学位論文要旨



No 115802
著者(漢字) 半谷,史郎
著者(英字)
著者(カナ) ハンヤ,シロウ
標題(和) ヴォルガ・ドイツ人の強制移住と自治区復活運動
標題(洋)
報告番号 115802
報告番号 甲15802
学位授与日 2001.03.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第287号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 塩川,伸明
内容要旨 要旨を表示する

 1941年8月28日、ヴォルガ・ドイツ人の強制移住が発表された。根拠とされたヴォルガ・ドイツ人の対ナチス・ドイツ協力の嫌疑は、全くの荒唐無稽だ。ドイツ人強制移住の意図は、有事の際の安全保障、スターリン体制特有の「疑わしき者は罰する」という予防措置から発したものだ。

 強制移住の準備の迅速さ、さらに大量のドイツ人を短期間で移住させる手際のよさは驚嘆に値する。1週間足らずで準備を終え、列車と船を使い、ドイツ人約45万人の移住を19日間で完了した。移住作戦の成功の背景には、過去の強制移住や大量粛清といった権力側に蓄積された弾圧の経験が大きな力を発揮している。ヴォルガ・ドイツ人自治共和国は9月7日に廃止された。強制移住によってドイツ人の痕跡は抹消され、地域経済は崩壊し、特に農業は壊滅的打撃を受けた。

 カザフスタンやシベリアに移住させられたドイツ人は、数世帯単位にまで細分化され、各地にまんべんなくばらまかれた。ドイツ人は戦時の人手不足を補う貴重な「無償の労働力」として歓迎され、遠隔地や人手不足の場所に優先的に送り込まれ、大部分は農業労働に従事させられた。1942年に入ると、ドイツ人が「労働軍」と呼んだ徴用が始まる。動員対象は次々と拡大し、労働可能なドイツ人はほぼ全員労働軍に組み込まれ、戦争の全期間にわたり、囚人とさして変わらない条件で建設現場や工場での労働を強いられた。

 ヴォルガの地で育まれたドイツ人の共同体は、強制移住によって完全に破壊された。周囲を非ドイツ語環境に囲まれ、労働軍のために家族すらばらばらになる状況下で、ドイツ人はいわば異民族の大海に点在する離れ島のような立場に追い込まれた。戦後一貫して進行するロシア社会への同化現象に象徴されるように、強制移住はドイツ人に大きな傷痕を残した。

 戦争が終わっても、ドイツ人の状況に変化はなかった。彼らは特別入植制度によって、移動を制限され、特別警護司令部の厳しい監視下に置かれた。1950年代に入ると、特別入植制度の移動制限の弊害、その経済的不合理性に関する認識が、末端の党組織から共和国レベルにまで共有されるようになった。これがスターリン死後、彼の後継者たちが特別入植の見直しに着手する下地になる。

 特別入植の解除では、いかに混乱なくそれを実現するかに関心が払われた。それでなくても労働力の不足する僻地のコルホーズや工場にとって、貴重な労働力であるドイツ人らの大量帰郷を引き起こす事態は、何としても避けなければならなかった。このため解除は、より安全と思われるカテゴリーから段階的に進められた。元クラーク解放での失敗から学びつつ、特命入植の対象者は着実に減少し、1955年秋には強制移住民族が残るだけという状態になった。1955年9月に始まった独ソ国交回復交渉という副次的要因もあって、ドイツ人は強制移住民族の一番手として12月に特別入植から解放された。強制移住から続いたドイツ人の「囚人扱い」はここに終止符を打ち、遅れ馳せながらようやくドイツ人の戦後が始まった。

 特別入植解除時のドイツ人の行動は、大きな分岐点だった。ドイツ人は当局の帰郷禁止の命令に従い、解除後も強制移住先に留まった。だが1956年2月の「フルシチョフ秘密報告」で言及され、特別入植から解放されたチェチェン人などは、当局の命令を無視し、大挙して帰郷の挙に出た。当局もこの動きを追認し、1957年1月に北カフカスの諸民族とカルムイク人の自治区が復活する。ドイツ人にも帰郷の動きはあったが、ごく少数に留まった。ドイツ人と北カフカスの諸民族との行動の差が何に起因するのか、俄には断じがたいが、一般によく言われるドイツ人の順法精神といったメンタリティーや、移住先の比較的豊かな暮しといった物質面の要因などが影響しているように思える。

 1964年8月および1972年11月のソ連最高会議幹部会令によって、強制移住の「ドイツ人=裏切り者」の嫌疑は取り下げられ、帰郷禁止の規定も廃止された。しかしいずれの決定でも、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の復活だけは認められなかった。このためドイツ人は、自治区復活を求める運動を展開した。1965年のモスクワ代表団は文化自治による問題対処を断固として拒否し、ソ連という属地的要素とドイツ文化の継承者という属人的要素を兼備した「ソ連ドイツ人」には自治共和国が不可欠だと訴えた。ドイツ人の領土自治の偏愛は、そこに社会に流布する「ドイツ人=裏切り者」のイメージを払拭する道徳的宣言の役割を見ていたからでもあった。

 変革への期待がしぼみ、ロシア社会への同化と民族文化消滅への危機感が強まる中で、1970年代に入るとドイツ出国希望者が急増した。優秀な労働力の流出を恐れた当局は、カザフスタンにドイツ自治区を設立する構想を密かにまとめた。しかし1979年6月、ツェリノグラードでカザフ人学生の抗議デモが発生し、構想は頓挫した。ペレストロイカ期にもヴォルガ・ドイツ人自治共和国の復活が検討課題に登ったが、ここでも地元サラトフの住民の反対によって構想は実現しなかった。

 ツェリノグラード、サラトフの両事件に共通するのは、独ソ戦の残響だ。強制移住によって産み落とされた「ドイツ人=裏切り者」という否定的なドイツ人イメージは、戦後も民衆の脳裏に温存された。これには、いくつもの要因が絡み合っている。まずドイツ人の強制移住への言及がタブー視されたため、歴史の無知が放置された。またソ連ドイツ人を移民とみなし、本国のドイツ人と同一視する風潮が一般に強かったため、ソ連ドイツ人の対独協力をありうべきことと信じさせる土壌が存在した。さらに多大な犠牲を払ってナチス・ドイツに勝利し、戦後の世界大国の地位を獲得したことが人々の自負心・誇りだったために、戦争の忌まわしい記憶、ナチス・ドイツへの敵愾心は風化することなく脈々と受け継がれており、この精神の基盤ともいうべき感情は、ソ連ドイツ人のナチス・ドイツとの同一視と結びつくことで、ソ連ドイツ人の否定的イメージをいっそう助長する役割を果たした。

 もちろん独ソ戦の残響は普段は内攻しており、日常生活の些事に現れることはあっても、大規模な攻撃的反応にまで発展することはない。だが特別な要素が触媒として加わると、内攻していたものに火が点き、時として爆発的な反応を引き起こす。

 信頼できる資料が少なく、断定はしにくいが、ツェリノグラード事件の触媒はカザフ民族主義だった。カザフ人の伝説的英雄の故郷を、独ソ戦の裏切り者、否定的イメージが染み付いたドイツ人に明け渡すという内容だったために、爆発的な反応につながった。学生主体だった一回目のデモはまだしも、数千人規模に膨れ上がった二回目のデモになると、年配の人々や独ソ戦の経験者が加わったこともあって、カザフ民族主義と「ドイツ人=裏切り者」のイメージが交錯した「父祖の地をファシストに渡すな」というスローガンや、ドイツ人の経済的成功に対する羨望が反発となった「やつらから家や車を奪え」というスローガンが聞かれた。

 一方、サラトフのドイツ自治区反対運動には、ペレストロイカという時代状況の影響が非常に強く現れている。ペレストロイカという触媒の特異性は、その両義性にある。歴史の見直しや「正義」の復活といった理念がヴォルガ・ドイツ人自治共和国復活を現実の課題に押上げる役割を果たす一方で、ペレストロイカの成果である自由な言論が逆に自治区復活反対運動をエスカレートさせ、自治区復活を頓挫させるという相反する側面を兼ね備えていた。1988年10月にソ連最高会議が復活支持の答申を取りまとめたが、サラトフの大多数の住民は自治区復活に反対した。1989年秋に始まったサラトフ地元紙での自治区問題の報道は、混乱や対立のエスカレートを引き起こした。サラトフ州で曲がりなりにも議論が成立したのは、エンゲリスだけだ。

 ペレストロイカの波及効果は、自由な言論だけではない。マスメディアで伝えられたソ連各地の民族紛争は、報道される事態が自分たちにも飛び火すると人々を震え上がらせた。ナゴルノ・カラバフなどでの流血の惨事やバルト諸国でのロシア人差別を、住民はドイツ自治区でも起こりうる出来事とみなしたし、大量の難民の姿は、ドイツ人の強制移住後に前線地域から疎開し、辛酸をなめた戦時中の記憶を刺激した。連邦共和国や自治共和国の独立が現実味を帯び始めると、ドイツ自治区が独立すればロシア市民でなくなってしまうといった噂も広がった。またソ連の経済状態が悪化するにつれ、金をちらつかせて自治区復活を達成しようとするドイツ政府の姿勢にも住民は感情的な反発を強めた。さらに、それでなくてもよくない住宅・雇用環境が、ドイツ人の移住でいっそう悪化するのではないかという不安も大きかった。

 自治区獲得の望みが潰えたことで、経済的理由も含め「ドイツ人」であることを望む人々は大挙してドイツへ移住した。1980年代末から1990年代半ばの大量出国によって、旧ソ連地域のドイツ人は激減した。強制移住がもたらしたアイデンティティの不安定化は、このドイツ大量出国によってようやく最終解決に至った。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は1941年の独ソ戦開始直後にソ連で行われたドイツ人に対する強制移住と、その後の自治区復活運動について、ペレストロイカ以降のソ連・ロシアで公開された資料を綿密に分析することによって、詳細に論じたものである。スターリン時代、独ソ戦の前後に行われた強制移住の中で、ドイツ人は集団として最大規模のもので、最も重要であるにもかかわらずこれまで殆ど研究されてこなかった。本論はそうした歴史の空白を埋めようとした意欲的な論文である。

 本論文の構成は次の通りである。はじめに、第一章:ドイツ人入植から強制移住まで、第二章:ヴォルガ・ドイツ人の強制移住、第三章:強制移住の地で、第四章、サラトフ州でのドイツ自治区復活反対運動、おわりに、で巻末に参考文献が挙げられている。注を除いた本文部分は400字詰めで680枚である。

 まず、はじめにで論文の目的とこれまでの研究史を簡潔に述べている。論文の目的は、第一に、ドイツ人に焦点をあてて、これまで殆ど明らかにされてこなかった強制移住の実態をより具体的に解明すること、第二に、戦後のドイツ人の自治区復活運動を通じて、強制移住が当該民族になにをもたらしたのかを考察すること、の二点にあると明確に設定している。研究史の整理も適切な叙述となっている。第一章では、18世紀のドイツ人入植から1941年までのドイツ人の歴史を概観し、以下の分析への橋渡しを行っている。

 第二章では、ソ連におけるドイツ人の強制移住の全体像を示している。ここでは広い視野に立ってソ連における強制移住の中でのドイツ人強制移住の持っている意味、その特殊性をさぐるのと同時に、他の強制移住との共通性を明らかにする努力がなされている。ドイツ人の強制移住に関しては、その具体的プロセスを列車運行表などの公文書や回想をもとに再現している。ここは本論文の前半の中心部分であるが、資料に裏打ちされた生き生きとした叙述が圧巻である。特にこれまで知られていなかった列車運行表という貴重な資料を発掘し、そこからいかに多くの事実が読みとれるかを証明して見せた功績は大きい。

 第三章では、ドイツ人の強制移住先のひとつであるカザフスタンでの状況が検討されている。まず、特別入植の確立する過程を論じ、その後、特別入植制度が解除されていく過程を分析している。そして自治区復活運動が始まった1960年代および西ドイツへの大量出国によってドイツ自治区構想が浮上した1970年代が検討されている。ここでは公文書、回想録と並んで、これまであまり利用されてこなかったソ連時代の国勢調査の結果がドイツ人社会を分析する資料として用いられている。これによって教育水準および母語率の変遷に関して極めて説得的な叙述を展開している。また、本章第四節で扱われている1979年のツェリノグラード事件は、これまでまったく知られていなかった事件であり、極めて重要な新知見である。ツェリノグラード事件を発掘し、叙述したことは、本論文のもう一つの功績であろう。

 第四章では1989年から高まりを見せたヴォルガ・ドイツ人自治共和国の復活運動とドイツ人の大量出国との関連性の分析が行われ、結局自治共和国回復運動の失敗がドイツ本国への大量出国へとつながったプロセスが明らかにされている。自治区復活構想はヴォルガ地方の住民の強い反対のために失敗したのだが、失敗の原因である地元住民の反対運動を地方の視座から具体的に詳述している。ここではサラトフ州の当時の新聞を丹念に検討し、地区レベルの動向、住民の意見を積み上げる形で全体像の再構成が試みられている。第四章は、全体としてペレストロイカ期の地方の政治を地方紙を使用して生き生きと再現して見せた点が評価できる。

 本論文のテーマは、我が国はもちろん諸外国でも本格的に論じられることがほとんどなかったもので、それに取り組んだオリジナリティーは審査委員全員が高い評価を与えた。また、資料をもって語らせるという手堅い歴史叙述に関しても同様であった。資料に関しては、アルヒーフ資料こそ使っていないものの、公刊されたものはほぼ網羅的かつ体系的に収集し、なおかつ資料の海に溺れることなく、的確な分析を加え、重要資料を巧みに行論に生かしている。ロシア語の高い能力がその背景にあると考えられる。特に列車運行表や国勢調査の分析は画期的といっても過言ではなく、審査委員全員の高い評価を受けた。論文としてのまとまりも良く、論旨、文章ともに明快である。注の付け方など、論文の形式、体裁の点でもなんら問題は指摘されなかった。またドイツ人を扱いながらも、強制移住させられた他の民族との比較も十分に行っており、視野の広さが窺われる。もちろん審査委員から若干の不十分な点が指摘されたことも事実である。それは、領土的自治と文化的自治に関する理論的考察が欠けている、第四章について中央の対応とヴォルゴグラード州の動向をもう少し書き込むべきだった、ドイツ本国との関係についての叙述がやや不十分である、第一次世界大戦期など叙述にややうすい箇所がある、などである。しかし、これらはいずれも論文の欠陥の指摘というよりは、今後研究を深めていく際の課題として指摘されたもので、本論文の価値を低めるものではない。審査委員会の評価は、殆ど瑕瑾の見られない極めて優秀な論文という結論で全員が一致した。総じて本論文は、ソ連史研究、ソ連のドイツ人研究の分野で、卓越した貢献をしており、博士(学術)の学位を授与するのに十分な業績である、と認められる。

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