学位論文要旨



No 115793
著者(漢字) 松井,広
著者(英字)
著者(カナ) マツイ,コウ
標題(和) 視覚情報処理の初期過程 : 網膜内網状層におけるシナプス伝達機構の解析
標題(洋)
報告番号 115793
報告番号 甲15793
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第311号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 助教授 横澤,一彦
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 教授 長谷川,壽一
内容要旨 要旨を表示する

 外界の光情報は、眼球の光学系を介して、網膜に二次元的に投影される。光情報の様々な側面が網膜の段階で処理されていることは、精神物理学的手法や電気生理学的手法等で次々と明らかにされつつある。しかしこのような情報処理が、網膜の神経回路においてどのようにして実現されているのかに関しては未知の部分が多く残されている。本研究は、視覚系における初期情報処理のメカニズムを明らかにする目的で、網膜の神経細胞間で働く作用を、神経科学的手法を用いて検討した。

 第一章では、網膜研究の現状を分析し、問題点を指摘した。神経細胞同士はシナプスという特殊な構造をした結合部位において、情報の受け渡しを行なっている。したがってシナプスにおける情報伝達の様式を解明することが、神経回路における情報処理の実態を理解するための第一歩である。本研究では、特定のシナプスを分離して解析するために、二細胞同時記録法や薬理学的手法を適用した。

 第二章では、イモリ網膜の双極細胞と神経節細胞に対して同時にホールセル・パッチクランプ法を適用し、両細胞間のグルタミン酸作動性シナプス伝達に関して調べた。実験の結果、(1)双極細胞のCa2+チャネルの開閉に依存してグルタミン酸が伝達物質として放出されること、(2)双極細胞からのグルタミン酸放出は比較的持続的に生じること、(3)双極細胞からのグルタミン酸放出によって神経節細胞の非NMDA型受容体とNMDA型受容体という非常に特性の異なった二種類のグルタミン酸受容体が活性化されることなどが明らかになった。双極細胞からの比較的持続的なグルタミン酸放出に対して、素早くかつ持続的に追随するために両受容体を神経節細胞に用意していることが示唆された。またこれらの実験結果を整合的に説明するために、(4)非NMDA型受容体はグルタミン酸放出部位の直下に存在し、NMDA型受容体はやや離れた位置に存在するというモデルを提案した。神経節細胞に存在するグルタミン酸受容体の種類とその空間的配置が二細胞間のシナプス伝達特性を決定するのに極めて重要であると考えられる。

 第三章では、双極細胞から放出されたグルタミン酸がシナプス間隙から除去される仕組みに関して検討した。双極細胞からいったん放出されたグルタミン酸がいつまでもシナプス間隙に残っていては、次の信号をうまく伝えることができない。網膜の双極細胞-神経節細胞間のシナプスにおいて、グルタミン酸トランスポーターによるグルタミン酸の取り込みという能動的過程がグルタミン酸の除去に関与する可能性を検討した。その結果、(1)双極細胞から自発的に少量のグルタミン酸が放出される場合は、グルタミン酸の取り込みを薬理学的に阻害しても神経節細胞の応答波形は変化しなかったので、グルタミン酸は受動的拡散によって速やかに除去されることが明らかになった。一方、(2)双極細胞に脱分極刺激を与えて多量のグルタミン酸が放出される場合は、神経節細胞に生じる応答の非NMDA型ならびにNMDA型受容体を介する成分はともにグルタミン酸取り込み阻害剤投与時に減衰が遅くなったので、グルタミン酸トランスポーターの関与が証明された。グリア細胞にこの種のトランスポーターが大量に存在することが知られている。したがって単純に双極細胞と神経節細胞という二つの胞間の情報伝達のみに注目した場合でも、グリア細胞という第三の細胞が伝達を調節する役割があることが明らかになった。

 第四章では、イモリ網膜からマウス網膜に標本を切り替えて実験を行なった。神経回路における情報処理の各過程を分解し、様々な分子・タンパク質が各過程にどのように関与してくるのかを明らかにするためには、分子生物学的研究が進み様々な遺伝子操作が適用されているマウスを被験体とするのが有利であると考えたからである。網膜内網状層におけるシナプス伝達を解析した結果、(1)非NMDA型・NMDA型受容体の局在の違い、(2)グルタミン酸の漏出、(3)非NMDA型受容体の脱感作などに関する仮説が再び支持されることになった。さらに、(4)双極細胞へのGABAc型受容体を介した抑制性フィードバック回路があることが明らかになった。このような抑制性フィードバック回路が双極細胞からのグルタミン酸放出量を調節しており、放出量に応じて漏出の程度や脱感作過程が制御されることが示唆された。

 このような一連の実験により、網膜内網状層における双極細胞とそのシナプス後細胞間の情報伝達の様式が明らかになった。本研究によりいったん分解されたシナプス伝達の諸過程をシミュレーション等によって再統合し、視覚情報が細胞活動に符号化される際に、これら複数の過程のそれぞれがどのように関わってくるのかを調べることが今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、視覚系における初期情報処理過程について、脊椎動物網膜に神経科学的手法を適用して解析したものである。時空間コントラストの増強や運動方向の検出が網膜の段階で既に処理されていることは、精神物理学的手法や生理学的手法等で明らかにされつつある。しかし、このような情報処理が、網膜の神経回路においてどのようにして実現されているのかに関しては未知の部分が多く残されている。

 第一章では、従来の網膜研究の問題点を指摘すると共に、特定の神経細胞間の情報伝達(シナプス伝達)を分離して解析する新たな方法として二細胞同時記録法と薬理学的手法を提案している。第二章から第四章では、イモリとマウスの網膜を使い、双極細胞からの伝達物質(グルタミン酸)の放出・受容・除去に関して詳細な実験的検討を行った。その結果、グルタミン酸はCa依存性に持続的に放出されること、放出されたグルタミン酸は神経節細胞において性質の異なる二種類のグルタミン酸受容体を活性化させて応答を発生させること、放出されたグルタミン酸は受動的な拡散のみならずグルタミン酸トランスポーターによって能動的にシナプス間隙から除去されることを明らかにした。また、双極細胞からのグルタミン酸放出はアマクリン細胞からの抑制性フィードバックにより制御されることも見いだした。これらの実験結果を整合的に解釈するために、グルタミン酸受容体とグルタミン酸トランスポーターの空間配置や抑制性フィードバック制御機構を含めたモデルを新たに提案した。第五章では、これらの実験結果に基づき、将来の展望を述べている。

 本論文は、網膜内網状層におけるグルタミン酸作動性興奮性シナプス伝達様式と抑制性フィードバック制御を明らかにした点、グルタミン酸受容体のキネティクスと空間分布やグルタミン酸トランスポーターを考慮に入れた新たなモデルを提案した点で高く評価することができる。このモデルの妥当性に関しては形態学的な証明が今後の課題として残されていること、シナプス伝達様式と初期視覚情報処理機能とを関連づけるにはさらなる研究の集積とシミュレーションが必要なことなどの問題点が指摘された。しかし、本論文は極めて高い水準に達しており、網膜研究に新たな展望を切り開いた。以上の点から、審査委員会は、本論文が博士(心理学)の学位に値するとの結論に達した。

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