学位論文要旨



No 115778
著者(漢字) 高,吉嬉
著者(英字)
著者(カナ) コウ,キルヒ
標題(和) 旗田巍における<植民意識克服>と<アイデンティティ統合> : 植民地朝鮮と戦後日本を生きた一知識人の思想形成の研究
標題(洋)
報告番号 115778
報告番号 甲15778
学位授与日 2001.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第76号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 助教授 広田,照幸
 東京大学 教授 姜,尚中
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、植民地朝鮮と戦後日本を生きた旗田,巍という一知識人が朝鮮との深い関わりの中で歩んだ生の足跡を、近現代における日朝(韓)関係史のなかで読み解く試みである。旗田の生の歴史は、日本帝国主義による朝鮮植民地支配によって、支配・被支配を問わず、生み出されたおびただしい数の「故郷喪失者」や精神的「亡命者」の生の歴史の一頁だといえる。

 序論では、本研究の課題と目的を提示し、主題と関連する先行研究を検討した。その中から、「植民地支配の責任の自覚」と<境界人>という二つの枠組みを摘出し、従来の日朝(韓)関係史言説の相対化を促すために、ライフコース・ライフ・ヒストリー・サイコヒストリーといった歴史と心理学を結ぶ手法にヒントを得つつ、エリクソンの<清算すべき勘定書>という言葉に着目することを明確にした。そして本論では、旗田の朝鮮に対するこの<清算すべき勘定書>の明細書とその支払いのための格闘を描き出していくことを示した。

 以下、各章の内容を要約し、戦前と戦後における日朝(韓)関係史と旗田の研究や行動が、どのように交差し、互いに影響しあったのかを俯瞰しつつ、過去の歴史を未来へと解き放っていくための手がかりについて述べたい。

 第一章では、旗田の個人史と日本帝国主義による朝鮮植民地支配の歴史との関係に注目しつつ、第一節で、旗田が1908年朝鮮で生まれ、釜山中学校を卒業するまでの約17年間の朝鮮での生活を、第二節で、第五高から東京帝国大学文学部東洋史学科で朝鮮史を学び、その後、1940年から満鉄調査部で働き、1948年に引き揚げてくるまでを考察した。

 総じて約40年間、旗田は日本帝国主義の植民地支配や大陸侵略に寄り添ったかのように、朝鮮・日本・中国を跨って生活し、引き揚げ後の研究や行動に重要な意味を孕ませる、いくつかの「原体験」を持った。第一に、<植民者の子>としての朝鮮での約17年間の生活のなかで、「植民意識」を内面化し、「美しく楽しい朝鮮」というイメージと「暗くて貧しい朝鮮人像」を同時に持ち、第二に、植民地支配や大陸侵略を学説的に支える東洋史学者の一人として働き、植民地支配や大陸侵略を積極的に批判することなく、つねに傍観者的姿勢を見せ、第三に、逮捕の経験によって、政治的問題から一定の距離を保ちつつ、つねに研究を最優先する「研究至上主義」的姿勢を見せるようになったこと、などである。

 ここで二つの側面を確認しておく必要がある。旗田が朝鮮で<植民者の子>として生まれ育ち、敗戦と同時に故郷を喪失し、日本と朝鮮の間を生きる<境界人>となったことが、運命的なものであったとすれば、一方で、東洋史学者の一人として朝鮮史研究や満鉄調査部で働く経歴を持ったことは、旗田自らが選び取ったものであったということである。すなわち、旗田の個人史と日本帝国主義の歴史が互いに共鳴し合い、また影響し合った結果、旗田は朝鮮や中国に対し、その後の人生で支払わなければならない<清算すべき勘定書>を持つ存在となったのである。

 第二章では、第一章の「原体験」や前思想形成を踏まえつつ、引き揚げてから1965年頃までの旗田の研究と行動を中心に検討した。第一節では、旗田が朝鮮史研究の道を選び、『朝鮮史』(1951年)の著述や「朝鮮史研究会」の創立(1959年)などを通して、戦後日本の朝鮮史研究の土台を築き上げていく過程を描いた。戦前の朝鮮史研究を批判し、新しい朝鮮史研究の方向性を示した『朝鮮史』は、日本人や朝鮮人の朝鮮史研究者に大きなショックと感銘を与え、また、「朝鮮史研究会」は、四散していた朝鮮史研究者が新たな朝鮮史研究のために集まり、日本人と朝鮮人の研究者が交流する場を提供していった。こうして旗田は、戦後日本の朝鮮史研究の開拓者あるいは先駆者となり、韓国人研究者に「日本の良心」と高く評価されていくことになる。

 第二節では、旗田が研究の世界を大きくはみ出、「李少年助命運動」(1960-62年)と日韓会談反対運動(1962-1965年)という二つの行動にコミットすることによって、日本人の朝鮮観に大きな欠陥があることを痛感していく過程を追った。戦前の東洋史学において作り出された日本人の朝鮮観の歪みを自覚することは、すなわち、そこに携わった自らの朝鮮に対する<精算すべき勘定書>を自覚することを意味した。そこで、二つの運動を終え再び研究の世界に戻った旗田は、戦前の朝鮮史研究批判から日本人の朝鮮観批判へと研究テーマの変化を見せ、日本人の朝鮮観の是正に取り組んでいくことになる。

 第三章では、旗田の個人的な葛藤と研究の相互関係に注視しつつ、第一節で、日本人の朝鮮観を改善するための旗田の朝鮮史研究を、第二節で、朝鮮史教育への取り組みについて考察した。このとき旗田には、第一に、日本人の朝鮮観の歪みを歴史的かっ系統的に明らかにし、第二に、その歪みに揺さぶりをかけるために、朝鮮人の主体的・創造的歴史や文化を描く、という二つの課題があった。この二つの課題を旗田個人の問題に置き換えて考えてみると、第一の課題は、戦前の朝鮮史研究に直接携わったという旗田の過去が背負っている<勘定書>を確認する作業として、第二の課題は、旗田自身が持ち続けている否定的な朝鮮(人)像を振り払うための格闘として受け止めることができる。

 ここには、旗田自身のアイデンティティの問題、自己矛盾が横たわっていたといえる。すなわち、かつて自らが<植民者の子>であり、東洋史学者の一人であったという後ろめたさと、<在朝日本人二世>としての生まれ育った故郷朝鮮への郷愁がせめぎ合い、また、朝鮮(人)の主体的な歴史や文化を描こうとする自分と、「暗くて貧しい朝鮮人」イメージを持ち続けている自分がぶつかり合っていた。また、朝鮮史教育の世界に「民族の問題」を投げかけたものの、朝鮮植民地支配の責任の追及と日本人の「誇り」という問題の間で揺れ動いていた。そのなか、当初から政治に「臆病」あるいは「慎重」な姿勢を見せる旗田と、政治的色彩が強かった革新派の間には、一定の相克や確執が見られ、旗田の研究に対しても「心情的」「姿勢論的」過ぎるという批判が見られるようになっていった。

 第四章では、晩年における旗田の<清算すべき勘定書>の支払いのための取り組みと、<在朝日本人二世>としての自己アイデンティティの統合のための試みについて考察した。まず、第一節では、日本人の朝鮮観を改善するための朝鮮史研究や朝鮮史教育の取り組みと、南北朝鮮への訪問とその後の変化について検討した。最も注目すべきことは、古希を前後して南北朝鮮を訪問した後、はじめて公の場で自分史を語り、長く持ち続けてきた「暗くて貧しい朝鮮人像」から解放されつつ、生き生きした朝鮮人の姿がみえる朝鮮史研究に取り組んだことである。年齢や時代の制約などによって、その試みは不十分なままに終わってしまうが、それでも旗田がはじめて自分と向き合ったことに大きな意味があったといえる。

 第二節では、これまでの考察を踏まえつつ、日韓両国における旗田評価の落差に着目し、その落差を埋めるための日韓両国の課題について考えた。旗田を「日本の良心」と評する韓国側と、「贖罪派」とする一部の日本人側の評価には、それぞれ是非がある。しかしながら、人間の多様性や複合性を隠蔽あるいは排除する支配の様式を清算していく課題を抱えている今日、過去の歴史を未来へと解き放っていくためには、「他者」の視点に立って自己認識を相対化していくこと、そして何よりも、旗田が日本と朝鮮の間を生きた<境界上の知識人>であったことを視野に入れて、「支配者日本人」対「被支配者朝鮮人」という二項対立的言説を相対化し、多様性・異質性・個別性を尊重し合う道を模索していくことが求められている。

 以上、本研究は、日本と朝鮮との歴史的拘束性を念頭におきつつ、個々人の多様な朝鮮との出会いや経験を描き出し、それによって従来の二項対立的言説を相対化していくための一つの試みであったといえる。旗田が朝鮮に対する<清算すべき勘定書>からくる罪の重荷とアイデンティティの危機に苛まれながら、様々な葛藤や矛盾を抱きつつ、絶え間なく自分の過去に向き合った<生>の歴史は貴重な遺産である。今後も個人史と歴史を結ぶ視点から、二項対立的言説に押しつぶされてきた人々の<生>を浮かび上がらせ、そこから日朝(韓)関係史を捉え直す作業を続けていくことは、永続的に残された課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、旧植民地時代に朝鮮に生まれ育ち、戦後日本の中国・朝鮮史研究に重要な学問的功績を残した歴史学者旗田巍のライフヒストリーとその学問意識の形成・発展を、旗田の「境界人」としてのアイデンティティ葛藤とそれを解決するための努力という視点に着目しながら明らかにし、それを通じて近現代の日朝(韓)関係史の新たな側面を描き出そうとした研究の成果である。

 論文は、先行研究のレビューおよび本論の方法と理論的枠組みを提示した序論と四つの章そして結論からなっている。序論では、これまでの日韓関係史の叙述の多くが、支配・被支配、抑圧・被抑圧、差別・被差別などの二分法的な枠組みにとらわれてきたことの問題点が指摘され、それを克服するために、「境界人」として生きた人々とりわけE.Hエリクソンの手法を参考にして、個人の内面史を、その人物の生きた歴史的状況に関連づけながら丁寧に叙述していく手法を採ることが示される。一章では旗田の主に戦前の思想形成期が取り上げられ、旗田が植民者の子として無自覚で傍観者的な植民者的朝鮮観をもったこと、および東洋史の専門家となり満鉄調査部で働くという選択をしたことが、後の「清算すべき勘定書」となっていくことが指摘され、二章では戦後、旗田が『朝鮮史」の出版で戦前の朝鮮史研究の問題点をはじめて明らかにし、戦後の朝鮮研究の開拓者になっていくことと、それと平行するかのように日本人の朝鮮観のゆがみを旗田自身が体験していく過程が叙述され、それを旗田自身が「清算すべき勘定書」として自覚していくプロセスが描かれる。三章では、この「勘定書」を「清算」するための旗田の努力が、たとえば「暗くて貧しい朝鮮人」という自己の原イメージと主体的・創造的な韓国・朝鮮人という現実のイメージの間の統合をめぐる葛藤を伴いつつ遂行されていく様が具体的に叙述され、四章では晩年の旗田が「勘定書」の「清算」のために、古希を過ぎてはじめて南北朝鮮を訪問しその後に自分に真摯に向き合う様が描かれる。終章では、この「清算」の仕事が支配・被支配的な二分法的歴史認識では十全に遂行されないことがあらためて確認され、多様性、異質性、個別性が尊重されあう道の模索の重要性が強調されている。

 本論は、歴史学というアカデミズムの中で生きながら、同時に民族問題で積極的に発言し行動してきた旗田の軌跡をはじめて明らかにしただけでなく、その内面世界にできるだけ深く分け入り、それを植民地時代および戦後史の動きと連関させて丹念に叙述しえたという点で高く評価できる。さらに、日韓関係史へのアプローチに関する問題設定や方法的な視座設定の点でも、これまでの日韓関係史研究に新たな一ページをつけ加えるものとなっている。問題点としては、旗田の軌跡をあらかじめ設定された枠の中で整理しすぎている傾向が特に戦前の朝鮮時代の叙述にみられることがあげられる。資料的制約もあるが、若い頃の旗田の内面形成の細かなゆれやその後への影響関係などを丁寧に論じる点で課題が残されている。しかしそれは本論文の全体としての評価を下げるものではなく、今後一層の資料の渉猟で埋められていくものと期待される。

 以上を総合して、本論文は博士論文に十分に値するものと評価される。

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