学位論文要旨



No 115804
著者(漢字) 梶川,祥世
著者(英字)
著者(カナ) カジカワ,サチヨ
標題(和) 前言語期の乳児における歌唱および朗読に含まれた言語音声情報の認知
標題(洋)
報告番号 115804
報告番号 甲15804
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第289号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,寿一
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
 東京大学 助教授 渡辺,雄一郎
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の目的は、言語と音楽の比較を通じて、乳児の音声認知と保持に関わる音声情報を明らかにすることであった。乳児の音声知覚・認知研究においては、乳児の実際のパフォーマンスや言語表象に対する関心が近年高まってきている。中でも注目されている研究分野の一つとして、語彙の認知とセグメンテーションがあげられる。本研究は、アメリカ人乳児を対象とした先行研究(Jusczyk & Aslin, 1995; Jusczyk & Hohne, 1997)を応用し、前言語期の日本人乳児における、歌唱音声および朗読音声中の語彙と輪郭に関する情報を処理し保持する能力を、行動実験の手法を用いて調べた。現在までの研究動向に対して、本研究では以下の点に注目することによって、乳児の音声認知に関する新たな知見を得られると考えた。すなわち、(1)言語知覚研究においては注目されてこなかった歌唱音声を材料とし、乳児に対する歌唱の言語発達に関わる機能を探ること、(2)音楽と言語の比較、特に全体的情報と部分的情報の要素に基づいた検討、(3)0歳児を対象とした研究例が非常に少ない歌唱の長期記憶に対する言語発達の観点からのアプローチ、が本研究の特色であった。

 実験1(第2章)では、6-10ヶ月齢の日本人乳児における、連続言語音声の語彙パターン認知能力を調べた。乳児に歌唱または歌詞の朗読を聞かせ、その直後に、歌唱・朗読中に含まれていたターゲット単語と、統制単語とを提示した。そして乳児ごとに各単語の聴取時間を測定し、語彙に対する選好を調べた。実験方法には、Head-turn preference procedure(Kemler Nelson et al.,1995)を使用した。これは、乳児が光刺激に誘導されて音源方向を注視している間に、音刺激を提示することによって、異なる種類の音刺激に対する乳児の反応の違いを測定する手続きである。実験の結果、乳児は歌唱、朗読音声のどちらを提示した場合でも、ターゲット単語を統制単語よりも選好聴取することが示された.歌唱条件では、トレーニング刺激中において語彙が様々なイントネーションで発声されたのにも関わらず、乳児は単語の音韻情報を短期に保持することができたと考えられた。以上の結果から、(1)英語を母国語とする乳児と同様、日本語を母国語とする乳児の場合にも、約8ヶ月齢には、文中の語彙を認識する能力が発達している、(2)文脈や韻律情報を手がかりとせず、音韻情報によって語彙の親近性を識別できる、(3)歌には、乳児の言語発達を促進する機能がある、という3点が示唆された。

 実験2(第3章)では、乳児における言語音声・非言語音声情報の長期保持能力を調べた。語彙を獲得するためには、話声から抽出した語彙の音パターンを長期に保持することが必要である。この長期保持能力の発達について、歌唱と朗読を材料として、約8ヶ月齢の日本人乳児を対象に検討した。さらに、全体的情報に対する注目として、歌の旋律および朗読の輪郭(基本周波数パターン)についても調べ、語彙パターン保持との比較を行った。手続きには先行研究の方法を応用し、実験2-1、2-2ともに、2週間にわたって、乳児に歌唱または朗読を聞かせた後、約2週間の保持期間を経て、ターゲット・統制単語に対する聴取時間を測定した。

 実験2-1の歌唱実験では、ターゲット単語に対する有意な選好はみられなかったが、トレーニングに使用した歌の旋律を、新奇な歌の旋律よりも選好する傾向がみられた。この結果から、約8ヶ月齢の日本人乳児においては、語彙の音パターンは保持されにくいが、旋律の情報は保持されていると考えられた。選好が新・旧刺激のいずれに偏っているかに関わらず、2種類の刺激に対する聴取時間の偏りを表す指標である「選好の偏り」によっても、単語に比べて、旋律はよりよく保持されている傾向がみいだされた。以上から、歌唱の長期記憶においては、部分的な語彙の音パターンよりも、全体的な旋律の情報の方が優先的に保持されていることが示唆された。これは、乳児の旋律の長期記憶において、精緻な部分的情報よりも全体的情報がよりよく保持されるという音楽心理学研究の知見に一致するものである。

 実験2-2の朗読実験では、朗読音声中に含まれたターゲット単語が、統制単語よりも選好されることが明らかになった。歌唱とは異なり朗読を刺激として用いた場合には、約9ヶ月齢の乳児は、ターゲット単語のうち少なくともいくつかに関する情報を約2週間にわたって保持することができた。ターゲット単語と統制単語には日常の親和度の差はみられなかったため、トレーニング期間中にターゲット単語が学習されたと考えられる。

 朗読に関しては、乳児は全体的情報である韻律を保持していないことが示唆された。その裏づけとして、1つには、低域通過フィルターに通した朗読抜粋を提示した基本周波数パターンセッションにおいて、乳児はトレーニングに使用した朗読または新奇な朗読に対する選好を示さなかったことがあげられる。このことは、乳児が韻律情報を手がかりとして朗読を識別していなかったことを示唆している。2つめの裏づけとして、実験2のトレーニングでは5人の女性による朗読を刺激としたが、乳児は読み手のバリエーションにも関わらず、朗読に共通する語彙パターン情報を記憶できたことがあげられる。話者によって、朗読の韻律特徴や発音には個人差が生じるが、乳児がことばを学習していくうえでは、このような変異は無視して語彙を取り出す能力が必要である。したがって約8ヶ月齢以降には、朗読の全体的なリズムや輪郭よりも、部分的情報である語彙の音パターンの方が、長期記憶の表象として優先されるようになると考えられた。単語の「選好の偏り」と、基本周波数パターンの「選好の偏り」に負の相関傾向がみられたことによっても、この推測は支持された。これに対して歌唱実験では、旋律の記憶が語彙パターンより優先される傾向がみられたことから、乳児は歌唱と朗読音声に対して、異なる情報処理を行っている可能性が示唆された。

 第4章の言語発達調査では、実験2の結果に基づく語彙保持能力と、語彙獲得の発達との関連を調べた。 Nelson(1973)によれば、言語音声の分析に際し、産出語彙が「指示型(referential style)」の子どもは分析的に、「表現型(expressive style)」の子どもは全体的に音声を処理しており、「指示型」の子どもは「表現型」の子どもよりも語彙獲得時期が早い傾向がある。本研究の実験2で大きな選好の偏りを示した群は、早い時期に分析的に言語音声を処理する傾向があるのに対して、「選好の偏り」が小さい群は、全体的に音声を処理していると考えられる。したがって、実験2で語彙の「選好の偏り」が大きい群と小さい群とでは、後の産出言語発達に差がみられ、偏りの大きい群の方が語彙の獲得時期が早く、獲得速度が速いと予測した。初語出現から2歳までの間、保護者による乳児の発話の日誌的記録と、補助的なVTR記録に基づいて、産出語彙データを収集した。

 調査の結果、朗読中に含まれる語彙の長期記憶実験において、「選好の偏り」が平均値よりも大きい群は、平均値以下の群に比べて、初語の開始が早いという傾向がみられた。この結果は、語彙を朗読文から抽出して長期に保持しておく能力が顕著にみられた子どもは、他の子どもよりも語彙発達が早いという予測を裏づけるものである。しかし、30語、50語獲得の月齢には分類群間の有意差はみいだされなかった。実験2で歌唱を刺激としたグループの「選好の偏り」による分類群間においては,初語開始月齢および30語獲得月齢の差はなかったが、「選好の偏り」が大きい群の方が、やや早い時期に語彙を獲得する傾向がみられた。全体として弱い傾向ながら、予測を支持する結果が得られたと言える。さらに対象人数を増加し、比較検討することを今後の課題としたい。

 以上を総括し、本研究の結論を次のように導いた。(1)乳児は朗読音声と同様、歌唱音声中の語彙パターンを短期に保持することができる。これは歌唱からも語彙のセグメンテーションが可能であることを示唆しており、語彙の韻律や音声上の文脈に依存せずに、約8ヶ月齢の乳児は語彙を認知していると考えられる。(2)歌唱の場合には、短期と長期で、保持される要素が異なることを示唆する結果を得た。このことから、歌唱は、朗読よりもテンポが遅く高い音程で発せられることばなのではなく、乳児においても、歌唱の旋律と話声の韻律・輪郭とは、異なる処理が行われていることが示された。(3)歌唱に含まれる語彙パターンを長期に保持する能力が早期に発達している子どもは、発話時期が早いという点に関しては結論が出なかったが、その傾向が初語出現時期についてはみいだされた。歌唱よりも朗読に含まれる語彙パターンを保持する能力の方が、後の語彙発達との関連はやや強いようである。(2)と(3)から、歌唱が乳児の言語発達を促進する機能を持つという議論は積極的に支持されなかった。しかし音韻情報に注目し始める8ヶ月齢においては、歌唱中の語彙パターンを認知することができても、長期に保持する能力が未発達であると推測することも可能であるため、歌唱の機能に関しては様々な観点からの検討が必要である。また、歌唱中に認知した語彙パターンが長期保持されない要因として、音楽と言語の短期・長期記憶メカニズム、日本人乳児におけるセグメンテーションの方略、その発達変化などについて、今後追究したいと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、言語を獲得する以前の乳児が、音声情報の中のどのような側面に注意を向け、どのように語彙情報を認知しているかを、朗読および歌唱という条件間で比較しながら、実証的に論じたものである。本論文は、序論(第1章)、短期保持と長期保持に関する二つの大きな実験(第2、3章)、語彙発達と言語情報保持能力の関連を調べた継続調査(第4章)、および総合考察(第5章)の全5章から構成される。

 序論に相当する第1章では、乳児における音声知覚、とりわけ語彙認知の発達研究に関する近年の研究動向が概説され、本論文で明らかにすべき課題が提示されている。乳児にとって音声情報の主要な入力源としては、周囲からの語りかけや周囲の会話といった言語情報だけでく、子守歌のような歌唱情報が含まれる。しかし、従来、歌唱が乳児の語彙獲得にどのような効果を及ぼすかについての先行研究は全くなく、言語情報と歌唱情報で処理過程にどのような異同があるかが明らかでなかった。また、0歳児の歌唱に関する長期記憶の研究例もほとんどなされていなかった。そこで、本論文ではつぎの3点を明らかにすることを目的とした。(1)言語知覚研究において、従来注目されてこなかった歌唱音声を材料とし、歌唱が乳児の言語発達にどのように関わるかを探ること、(2)乳児の音声認知おける、音楽情報と言語情報の処理プロセスを比較すること、特に全体的情報と部分的情報の要素に基づいた検討を行うこと、(3)歌唱の長期記憶に関して、言語発達の観点から調査を行うこと。

 実験1(第2章)では、6-10ヶ月齢の日本人乳児における、連続言語音声の語彙パターン認知能力が調べられた。乳児に歌唱または歌詞の朗読を聞かせ、その直後に、歌唱・朗読中に含まれていたターゲット単語と統制単語が提示された。各単語の聴取時間を測定することによって、語彙に対する選好が調べられた。実験方法には、Head-turn preference procedureが用いられた。実験の結果、乳児は歌唱、朗読音声のどちらを提示した場合でも、ターゲット単語を統制単語よりも選好聴取することが示された。歌唱条件では、トレーニング刺激中において語彙が様々なイントネーションで発声されたのにも関わらず、乳児は単語の音韻情報を短期に保持することができたと考えられた。結果より、(1)英語を母国語とする乳児と同様、日本語を母国語とする乳児の場合にも、約8ヶ月齢には、文中の語彙を認識する能力が発達していること、(2)文脈や韻律情報を手がかりとせず、音韻情報によって語彙の親近性を識別できること、(3)歌には、乳児の言語発達を促進する機能があること、の3点が示唆された。

 実験2(第3章)では、約8ヶ月齢の日本人乳児における言語音声・非言語音声情報の長期保持能力が、歌唱と朗読を材料として調べられた。さらに、歌の旋律および朗読の輪郭(基本周波数パターン)の保持能力についても実験が行われ、語彙パターンの保持との比較がなされた2週間にわたって、乳児に歌唱または朗読を聞かせた後、約2週間の保持期間を経て、ターゲット・統制単語に対する聴取時間が測定された。実験2-1の歌唱実験では、ターゲット単語に対する有意な選好はみられなかったが、トレーニングに使用した歌の旋律を、新奇な歌の旋律よりも選好する傾向がみられた。この結果から、約8ヶ月齢の乳児においては、語彙の音パターンは保持されにくいが、旋律の情報は保持されていると考えられ、部分的な語彙の音パターンよりも、全体的な旋律の情報の方が優先的に保持されていることが示唆された。実験2-2の朗読実験では、朗読音声中に含まれたターゲット単語が統制単語よりも選好され、乳児はターゲット単語のうち少なくともいくつかに関する情報を約2週間にわたって保持できることが示された。結果より、約8ヶ月齢以降では、朗読の全体的なリズムや輪郭よりも、部分的情報である語彙の音パターンの方が、長期記憶の表象として優先されていると考えられた。

 第4章の言語発達調査では、実験2の結果に基づく語彙保持能力と、語彙獲得の発達との関連が調べられた。調査の結果、語彙の長期保持能力が高い幼児ほど書語獲得時期が早いとは結論できなかったが、朗読条件において語彙の「選好の偏り」が平均値よりも大きい群の乳児は、平均値以下の群の乳児に比べて、初語の開始が早いという傾向が見いだされた。

 以上の実験と調査より、本論文の結論として、(1)乳児は朗読音声中のみならず歌唱音声中に含まれる語彙パターンも短期的に保持できることが示された。これは歌唱からも語彙のセグメンテーションが可能であることを示唆しており、語彙の韻律や音声上の文脈に依存せずに、約8ヶ月齢の乳児は語彙を認知していると考えられた。(2)ただし、歌唱の場合には、旋律の長期保持はできたものの、朗読の場合とは異なり語彙の長期保持ができなかった。歌唱は単に、朗読よりもテンポが遅く高い音程で発せられることばなのではなく、乳児においても、歌唱の旋律と話声の韻律・輪郭とは、異なる処理が行われていることが示唆された。(3)前言語期における語彙保持能力が、後の言語獲得の発達とどのような関係があるかについては、今回は結論が得られず、今後の課題となった。

 以上要約した本論文においては、とくに次の諸点が高く評価された。(1)言語的に教示できない乳児に対して、洗練された実験手法を用い、従来、未知であった歌唱に含まれる語彙情報の認知に関する調査を行ったこと。(2)その結果、乳児が短期的にせよ、歌唱から語彙情報を切り出す能力があることを初めて明らかにしたこと。(3)長期的な記憶保持実験において、前言語期の乳児が、朗読条件では音韻情報を、また歌唱条件では旋律情報を保持できることを示し、二つの情報処理プロセスの違いに関する新しい知見を提示したこと。

 これらの成果により、本論文は、東京大学大学院総合文化研究科課程博士(学術)の学位請求論文として合格であると審査委員全員で判定した。なお本論文の内容の一部は、すでに「認知科学」誌に公表されている。

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