学位論文要旨



No 115801
著者(漢字) 鴨下,まり子
著者(英字)
著者(カナ) カモシタ,マリコ
標題(和) 社会主義シオニズムとアラブ問題 : ベングリオンと労働運動における民族分離主義の軌跡 (1905-1939)
標題(洋)
報告番号 115801
報告番号 甲15801
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第286号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 長沢,栄治
内容要旨 要旨を表示する

 イスラエル初代首相ベングリオンをはじめとする社会主義シオニストが1948年のイスラエル建国の際にアラブ人を難民化させる道を選んだ事は、彼らの奉じていた「社会主義」の内実がどの様なものであったのかという疑問を我々に抱かせる。本論文はこの様な問題意識から発して、5000ページ以上に及ぶヘブライ語の一次史料に基づき、イスラエルの国民社会を統合するイデオロギーとなった社会主義シオニズムがアラブ問題とかかわる中で明らかにした性格とその変容を、イスラエル建国を指導したベングリオンと労働運動における民族分離主義の軌跡を追う事によって思想史的に明らかにしたものである。

 この論文は単にアラブ問題に対するベングリオンの態度を検討するにとどまらず、それを通じて普遍性と民族的特殊性を併せ持ったベングリオンと労働運動の「社会主義」の構造とその変質を掘り下げ、更にその変質を可能にした根本的要因に関心を向けたところに特徴がある。また論文全体を通じて労働運動と、建国後のリクードの源流となる修正主義運動のアラブ問題をめぐるイデオロギー的接近と収束に注目しており、後のイスラエル政治におけるアラブ問題に関するコンセンサスのあり方を照射する内容となっている。

 第1章では、社会主義シオニズムにおける民族分離主義の源流を主に第一革命期のロシアに求め、その流れをロシア領ポーランドに生を受けたベングリオンの<異端の社会主義者>としての精神形成と交錯させつつ、ベングリオンらがパレスチナの「アラブ問題」に直面する中でその民族分離主義が顕在化していった過程を描いている。後のイスラエル労働党の母体となるパレスチナ・ポアレイ・ツィオンは「最小限綱領」をシオニズム、「最大限綱領」を社会主義であると規定したが、社会主義への道は必然的にシオニズムを通るというこの考え方は、ヘス、リーバーマン、ユダヤ人社会主義組織ブント、ボロホフの思想に見出され、ソ連の民族共産主義者の主張とも共通していた。特にボロホフは「生産諸条件」という独特の概念をもとに、プロレタリアートも階級闘争の基盤を得る過程でナショナリズムを持つと主張している。彼はユダヤ人労働者の階級闘争の基盤たるパレスチナにおける不可避の問題として早くもアラブ問題に注目したが、彼の議論の主眼は、アラブ人は民族ではなく文化的に優越したユダヤ人社会に同化するという点におかれていた。パレスチナにおいてユダヤ人は政治的自治を獲得するが、アラブ人は同化するか文化的自治にとどまるというボロホフの想定は、社会主義シオニストのアラブ問題をめぐる最大の矛盾を集約していた。

 一方、ロシア領プロンスクにおける幼少期にシオニストとしての精神形成を遂げたベンングリオンは、1905年初のワルシャワで社会主義と遭遇してポアレイ・ツィオンに加入し、1906年に第二次移民の一人としてパレスチナへ渡り、パレスチナ・ポアレイ・ツィオンの民族主義派の指導者として活動する。彼は入植地の一労働者としてアラブ問題をじかに体験しながら、党をロシア政治とは一線を画すパレスチナの地域政党に育て上げ、アラブ問題をめぐる党の民族分離主義路線を確立した。

 第2章では、社会主義的理念を含みながらも民族分離主義に強く制約されていた1920年代のベングリオンと労働運動のアラブ人との共存の模索を検討している。この共存の模索の背景には、委任統治国イギリスや多数派であるアラブ人の意向への配慮という現実的な要因があった一方、ロシア革命と国際社会主義運動のインパクトにより労働運動の中で活性化した労働者階級の団結への信頼と、1930年代には失われる事になる、普遍的な正義への志向という理念的な要素があった事は否定できない。ベングリオンはシオニズムの道徳性を強調しながら、アハドゥト・ハアヴォダー党とヒスタドルートの指導者として、労働組合などにおけるユダヤ人労働者とアラブ人労働者の連帯を通じて両民族の融和を図る事を訴えた。しかしその模索は、パレスチナへのユダヤ人入植の正当化と、成長しつつあったパレスチナ・アラブ人独自のナショナリズムへの過小評価に基づいており、労働組合における民族部門の維持や私的経済部門におけるヘブライ労働の堅持というシオニズム的制約を負っていた。この様な矛盾を鋭く指摘したのが1925年に修正主義運動を創始する事になるジャボティンスキーである。民族部門の維持という発想はベングリオンの政治的構想にも応用され、彼は1927年にパレスチナにおけるユダヤ人自治構想を提示している。それは自治による二つの民族の分離を想定した事において、次章で見るパレスチナ連邦構想の原型であった。

 第3章では、失われた共存の選択肢としてのパレスチナ連邦案を一次史料から再現し、その同時代的含意をオーストリア社会主義者の構想と比較しつつ考察している。1929年のアラブ暴動に衝撃を受けたベングリオンは、「積極的な内容に欠ける」としつつもパレスチナ・アラブ民族運動が存在する事を認めた。彼はアラブ人との社会経済関係の改善を主張したが、その一方でヘブライ労働の強化とイーシューヴの要塞化という強烈な民族分離のヴィジョンを打ち出している。

 この様な背景の下でアラブ問題の政治的解決策としてベングリオンが提示したのがパレスチナ連邦構想であった。それは<分離しつつも共存する隣人>とも言うべきユダヤ人・アラブ人関係を構想した現実主義的なものであったが、社会主義的理念とも無縁ではなかった。それはユダヤ人国家とアラブ人国家という二つの自治国家が連邦をつくる事を、決して明示してはいないが示唆する一方、全連邦レベルでの民族自治を保障している。民族単位ごとに自治体の領域を分ける事によって二つの民族に事実上の領土的自治を認めると共に、各自治体の内部にどうしても生じる少数派も文化的自治を享受できる仕組みとなっている。また自治国家を構成する州に法の制定権を与えるという高度の地方分権制度を通じて、民族自治によって分断されがちな「地域」の一体性を保つ工夫がなされている。これらの重要な特徴はオーストリア社会主義者の連邦構想を彷彿とさせる。この連邦案はアラブ人に対して文化的自治のみならず領土的自治を認めていた点で意義があったが、パレスチナに対するアラブ人の民族自決権を否定した点でシオニズムの限界を越えるものではなかった。結局連邦案はマパイ内部の討議により否決され、シオニズム運動全体の俎上に載せられる事なく潰えた。

 第4章は、1920年代から1930年代にかけて労働運動の民族分離主義を急進化させ、1920年代には曲がりなりにもその民族分離主義に歯止めをかけていた彼らの「社会主義」を変質させた長期的な要因としてヘブライ労働、キブーツ運動、「労働者民族」という独特の国民観の誕生に注目している。アラブ人に依存しない自己完結的なユダヤ経済をつくる運動に発展したヘブライ労働は、ベングリオンの思考の中でシオニズムの本質として捉えられ、1920年代の共存の模索と原理的に衝突する事になった。またベングリオンは階級闘争を民族的使命から逸脱したブルジョワに対する、民族の使者たる労働者の闘争として捉える一方、労働者もブルジョワもエレツ・イスラエルを建設する「労働」という民族的行為を共有する様になれば「労働者民族」の一員となり、階級対立を解消できると主張した。「労働者民族」という階級融和的なこの国民観は、アラブ人との階級的連帯の代わりに民族的対立を浮き彫りにし、将来の「国民」から彼らを排除する事の原理的な正当化につながった。またキブーツは「労働の征服」運動とイーシューヴの防衛を担う事によって、ユダヤ人とアラブ人の分離を可視化し、アラブ人のパレスチナからの移送という結論を導く上で大きな役割を果たしたのである。

 第5章は、これまでに検討した思考的変化が集積した結果として、アラブ人移送論が労働運動内で力を得ていく過程を論じている。移送論自体は以前からシオニズム運動内で地下水脈として存在していたが、ベングリオンは1930年代前半のパレスチナ・アラブ民族運動の劇的な成熟を前に、共存は可能であるという「幻想」を放棄し、移送論へ明確に傾いていく。ピール委員会がパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割し両国の住民交換を提案した1937年前後になると、シオニズム運動内で覇権を握っていた労働運動内部でも移送論が表面化した。ベングリオンが移送に対して概ね楽観的であったのに対し、対アラブ外交の担当者であったシェルトクが流血の惨事になるとして当初懸念を表明していた事は注目される。しかし1937年夏の時点では労働運動は移送を道徳的に正当化する点で一致していた。ベングリオンはこの頃将来のユダヤ人国家がアラブ人住民の移送に関与する構想を立てていたが、それはユダヤ機関執行部内で強制移送のコンセンサスができた時期とも重なっている。当時の彼の日記は彼が移送をめぐって葛藤を免れなかった事を示唆しているが、結局彼は1937年後半にはパレスチナ全土にユダヤ人国家を拡張し、国家のユダヤ性の確保の為に、抵抗するアラブ人住民を軍事力で追放する事を決意していたのである。

 総括すれば、パレスチナ難民の発生の重要な要因となったベングリオンの分離の決断がなされたのは1948年ではなくその約10年前であった。パレスチナ・アラブ人の追放という結末はベングリオンと労働運動の民族分離主義の論理的な帰結であったと共に、かつて1920年代に彼らがシオニズム的制約を受けながらも抱いていた、普遍的な正義の存在を前提とする社会主義的理念が変質した結果でもあった。

審査要旨 要旨を表示する

 別記5名の審査委員は、別掲の題目により提出された博士学位請求論文を審査した。論文審査の内容と論旨は以下の通りである。

 鴨下まり子の論文は、5000ページ以上に及ぶヘブライ語の公刊一次史料に基づいて、イスラエルの国民統合イデオロギーとなった社会主義シオニズムがアラブ問題と関わる中で浮かび上がった性格とその変容を、イスラエル建国を指導したベングリオンと労働シオニズム運動における民族分離主義の軌跡を追う事によって、思想史的に明らかにしようとしたものである。

 この論文が設定した具体的な問題は次の様なものである。すなわち、1948年にアラブ人を難民化させる道を選んだベングリオンら社会主義シオニストの奉じた「社会主義」の内実はいかなるものであったのか、そもそもシオニズムと社会主義という究極的に相克するイデオロギーはいかにして結合したのか。1948年におけるアラブ人の事実上の追放は、社会主義シオニズムの本質に由来するのか、それとも変質の帰結なのか。―イスラエル国民意識の形成と表裏一体の関係にあった民族分離主義の性格に迫る上で避けられないこれらの問いを、鴨下まり子はこの論文において、ベングリオンのアラブ問題に対するイデオロギー的態度の検討に大きな比重をおいて追求したのである。

 第1章では、社会主義シオニズムにおける民族分離主義の源流を、主に第一革命期におけるロシアの<異端の社会主義>に求めて考察している。第2章では、ベングリオンと労働運動が英国委任統治、頻発するアラブ暴動、ロシア革命と国際社会主義運動のインパクトという内外の情勢の下に、現実的考慮と社会主義的理念の両方から、労働者階級の団結を通じてユダヤ人とアラブ人の共存を模索した1920年代を扱っている。第3章では、1929年暴動の衝撃の下にベングリオンが提示したパレスチナ連邦構想という、失われた共存の選択肢に光を当てた。第4章は、ベングリオンらの民族分離主義に歯止めをかけていた「社会主義」を変質させた長期的な要因として、ヘブライ労働、キブーツ運動、「労働者民族」という独特の国民観の誕生に注目している。第5章は、これまでに検討した思考的変化が集積した結果として、アラブ人移送論が労働運動内で力を得ていく過程を論じている。この考察の結果、ベングリオンは、1937年後半には、アラブ諸国との全面戦争を覚悟の上でパレスチナ全土にユダヤ人国家を拡張し、国家のユダヤ性を確保する為に、アラブ住民を軍事力で追放する事を決意するに至ったことが明らかにされている。

 全体として、鴨下まり子の論文の結論は以下のようなものである。すなわち、パレスチナ・アラブ人の追放という結末は、ベングリオンと労働運動の民族分離主義の論理的・整合的な帰結であったと同時に、かつて1920年代に彼らがシオニズム的制約を受けながらも抱いていたような、普遍的な正義の存在を前提とする社会主義的理念が変質し形骸化するという、矛盾に満ちた不整合的な結果でもあったというのである。アラブ人との暴力による分離は、必ずしも必然的な結末ではなく、社会主義による諸民族共存の理念が多くの人々の心をとらえた時代を経験した社会主義シオニストが、葛藤を伴う「変節」の末に、共存も含めた複数の可能性の中から主体的に追求し選び取った道でもあった。社会主義シオニズムは、パレスチナのユダヤ人を「労働者民族」として階級融和的に一つの国民として統合するイデオロギーに変容した事と引き換えに、パレスチナ・アラブ人との共生の原理の喪失とそれに伴う流血、更には自国の拠って立つ民族自決原則と民主主義を根幹から動揺させるという、新生イスラエル国家の将来が負う事になる重い代償を払ったことを鴨下まり子は見事に描き出したといえるだろう。

 審査委員は個別の疑義に加えて、各自の中心的な問題関心について次のようなトピックを中心に鴨下まり子の見解をただした。中井和夫はベングリオンの連邦案とチェコスロヴァキア連邦との比較を通し、連邦構想における複数民族の平等性について。長沢栄治は、大岩川和正の仕事を継承した鴨下の業績に触れながら、「他者としてのアラブ」に関して。古田元夫は、民族間題と社会主義思想との関係について毛沢東やホーチミンとベングリオンとの比較を中心に。柴宜弘は、オットー・バウアーのオーストリア・マルクス主義とベングリオンとの関連について。最後に、山内昌之はエリート論や指導者論などの観点を含めた政治におけるリアリズムに関して。以上について、鴨下まり子は相応の具体的回答を試み、いずれの答も委員を満足させるに足るものであった。

 委員の本論文に対する評価は、「感動や感銘に値する論文」「研究史的に貴重な力作」「重要でありながら空白だった分野への貢献」という高いものであった。ポーランド語の地名表記への疑問、ごく一、二の助詞用法の間違いといった点も指摘されたが、全体としては問題とするに値しないというのが審査委員会の一致した見解であった。未公刊史料を使えなかったという限界はあるにせよ、ヘブライ語史料に取り組みながら天折した人文地理学の大岩川教授を継承する本格的なイスラエル地域研究の試みであり、この複雑な地域の解明にあたって公平かつ斬新な分析視角を提示できた点は高く評価される。以上を総合的に判断した結果、審査委員会は全員の一致した見解として鴨下まり子に博士(学術)の学位授与を相当と認めるものである。

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