No | 115817 | |
著者(漢字) | 鷲津,仁志 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ワシヅ,ヒトシ | |
標題(和) | 計算機シミュレーションによる高分子電解質溶液の対イオン分極の研究 | |
標題(洋) | Counterion Polarization of Polyelectrolytes in Solution studied by Computer Simulation | |
報告番号 | 115817 | |
報告番号 | 甲15817 | |
学位授与日 | 2001.03.29 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第302号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | [緒言] 生命活動は、生体高分子の間の精密に制御された相互作用から成り立っている。一方の分子の正電荷部分は、もう一方の分子の負電荷部分とぴったりと向かい合うよう適確な位置関係を定め、しばらくそのままの態勢で物質交換を行い、そしてまた別れてゆくということが繰り返される`水溶液中のイオン環境は、巨大分子間の電気的引力を適度に遮蔽し、巨大分子の接近、配置、分離といった秩序ある反応シークェンスを維持している。 DNAをはじめ、生体高分子の多くは、溶液中で解離して一つの巨大イオンと多数の対イオンを生じる、高分子電解質とよばれる巨大分子である。高分子電解質は溶液中で、さまざまな興味ある性質を示すが、系を支配する力が長距離クーロン力であるため、その物理化学的性質、特にダイナミックスはいまだによく理解されていない。本研究では、水溶液中のDNAの対イオン分極を計算機シミュレーションにより研究した。 高分子電解質溶液の電気的分極率は、対イオンの分極によるとされる。溶液中の高分子イオンによる強い静電場を遮蔽するために対イオンが集まり、イオン雰囲気を形成する。個々の対イオンはブラウン運動を行うため、イオン雰囲気全体の双極子能率にゆらぎが生じる。揺動散逸定理によると、この双極子ゆらぎの大きさは電気的分極率に関係づけられる。DNAのような棒状の高分子電解質では、対イオンは高分子イオンの長軸方向にゆらぎやすいので、電気的分極率の長軸成分と斜軸(長軸に対して直角)成分の差として異方性が生じる。 対イオン分極による電気的分極率の異方性の生成機構は、定性的にはこのように説明できるが、解析理論によって定量的に説明するのは非常に困難であった。これは、高分子の幾何学的な形状を簡単なものとしても、対イオンの分布、溶媒の速度、静電ポテンシャルといった複数の場が互いに非線形にカップルしているためである。高分子上の電荷密度が高いDNAの場合、高分子近傍に対イオンが高密度に束縛される対イオン凝縮現象が起こる。その周囲には、対イオンが比較的弱く束縛された散慢なイオン雰囲気が形成される。すなわち、イオン雰囲気には二相構造が存在する。対イオン分極の理論において、従来、対イオン分極靴対する散慢なイオン雰囲気の寄与は無視され、凝縮対イオンの分極のみが計算されてきた。しかしながら、添加塩濃度依存性において理論が実験と逆の結果を与えるなど、包括的な説明には至っていない。そこで、水溶液中のモデルDNA断片について対イオンゆらぎのシミュレーションを行い、電気的分極率の異方性を決定し、おもにその添加塩による効果を調べた。 [方法] 溶液中の対イオンのブラウン運動をシミュレートするために、Metropolis Monte Carlo Brownian Dynamics(MCBD)法を用いた。MCBD法は、凝縮系の平衡論的性質の計算方法とされていたMetropolis Monte Carlo(MC)法を時間発展する系に拡張したものである。 対イオン分極の実験、理論ともに、希薄な溶液を対象とする。シミュレーションでは、広大なシミュレーションセル中の多数の小さなイオンの運動を扱わなければならない。このため、DNAを円筒とし、その表面にらせん状に負電荷を配置する、対イオンを点電荷を持つ剛体球とする、といった粗視化したモデルを用いる必要があった。さらに、実験と対応する物理量を定量的に得るために、超並列型スーパーコンピュータを用いて、膨大なトラジェクトリにわたり積算した。 MC法における配置エネルギー計算は、当初はMCセル中の全電荷間のクーロン相互作用を直接計算した。この方法では粒子数の二乗に比例して計算時間が増加する。そこで、この計算を粗視化して行うアルゴリズムの開発を行った。これはMCセルを仮想セルに分割して粒子をまとめ、そこからの寄与を多重極展開する方法であるが、仮想セルに対してツリー構造を用いないことと、多重極展開を双極子までにとどめることにより高速化を実現した。 [結果と考察] 実験によると、電気的分極率の異方性は添加塩濃度の増加とともに単調に減少する。これは、添加塩により高分子イオンのまわりの静電場が遮蔽されたことの反映であるが、先述したDNAのイオン雰囲気の二相構造の変化との関連は明らかでない。 DNAのまわりのイオン雰囲気の構造は、基本的にはManningの対イオン凝縮理論によって説明される。Manningは、無限に長い棒状高分子の近傍に一定の割合で凝縮する対イオンの個数を熱力学的に求め、その外側に、イオン強度によって鋭敏に変化する散慢なイオン雰囲気が取り囲むとした。この仮定に基づき、凝縮対イオンの分極率の添加塩濃度依存性を計算したところ、分極率は実験とは逆に塩濃度の増加とともにわずかに増加することを予言した。 シミュレーションにおいて、対・副イオンの濃度分布および静電ポテンシャルを計算した結果、高分子表面に沿って、凝縮相とみなせる対イオン濃度の鋭いピークおよび熱エネルギーの10倍ほどの大きさのポテンシャルエネルギーの深い谷がみられた。その周囲は、還元ポテンシャルの変化がおだやかになり、対・副イオンが混ざり合う散慢なイオン雰囲気とみなせる領域がみられた。さらに外側には、還元ポテンシャルが零となり、対・副イオン濃度は平均の濃度となり、電気的な性質の異方性が消失することが予想されるバルク塩の領域がみられた。また、添加塩濃度の増加とともに、散漫なイオン雰囲気の領域が縮小する様子が観察された。対イオン分布を、有限長の高分子イオンについての対イオン凝縮を扱ったOdijkの理論およびRamanathan-Woodburyの理論と比較したところ、良い一致を示した。すなわち、用いた添加塩濃度の範囲内では、有限長のDNA断片のまわりのイオン雰囲気の静的な構造は、これらの末端効果を考慮した理論により記述されることがわかった。 このように、添加塩溶液中の高分子イオンの周囲のイオン環境は対・副二種類のイオンの分布により全体として三領域に区別される。この中でイオン雰囲気、すなわち高分子イオンの静電場の影響を受ける領域を定量的に特徴づけるために、「高分子イオンの全電荷は、それと等価の正味の電荷(対イオン)によって中和される」とし、この正味の電荷を、シミュレーションにおいてつぎのように定義した。各MCステップにおいて、高分子からの距離の順にすべての対・副イオンをソートする。つぎに、ソートリスト中に副イオンを見いだした場合は、後続の対イオンを探し、それらをペアとしてリストから除外する。この操作を続けて、ソートリストのはじめの部分に、高分子イオンの電荷を中和するだけの数の対イオンが並ぶまで行い、正味の電荷とした。 イオン雰囲気中の正味の電荷のゆらぎの分極率への寄与を調べるために、ソートリスト中の1番目からη番目までの対イオンによる部分的な双極子能率への寄与を計算し、そのゆらぎの大きさから部分分極率テンソルを定義した。これにより、高分子近傍から順にイオン雰囲気の静的な構造とその分極挙動との間の関係を調べることができる。その結果、凝縮対イオンの部分と、散慢なイオン雰囲気の部分で、明かな分極挙動の違いがみられた。前者の斜軸成分は非常に小さく、この領域では対イオンはおもに長軸方向にのみゆらぐ。一方、後者の長軸、斜軸成分はともに大きく、異方性の計算において、散慢なイオン雰囲気の斜軸方向成分が無視できないことがわかった。 このようにして、部分分極率の異方性を添加塩濃度の異なる系について計算したところ、凝縮対イオンからの寄与は、添加塩濃度の増加とともにわずかに増加した。これは、Manning理論が凝縮対イオンの分極率の添加塩濃度依存性について予言したとおりである。さらに、散漫なイオン雰囲気からの寄与も含めると、添加塩濃度依存性は逆転し、イオン雰囲気全体のゆらぎから決定した電気的分極率の異方性は、添加塩濃度の増加とともに単調に減少した。これは、実験で観測された添加塩濃度依存性が、散慢なイオン雰囲気の分極を含めて計算することにより、はじめて説明できることを示した、本研究の成果である。 イオン雰囲気の散漫な部分とバルク塩の領域に存在する副イオンは、電気的中性条件を介して作用する。部分分極率を求める際に、上述のように対イオンと副イオンのペアをリストから消去せずに計算すると、見かけ上非常に大きな分極率の値が得られた。しかし、その両イオン問の距離も考慮してリストの順番を組みかえて計算すると、正しい結果を得た。同様に、溶液中の全ての対・副イオンを考慮して、高分子からの距離の関数としてイオン雰囲気の外側まで部分分極率を計算したところ、バルク塩のゆらぎは分極率の異方性に寄与しないことを確認した。 以上のように本研究により、高分子電解質の対イオン分極の起源をはじめて解明することに成功した。高分子電解質の電気的分極率の異方性は、部分分極率を導入することにより、イオン雰囲気中の正味の電荷のゆらぎをイオン構造と関連させることにより決定した。添加塩濃度の増加とともに系の電気的分極率の異方性が減少するのは、散漫なイオン雰囲気の領域が縮小するためである。凝縮相では、分極率は添加塩濃度の増加とともにわずかに増加した。Ramanathan-Woodburyの理論によると、高分子イオンによる凝縮対イオンの束縛の強さを表すポリイオン。低分子イオン相関関数は添加塩濃度の増加とともに動径方向に値域を延ばす。このため、ポリイオンが凝縮相の対イオンに及ぼす力が弱くなり、その分極率は添加塩濃度の増加により、わずかではあるが増加する。 [まとめ] 添加塩溶液中のDNA近傍のイオン雰囲気は、凝縮対イオンの部分と散慢な部分とからなる。さらに、その外側にはバルク塩が存在する。DNAの周囲のイオン環境において、この三領域中のイオンのゆらぎの挙動はそれぞれ異なる。本研究は、実験で観測される電気的分極率の異方性が、散慢な部分を含めたイオン雰囲気の分極に由来することを明らかにした。 | |
審査要旨 | 水溶液中の高分子電解質の電気的性質は、誘電分散、電気複屈折・二色性等の実験手段により盛んに研究され、大量の実験データが蓄積されてきた。しかしながら、高分子電解質溶液の誘電的性質は、長い間、長距離クーロン力が支配する系についての、よく理解されていない物理化学的な性質のひとつであった。これは、伝導性の溶液中に誘起される電気双極子能率の分子レベルでの解釈が困難であったためである。 代表的な高分子電解質にDNAがある。DNAは二重鎖らせん上に、ヌクレオチド残基あたりひとつのリン酸基をもつ。水溶液環境中でリン酸基は解離し、二重鎖らせんは負に帯電した巨大イオンとして溶解し、その周囲を対イオンがとりまいてイオン雰囲気を形成する。 現代的な高分子電解質溶液論は、DNAのように主鎖上の電荷密度が高い高分子電解質の場合、対イオン凝縮とよばれる現象が起こることを予言する。これは、ポリイオンの非常に強い電場に対イオンが引きつけられ、ポリイオン表面に密集し、ポリイオンの見かけの電荷を、熱力学的に定まるある値に減少させるまで中和することである。その外側には、Debye-Huckel近似で扱うことができる、散漫なイオン雰囲気が形成される。対イオン凝縮は、DNAとリガンドとの相互作用、DNA分子の屈曲性等を論ずる際、基本的に重要な役割を果たす。 DNAの電気的性質の研究は、溶液中のDNA分子とそれをとりまくイオン環境の間の上記のような相互作用を研究する目的で行われてきた。これまで非常に多くのモデルが提唱されてきたにもかかわらず、外部電場の作用により溶液中に誘起される双極子能率の起源、あるいは誘起双極子能率と外部電場との相互作用により、高分子電解質が電場方向に配向する機構についての理解は著しく遅れた状態にあった。 溶液中の高分子電解質の誘起双極子能率の起源を解明しようとすると、たとえ高分子の幾何学的な形状を粗視化して、剛体棒状のような簡単なモデルで表したとしても、低分子イオンの分布、溶媒の速度、静電ポテンシャルといった複数の場が互いに非線形にカップルした方程式を解く必要にせまられる。多くの場合、凝縮対イオンのみが分極に寄与するというようなad hocな仮定が導入され、真摯な取り組みが回避されてきた。本論文は、解析的な方法では、解決がほぼ絶望的とみられるこの問題を、計算機シミュレーションにより研究したものである。 シミュレーションセル中にモデルDNA断片を配置し、そのまわりの対イオン、副イオンの運動を、Metropolis Monte Carlo Brownian dynamics法により計算した。超並列型スーパーコンピューターを用い、膨大な数のトラジェクトリにわたり積算することにより、ポリイオンのまわりの低分子イオンの分布、静電ポテンシャルを三次元グラフ表示し、イオン構造を視覚的に提示した。揺動散逸定理によると、イオン雰囲気中に生成する双極子能率の揺らぎは、電気的分極率と関係づけられる。低分子イオンをDNAからの距離の順にソートしたリストにおいて、対イオンと副イオンのペアを削除することにより、DNAの電荷を中和するだけの正味の電荷のリストを求めた。このリストをもとに、部分分極率を計算し、イオン雰囲気中のイオン構造と関連させて、電気的分極率の起源を解明した。 すなわち、本研究のシミュレーションは、添加塩溶液中のDNAの電気的分極率の異方性の実験を再現した。その際、高分子電解質の電気的分極率の計算において、散漫なイオン雰囲気からの寄与を無視できないこと、凝縮対イオンからの寄与は、添加塩濃度の増加とともにわずかに増加すること、イオン雰囲気の外側のバルク塩の領域は分極率の異方性に寄与しないことを明らかにした。凝縮対イオンの分極挙動は理論的に予言されていたことであり、シミュレーションでも再現したことになる。 本論分は、長年未解決であった、高分子電解質の対イオン分極の起源を、計算機シミュレーションによりはじめて解明したものであり、東京大学大学院総合文化研究科課程博士(学術)の学位申請論文として合格と認められる。 | |
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