学位論文要旨



No 115819
著者(漢字) 香川,雄一
著者(英字)
著者(カナ) カガワ,ユウイチ
標題(和) 日本の工業都市における公害問題の地域性に関する研究
標題(洋)
報告番号 115819
報告番号 甲15819
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第304号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 助教授 松原,宏
 東京大学 助教授 永田,淳嗣
 東京大学 教授 丸山,眞人
内容要旨 要旨を表示する

 日本の工業都市では近代から高度経済成長期にかけて、産業の生産規模を拡大させながら地域住民の生活をより豊かにさせた。一方で公害問題や地域社会の崩壊といった負の側面を合わせ持っていることも事実である。近年の地理学ではこうした工業都市の変容に対して、工場立地を中心とした経済的要因だけでなく地域社会に特有な社会・政治的要因にも目を向けたロカリティ研究が議論されるようになってきた。本研究では工業都市化の過程において生じる公害問題を、地域社会が変容するなかでの一指標として設定する。つまり公害問題への地域住民の対応として考えられる公害反対運動から地方政治の動向を追うことによって、工業都市化の内実を明らかにすることを研究目的としている。研究方法としては公害問題発生地におけるミクロスケールでの歴史地理的な把握を行い、該当する市議会の議事録から地方政治の動向を分析する。まず日本全国における公害問題の発生状況を概観すると、日本の公害問題の歴史は工業化の歴史とも言いかえることができる。高度経済成長期の公害問題が代表的だと考えられているが、近代あるいはそれ以前から各地で公害問題が発生していた。次に公害反対運動の分析方法の検討に入る。最初に社会運動という大きな枠組みを設定し既存研究の批判的な検討を行う。また近年、都市問題や工業都市に関する地理学的研究においても社会運動が注目されていることを紹介する。これらの研究動向によって本研究が対象とするような公害反対運動を分析するためには、運動参加者の個人だけでなく組織される集団や歴史的背景、地域的特徴を明らかにしなけれならないことを導き出した。

 公害反対運動の事例研究では、公害問題を経験した日本の工業都市のなかでも二地域を選択した。その基準には地理的な特徴を考慮に入れている。まず大都市周辺部にあり、戦前から工業化が進められ、現在でも京浜工業地帯の中枢部にある神奈川県川崎の臨海部である。ここでは工業化以前の明治末期から高度経済成長期に至る一世紀に近い歴史を扱う。次に地方都市の代表として、高度経済成長期に臨海工業地帯が形成された岡山県倉敷市水島地区を取り上げた。歴史的な背景を近世まで遡った上で、公害問題が発生した戦後の約20年間を扱っている。両地域の公害反対運動に関する分析においては既存研究や歴史資料を用いた上で、独自の方法として各市議会の議事録における議員の発言から、公害反対運動に関わる地域社会の変容の分析を試みた。

 事例研究を踏まえた上で、公害反対運動の分析から日本の工業都市の歴史に対して何が知見として得られるかを検討した。公害問題は自然環境の悪化だけでなく、工業化にともなう人々の動きや都市化にともなう社会の変化といった要素も密接に関連していることを結論づけている。

 以下では章別の内容を紹介する。

 まず第1章では、問題提起として既存の工業都市研究の問題点と地理的な環境問題研究の必要性を指摘した。実証研究を行う場合に公害問題への注目を提起し、関連諸分野を含む既存研究の動向を踏まえた上で本研究の分析方法を提示する。公害問題に関する既存研究は高度経済成長期に集中しているが、現在でも環境問題への関心の増加にともなう歴史的環境問題の復元や、地球環境問題の限界を批判した地域的な環境問題への取り組みが増えていることも紹介する。分析方法に関しては、歴史的な公害反対運動の扱われ方や分析対象となる資料の検討、さらには地理学的な知見に還元できるかどうかも考慮する。

 第2章の日本における公害問題の全国的展開とその分析方法に関しては、研究対象となる日本における公害問題史をまとめ、既存研究の総括を行う。日本における公害問題史を歴史的な順序を踏まえつつ地域的特徴を考えながら、日本における公害問題の歴史をまとめておく。既存の公害問題研究を踏まえ今回、新たに全国の通史的な業績を調査することによって、現段階における日本の公害問題に関する地域的特徴を総括する。こうして高度経済成長期に重きを置かれがちな公害問題を近代あるいはそれ以前に遡って、公害問題が一部地域の特殊な現象ではなく全国的に広まっていたことを確認する。次に公害問題における地域住民の対応としての公害反対運動の分析方法を社会学などによる社会運動論の展開から導き出し、公害反対運動を場所に根付いた社会運動としてとらえる。

 章の後半では社会運動に関する地理学的研究の模索として、まず社会運動論の系譜を社会学の業績を中心に批判的に検討する。社会運動の分析に必要な要因として、歴史的背景や地域的特徴など地理学的に扱える部分を中心に抽出する。また数は少ないもののこれまで地理学における社会運動の事例研究を紹介し、方法論と研究対象の傾向をつかんでおく。こうした既存研究の動向から、今後の社会運動研究には地域史的視角が必要だとして、公害反対運動の研究方法を社会運動論からも採用する。また、公害問題が発生した場所の特徴をとらえると工業都市ということになる。そこで工業都市研究の最近の傾向としてイギリスを中心とした欧米のロカリティ研究を紹介し、そこでの経済的分析に偏らない社会・政治的分析の必要性を確認した上で公害反対運動の研究方法の参考とする。以上の実態把握と文献レビューを踏まえ実証部分に移る。

 工業都市における公害問題の事例研究として、日本における二つの工業都市を選択し公害反対運動の具体的な展開を追跡しながら、地域住民の対応を分析する。川崎と水島はどちらも日本の代表的な工業都市でありかつ、激しい被害をともなった公害問題を発生させた場所でもある。工業都市としての歴史の長さを考え、第3、4章を川崎、第5章を水島の分析にあてる。

 まず第3章では「近代期川崎における地域住民による社会運動」と題して、戦前の川崎で起こった公害反対運動の実態を分析する。社会運動の研究動向を踏まえ運動発生以前の歴史的背景に注目するために、まず公害反対運動が起こる以前の明治期の川崎臨海部を扱う。そこで公害問題発生時に反対運動の主要な参加者となった人物または組織がいかなる経緯で構成されていったかを歴史的に叙述する。注目したのは当時の主要な生業である漁業や農業の組織、または地方制度の整備によって登場してくる町村の理事者や議員である。こうした人々や地域組織が公害反対運動の形成に関わっていたことを明らかにしておく。

 さらに川崎が工場用地として新たに見出されたことや、公害発生工場の移転先とし目されたことから公害問題が発生した理由を述べる。公害問題や工場立地に対して反対運動が存在していたことを資料から明らかにし、どのような人々が運動に参加していたかを、上述の部分と照応させる。この時期に起こった公害反対運動は、農漁業における産業組織と行政組織あるいは地方議員が中心となっていたこと、さらに部分的ではあるが近隣レベルでの住民組織も現われてきていることを明らかにした。これは公害問題の展開だけでなく地域社会の変容からも影響を受けているのではないかということも指摘している。

 第二次世界大戦を間におき、第4章では戦後の川崎における公害反対運動を地方政治の変遷という視点から、前章で述べた公害反対運動への人々の参加がいかなる変容を遂げたかを明らかにした。1950年代に川崎の臨海部はすべて工場用地として埋め立てられ、重化学コンビナートの形成によって、公害問題は工場近辺の問題だけではなくなっていった。

 そこで1960年代以降における川崎市議会の会議録により、公害反対運動の展開とそれに関わる市議会議員の動向を分析し、彼らの議会における発言から公害問題への地域住民の対応を解明した。高度経済成長期の公害問題の一側面を、地方政治の研究方法を踏まえ、公害問題に関連する発言をした議員の所属政党・職業・居住地といった属性によって検討している。さらに公害問題に関連した議員を地域別・町目別の分布と所属政党などの属性から見ることによって高度経済成長期の地方政治の変化も確認した。

 川崎の場合、工業化が長期に渡り戦争を間にはさむため、公害問題の展開過程を鮮明に追跡できない。戦後に大規模な工業化を経験した地方都市の岡山県水島を事例として、公害反対運動とともに短期間に変化する地域住民の対応に注目した。

 第5章の水島の工業都市化と臨海工業地帯の公害問題では、工業化以前の水島地区の歴史と初期の軍需工場の立地にともなう工業化を踏まえた上で、高度経済成長期における公害問題の発生を既存研究と歴史資料からまとめた。さらに公害反対運動を倉敷市議会の議事録における議員の発言によって、第4章と同様に地方政治の研究方法の枠組みから分析した。市町村合併や、行政または企業による公害問題対策を経るなかで、公害問題に関係した発言をする議員の構成あるいは議員の発言内容がどう変化するのかを分類した。以上の分析によって工業都市化が工場立地や住民構成の変化だけでなく地方政治の場面へも徐々に浸透していっていることが分かった。

 結論として第6章では工業都市における公害反対運動への注目が、工業都市化という地理的変化による地域住民の変容を明らかにする一手段として有効であることを示した。これは人文地理学と隣接分野における学際的な方法論の発展への対応も含んでいる。また公害問題に関する地理学的研究は、被害の分布や都市構造との比較という形態学的な側面だけではなく、工業都市化にともなう地域住民の変容や地方政治の変遷といった地域社会の構造的な側面をも視野に入れることが可能である。こうして公害問題が新たな時代を迎えて環境問題となっても、地理学的な研究を為しうる上で研究方法の足がかりを築いた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、地理学の方法論に立脚しつつ、日本の公害問題の歴史および地域性に注目することによって、工業化および都市化といった地域変化と公害問題に対する地域社会の対応との関係を解明しようとしたものである。全世界的な広がりを持つ地球環境問題に対して、公害は基本的には、地域の問題であり、それに対する対応は当該地域の社会構造や産業構造に深い関わりをもつ。日本の公害問題は、高度経済成長という世界的にも類例を見ない急速な社会変化の中で、地域社会が深刻な対応を迫られた問題であり、現実の社会的な対応が一段落した現時点で、その経験を学術的立場から分析・評価し、今後に備えることが必要であろう。

 本研究の手法的な特徴は、公害問題研究への歴史的視点の導入と、地方の政治過程の重視にある。公害は地域に新しい産業がもたらされることにともなって発生することは言うまでもないが、その存在が地域社会に認識され、社会問題化する過程は、当該地域の当該時点における産業構造、住民特性等によって大きく異なっており、同一地域に発生する公害であっても、歴史的には異なった形態をとった社会問題として発現する。本研究では、こうした点を解明するために、明治期から戦後の高度成長期に至る通時的な事例分析を試みている。一方、地方政治の重視は、地域形成における政治的要因の重要性を主張するロカリティ研究の方向に沿ったものであるが、先行する欧米での研究において頻用される選挙データが日本の実情においては必ずしも有効ではないことを踏まえて、地方議会の議事録を基礎資料とする新しい分析手法を試みている。

 本論文は6章からなっている。

 第1章では、地理学および隣接分野の研究を参照しながら、ロカリティ研究の視角と、地方政治に着目した公害問題の分析手法が検討されている。第2章では日本の公害問題の歴史を地域性という観点から既存研究を整理している。

 第3章から第5章までは、工業都市における公害問題の事例研究である。事例としては、日本の工業都市の中でも有数の公害問題発生地である神奈川県川崎市と岡山県倉敷市水島地区を取り上げた。

 第3章では近代の川崎臨海部を対象とし、明治期から始まる公害反対運動について、その主要参加者、関与した地域組織、運動の経緯等を当時の新聞を始めとする各種史料を基礎として分析した。その結果、一連の運動が、農漁村地域への工場進出による在来産業と近代産業間のコンフリクトの性格を持つこと、および、明治期の近代地方制度の整備にともなう地方政治の構造変化の影響を受けていることを明らかにした。

 第4章では戦後川崎の公害問題が対象となっている。戦後の重化学コンビナートの形成によって、公害は工場周辺だけではなく全市的な問題へと広域化した。こうした公害問題を巡る地方政治の状況について、市議会議事録を素材とした分析を行い、工場労働者からホワイト/グレーカラーへという住民構成の変化と対応して、階級政治の象徴たる革新政党が地理的領域性に立脚する地方政治へと構造化されていく過程が存在することを示した。

 第5章では高度経済成長期に工業都市化された岡山県倉敷市の水島臨海工業地帯を対象としている。前章と同様に、市議会議事録の分析を行った結果、水島では、当初、農漁業を支持基盤とする議員を中心として盛り上がりを見せた反公害の論調が、ある時期から急速に収束していく過程をたどっていることを明らかにし、その背景には、住宅都市化の進行とともに、住民の関心が狭義の公害問題よりもより一般的な居住環境整備に向いていくという地域住民の意識構造の変化があることを示した。

 第6章では結論として、総括的な議論が展開される。工業都市における公害問題は環境悪化への地域社会の対応と見なされがちであるが、実は日本の近代化という地域社会における普遍的な変化への対応であり、農漁村から工業都市、さらには住宅都市へという地域変容こそが、各地で頻発した公害問題の根底にあることを議論している。

 以上のように、本研究は、公害問題に代表されるさまざまな社会問題を地域社会の構造とその変容との関係、すなわち地域性に注目して理解しようとする方法を具体的な事例研究を通して切り開き、「社会問題の地理学」という新しい研究領域の可能性を示した点で、学術の発展に貢献するものであると評価できる。

 よって本論文の提出者である香川雄一は、博士(学術)の学位を授与される資格があるものと認める。

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