学位論文要旨



No 115781
著者(漢字) 桑嶋,健一
著者(英字)
著者(カナ) クワシマ,ケンイチ
標題(和) 医薬品の製品開発マネジメント : 効果的な製品開発戦略と組織能力
標題(洋)
報告番号 115781
報告番号 甲15781
学位授与日 2001.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第146号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 教授 藤本,隆宏
 東京大学 助教授 新宅,純二郎
 東京大学 助教授 粕谷,誠
 埼玉大学 教授 大東,英祐
内容要旨 要旨を表示する

 製薬産業は、ひとつの画期的な新製品(新薬)を開発することにより、業界における地位が入れ替わるほど多大な利益をあげることが可能な産業である。このことは三共株式会社の高脂血症治療剤「メバロチン」の例を見ればよくわかる。メバロチンは1989年に発売されたが、その有効性と既存薬に比べた副作用の少なさから、上市以来、日本の医療用医薬品の年間売上高でトップを維持し続けており(1999年現在)、また日本のみではなく世界数十カ国でも用いられている。これにより三共の業績は、メバロチン発売前の1988年の売上高が約3000億、営業利益率が約10%であったのに対し、1996年には、売上高は約4000億円、営業利益率は約21%と急上昇した。このような三共の業績の向上がほぼメバロチン1品によることから「メバロチン・インパクト」という呼ばれ方もされている。本論文の分析対象は、こうした特徴をもつ製薬産業の製品開発プロセスである。

 医薬品の製品開発の成功確率は、俗に「センミツ」といわれている。これは千の化合物から最終製品になるものは3つ程度であるという意味であるが、実際にはこの確率はもっと低く、日本製薬工業協会の調べによれば約6000分の1、アメリカの調査でも5000分の1程度である(日本製薬工業協会,1999)。このように成功確率が低く、その成功に偶然や運が大きな影響を及ぼすことから、医薬品の製品開発は宝探しのようなものであり、マネジメントが不可能であると言われてきた。

 しかしながら、医薬品の製品開発プロセスを調査し、分析した結果、プロセスの中にはこうした通説が当てはまらない部分があることがわかってきた。医薬品の製品開発プロセスは、新薬の源となる化合物を発見する「探索段階」と発見された化合物の有用性を確認し製品へと仕上げていく「開発段階」とに分けられるが、確かに探索段階については、本論文第4章の新薬開発の事例分析からも示されるように、通説でいわれていることが当てはまるようである。すなわち探索段階では、製品開発活動開始前の研究ドメイン設定や資源配分などについてはマネジメントが可能であるものの、製品開発が開始された後では化合物探索の成功は偶然や運に左右され、しかも製品開発活動は個人レベルで行われる。そのため、この段階における組織管理的なマネジメントの役割は限定され、成果が研究者個人の能力に依存するところが大きくなる。こうしたことから「マネジメントは不可能である」と通説のように言われてきたと考えられる。

 しかしながら開発段階について調査した結果、この段階は探索段階とは性格が異なり、製品開発活動は組織的に行われているし、化合物の代替案も数千から数個に絞り込まれていることから偶然や運の影響も小さくなる。そこでは研究者個人の能力ではなく、何らかのマネジメント・メカニズムや組織的な要因(能力)がパフォーマンスに直接影響を与えている可能性があることがわかってきた。実際、日本の製薬産業を見てみると、開発段階で重要な意味をもつ臨床試験に関しては、探索段階で新薬の候補品を発見した非製薬企業が臨床試験を行おうとする場合や、海外企業やその子会社が日本で臨床試験を行おうとする場合に、臨床開発力の高い企業をパートナーとして選択しているという事実があり、企業間に能力差があることがうかがえる。

 そこで本論文では、組織的な要因が相対的に重要であると考えられる臨床開発段階に焦点をあて、従来明確にされてこなかった医薬品の製品開発プロセスにおける組織能力および効果的な製品開発パターンを明らかにし、さらに、そうした組織能力に実際に企業問で差が見られること、パフォーマンスに影響を与えることを統計分析および事例分析をもとにして示すことを試みる。

 具体的には、上記のような研究課題に対して、まず第1章において、本論文の研究領域である製品開発管理に関する既存研究と本論文の分析対象である医薬品の製品開発に関する既存研究のレビューを行う。前者のレビューでは、1960年代から本格的にはじまった製品開発研究の歴史を概観し、製品開発研究が「グランド・アプローチ」→「フォーカス・アプローチ」→「プロセス・アプローチ」→「製品・産業特性アプローチ」というように研究の主流(マジョリティ)が変遷した点に特徴があり、本論文は「製品・産業特性アプローチ」に位置づけられることを示す。後者のレビューでは、従来、製薬産業の製品開発を対象とした研究では、本論文で試みたように製品開発プロセスに焦点を当て、効果的な製品開発パターンや組織能力について検討した研究が行われていないことを示す。

 第2章では、医薬品の製品開発特性を、他産業とも比較可能なより抽象度の高いレベルでとらえるために本論文で分析視点として取り上げる、「問題解決モデル(problem solving mode1)」について検討する。問題解決モデルをフレームワークとして他産業と比較すれば、医薬品の製品開発は、問題解決における「サーチの幅」と「シミュレーションの深さ」に関して、「幅広いサーチ」と「詳細なシミュレーション」の両方を同時に要求される点に大きな特徴があることを示す。

 第3章では、医薬品という製品、製品開発プロセスの特徴、およびそれらが製品開発に与える影響について概観する。製品特性に関しては、医薬品は生命関連の製品であるため、臨床試験のようなきわめて詳細なテスト(シミュレーション)が必要とされること、また、医薬品は製品の構造一機能の因果関係がきわめて複雑なため、製品開発の成功確率がきわめて低くなっていることなどを議論する。製品開発プロセスに関しては、問題解決の視点からとらえた場合、サーチとシミュレーションのバランスが、川上ではサーチの比重が相対的に高く、川下の臨床開発段階ではシミュレーションの比重が相対的に高いこと、さらに川下では、問題解決手段が化合物を次の段階に進めるか、あるいは開発を中止するかの「go or no-goの判断」しかないという点が特徴的であることを示す。

 第4章では、三共のメバロチンの事例を取り上げ、実際の医薬品の製品開発プロセスにおける問題解決活動を概観するとともに、医薬品の製品開発マネジメントに関する「通説」の妥当性を確認する。メバロチンの事例分析より、探索段階では、探索(サーチ)活動の成功は偶然や運に影響され、また研究者個人の能力や努力に依存する部分が大きいことから、通説で言われてきたように、組織管理的なマネジメントが難しい(役割が限定されている)ことが示される。

 第5章では、本論文の問題意識にしたがって、通説とは異なり、組織的な要因が相対的に大きくパフォーマンスに影響を与えると考えられる川下の臨床開発段階に焦点をあて、従来明確にされてこなかった医薬品の製品開発プロセスにおける効果的な製品開発パターンおよび組織能力について検討する。日本の大手製薬企業を対象とした調査および公表データをもとにした統計分析より、医薬品の臨床開発段階においては、「大きく網をはってタイミング良く一気に絞り込む」という化合物選択パターンが有効であり、それを実現する上で必要とされる「go or no-goの判断能力」と「プロトコル・デザイン能力」が重要な組織能力であること、また、これらの能力に実際に企業間で差異が見られ、製品開発パフォーマンスに影響を与える可能性があること示す。

 最後の第6章では、第4章および第5章の分析で明らかとなった探索段階と開発段階の製品開発特性の違いをより明確にするために、医薬品の製品開発プロセスを、問題解決モデルの一種である「組織的意思決定の分析モデル」を用いて整理し直す。モデル分析より、川上の探索段階には「ゴミ箱モデル」が符合し、川下の開発段階には「近代組織論的モデル」が符合することを示す。

 冒頭で述べたように、従来、医薬品の製品開発に関しては、製品開発プロセスに焦点をあてた議論がほとんど行われなかったため、そこにおける効果的な製品開発パターンや組織能力については十分明らかにされていなかった。それに対して本論文では、日本の大手製薬企業を対象としたインタビュー調査や事例分析、統計分析を通して、医薬品の製品開発プロセスの臨床開発段階においては、「大きく網を張ってタイミング良く一気に絞り込む」パターンの化合物選択が効果的な製品開発パターンであり、それを実現するための「go or no-goの判断能力」と「プロトコル・デザイン能力」が重要な組織能力であることを明らかにした。これが本論文の主たる貢献である。

 製薬産業の製品開発を対象として得られたこうした知見を、他産業との比較を考慮して、より汎用性(抽象度)の高い「問題解決(problem solving)」の視点からとらえ直せば、製薬産業は、「幅広いサーチ」と「詳細なシミュレーション」の両方を同時に要求される点に大きな特徴がある。製品開発管理研究の「製品・産業特性アプローチ」における中心的論点である「効果的製品開発パターンの産業間比較」の議論への貢献可能性を考えれば、本論文では、こうした特徴をもつ産業における効果的な製品開発パターンと組織能力を明らかにしたといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は6章構成で議論を進めている。

 まず弟1章で製品開発管理に関する既存研究と医薬品の製品開発に関する既存研究のレビューを行っている。1960年代から本格的に始まった製品開発管理に関する研究には、(1)「グランド・アプローチ」→(2)「フォーカス・アプローチ」→(3)本論文も属している「プロセス・アプローチ/製品・産業特性アプローチ」というように、研究の主流派が変遷していくという特徴があることを指摘している。また医薬品に関しては、効果的な製品開発パターンや組織能力について検討した研究が行われていないことも指摘している。

 この論文では、研究開発プロセスを問題解決プロセスとして分析するが、第2章では、問題解決プロセスについて検討し、第3章では、問題解決プロセスのサーチとシミュレーションのバランスという視点から、医薬品の製品開発プロセスの特徴を概観している。医薬品の製品開発プロセスは、新薬の源となる化合物を発見する川上の「探索段階」と、発見された化合物の有用性を確認し製品へと仕上げていく川下の「臨床開発段階」とに分けられるが、川上ではサーチの比重が相対的に高く、川下ではシミュレーションの比重が相対的に高いと特徴付けている。医薬品は製品の構造-機能の因果関係がきわめて複雑なために、川上の探索段階では不確実性が高く、探索の成功確率もきわめて低い。それに対して、川下の臨床開発段階では、化合物を次のステップに進めるか、あるいは開発を中止するのかの「go or no-goの判断能力」が重要になるという。これは、医薬品の開発プロセスでは、段階が進むにつれて研究開発費が高くなる一方で、臨床開発候補品の決定以降は基本的に化合物の修正が行われないという特徴があるためである。

 第4章では、川上の探索段階の事例として、業界での成功例として有名な三共のメバロチンの開発プロセスが詳細に取り上げられ。メバロチンの探索段階では、サーチの成功は偶然や運に影響され、また研究者個人の能力や努力に依存する部分が大きく、そのため経営管理的なマネジメントが難しいという「通説」が妥当であると結論している。

 ところが、川下の1臨床開発段階になると、通説とは異なり、組織的な要因がパフォーマンスに大きな影響を与えるようになる。第5章では、日本の大手製薬企業を対象とした調査および公表データをもとにした統計分析によって、臨床開発段階においては、「大きく網をはってタイミング良く一気に絞り込む」という化合物選択パターンが有効であり、それを実現する上で必要とされる「go or no-goの判断能力」と「プロトコル・デザイン能力」が重要になることが示される。これらの組織能力は企業間で差異が見られ、製品開発パフォーマンスに影響を与える可能性があることも示される。

 第6章では、第4章と第5章の分析結果を説明するために、問題解決モデルとして「近代組織論的モデル」と「ゴミ箱モデル」を取り上げ、川上の探索段階には「ゴミ箱モデル」、川下の臨床開発段階には「近代組織論的モデル」が符合することを示している。

 補論では、企業内の製品開発から一歩踏み出して、日本の武田薬品と米国のアボット社といった潜在的・顕在的ライバル関係、すなわちゲーム理論でいうところの囚人のジレンマ状況にある企業同士が協調的に共同研究開発にたずさわった「戦略的提携」の事例をAxclrodの協調行動の進化モデルの視点から分析している。戦略的提携の関係は時間と共に質的に変化するものであり、実際の事例でも協調行動の進化モデルが指摘する「互恵性」と「高い未来係数」の2条件が重要だったことが明らかになる。

論文の評価

 この論文の貢献は、なんといっても「医薬品の製品開発は宝探しのようなものであり、マメジメントは不可能である」という通説を打破したことにあるだろう。従来は、その通説が壁となって、医薬品の製品開発プロセスに関する議論がほとんど行われないという状況が生まれていた。しかし、「マネジメントが不可能」であると言われている業界で、同時に「○○社は製品開発がうまい」ということも囁かれているという一見矛盾した事実もあったのである。この論文では、この一見矛盾した事実を、製品開発プロセスについての精確な理解をもとに、からまった糸を解きほぐしていくようにして解き明かしている。

 しかし問題点もある。第4章ではメバロチンの製品開発の一例だけから、川上の探索段階では「個人と偶然」が重要であるとあっさり結論付けてしまっているが、結論を出すにはもっと吟味が必要だったのではないだろうか。特に、前臨床段階までは、効能と安全性のバランスを見ながら化合物を選択していくプロセスがあり、そのためには、代替的なバックアップ化合物をうまく用意しておくようなノウハウ的なものがあるようにも思われる。またプロトコルに関しては、もっと具体的でわかりやすい説明が欲しい。おそらく、企業側が資料等を見せたがらない部分だとは推測されるが、そこはインタビュー等を駆使して、読者がプロトコルのイメージをできるだけ膨らませることができるように材料を用意して欲しかった。また論文全体の記述が製品開発に特化しているために捨象してしまっているが、「○○社は製品開発がうまい」ということの中には、本来は、その会社がもっているマーケティング能力であるとか資本力といったもっと生臭い経営の話が含まれていると考えるのが妥当である。論文全体の流れからすると枝葉かもしれないが、そうした経営の部分についても考察をしておく必要があったと思われる。

 また、さらなる展開が欲しかったポイントも散見される。節6章では、弟4章と第5章の分析結果を説明するために、問題解決モデルを取り上げ、川上の探索段階には「ゴミ箱モデル」、川下の臨床開発段階には「近代組織論的モデル」が符合することを示していることは興味深い。しかし、この論文では、なぜかゴミ箱モデルでいうところの「あいまい性」には言及していない。論文では、実際に、新薬の源となる化合物を発見する川上「探索段階」では、医薬品は製品の構造-機能の因果、関係がきわめて複雑で、技術的不確実性も高いとしているわけだから、もうー歩踏み込んだ「あいまい性」に関する論証が欲しかった。その上で、技術的不確実性や因果関係の複雑さといった「あいまい性」がきわめて高い川上ではゴミ箱モデルが当てはまり、「あいまい性」の低い川下では近代組織論的モデル、すなわち満足基準による探索型の意思決定モデルが符合するといったように整理すると論理的な構造がずっと明確になったと思われる。

 さらに欲を言えば、問題解決モデルとして、論文全体で、もっと大きな舞台設定を試みても良かったのではないだろうか。(1)決定理論ゲーム理論に基づいたナイーブな合理的な意思決定モデル、(2)近代組織論に基づいた限定された合理性をもとにした組織的意思決定モデル、(3)ゴミ箱モデルに基づいたあいまい性下の意思決定モデルの大きく3系統のモデルを取り上げる方がより一般的になり、その上で比較を行えば、より客観的な考察になりうる。例えば、Graham T.AllisonのEssence of Decision(1971)では、1962年に起こったキューバ・ミサイル危機を3系統の意思決定モデルにほぼ対応した分析モデルを用いて重層的に説明し、同じ事象でも、採用される分析モデルによって説明の仕方が変わることを使って立体惑をもたせて事象を解釈している。他方、第2章でも触れられているように、Lynn(1982)では、日米の各鉄鋼企業における新技術の導入過程を説明する際に、近代組織論的モデルとゴミ箱モデルのどちらが説明力が高いのかによって分析モデルを選択して、意思決定スタイルを分析している。この論文の場合には、第6章では、事例から(2)近代組織論的なモデルと(3)ゴミ箱的モデルを見出すようなLynn流のスタイルになっているが、あらかじめ、論文全体としてもっと大きな舞台設定を行っておけば、なぜAllison流の分析を採用しなかったのかについての考察が深められたのではないだろうか。

 そして、ここまで問題解決プロセスを分析しているわけだから、もう一歩踏み込んで、川上段階と川下段階では、必要とされる研究開発戦略の種類も異なることをより明確に打ち出すべきではなかっただろうか。ゴミ箱モデルが当てはまる川上の探索段階では、リード化合物を数千もの候補品の中から探すための「探索戦略」が重要になり、近代組織論的モデルが当てはまる川下の臨床開発段階では、いかに化合物を絞り込むかに関する「絞り込み戦略」が重要になる。この論文では、残念ながら、現在の製薬産業でのホット・イシューであるコンビナトリアル・ケミストリーとハイ・スループット・スクリーニングという新技術の影響が取り上げられていないが、こうした考察を行うことで、このような新技術の登場によって探索戦略が一変した理由や、「大きく網をはってタイミング良く一気に絞り込む」という化合物選択パターンが製薬産業において理想的な絞り込み戦略といわれる理由が解き明かされるはずである。

 もっとも、こうした研究の展開可能性については、桑嶋氏自身も気づいており、既にいくつかの研究がまとめられつつあるとも聞いているので、今後の桑嶋氏の研究の成果を大いに期待したいところである。

 参考までに申し添えると、この論文の第4章が元にしている論文は『研究技術計画』に、第5章が元にしてしる論文は『組織科学』に掲載されている。いずれも評価の高いレフェリー付き学会誌であり、学会で高い評価を得ている。

 もちろんこの論文にも、既に指摘したような問題点や不満はある。しかし、こうした問題を残しているとはいえ、この論文が「マネジメントが不可能」といわれてきた医薬品の製品開発の分野で、従来にはない画期的な貢献をなしていることは事実であり、また、今後、発展の可能性があるいくつかの領域への道を拓いたことは評価に値する。

 以上により、審査委員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

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