学位論文要旨



No 115811
著者(漢字) 川上,政勝
著者(英字)
著者(カナ) カワカミ,マサカツ
標題(和) 神経細胞におけるエリスロポエチン受容体の機能的役割
標題(洋) Functional roles of erythropoietin receptor in neuronal cells
報告番号 115811
報告番号 甲15811
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第296号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 客員教授 高橋,正身
 東京大学 教授 赤沼,宏史
 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 客員教授 岡村,康司
内容要旨 要旨を表示する

 様々な脳の機能はおびただしい数の神経細胞によって形成されている神経回路によって営まれている。神経細胞間の情報伝達はシナプスとよばれる機能的な接続部位で行われている。神経線維を伝搬した活動電位がシナプス前部に到達すると、電位依存性カルシウムチャネルが活性化され、シナプス前部にカルシウムイオンが流入する。その結果シナプス小胞の開口放出が引き起こされ、その中に蓄えられていた神経伝達物質がシナプス間隙に放出される。放出された神経伝達物質は、シナプス後細胞のシナプス膜上に存在するレセプターに結合し、シナプス伝達が完了する。

 シナプスでの情報伝達の効率が神経活動によって変化すること、すなわちシナプス可塑性は、記憶や学習のような脳の働きに必須である。神経伝達物質放出は神経細胞が持つほぼ唯一の出力機構であり、その制御機構の解明はシナプス可塑性ひいては記憶や学習の分子レベルでの理解に極めて重要である。一方において、神経伝達物質の放出機能に異常が生じると脳が重篤な疾患に陥ることが知られている。最も知られている現象として脳虚血時におけるグルタミン酸神経毒性があげられる。脳虚血時にはシナプス前部からの過剰なグルタミン酸放出が起きるため、主にNMDA型グルタミン酸受容体を介した細胞内への過剰なカルシウムイオンの流入が引き起こされる。その結果、特に海馬のCA1領域の神経細胞が死に至ることが多く報告されている。

 神経伝達物質放出機能は短期的には蛋白質リン酸化により制御されており、多くの蛋白質リン酸化酵素がこの制御に関わっていることが明らかにされてきている。しかしながら従来知られていたタンパク質リン酸化酵素は、全て神経伝達物質放出に促進的に働いており、神経伝達物質放出に抑制的に作用する蛋白質リン酸化酵素は報告されていなかった。

 私は神経伝達物質放出を抑制的に制御するシグナル系の存在を明らかにするため、まず副腎髄質細胞腫由来のPC12細胞や培養した小脳顆粒細胞や海馬神経細胞を用いて解析を行い、以下のような新たな事実を発見した。

 第1章:抑制性に神経伝達物質放出を制御する蛋白質リン酸化酵素を知るために、神経細胞のモデル細胞として知られるPC12細胞を用いて様々な因子による神経伝達物質放出変化を調べた。調べた因子のうち造血因子として知られるエリスロポエチン(EPO)が抑制性の効果を引き起こすことが見出されたため、この抑制メカニズムの解析を行い、以下の結果を得た。

 1,EPO受容体の活性化によりPC12細胞からのカルシウム誘発性ドーパミン(DA)放出が抑制された。

 2,このEPO受容体介在性の伝達物質放出抑制にはチロシンリン酸化酵素であるJAK2が関与していた。

 3,EPO受容体活性化により、神経突起の伸長や神経生存に深くかかわるとされているシナプス前蛋白質GAP-43の脱リン酸化が引き起こされることが明らかになった。

 第2章:中枢神経の初代培養細胞においてもEPO受容体活性化による神経伝達物質放出への影響について検討した。さらに虚血状態で引き起こされるグルタミン酸(Glu)放出におけるEPO受容体活性化の影響を調べ、そのGlu放出抑制により神経細胞死が保護されるかどうかについて検討を行い以下の結果を得た。

 1,EPO受容体の活性化により、培養した小脳顆粒細胞および海馬神経細胞からカルシウム誘発性Glu放出が抑制された。

 2,このEPO受容体介在性のGIu放出抑制にもチロシンリン酸化酵素であるJAK2が関与していた。

 3,化学虚血誘発性のGlu放出は2つの異なるメカニズムにより行われていた。初期相におけるGluはカルシウム依存性の開口分泌により放出されており、後期相におけるGluは開口分泌以外、おそらくGluトランスポーターの逆転により放出されていることが示唆された。

 4,EPO受容体の活性化により化学虚血誘発性のGlu放出が抑制された。この抑制はチロシンリン酸化酵素が関与していることもわかった。

 5,EPO受容体の活性化によるGlu放出阻害は、化学虚血誘発性の神経細胞死を抑制していた。

 これらの結果から、私はEPO受容体を活性化するとJAK2を介したシグナル系が働き、開口放出機構による神経伝達物質放出の抑制が引き起こされると結論した。この観察は、リン酸化を介した神経伝達物質放出の抑制系が存在することを示した初めての報告である。

 EPOは従来、造血因子として知られていたが、ここ最近の研究により脳虚血時において神経保護作用をもつことが知られてきている。これまで、この働きはNOによる神経毒性から守る作用がEPOにあるためとされてきていた。しかし、本研究によって私は開口放出による神経伝達物質放出を抑制するという新しい生理作用を見出し、さらにその作用を介した神経細胞死からの保護機構も存在することを明らかにした。つまりEPOは脳虚血時に過放出される神経伝達物質を抑制することで、結果的にシナプス後部へのNMDA受容体を介したカルシウムの過剰流入を抑え、脳虚血急性期での神経保護作用をもつと考えられる。

 近年、脳虚血急性期に対していろいろな薬物療法が考えられている。神経細胞はわずか数分の血流遮断で不可逆性の障害を受けるが、このような完全虚血はむしろまれである。脳血管障害つまり局所脳虚血では狭い範囲の中心部では血流は完全に遮断され、しかし周辺部の虚血は広範囲にわたるが不完全である。この領域の細胞は時間をかけて障害されていくと考えられ、その過程を阻止することができれば機能障害を最小限にとどめることができる。したがって急性期脳虚血に対する薬物介入は虚血後に起こる遅発性の神経障害の治療ともいえる。また最近の報告で重度の脳虚血時のGlu放出は主にGluトランスポーターの逆転によるものであり、開口分泌によるGlu放出はより急性期の軽度の脳虚血時に関わっていることが示されている。さらにEPOが脳血液関門を透過するという報告もあり、脳で産生される内在性のEPOのみではなく、EPOの体内投与への有効性も考えられてきている。

 したがってEPOは、脳虚血時のGlu放出を抑制し、虚血性神経細胞死を抑制するという本研究の成果からも、急性期脳虚血に対する脳保護薬としてさらに応用が期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はシナプス伝達の制御機構を明らかにすることを目的として、ラット副腎髄質細胞腫由来の株化細胞であるPC12細胞や、初代培養ラット小脳顆粒細胞、海馬神経細胞からの神経伝達物質放出機能制御へのエリスロポエチン受容体の関与を研究したものである。その結果エリスロポエチン受容体を活性化するとJAK2チロシンキナーゼが活性化され、開口放出によるCa2+依存性の神経伝達物質放出が抑制されることを発見した。さらにエリス口ポエチン受容体を活性化すると化学虚血によるグルタミン酸放出が抑制され、海馬での神経細胞死が著しく軽減できることも明らかにした。

 本論文の第1章では、PC12細胞を用いて神経伝達物質放出を抑制性に制御する因子を探索し、造血因子として知られるエリスロポエチン(EPO)がCa2+誘発性のドーパミン放出に抑制性の効果を引き起こすことを見いだした。さらにこのメカニズムの解析を行い、この抑制にはEPO受容体の活性化が関わっていること、このEPO受容体介在性の伝達物質放出抑制にはチロシンリン酸化酵素であるJAK2が関与していること、EPO受容体活性化により、神経突起の伸長や神経生存に深くかかわるとされているシナプス前蛋白質GAP-43の脱リン酸化が引き起こされることを明らかにした。

 本論文の第2章では、中枢神経系の神経細胞へのEPO受容体の働きを調べた。その結果、EPO受容体の活性化により、培養したラット小脳顆粒細胞および海馬神経細胞からCa2+誘発性グルタミン酸放出が抑制されること、このEPO受容体介在性のグルタミン酸放出抑制にもチロシンリン酸化酵素であるJAK2が関与している.ことを明らかにした。また、培養した小脳顆粒細胞および海馬神経細胞を化学虚血処理すると、2つの異なるメカニズムでグルタミン酸が放出され、そのうちB型ボツリヌス毒素感受性の開口放出を介したグルタミン酸放出がEPO受容体の活性化によって抑制されることを明らかにした。さらにラット海馬スライス培養系を用いEPO受容体を介した化学虚血誘発性の神経細胞死抑制機構を解析し、EPO受容体を活性化すると化学虚血誘発性の神経細胞死は抑制できるが、グルタミン酸投与による神経細胞死は抑制できないことを明らかにした。

 以上要約すると、本研究では、脳の高次機能の発現に重要なシナプス伝達の制御機構の一つに、JAK2チロシンキナーゼによる神経伝達物質放出の抑制作用が関わっている可能性を世界に先駆けて明らかにした。また、エリスロポエチンによる虚血性神経細胞死の抑制作用が、従来考えられていたシナプス後細胞への作用の他に、シナプス前細胞への作用を介した機構も存在することも初めて明らかにした。これらの結果はシナプス可塑性の新たなメカニズムを提唱したばかりではなく、虚血性脳機能障害の克服への重要な示唆を与えたという点で神経科学に有意義な貢献をしたものと認められる。

 よって審査員一同、論文提出者川上政勝は東京大学博士(学術)の学位を受けるに十分な資格があるものと認めた。なお、本論文の一部の内容は2000年にBiochemical and Biophysical Research Communications誌に川上が筆頭著者となって公表済みである。

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