学位論文要旨



No 115768
著者(漢字) 竹腰,祐子
著者(英字)
著者(カナ) タケコシ,ユウコ
標題(和) 消滅し生成する《わたし》たち : グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』と『西の窓の天使』
標題(洋)
報告番号 115768
報告番号 甲15768
学位授与日 2001.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第303号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 藤井,啓司
 東京大学 助教授 沼野,充義
内容要旨 要旨を表示する

 本論考は、世紀転換期を生きたグスタフ・マイリンク(1868-1932)をめぐる「わたし」について分析し、マイリンク再評価を試みる。『ゴーレム』(1915)を除き、彼の作品に関する批評況は貧しいうえ、自伝的要素や神秘主義の側面を強調する、偏向した解釈が多い。流行幻想作家の像は根強い。作中の曖昧な『わたし』から、多重人格的に生成・消滅する「わたし」たちについて、『ゴーレム』と『西の窓の天使』(1927)を中心に論じる。

 自己は演出すべき素材、自己像は作られるもの、との極めて現代的な自意識をもち、自己像と戯れるマイリンクは、得意の話術で虚実さだかならぬ話を作り上げた。語るように書く試みは処女作『熱い兵士』に結晶し、『ゴーレム』の初稿はパルログラフのロールに刻まれた。語りの包含する騙りの性質がマイリンク作品を特徴づけ、「わたし」から「わたし」たちが発生する素地を生んだ。

 帽子を取り違えてアタナシウス・ペルナートになる、記憶喪失者にしてよそ者の『ゴーレム』の「わたし」は、ひとの噂や女たちの導きにより、衛生化まえのプラハのユダヤ人街で「わたし」を確立しようとする。その様子は、作中のゴーレムの姿に酷似する。『ゴーレム』に固定的な土塊ゴーレムはおらず、代わりに噂としてのゴーレムが、ユダヤ人街の人々の集合的無意識を反映しつつ、伝染病のように人々の脳に伝播する。

 帽子をかぶる「わたし」の時空と脱いだ「わたし」がいる時空は、『ゴーレム』の入れ子構造をつくる。象徴群の重なり合いや分裂や増殖のちからをかりて、入れ子から入れ子への移行や入れ子のなかの時空の伸縮運動が展開する。幻想とも現実ともつかぬ体験をする「わたし」は、『ゴーレム』を手にする読み手の体験を象徴する。

 『西の窓の天使』も枠構造をとり、「わたし」の「わたし」越えは、ディーとの一体化と両性の結合によって達成される。「わたし」は、書字の権勢のもと手記を読み解き、翻訳、編集を介し、エリザベス朝の碩学ジョン・ディーと重なり合う。グリーンは、母親の胎内に安らぐ状態に似た、男女を反転させた形での結合例を示し、ディーと女王はすれ違いに終わり、貞節なフロム夫人と誘惑の権化、侯爵婦人に欲望を分裂させる「わたし」は、最終的にはすべての女性性を備える、エリザベスの名の象徴と結ばれる。内面を反映する幻と説明される、ディーが追い求めた「西の窓の天使」は表題『西の窓の天使』にも採用され、「わたし」の「わたし」越えと、読み手の読むことをも幻を追う行為かもしれないと批評する。読む行為でつながれたディーと「わたし」と読み手の三者がそれぞれの「西の窓の天使」を追い求める三重の運動は、書物『西の窓の天使』のなかでひとつになる。はじめから同じ印字で現れている、手記と「わたし」の記録と新聞記事は、三枠の相互浸透を予告していたのだ。

『西の窓の天使』は、タイトルと印字により、三者の運動と三つの入れ子をひとつにする。

 「わたし」から「わたし」たちが生まれる物語の背景には、時代の揺らぎがある。技術革新は大量殺戮兵器を生み、固有なわたしを取り替え可能な集団のひとりに変えた。一方で声の録音装置を生産し、わたしのなかに潜在する無数のわたしたちの克明な記録を可能にし七緩やかに束ねられるわたしであった、かつての自己同一性は、個別の場面に現れる数知れぬわたしたちの集合体となったのだ。語る自分を妨げないパルログラフはマイリンクの「わたし」たちを記録するのに貢献したはずである。語りの自由連想に引き出され、彼の無意識から浮上した「わたし」たちは、作者マイリンクからフィクションのなかの「マイリンク」へ、そして「わたし」たちへとずれていく。彫琢の極められた結晶のイメージで捉えられる文学作品の概念から遠くにあるものが彼の作品の本質的性格をつくるのは、テクストの内と外とを意図的に突き崩そうとする「わたし」たちの運動があるからだ。フィクションのそとにいる書き手と読み手の「わたし」から「わたし」たちが引き出されていく運動は、テクストのなかでの「わたし」たちの生成消滅の運動と呼応している。語るマイリンクから騙りが覗く、パロールがとりもつ奔放さは、「わたし」から「わたし」たちが生まれる作品構造に影響し、文字に固定された物語にもその痕跡を残す。パロールから誕生したマイリンク作品は、エクリチュールに姿を変えたあともパロール性を発揮し続ける。話すことと書くことの過程で起こるわたしの広がりの感覚をたよりに、マイリンクは「わたし」が「わたし」を越えゆく物語を紡ぎ出したのだ。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、十九世紀末から二十世紀前半にかけて、ドイツ語圏、すなわちミュンヘンおよび旧オーストリア=ハンガリー帝国領のプラハを中心に、活躍していた特異な作家グスタフ・マイリンク(1868-1932)の作品から、主として二つの長編小説『ゴーレム』(1915)と『西の窓の天使』(1927)をとりあげて論じたものである。

 従来、マイリンクの作品は、一方で、ベストセラーになった『ゴーレム』がその典型と見做されたように、大衆の嗜好におもねる通俗小説として、他方で、この二つの作品にみられるように、「ゴーレム」伝説やジョン・ディーの神秘思想など、古今のオカルト的な言説を折衷した幻想小説として、一般に受容されてきた。多くもないアカデミックな研究にしても、こうした了解の域を超えるものではなく、その結果、文学作品として読む試みは、そこでは等閑に付されてしまっていた。それにたいして、論者は、小説としての内的構造を分析することから立論しつつ、いずれの作品も、過去に生きていた先人が、というよりも先行する言説が、主人公に憑依するという、共通した主題を有していることに着目する。そして、「読むこと」による自己同一性の揺らぎ、多重人格的な複数の「わたし」への増殖が、作品の内部にとどまることなく、作者や読者をもまきこんだ運動へと展開していることを明らかにする。この分析は、マイリンクにおいて、ユングの「集合的無意識」に類似したモティーフが存在するという認識を導きだしながら、他方、書物の活版印刷に体現される複製技術の発展を、第一次大戦における殺戮、個としての存在の無差別化と、軌を一にするものと見做す、いわば歴史的な知見を生みだすことにもなる。ちなみに、マイリンクが執筆する際に、パルログラフ、すなわち音声の自動記録装置を利用していたという論者の指摘は、作者のゆるぎない自己によって保証された言語芸術作品という、伝統的な文学理念に疑義を呈するという意味でも、きわめて興味深い。

 本論文は、細部において読解にやや緻密さを欠き、用語の不明瞭、論理的な不整合等が散見されるものの、ドイツ語圏においてもほとんど先行研究のない、マイリンクの小説を文学作品として定位するための一歩を印したという点において、十分に評価されるべきものである。以上に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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