学位論文要旨



No 115780
著者(漢字) 秋葉,昌樹
著者(英字)
著者(カナ) アキバ,ヨシアキ
標題(和) 保健室のエスノメソドロジー : 保健室における養護教諭の教育的活動及び相談的活動の構造・機能・意味に関する臨床エスノメソドロジー研究
標題(洋)
報告番号 115780
報告番号 甲15780
学位授与日 2001.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第78号
研究科 教育学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤田,英典
 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 近藤,邦夫
 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 助教授 志水,宏吉
内容要旨 要旨を表示する

【序章】 保健室への臨床エスノメソドロジー的アプローチに向けて

 ここ数年、保健室は身体的ケアのみならずいじめ・不登校など、心のケアにも貢献していると言われており、学校保健の観点を超えた、保健室・養護教諭の実態を多面的に扱う保健室・養護教諭研究が社会的にも要請されていると考えられる。しかし、これまでのところ、保健室で児童・生徒が悩みを打ち明ける理由について、現場の実践研究でも学校保健領域の研究でも、「性質記述的」説明(藤田英典1992)の域を出て保健室・養護教諭の実践をその制度的・組織的文脈に即して分析した研究は提出されていない。

 本論文は、保健室における養護教諭の教育実践ならびに相談的実践の構造、機能、意味について、学校・保健室の制度的・組織的文脈を考慮しつつ、主として、その相談的実践に焦点を当て、エスノメソドロジー研究の観点から考察・解明するものである。

【第1章】 エスノメソドロジー類型学と「教育の臨床エスノメソドロジー」の可能性

 分析的実証観点をそなえた教育臨床的研究の方向性を定める目的から、以下の諸点について論述した。(1)エスノメソドロジー研究の理論及び手法について、理論的・方法論的観点と研究対象の観点から諸研究を類型化し(I.IV類型)、それぞれの特徴・問題点について整理した。(2)理論的側面に関しては、「エスノメソドロジー的無関心」の指針の位置づけを再検討し、今日、同研究領域の主流を成す第III類型の研究が「成員の含蓄的実践」を軽視し形式主義的知見に留まっていること、及び、成員の含蓄的実践を明らかにすることにより実質的知見を提出するエスノメソドロジー研究の可能性が拓けることを指摘し、(3)方法論的側面に関しては、個々の研究に対するトランスクリプトの持つ意味を明らかにし、(4)研究対象との関係では、やりとりの中で表出・産出される参加者の含蓄的実践に着目し分析を進めることにより、教育実践の実質的特徴、その構造、機能、意味を明らかにしうることを示した。(5)さらに実践的・臨床的研究における人物主体の事例研究の特徴と問題点を補完し暗黙知のレベルを視野に入れた事例の見方、作り方としてやり.とりの細片を事例の基本的単位とする新たな方向性(方法誌としての事例)を呈示し、(6)本研究の主題である保健室での実践の構造を明らかにする研究の方向性を「教育の臨床エスノメソドロジー研究」という指針および方法論として提起した。

【第2章】 保健室の日常風景−生態学的考察−

 保健室の日常を構成する生態学的要素について、養護教諭と生徒のやりとりの中で頻繁に観察される諸事項に着目して考察した。(1)保健室経営、健康教育の観点から重要視される「来室生徒記録用紙」についてその概要、(2)来室生徒への対応の際、生徒の状態を認識する枠組として「在庫知識」が用いられること、(3)養護教諭の「在庫知識」の源泉について、それが、医学的カテゴリーに基づくもの以外にも、人間関係論的・生活史的カテゴリーに基づくものも含め多岐にわたるものであることを示した。(4)これら諸点を踏まえ、保健室が身体を媒介にした養護教諭と生徒のコミュニケーションの場、さらに教育の場として、その環境がつくり出されていることを明らかにした。

【第3章】 保健室のエスノメソドロジーと悩み相談

 保健室の日常を構成する生態学的要素が、身体的トラブルでの来室と悩みごとが打ち明けられる来室とにおいて、どのように活かされているのかを考察し、以下の諸点を明らかにした。(1)養護教諭と生徒のやりとりで志向される基本的プロセスとそこで呈示される構え(参加地位)のありよう、(2)やりとりの基本的プロセスにおける問診過程で養護教諭の「在庫知識」が生徒と共有された文脈的知識として用いられることにより、悩みが打ち明けられる場面で、やりとりの基本的プロセスの中で悩み事を自然に引き出す機能を持っていること、(3)その結果やりとりが《通常モード》から《悩み相談モード》へとスイッチすること、(4)「用紙記入活動」(=来室者記録用紙に記入する活動)が悩み相談の場面でも通常の身体的トラブルの延長線上に位置づけられ、学校の時空間に連接する機能(「通常化作用」)を持っていること、(5)悩み相談が、やりとりの展開過程の各局面で保健室内を空間的に移動していくことにより、保健室内の生態学的諸要素が活かされ、やりとりの基本的プロセスをはじめ、やりとりの通常化が確保されていることなどを明らかにした。

【第4章】 やりとりの中で志向される制度的特徴と心の教育

 現在、心のケア、心の教育という文脈で、心の専門家として制度化が進むスクールカウンセラーだが、その一方、養護教諭や一般教諭に対してカウンセリングマインドを備え資質を改善するということが要請されている。しかしそうした文脈で言われるカウンセラーの専門性とはそもそも何なのか。(1)この点について、養護教諭の専門性が専門家集団が共有する理論、技術、評価基準等にあるというより、やりとりの中で志向され表示される制度的特徴との関わりのなかで実践されるものであることを、専門的カウンセリング及び授業場面でのやりとりとの対比において比較検討し(=「制度的場面」のエスノメソドロジー研究)、それぞれの制度的場面において、生徒(クライエント)の心がどのように扱われているかを分析的に明らかにした。重要な分析的知見としてはカウンセリングのやりとりのもつ特殊なコミュニケーション形態が明らかになった点であり、これを踏まえ「カウンセラーの心得」を意味するカウンセリングマインドが学校の制度的空間において適切に活かしうるのかどうかについて、問題提起を行った。

 (2)保健室における悩み相談の特徴的な現象としての「つらなる来室」について分析した。保健室では、同種の悩みを抱える複数の生徒が継起的に来室し、悩み相談の応対が横断的立体的に展開しうる「横の広がり」を持つものになるという点で、カウンセリングにおける悩み相談の特徴(「縦の深まり」とした)と異なることを明らかにした。また、こうした保健室特有の構造はやりとりの形式的次元で「通常化作用」が働くこと、内容的次元で在庫知識が有効に活用されることにより確保されていることを明らかにした。

【第5章】 保健室における「対応の順番」の問題

 保健室における生徒への対応は、必ずしも1対1の対応ではなく、複数の生徒の身体的トラブルに対処する必要に迫られるものである。そこで養護教諭の臨床的課題の一つである「対応の順番」の問題について、エスノメソドロジーの観点からビデオ分析を行った。まず、(1)事例作成の方法として「生態学的トランスクリプト」を考案した。これは、複数のやりとり参加者の複雑な動きをトータルに視覚的に把握するために、やりとりの細片を発話とふるまいを同時的に提示する独自の方法である。次いで、(2)複数の生徒への対応の順番が、実際のやりとりの中では必ずしもマニュアル的知では解決しない複雑な状況内在的問題を含んでいること、(3)対応の順番が、養護教諭のマニュアル的判断というよりも、その場に共在する参加者全員によって達成されるということ、(4)このメカニズムを理解し実践的知として把握するために、やりとりの細片から構成される生態学的トランスクリプトによる実践の中の反省的志向を明らかにする作業が有効であることを明らかにした。

【終章】 結論と考察

 まず結論として各章をまとめ、後半では考察として新たな知見を以下の3点において論述した。

 第一に、学校の社会的空間において保健室での悩み相談が果たしうる役割、意義を考察した。保健室のエスノメソドロジーの分析を踏まえ、悩みごとを打ち明けるやりとりの持っ構造を《形式的次元》、《内容的次元》から整理した。《形式的次元》に関しては、身体的トラブルへの志向をやりとりの参加地位として示しつつ、やりとりが問診→診断・処置へと制度的プロセスをたどる中で悩み相談をしやすい環境が形成されること、同時に通常化作用が悩み相談のやりとりを学校という場の時間的・空間的特性に正当に位置づけることを明らかにし、《内容的次元》では悩み相談のやりとりは身体レベルにおいて保健室の時空間に位置づけられ、知識レベルにおいては保健室のみならず学校の時空間に位置づけることで客体化・相対化されること、及び、それらが心理臨床的カウンセリングとは別のロジックで保健室の悩み相談の基盤を構成していることを示した。

 第二に、臨床的教育実践研究に対する意義として、「教育の臨床エスノメソドロジー研究」は、保健室のエスノメソドロジーに養護教諭が習熟していくことが反省的実践のひとつの核となることを示唆し、人物主体にまとめられ、語りを媒介に進められてきた従来の事例研究のあり方を、暗黙知レベルを視野に入れたやりとりの細片を単位とする事例によって補完し、グラウンデッドなナレッジベースの構築をめざすことを提案した。

 第三に、エスノメソドロジー研究領域に対する意義として、(1)エスノメソドロジー的無関心とともに含蓄的実践を再評価し、(2)エスノメソドロジーを叙述した方法誌を媒介にすることにより、エスノメソドロジストのフィールドとの係わり方を、これまでの寄生的あり方から共生的あり方へと転換させることの重要性を指摘し、(3)教育の臨床エスノメソドロジー研究の観点から行った本研究が養護教諭自身による実践的研究の可能性をも視野に入れた臨床的研究のあり方を探るひとつのモデルとなることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、保健室における養護教諭の教育的・相談的実践の構造、機能、意味について、いじめや不登校等の問題に対する保健室の貢献が言われている今日的状況を踏まえ、中学校の保健室でのフィールドワークに基づき、エスノメソドロジー研究の観点から考察・解明したものであり、本論5章と、研究課題を設定した序章、及び、知見を要約し、その意義を論じた終章から成り立っている。

 序章では、本論文の二つの課題、保健室・養護教育のエスノメソドロジー的研究という実質的課題と、エスノメソドロジー研究の新たな展開可能性の提示という理論的・方法論的課題を設定し、その必要性と適時性を論じている。

 第1章では、エスノメソドロジー研究の系譜を類型化し、その批判的検討を行い、教育の臨床エスノメソドロジーの可能性を明らかにするために、第一に、エスノメソドロジー・会話分析研究について、理論的・方法論的観点および研究対象の観点から批判的に検討し、「エスノメソドロジー的無関心」という指針の捉え直しを行い、第二に、成員の含蓄的実践を解明しようとしたエスノメソドロジーの初発の視座を今日的な分析水準で回復する方法論的視座と作業手続きを呈示している。

 第2章では、保健室の日常風景を構成する生態学的諸項目をエスノグラフィックに叙述し、来室者記録用紙等の実践的意義を明らかにし、養護教諭の実践を支える在庫知識の源泉として、医学的知識及び人間関係論的・生活史的知識の重要性を明らかにしている。

 第3章では、保健室における悩み相談について、身体的トラブルでの来室と悩み相談の来室の特質及び両者の重なり・移行のありようを考察し、養護教諭の多面的な在庫知識や来室者記録用紙に記入するという活動などが、悩み相談の来室を身体的トラブルでの来室として定式化する機能を持つこと(通常化作用)などを明らかにしている。

 第4章では、保健室における悩み相談場面とカウンセリング場面及び授業場面とを比較検討し、保健室の相談場面の開放性とやりとりの対称性や、保健室での相談が「つらなる来室」や「横のひろがり」を持ったものになる傾向があることを明らかにしている。

 第5章では、保健室に複数の生徒が同時に来室する場合の「対応の順番」について、ビデオ・データに基づき分析し、体温計を渡すことをはじめ種々の生態学的・制度的諸要素が活用され、円滑な順番化が図られていることを明らかにしている。さちに、この事例分析を通して、保健室でのやりとりの中に埋め込まれた反省的実践のありようを、知識ベースとして構築し共有することの重要性を指摘し、そのための事例データの構築法として「生態学的トランスクリプト」の作成方法を考案し提示している。

 終章では、本論文の主な知見を整理し、その実践的意義及び理論的・方法論的意義について論じている。

 以上のように、本論文は、これまでの研究では明らかにされていない保健室における教育的実践ならびに相談的実践の特徴と意義について新たな知見を提出するとともに、臨床的教育実践研究の新しい方向性とエスノメソドロジー研究の新たな可能性を呈示している点で、当該領域における今後の研究の発展に大きく貢献するもの判断される。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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