学位論文要旨



No 115820
著者(漢字) 鄭,国東
著者(英字)
著者(カナ) テイ,コクトウ
標題(和) 現世堆積物中の硫黄とセレンの地球化学的挙動及び環境化学的意義
標題(洋) Geochemical Behavior and Environmental Implications of Sulfur and Selenium in Modern Sediments
報告番号 115820
報告番号 甲15820
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第305号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高野,穆一郎
 東京大学 教授 磯崎,行雄
 東京大学 助教授 松尾,基之
 東京大学 助教授 嶋田,正和
 東京大学 教授 野崎,義行
内容要旨 要旨を表示する

 硫黄とセレンは周期表の16族に属し、それ故、化学反応において多くの共通点を持つ。硫黄は長い間詳細に地球化学的研究が行われてきたが、それに比べてセレンに関する研究は少なく、その多くは硫黄の付随物として扱われてきた。硫黄とセレンは双方とも生物にとって必須元素である。これらはまた、ある化学状態で過剰に存在すると生物にとって有害でもある。有機地球化学的研究ではヘテロ原子としては硫黄に焦点を絞っており、環境生物化学ではセレンに大きな関心を示してきた。地球表層における物質循環の観点から見れば、硫黄もセレンも水圏と岩石圏の間を他の元素に比べて速く循環する元素である。水圏あるいは岩石圏(ここでは堆積圏)各々における両元素の挙動については、例えば海水は淡水よりセレンが多い、海洋泥岩や頁岩は多量のセレンを含んでいる、黄鉄鉱の生成により海洋堆積物中に硫黄が増大することなどが指摘された。しかし、地球上における硫黄とセレン、特に現世堆積物中における有機態の硫黄とセレンの地球化学的挙動と移動については多くが未知のままである、堆積物や堆積岩中のセレンと硫黄の相関関係はこれまでよく記述されておらず、異なる環境下で堆積した堆積物のさまざまな有機物分画に含まれる硫黄とセレンの起源と相互関係については殆ど知られていない、従って、さまざまな有機物分画に含まれる硫黄とセレンの量と分布およびその関係を調べることは、生命環境における硫黄とセレンをより良く理解する上で有用であるとともに、有機堆積物の地質学的過程における硫黄とセレンの挙動の理解にも貢献するものである。

 堆積環境として河口域、干潟、内陸の湖、川の堆積物を選び、様々な有機物分画とともに堆積物全体での硫黄とセレンの濃度および分布を調べた。比較のため、表層水と間隙水も採取し、溶存の硫黄およびセレン化学種を定量した。試料採取地として、東京都の多摩川河口域、多摩川流域、旧運河、千葉県谷津干潟, 中国のHexi Corridor(河西回廊)のHeihe River(黒河)、淡水湖であるErhai Lake(〓海)および塩水湖であるQinghai Lake(青海湖)を含む内陸の湖を選んだ、これらは人為的影響の少ない淡水、塩水環境から人為的影響の大きな水環境まで今日の地球表面の堆積環境を出来るだけ広く視野に入れるために選択された。液体、固体試料は常法により採取保存し、各分析成分に応じてイオンクロマトグラフィー、水素化物発生誘導結合プラズマ質量分析法(HG-ICP-MS)、ソックスレー抽出法、加圧高温分解法などを適宜用いた。また堆積酸化還元環境推定のためMossbauer分光法を用いた。特にセレンについては自然水および堆積物中の化学種形態別分析を行い、Se(VI)、Se(IV)、有機セレン、単体セレンの分布状態を調べた、

 多摩川の表層水の硫酸イオン濃度は、上流では低濃度(10ppm)であるが、下流では高濃度(500ppm以上)に上昇する。間隙水中の硫酸イオンは多摩川河口域の深さと場所によって変化した。同じ日でも時間によって、表層水および間隙水中の硫酸イオンの変化が観察された。柱状堆積物の硫酸イオン濃度の垂直変化にはいくつかの異なるパターンがあった。一般的に硫酸イオン濃度はある深さ(0-20cm)の間減少し、25-30cmぐらいで硫酸還元菌により黄鉄鉱として硫黄が固定されるにつれて急激に減少する。セレン濃度は、多摩川といくつかの支流の表層水で明確な変化が見られなかったが、河床堆積物の間隙水では変化した。有機物と藻類に富む黒色の堆積物の間隙水は直上の表層水に比べて明らかに多量の亜セレン酸イオンを含んでおり、堆積物中の有機物にセレンが濃集していることが示された。都市域の人工的な干潟や河川である谷津干潟、竪川、北十間川などでは硫酸イオン濃度は深さとともに急激に減少した。上層部で減少し深層部でやや増大することもあり、これはおそらく局地的な状況や硫黄と鉄化学種の続成作用によるものである。通常、黒い堆積物は生物活動が活発で有機物に富んでおり、硫酸イオン濃度が低いかまったく含まないごともある。Heihe Riverの表層水の硫酸イオン濃度もまた、山間部に位置する上流から砂漠近くの下流に向かって上昇している、おそらく、強い蒸発と劇的に少ない降水量とが塩化物イオンとともに硫酸イオンの濃集を引き起こす。硫酸イオンは表層水で支配されており、流下距離とともにやや増大する。しかし、河床堆積物の間隙水中の硫黄とセレンの挙動はともにやや複雑である。

 堆積物については多摩川河口域および谷津干潟において、また内陸中国のErhai LakeとQinghai Lakeにおいて柱状堆積物を採取した。 一般的に多摩川河口域で採取した柱状堆積物中では深さとともに増大し、特に25cm以深ではおそらく自生の黄鉄鉱による硫黄の蓄積のため、硫黄の含量は劇的に高くなった。この現象は黄鉄鉱の堆積を通じて海洋環境で一般的に硫黄が増大する過程と同様である。全セレンは深さとともにやや減少したが、表層堆積物は特に多量のセレンを含んでおり、陸源有機物が流入したためか、表層水と河床堆積物境界における酸化還元環境の劇的変化下でセレンが蓄積したためと考えられる。他方谷津干潟で採取した柱状堆積物中のセレンは上層部(0-10cm)で増大し、さらに深いところでは一定であった。セレンは堆積物全体よりも有機物分画に濃縮し、ごく初期の続成作用の間に有機物分画にセレンが濃集したことを示している。多摩川河口域と谷津干潟は同じ東京湾周辺であるにも関わらず、柱状堆積物中のセレンの変化パターンは全く異なっていた。Erhai Lakeで採取した柱状堆積物中の全セレンも垂直方向に増大した。全セレンと強熱減量(LOI)はともに深くなるにつれて増大し正の相関があり、セレンが有機物とともに濃集する傾向があることを示している。堆積物全体での全硫黄とセレンは粒径や色などによっても変化した。

 柱状堆積物中の各有機物分画の含量は固相の粒径などにより大きく変動した。多摩川柱状堆積物では腐植(フミン)と砂分画との間に正の相関があり、フミンが主に他の固形粒子とともに堆積することを示している。実際にフミン分画は陸起源の主な堆積物として大量の植物破砕物を含む。フミン酸とフルボ酸分画は固形堆積物の粒径とは強い正の相関を持たなかったが、シルトおよび粘土質堆積物に濃集した。その理由として2つの要因が考えられる。1つは生物による撹乱であり、もう1つは有機物分画の性質である。これらの成分は溶解することにより間隙水と表層水の循環により容易に移動できる。そして微細な固形堆積物に有機物分画が吸着することにより粘土や非晶質物質との間に相関関係がもたらされる。別の要因としては、河口域のような場所では塩分濃度の変化が溶存有機物の堆積を引き起こすことが考えられる。

 多摩川河口域で採取した柱状堆積物中の有機物分画間に硫黄とセレンの濃度分別が見られた。硫黄とセレンの含量はともにフミン分画からフルボ酸、フミン酸、アスファルテン(瀝青)分画の順に増大した。この現象はごく初期の続成作用の間にも硫黄とセレンの濃度分化が起こることを示している。堆積有機物から腐植土が形成されるときに生じるアスファルテンなどの、新たに生成した低分子量有機物がより多くの硫黄とセレンを持ち去るか、あるいはこれらが間隙水から両元素を付加したものと考えられる。さらに柱状堆積物における硫黄とセレンの垂直変化は有機物と微細な堆積物が硫黄とセレンを蓄積する傾向があることを示すが、相互の蘭係は極めて複雑である。多摩川河口域、谷津干潟、Erhai Lakeにおけるセレンの垂直分布が示すように、現世堆積物中の全セレンの変化パターンは堆積環境に大きく依存する。

 以上のさまざまな環境下の堆積物データは堆積有機物が硫黄とセレンを捕捉し蓄積する重要な役割を担っていることを示している。その蓄積パターンは堆積環境によって異なる。内陸の淡水湖では硫黄とセレンはともに少ないがS/Se比は小さい。そしてセレンの垂直分布は硫黄よりも変化が小さい。セレンは有機物と正の相関を持ち、腐植質中のセレン含量が堆積物全体よりも高いことは有機物にセレンが濃集していることを示す。しかし硫黄はそのような密接な関係を示さず、堆積物中の硫黄の蓄積には有機物以外の経路があることが推定された。河口域堆積物では硫黄とセレンは有機物分画に比較的濃集しかつ大きく変化する。硫黄の垂直変化は黄鉄鉱生成による濃集を示した。堆積物上層部はそれ以深のどの堆積物よりも多くのセレンを含んでおり、特に急激な酸化還元状態の変化がセレンの沈殿を促すことを示す。干潟では硫黄とセレンが多く、中程度の垂直変化を示す。有機物分画における硫黄とセレンの分布はやや複雑であるが、多摩川河口域と同様硫黄、セレンも堆積物全体、フミン分画、フルボ酸から、フミン酸、アスファルテンの順に増大した、柱状堆積物中の硫黄、セレンの分布はTOC、IHとIo、2価の鉄と3価の鉄、全鉄、堆積速度などの有機物や鉄化学種の変化と良い関係を示した。これらは地質過程、特に地域的な地殻作用とともに堆積環境が変化したことを反映する。したがって堆積物中の硫黄、セレンの分布は失われた古環境の研究にとって有用な指標の1つとなり得る。

審査要旨 要旨を表示する

 硫黄とセレンは双方とも生物にとって必須元素である。これらはまた過剰に存在すると生物にとって有害でもある。有機地球化学的研究ではヘテロ原子である硫黄に焦点を絞っており、環境生物化学ではセレンに大きな関心を示してきた。地球表層における物質循環の観点からは、硫黄はともかくセレンについては断片的かつ硫黄と独立するデータがあるが、堆積物や堆積岩中のセレンと硫黄の相関関係はこれまでよく記述されておらず、異なる環境下で堆積した堆積物のさまざまな有機物分画に含まれる硫黄とセレンの起源と相互関係については殆ど知られていない。従って、さまざまな有機物分画に含まれる硫黄とセレンの量と分布およびその関係を調べることは、生命環境における硫黄とセレンをより良く理解する上で重要であるとともに、有機堆積物の地質学的過程における硫黄とセレンの挙動の理解にも貢献するものである。本論文は現在盛んに行われている硫黄、セレンのアトミスティックなスケールからの地球化学的挙動に関する研究よりは、まだよく理解されていない両元素の地球表層におけるマクロな挙動に焦点をあわせて、これらが様々な環境下でどこに、どのような形で存在し、その挙動は何によって支配されているかを明らかにすることを目的としている。

 本論文の第1章、第2章では上記の研究目的、それに関するこれまでの研究状況について述べられている。

 第3章では地球上の様々な水および堆積環境として典型的な河口域、千潟、内陸の湖、河川等の地理的、地質学的、化学的そして部分的に微生物学的特徴について述べている。河口域としては東京都多摩川羽田付近、干潟としては千葉県谷津干潟、内陸の湖として大規模な塩湖である中国青海省Qinghai Lakeと淡水湖である中国雲南省Erhai Lake、川としては乾燥地帯を流れ砂漠に消失する中国甘粛省Heihe Riverと東京都多摩川を研究のフィールドとした。これらは人為的影響の少ない淡水、塩水環境から人為的影響の大きな水環境まで今日の地球表面の堆積環境を出来るだけ広く視野に入れるために選択された。

 第4章、第5章はそれぞれ本論文の主題である各種堆積性有機物の化学的分離法およびそれらの中の硫黄とセレンの化学的定量法について検討を加えた結果を述べている。

 第6章は前の2章で述べた方法にしたがって得られた各種陸水の硫黄、セレンの濃度比および酸化状態についての測定結果を示している。それらによればS/Se比は人為汚染を含めて溶存有機物の多い淡水系ほど小さくなり、塩分濃度の高い水系では高めの値を示し、両者の差は2桁に達することが明らかにされた。このことから淡水系においてセレンは主として有機物により運搬されていること、塩濃度の高い乾燥地帯の河川ではセレンは殆ど6価のセレン酸状態をとっていることから高酸化環境、低有機物を反映していることが推定された。

 第7章ではいろいろな水環境における堆積物中の硫黄、セレンの測定結果をまとめて示している。

 第8章では各堆積物中の全硫黄、セレンおよび有機堆積物中の両元素の垂直分布が調べられた。多摩川河口域の柱状堆積物中では硫黄は深さとともに増大し、特に25cm以深では硫化鉄や黄鉄鉱による硫黄の蓄積のため,硫黄の含量は劇的に高くなった。全セレンは深さとともに急激に減少したが,表層堆積物は特に多量のセレンを含んでおり、陸源有機物が流入したためと、表層水と河床堆積物境界における酸化還元環境の劇的変化の下でセレンが蓄積したためと推定された。他方谷津干潟の柱状堆積物中のセレンは上層部で増大し、さらに深いところではほぼ一定であった。セレンは有機物分画に濃縮しているが、その垂直分布は有機物分布と一致している点で多摩川の場合と異なっている。多摩川河口域と谷津干潟は同じ東京湾周辺であるにも関わらず、柱状堆積物中のセレンの変化パターンが全く異なる原因として微生物活動の差が示唆された。多摩川河口は潮の干満と河川水による物質供給が高く、動的であるのに対して、谷津干潟は静的な半閉鎖系であるためと推定された。Erhai Lake、Qinghai Lakeの柱状堆積物中の全セレンも灼熱減量(LOI)と正の相関があり,セレンが有機物に濃集する傾向があることを示している。しかしながらこれらの水系が河口域や干潟と比べて静的な環境であることを反映して後者ほど大きな変動を示さなかった。他方堆積物中の硫黄はその水系の硫酸イオン濃度にほぼ依存した垂直分布を示すが、微生物による硫酸イオン還元が活発である場合に急増することが示された。

 多摩川河口域で採取した柱状堆積物中の有機物分画間に硫黄とセレンの濃度分別が見られた。硫黄とセレンの含量はともにフミン分画からフルボ酸、フミン酸、アスファルテン(瀝青)分画の順に増大した。この現象はごく初期の続成作用の間にも硫黄とセレンの濃度分化が起こることを示している。堆積有機物から腐植が形成されるときに生じるアスファルテンなどの新たに生成した低分子量有機物がより多くの硫黄とセレンを持ち去るか、あるいはこれらが間隙水から両元素を付加したものと考えられる。後者は多摩川河口域、谷津干潟のようにS、Seの供給に海水が寄与する場合に重要となる。以上多摩川河ロ域、谷津干潟、Erhai Lake、Qinghai Lakeにおける全硫黄、全セレンをパラメータとしてプロットすることにより現世堆積環境の違いを明瞭に区別できること、過去の堆積物環境が塩水系か淡水系かを推定できることが明らかになった。

 第9章ではErhai Lake堆積物中の鉄化合物の存在状態と酸化状態の垂直分布を調べ、全有機炭素量、14Cの年代決定による堆積速度変化、硫黄・セレンの動き等の情報に、先行研究による藻類の分析データを加えて、過去8千年の堆積環境の変化を推定した。鉄の酸化状態の解析から過去2千年までは湖は貧栄養湖で酸化的環境にあったが、それ以前には還元的で富栄養湖的傾向にあり、気候も過去2千年よりもやや温暖であったこと、また湖の変化を引き起こした原因の一つはこの断層湖でしばしば記録されている地震による湖水位の下降であると結論した。

 第10章は以上の結果を簡潔にまとめた結論である。

 現在の堆積物研究の主な流れは有機物の研究にあり、なかでも有機硫黄化合物の同定と構造の解析により特定の環境に結びつく化合物を特定することによって、続成作用のプロセスさらには過去の堆積環境を明らかにしようとしている。この動向は急速に発展した分子構造解析法に大きく依存している。しかしながらそれらは注意深く単離された比較的低分子量の有機化合物にのみ適用可能な方法であって、有機堆積物の大部分を占め、それらの起源をより直接的に示すはずの高分子化合物に関する研究は依然として低調である。他方セレンは農牧畜生産に深くかかわる元素であるとともに風土病の原因元素であることから、環境化学的見地から活発な研究がなされてきたものの、この元素そのものの地球表層における循環過程については断片的なデータが示されているに過ぎなかった。本研究はさまざまな堆積環境における硫黄とセレンに着目して巨視的立場から堆積水環境の塩濃度差を決める方法を始めて示し、この高分子化合物中の両元素の濃度およびS/Se比が時間経過とともに減少することから続成時間を推定する道筋を見い出した。さらに堆積物における硫黄、セレンの分布パターンから堆積物が形成された環境を推定できることをはじめて明らかにしたことは、古環境学に対する大きな貢献であり、人類による硫黄化合物の放出による環境へのインパクトの研究へ資するところ大なるものがあると認められる。

 よって審査委員会は本論文が博士(学術)の学位論文としてふさわしいものであると認め、合格と判定する。

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