー裁判所の姿であった。

4 最後の「結びにかえて」では、第4章で獲得された知見を、前半の総論的考察にフィードバックする作業が試みられる。第4章の考察で明らかにされたのは、連邦の権限が限定され、州の権限が大きいアメリカの連邦制の下では、州の権限の大きさが、かえって人権の保障の幅広さに結びつく場合があるということであった。土地利用規制権限に象徴される公法分野の権限から、契約法、物権法、不法行為法、家族法などの私法分野一般に至る法全般にわたる権限を行使する州裁判所は、この点において、連邦裁判所との差異を最も顕著に示す存在なのである。そしてこのことは、アメリカにおける社会権保障のあり方−すなわち、多くの州憲法中に連邦憲法には存在しない社会権保障の規定が含まれていることや、論文の導入部でも取り上げられた教育を受ける権利の保障が、憲法上は専ら州および州裁判所の課題とされている状況−を理解する上でも貴重な視座を提供する。社会権の保障には、政府に対し作為的義務、積極的義務を課すことが不可欠である。限られた権限しかもたない連邦政府の裁判所が、予算的措置を伴い、所得再分配効果をもつ、そうした義務を州に課すことには、大きな内在的制約が存在するのである。

 このような視点は、1970年代以降その姿を現してきた「新司法連邦主義」について次のような理解の深化の可能性を示唆する。すなわち、ウォーレン・コートによる連邦レベルの人権拡大は、全国レベルで人権保障のミニマムを引き上げるための営みであったが、限られた権限しかもたない連邦政府がもたらしうる変化には、自ずと限界があった。人種別学の事件が象徴的に示すように、問題解決に必要な人権保障のレベルが、自由権的保障から社会権的保障のそれへと進化するに従って、舞台は州憲法へと移らざるをえなかったということである。「新司法連邦主義」の登場は、単なる表面的な政治の季節の変化によってもたらされたものではなく、アメリカの二重の立憲主義という、より本質的・構造的要因に基づく変化であった。

III 論文の評価

 本論文には、以下のような長所が認められる。

 第1に、本論文は、アメリカの州憲法に関して重層的で深みのある分析を展開した、意欲的かつ質の高い本格的研究である。州憲法の役割は、アメリカ憲法の全体像を理解する上で不可欠の重要なテーマでありながら、わが国においてはこれまでほとんど本格的研究の対象とはされることはなかった。またアメリカ本国にあっても、州憲法の研究について近時一定の学問的関心が注がれるようになったとはいえ、主流たる連邦憲法研究の陰にあって水準の高い学問的研究は未だ数少ない。そうした中で、本論文は、人権保障の問題に焦点をあてながら、その前提となる州憲法の全体的特徴の把握、州憲法と連邦憲法の歴史的関係の考察、両者の理論的関係の分析、そして憲法の私人間適用に現れた州裁判所と連邦裁判所の性質上の違いを検証する判例分析など、さまざまな角度から丹念に州憲法の全体像を描き出そうとしたものとして高く評価することができる。

 第2に、各論的考察の対象として、憲法の私人間適用をテーマとして取り上げることにより、各論的考察による知見を総論的考察と有機的に結びつけることに成功し、最近の注目すべき潮流である「新司法連邦主義」の登場に新たな説明を与えている。従来、それは、連邦最高裁のいわゆる保守化に対応して人権改革派が州裁判所に注目したという表面的・政治的現象として語られることが少なくなかったが、実は、二重の立憲主義というアメリカの憲法構造に由来する、より本質的な要因によることを明らかにした点は高く評価できる。また、この点についての考察は、憲法の私人間適用というテーマそのものについても、比較憲法学的視点から興味深い知見を提供するとともに、英米判例法主義の理解の深化に役立つものでもある。

 第3に、本論文は、主題に関するほとんど全ての文献・資料を幅広く渉猟し、それらを正確かつ十分に読みこなした上で書かれている。連邦憲法と50の州憲法という、タテ・ヨコ両軸の広がりをもつ連邦主義という複雑なテーマを扱っているにもかかわらず、叙述は全体として平明であり、展開されている各種の分析は明晰である。

 しかしながら、本論文にも、さらに望みたい点がないわけではない。

 第1に、各論的考察において、総論的考察と深く結びついたテーマを扱った結果、各論的位置づけを与えられた第4章においてさらなる総論的考察が必要となり、論文の構造が複雑化した点が挙げられる。またこのことと関連して、社会権についての考察が不十分となり、概略的な記述に留まってしまった点が惜しまれる。

 第2に、憲法の私人間適用の考察に際して、英米の判例法主義の伝統への理解を所与の前提として分析が展開されており、それとは異なるドイツを初めとする大陸法の影響を強く受けたわが国の読者との関係では、この点について説明が不十分と思われる。わが国での議論の状況を前提として、その視点からもアメリカの状況を説明しようと努力すれば、比較法研究それ自体としても厚みを備えた作品となったものと思われる。

 以上のような問題点はあるものの、それらも本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、連邦憲法との関係を充分踏まえつつ、アメリカの州憲法について総合的考察を加え、これまでほとんど知られてこなかったアメリカの二重の立憲主義のダイナミズムを明らかにした力作であり、博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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