No | 115760 | |
著者(漢字) | 佐藤,正則 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | サトウ,マサノリ | |
標題(和) | ボグダーノフと<新しい人間>の創造 : ボリシェヴィズムの人間観と宇宙観 | |
標題(洋) | ||
報告番号 | 115760 | |
報告番号 | 甲15760 | |
学位授与日 | 2001.03.01 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第282号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論文の課題は以下の2点である。1.ボリシェヴィズムの人間観および宇宙観の特徴を明らかにすること、2.それを踏まえてボリシェヴィズムを20世紀西欧思想史の文脈上で把握すること。具体的な検討対象は、1.ボリシェヴィキの代表的理論家であるボグダーノフの思想体系、2.ボリシェヴィキが1920年代初頭までにおこなった<新しい人間>の創造を目的とした諸実験である。 第1章。ボリシェヴィキの理論家達は、近代西欧の世界観が危機に陥っていること、とりわけ物心・主客二元論、機械論的宇宙論、決定論、個人的自我の行き詰まりを意識し、それに代わる新しい世界観の構築を自己の課題としていた。その際、彼らは世紀転換期の西欧における哲学や科学の転換に着目し、当時西欧に生じつつあった新しい哲学・科学思想、とりわけマッハの哲学を導入することで自らの思想体系を構築している。この意味で、ボリシェヴィズムは20世紀初頭の西欧の思想潮流と共通した性格を持っている。また、ボリシェヴィキの理論家は20世紀的な新しい視角からマルクスの思想の再解釈を試みた。これは1920年代以降の「西欧マルクス主義」と共通し、それに先行している。こうした思想的方向性はレーニンの哲学にも萌芽的に認められ得る。さらに、ボリシェヴィズムは同時期のロシアの観念論、宗教思想、象徴主義といった非マルクス主義の諸潮流との盛んな交流、論争を通じて形成されたものであり、「ロシア・コスミズム」とも一定の思想的共通性を持っている。 第2章。ボリシェヴィズムの人間観と宇宙観の典型としてボグダーノフの思想を検討し、多領域にわたる彼の知的活動に共通した特徴を抽出した。それは以下の4点である。 1.自然に対する人間の積極的能動性すなわち労働を世界観に導入していること。ボグダーノフはマッハ哲学の影響下にあり、世界は「経験の要素」から成ると考えていたが、その際「経験の要素」は人間の労働実践の所産とされ、世界の根底に労働実践が置かれる。一方、外的自然はカオスとみなされる。彼によれば,人間の全ての実践は「要素の組織化」であり、人間は組織化機能によってカオスである自然と闘争する。それは同時に生物学的機能とみなされ、要素の組織化の高まりは生物の進化と連動している。こうしたボグダーノフの世界観は有機体的、システム論的な世界観とみなすことができる。この世界観はボグダーノフの杜会理論にも反映されており、彼はイデオロギー、プロレタリア文化を要素の組織化の道具、自然との闘争の手段とみなしている。 2.共同主観的世界観、集団の創造性への着目。ボグダーノフは心理的形象を要素の個人的な組織化、物理的世界を社会的な組織化とみなす。社会的組織化は個人的組織化よりも高度な組織化である。こうして物理的世界は共同主観的な社会的構築物と考えられる。この世界観に基づいて、ボグダーノフは個人主義を批判し、集団の創造性を強調する。この特徴は彼のイデオロギー論、プロレタリア文化論に特に顕著である。 3.人間と宇宙の進化の理論、<新しい人間>の創造。ボグダーノフの世界観は独自の人間−宇宙進化論となっている。ボグダーノフの考えでは、社会の経験の組織性を高めることで宇宙はより高度なシステムへと進化し、生命体としての人間もより進化した存在となる。この<新しい人間>像は彼のユートピア小説に描かれている。さらにボグダーノフは集団主義的な<新しい人間>の創出を主張した。彼のプロレタリア文化論は<新しい人間>創造の手段として構想されている。 4.人間の感性、身体性を重視する人間観。ボグダーノフは、<新しい人間>を創造するためには、人々の経験をより高度なシステムへと組織化することが必要と考えた。その際、集団が感情面、身体レヴェルで経験を共有することが不可欠とされている。プロレタリア文化論において、ボグダーノフはイメージやシンボルを用いて大衆の感情に訴えかけようとし、またリズムによって身体に直接作用を及ぼすことを主張した。また、血液交換によって文字通りの集団的身体を創出する研究もおこなった。 第3章。ボリシェヴィキが1905-1920年代初頭におこなったさまざまな実験を取り上げ、それらに共通した特徴を明らかにした。検討の対象とした実験は杜会主義的宗教をつくろうとする「建神主義」、プロレタリア文化建設運動である「プロレトクリト」、テイラー・システムの導入の試みである「労働の科学的組織化(NOT)」である。これらはいずれも集団主義的な<新しい人間>を創造するという共通した目的を持っている。そして、そこには上記のボグダーノフと共通した特徴を見出すことができる。 1. 自然に対する人間の能動性。建神主義者たちは未来のプロレタリアートが自然の抵抗すなわち死を完全に克服すると予言し、この未来の人類を神とする宗教をつくった。ここには自然に対する積極的な態度を重視する姿勢が窺われる。また、「NOT」でのガスチェフの理論は外的刺激に対する生命体の反応に着目したものである。 2,共同主観、集団の創造性。ボリシェヴィキの実験者達はつねに個人主義を批判しつづけた。建神主義者が神格化するのは集団としての人類であり、彼らの言う不死は集団的な不死である。「プロレトクリト」の理論家達はしばしば職業芸術家を否定し、集団創造を提唱した。個人的創造も背後の集団創造を体現するものとみなされた。 3.人間と宇宙の進化。ボリシェヴィキの実験はいずれも、<新しい人間>を創造することを目的としている。その際、どの場合も<新しい人間>は全人類による集団的人間として理解され、自然の抵抗を克服した不死にして全能な存在として想定される。集団的人間は建神主義においては不死の神として、プロレタリア詩においては宇宙へと進出する巨大な機械−人間複合体として描かれる。また、この機械−人間複合体の構想はガスチェフの「NOT」での理論・実践の基盤を成している。 4.感情の組織化。集団主義的人間の創造のためには、感情面での人々の組織化が不可欠とされた。建神主義者達は宗教的熱狂に着目し、「プロレトクリト」の理論家は芸術イメージやシンボルを用いて大衆の感性や潜在意識に働きかけようとした。 5.身体への作用。感情とともに身体性も重視された。建神主義者たちが構想したのは肉体的な不死であった。「プロレトクリト」の活動家たちは詩のリズムの作用によって、あるいは祝祭的な群衆劇によって集団的身体を実現しようとした。「NOT」はまさしく労働者の身体運動を直接操作するもので、そこでも全労働者の身体運動の統一が理想化されている。 以上のように、ボグダーノフの宇宙論、人間論と同一の特徴を、ボリシェヴィキの諸実験の中に見出すことができる。 本論文の結論は以下の通りである。 1.ボリシェヴィズムの人間観と宇宙観。ボリシェヴィズムは単なる政治、経済思想ではなく総体的な世界観である。それは一元論的、有機体的、システム論的、共同主観的な世界観であり、同時に宇宙と人間の進化理論となっている。この世界観に基づきボリシェヴィキは政治経済体制のみならず、人間そのものの変革を志向していた。この人間変革は精神面のみならず肉体面にも及んでいる。また、ボリシェヴィキは人間の理性よりも感性、精神よりも身体を重んじる人間観を持っている。ボリシェヴィズムの「集団主義」は単なる個人の抑圧ではなく、こうした独自の宇宙−人間進化論を背景としている。 2.20世紀思想としてのボリシェヴィズム。ボリシェヴィズムの精神的基盤をマルクス主義あるいはロシアの革命思想のみと考えてはならない。ボリシェヴィズムは、世紀転換期の西欧における近代的世界観の危機意識と知的革命に根ざしており、20世紀初頭の西欧の新しい思想潮流を積極的に吸収することで構築されている。したがって、ボリシェヴィズムの宇宙論と人間観は20世紀的の西欧思想と共通した性格を持っている。それは以下の2点に特に顕著に現れている。a)近代的な世界観とりわけ主客・物心二元論、機械論的決定論的宇宙論を否定し、一元論的、有機体的、共同主観的な世界観の構築を志向していること。この点でボリシェヴィズム20世紀西欧哲学の潮流と方向性を同じくしている。b)人間の理性よりも感性、精神よりも身体性を重視し、シンボルやイメージを用いて大衆の感性や潜在意識に訴えようとする手法を採用していること。この政治手法は西欧において19世紀末から20世紀初頭にかけて、杜会の大衆化を背景として本格化したものである。ボリシェヴィズムはこうした西欧の新しい政治手法のロシアでの導入形態とみなすことができる。このように、ボリシェヴィズムは20世紀的な特徴を持つ思想として把握でき、20世紀思想史の文脈上に位置付けることができる。 | |
審査要旨 | 本論文は、1905年頃から1920年代初頭にかけて、ボグダーノフら一部ボリシェヴィキが抱いた人間観と宇宙観の特徴を明らかにし、その思想が同時代の西欧の知的潮流とも密接な関係にあったことを解明したものである。従来のボリシェヴィズム研究では、専らボリシェヴィキの政治、経済面での政策に焦点が当てられ、ボリシェヴィキの代表としてはレーニンのみが研究対象とされる傾向があったが、本論文は、そうした従来の研究では軽視されてきたレーニン以外のボリシェヴィキの思想、特に、社会政治制度の変革のみならず、全く新しい世界の構築や新しい人間創造さえも目指したボグダーノフらの思想の重要性を指摘し、思想の源泉とその実践の具体例を鮮やかに示した、新しいボリシェヴィズム研究として画期的な力作である。 本論文の構成は、序論、研究史、本論3章、結論と展望から成り、注を除く本文は400字詰原稿用紙換算約630枚である。 序論では、本論文の課題が述べられている。それは、第一に、ボリシェヴィズムの人間観と宇宙観の特徴を明らかにすることであり、第二に、それを踏まえてボリシェヴィズムを20世紀の西欧を含む思想史の文脈で把握することであるとし、具体的な検討対象は、ボグダーノフの思想と、ボリシェヴィキが1920年代初頭までに行った<新しい人間>の創造を目指した実験であることが明確に示される。次に、「研究史」では、従来のボリシェヴィズム研究を整理した上で、その問題点、不足点が指摘される。 第一章では、ボリシェヴィズムの生れた思想的背景が述べられる。ボリシェヴィキは、物心・主客二元論、機械論、決定論、個人主義などの近代的な知のあり方の打破を目指していたが、その際、当時西欧に生じつつあった新しい哲学、科学-例えばマッハの哲学などを導入することで自らの思想体系を確立した。一方、ボリシェヴィキは、当時のロシアの観念論、宗教思想、象徴派、「ロシア・コスミズム」の宇宙論などとも盛んな交流、論争を行っていた。ここでは、ボリシェヴィズムの思想の源泉が、20世紀初頭の西欧の知的潮流とロシア精神史の双方の中に探求されているが、特に西欧の思想史との関連づけは新しい試みであり、成功している。また、レーニンとボグダーノフは、従来その対立点のみが強調されてきたが、双方が当時の西欧の知的革命に対して、マルクス主義の側から一定の解決策を提示したという点では共通性を持っていたという指摘は、レーニン思想の新解釈としても重要なものである。 第二章では、ボリシェヴィズムの人間観と宇宙観の代表として、ボグダーノフの思想を検討し、彼の多様な活動に一貫して見られる特徴として、次の四点を指摘している。1.自然に対する人間の積極的能動性、すなわち労働実践を世界観の根底に置いていること。(ボグダーノフはマッハ哲学の影響下にあり、世界は「経験の要素」から成ると考えていたが、人間の全ての実践は「要素の組織化」であり、人間はこの組織化機能によってカオスである自然と闘争する。)2.共同主観的世界観と集団の創造性の強調。(物理的世界は、社会、集団の協働によって造られるものであるが、そればかりでなくボグダーノフは、人間のあらゆる精神活動もすべて社会的なプロセスの中で構築されるものであると考える。このような共同主観的世界観に基いて、個人主義を批判し、集団の創造性を強調する。)3.人間と宇宙の進化の理論と新しい人間の創造。(ボグダーノフは、人類の社会的協働によって人間と宇宙が進化するという独特の宇宙進化論を構築しているが、彼の考える新しい人間とは、「集団主義的人間であった。)4.人間の感性、身体性を重視する人間観。(ボグダーノフは、新しい集団主義的人間の創出のためには、人々が感情面、身体レヴェルでの経験を共有することが不可欠であると考えた。) 以上の四点は、プロレトクリト文化運動から血液交換実験まで複雑多様なボグダーノフの活動を貫く彼の思想の特性として、的確に選ばれたものであり、ボグダーノフの世界観がこの特性を通して明快に整理され提示されたものとして評価できる。 第三章では、ボリシェヴィキが1905年から1920年代初頭に行った様々な実験を取り上げて、それらに共通した特性が示される。検討の対象となる実験は、人々の集団的創造のエネルギーがついには不死をも獲得するという信念の下に社会主義的宗教を創ろうとした「建神主義」、テーラーシステムの大規模な導入による機械と人間の一体化を目指した「労働の科学的組織化」運動、プロレタリア文化建設運動である「プロレトクリト」による群集劇やプロレタリア詩などである。これらはいずれも新しい集団主義的な人間を創造するという性格をもつ。しかも、それは、第二章であげられたボグダーノフの思想の特性を悉く映し出すものでもあることが検証されてゆく。この第3章では、ボリシェヴィズムの実験の具体例を豊富に提示しつつ、それが単なる事実の羅列に終ることなく、ボグダーノフにも共通する特性が抽出されてゆく手法が鮮やかである。 結論部では、ボグダーノフとボリシェヴィズムの思想の特徴とその20世紀的特性が総括され、さらに、今日ではもっぱら否定的な意味合いでしか用いられなくなった「集団主義」という言葉について、彼らが目指したそれは、決して個人が集団に埋没するものではなく、完全な相互理解の下に個人が自覚的に集団の一員となる理想杜会であったことが確認された上で、今後の研究課題として、ボリシェヴィズムの世界観とスターリン主義イデオロギーの関連性についても触れられている。 以上のように、本論文は、西欧も含む20世紀初頭の思想史の大きな思潮の中に、ボリシェヴィズムの思想を位置付け、その思想の具体的な実践例も紹介しつつ、新しい社会、政治のみならず新しい人間、宇宙をも創出しようとした、ボリシェヴィズム思想の従来明らかにされていなかった特質を、豊富な資料に基づき綿密に解明した、極めてスケールの大きい、多くの新しい知見に満ちた論文である。 勿論、審査委員から若干の不十分な点が指摘されたことも事実である。その一つは、スケールの大きさに起因する問題であり、ボリシェヴィズムとボグダーノフという二つの巨大なテーマを扱っているため、そのどちらに関しても必ずしも全貌を伝えているとは言い難いという点である。また、もう一つは、本論文のオリジナルな功績の一つである、ボリシェヴィズムと同時代の西欧思想との関連への言及に重点が置かれたあまり、ロシア精神史との繋がり、影響関係に関する叙述が少なすぎたのではないか、という指摘であった。 しかし、これらの欠点は、本論文の価値を大きく損なうものではなく、本論文は、その表題にふさわしい内容と水準を有し、従来研究の光が当てられることの少なかった一部ボリシェヴィキの思想の意義を20世紀思想史の文脈の中で明らかにし、ボリシェヴィズム研究に新たな地平を拓くものである。よって、博士(学術)の学位を授与するのに十分な業績である、と判断する次第である。 | |
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