学位論文要旨



No 115787
著者(漢字) 大田,省一
著者(英字)
著者(カナ) オオタ,ショウイチ
標題(和) 仏領期ベトナムにおける建築・都市計画の研究
標題(洋)
報告番号 115787
報告番号 甲15787
学位授与日 2001.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4831号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤井,明
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 曲淵,英邦
内容要旨 要旨を表示する

 本論文はフランス植民地時代(仏領期)のベトナム(現在のベトナム社会主義共和国)について、建築と都市計画の推移の状況を、ハノイを中心に取りあげる。ここでいう仏領期とは、1873年のフランス軍によるハノイの占領から1945年のインドシナ連邦の崩壊までの期間をさす。

 分析にあたっては、フランスにより持ち込まれた建築、都市計画が、現地でどのように変容していったか、という視点を中心として論を進めていく。フランス人が植民地支配の際につくった建築が、現地の実状と直面するなかで変容していく過程とともに、建築(architecture)という概念が、フランス側に独占的に存在していた段階から、次第に現地人にも共有されていく過程を考察する。ハノイを中心とした仏領インドシナの建築、ハノイの近代都市史の通史の記述を通して、都市形成の過程と建築表現の変遷における新しい事実の発掘を目指し、その過程での文化事象としての建築設計、特に伝統建築の概念の形成過程、ベトナム人が建築を受容し発展させていく過程にも配慮して、論を進めていく。

 インドシナのなかでも、ハノイは連邦首都として優先的に開発が行われた。総督府の所在地としての政治的中心、大学等の研究期間が集中的に存在したことで文化的な中心としての地位を占め、都市計画、建築の面でも活動の中心であり、インドシナの建築界の動向を最もよく反映している。ベトナム各都市で実施した「近代建築悉皆調査」でも、ハノイの近代建築が、時代的変遷を最もよく表していることが判明した。このため本論では主にハノイを舞台として取り上げていくが、適宜他の都市にも言及して、インドシナの都市、建築の状況を明らかにしていく。

 本論は5章よりなる。第1章は、フランスのハノイ進攻当時から仏領インドシナが崩壊する1945年までの、建築の変遷を取り上げる。第2章では、開港地建設当初からの都市建設の過程を取り上げる。第3章では、現地人地区の変容を取り上げる。現在「36通り地区」と呼ばれている地区は、植民地時代は現地人街と呼ばれ、王朝時代から今にいたるまで、ハノイの中心商業地区である。この地区の植民地時代の変容に関して述べていく。さらに現地人居住に関することとして、新規につくられたベトナム人地区の問題も取り上げる。第4章はフランス人のベトナム建築の調査・研究のなかで伝統建築という概念ができる過程、この伝統文化をみる視線が、街並みにも向けられていくことについて述べる。第5章では、フランスの建設事業にベトナム人が取り込まれていって、ベトナム人建築家が誕生する過程、彼らの活躍と、ベトナムの建築界で果たした役割について考察する。

第一章では、植民地期の建築家の作品とその背景・理念について考察した。

「1-1」では、入植期からの建築家の使命を中心に考察した。

「1-2」では、エブラールの建築とその理念を明らかにし、その同時代的、また近代建築史上の意義を考察した。

「1-3」では、40年代に活躍したモダニストたちの活動をのべ、その時代背景と建築表現の直接的な繋がりを明らかにした。

 植民地の建築は、その歩みのなかで数度にわたって、その目指すところを変えている。

 開港時の実用的建築物から、植民地の発展を象徴するような本格的様式建築へと移っていく。フランス的世界を東洋へと移植することに力が注がれる。その後は本国とは別個の文化に注目した建築家による独自の建築表現の時代、さらに気候・風土に適合した、現地事情に直面した建築をつくる時代へと移っていく。

第2章では、ハノイを中心としてフランス植民地時代の都市建設について述べた。

「2-1」では、サイゴンを進出基地としてハノイにきたフランス人が、都市を建設していく様子を描いた。

「2-2」では、本国の近代的都市計画の伝道者エブラールの業績と、その背景であり結果でもあった20年代の都市拡張について述べた。

「2-3」では、政権の求めに応じて活動した40年代の計画家達の仕事について述べた。

20年代のようにひとりの天才の「神の眼」によって都市がつくられるのではなく、実業的な官僚達によって都市が建設される様子を明らかにした。

 フランスによる植民地支配は、フランスによる開発の過程である、ということが喧伝されていたが、都市計画は中でもその開発の成果が人々の目につきやすい所業であった。

 ハノイでの植民地都市の建設は、王朝時代の都市構造を読み換え、新たな構造体を上書きしていく作業であった。当初はグリッド街路による市街地が建設され、整備計画自体はあったものの、都市というよりは入植地の趣であった。

 都市空間は時の為政者にとってはプロパガンダの場でもあり、ハノイにおいてはドゥメ一ル治下での街路空間の演出がその例である。

 このような政権と都市計画の関係は、本国で誕生した、新たな都市計画の概念が広まると、より大々的に実施される。都市計画には強権的な指導力が必要であり、植民地都市はそのような条件を満たしていた。計画家の側にとっても、植民地都市はプランの実験の場となったのである。ロンとエブラール、ドクーとセルッティ、ピノーの関係は、都市計画のパトロンとプランナーの密接な関係の実例である。プランナーは、パトロンの夢のアニメーターとして活躍した。

第3章では、現地人街の植民地化後の変容と、統治する側の意識の変化と、統治される側の生活変化によって誕生した新ベトナム人地区の実際を詳述した。

「3-1」では、かつて商人街と呼ばれた現地人街が、フランスによる都市改造を経てファサードから南部まで干渉されていく様子を記述した。この過程では衛生概念が、現地人街を囲い込んでいく様子を明らかにした。

「3-2」では、現地人がその囲い込みを出て、新たな地区で新たな住宅をつくりあげていく様子を明らかにした。社会事業としてフランス人の側でも現地人住宅の問題に取り組んでいたことが明らかになった。

第4章では、ベトナムの建築の中に伝統概念が形成されていく過程と、その中での建築研究の果たした役割を述べた。

 現地人街は、開港時よりフランスによる改造を受け続けてきた。街区整備の理由には、現地人の衛生状態への配慮という風にアピールされていたが、他方、フランスにとっての管理しやすいかたちへの改変でもあった。これに合わせて住民組織も再編成される。現地人街の改編は、フランスによる間接統治の手段でもあった。

 衛生概念の進展自体も、現地人家屋、現地人地区を規定していった。

現地人街は囲い込みに遭うように枠をはめられたが、これも衛生概念が理由であった。

一方で現地人の側でも、時代の変化に合わせて家屋、街区の様相を変化させていく。柔軟にライフスタイルの変化に合った住宅プラン・スタイルを選択していった。

第4章では、ベトナムの建築の中に伝統概念が形成されていく過程と、その中での建築研究の果たした役割を述べた。

「4-1」では、探検趣味からはじまるフランス人の調査が極東学院の設立に結実し、そこでの調査研究でベトナムの在地建築が「歴史的記念物」という枠をはめられ対象化されていくことを述べた。ただ、ベトナム人にとっては寺院は生きた施設であり、寺院のその面をもフランスが管理しようとしていたのである。

「4-2」では、その伝統への視線が、街並みにも向けられていくことを述べた。「歴史化するシステム」は、古建築のみならず、様々なものに向けられ、そのひとつとして街並みが挙がったのである。この街並みをみるまなざしは、衛生概念とともに、現地人街に意識の上での枠をつくっていったのである。「現地人街」は、こうして誕生したのである。

 伝統とは、須らく近代知の発明である。

植民地では、観察者としての本国と、観察対象としての現地という、明確な視線の構図ができていたため、伝統という概念も容易に浸透していったと思われる。そうして、この2者の視点はそれぞれの側に固定されていたものではない。現地人の側にも、宗主国の側の視点を宿す人々が現れてくるのである。伝統建築を訪れ、現地人街を散策するベトナム人は、当時もはや特殊な存在ではなかった。

第5章では、ベトナム人建築家が誕生するまでの背景とその制度について述べた。

「5-1」では、植民地統治システムに取り込まれながらも、基礎力をついでいった現地人の動きについて明らかにした。このような助走期間があってこそ、民族の建築家が誕生してくるのである。

「5-2」では、現地人建築家の教育にあたったインドシナ高等芸術学院の設立背景と、その卒業生の果たした役割について述べた。植民地期のこのような動きがあって、建築がベトナム人へと伝授されたのである。

 植民地統治のなかで現地人を活用することは、20世紀初頭から実施され、建築関連では公共事業局での採用がこれにあたる。補助的な業務ではあったが、現業部門で経験を積み基礎的技術を習得する機会があったことは、新たな活躍の場にも備えることができたのである。

 現地人官僚に建築表現の契機を与えたのは、文化活動団体のAFIMAであった。この団体が主催した建築コンペは、フランス一辺倒であった建築デザインにベトナム風意匠を取り入れる契機となった。

 インドシナ高等芸術学院において現地人建築家が育つまでに至ったことは、このような伏線があって初めて可能になったといえる。ここでの教育には政庁建築家によるフランス本国のデザインと、極東学院の建築家による在地伝統建築の2通りの建築について教えられていたことが、その後のインドシナ建築界でのモダニズムとアンナン様式の、2通りのデザインの流行につながっていく。

 全時代を通じて、都市ハノイは、フランスの政策の影響を如実に反映していた。社会的背景からはいかなる建築家も逃れられないが、植民地インドシナでは、その社会の空気には本国政府のコントロールが強く作用していた。フランスは植民地の従属を最後まで求めていたのである。中央集権的に官僚建築家によってつくられたハノイの街にはそれが顕著に反映される構造になっていたのである。フランス植民地時代のハノイはまさに、フランス統治の試行錯誤の舞台だったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はハノイを中心とした仏領期ベトナムの建築・都市計画について、現地でのその受容と変容過程の特質を解明したものである。

論文では、まず現地の建築、都市計画を時間軸を追って記述し、その変遷を明らかにしている。植民地期の建の変遷は以下のように述べられている。まず入植段階では速成的簡易建築物が建てられ、植民地統治の橋頭堡の確保のために供された。現地平定が一応の完了をみた後は、都市基盤形成のために本格的様式建築が移入され、フランス化が進展していく。本国の学術の進展により異文化への理解が進展すると、現地の伝統建築の意匠を取り入れた「インドシナ様式」の建築家が本国一流の建築家により考案される。モダニズムは、30年代になってから、植民地の近代化を体現したものとして持ち込まれ普及していった。都市計画については次のように述べられている。統治の最初期には軍技師により租借地が建設され、街路が順次敷設されて入植地の骨格が形成された。

近代的都市計画の導入により都市の全体をコントロールしようという態度が生じ、20年代と40年代の2度にわたって都市計画プランが立案されたが、現地人政策の進展など時の植民地政策の段階に従ってその様相は変化していった。この間、建築と都市計画は連関して政権の意図に応えたが、これはその統括組織としての公共事業局の存在が大きな役割を果たしている。インドシナの建築界については、この部局が一貫して官主導で制御していたことが特徴として挙げられている。

 植民地時代の都市ハノイの変貌の中でも、現地人街(現「36通り地区」)の変容過程については詳細に考察している。入植期の様子は、フランス人の探訪記の記述を中心に再構成されている。その上で、フランスの立案した都市改造を紹介し、街路構造、住居プラン等にまで当局の介入があったことを立証している。この過程では、公衆衛生の概念が中心となって建築規制が実施され、街屋の形態、街路景観をも一変させたことが述べられている。また、フランス人の側でも社会事業として現地人住宅の問題に取り組む動きも出てきた。低所得者層向け住宅は在地の材料・工法でつくるという、住戸設計の可能性を示した。新興勢力である現地人中間層には、行政当局による「廉価住宅(HBM)」の制度がつくられ、新たな宅地開発が実施された。植民地統治の進展により現地人のライフスタイルも変化し、これに呼応した新現地人地区の様子についても調査されている。在来の街屋の構成を踏襲しつつも当時の建築デザインの潮流を取り入れたものがつくられたが、その実態を現地調査により明らかにしている。

 現地との接触は、文化面ではフランスの異国趣味を覚醒させることとなり、在地の古建築の調査が進行する。

アンコール遺跡を初めとするインドシナの文明を専門に研究する機関として「フランス極東学院」が設立された。

この中から、現地文化を定式化して「伝統文化」とする態度が生じ、在地の寺社を伝統建築として保護しようという動きが起こる。極東学院による調査研究が進められ、文化財として修理保存が図られた。この伝統建築という概念は、建築設計における「インドシナ様式」の考案、現地人街の街並み保存、ベトナム人への建築教育、といった広汎な分野へと影響を及ぼした。

ベトナム人への建築教育は、まず下級職から始まり、その後「インドシナ高等芸術学院」に建築学科が設立され正式な教育を受けた現地人建築家が誕生するようになる。これは、植民地統治における現地人を活用した間接統治、現地人取り込みのための現地人エリートの育成に、それぞれ対応している。

 フランスの側では、常に現地に枠をはめようとしており、伝統文化、公衆衛生という概念がその都度召喚され、宗主国と植民地の間の絶対的な距離を固定していた、と本論では述べられている。この2者の間の距離が、植民地という独特の空間を演出していた、とし、この絶対的な価値の存在が建築表現に影を落としたのが植民地の建築の特徴であった、と結論を提示している。

 このように、本論文はハノイという一個の都市を主な事例としつつ植民地の建築・都市の問題を幅広く採り上げており、植民地の建築とは何か、という敷衍化した問いにも応えようとしたものである。宗主国と植民地の関係について多くの事例について例証を試みており、植民地の文化事象に関する考察として関連する分野にも貴重な事例を提示することが可能となった。この論文のために実施した調査も、ベトナムにおける史料調査、実測、聞き取り調査、フランスでの史料調査など、精力的に実施され、ここで収集された資料はベトナム、フランスをはじめとした諸外国における先行研究を凌駕するものと認められる。アジア近代の建築・都市研究は、各国にて着手されており、本論文にて示された論考は他の国・地域を対象とした研究に対しても多くの事例を提示できる。

従来我が国においては採り上げられることのなかった地域を対象とし、充実した調査による詳細な分析によって、新たな知見を開き、今後の研究の発展に資するところが大きいと認められる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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