学位論文要旨



No 115821
著者(漢字) 小野,直亮
著者(英字)
著者(カナ) オノ,ナオユキ
標題(和) 人工化学進化のモデル:自己複製構造の創発の計算機シミュレーション
標題(洋) Artificial Chemistry:Computational Studies on the Emergence of Self-Reproducing Units
報告番号 115821
報告番号 甲15821
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第306号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 助教授 嶋田,正和
 東京大学 客員助教授 谷,淳
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 佐々,真一
内容要旨 要旨を表示する

 地球上の生命の起原の問題については、近年の分子生物学の知見をもとにして、RNA代謝系起源説、タンパク質代謝系系起源説、脂質代謝系起源説などの仮説が提案され、様々な実験によって検証されてきているが、まだまだ決定的な結論を出すには到っていない。その一方で、生命とはなにか、について、個々の構成分子の性質を詳細に調べるよりも、全体のシステムがどのように振る舞うかに注目し、考えていこうというアプローチが存在する。その中で、生命を特徴付けるもっとも重要な性質の一つである進化可能性、そしてその進化可能性の基盤となる自己複製の能力について、その本質を捕らえ、その発生と進化の過程を議論するための様々なモデルが提案されてきた。

 自己複製分子の起源と並んで生命の発生と進化にとって不可欠なイベントは細胞の起原である。我々は原始細胞の起源とその役割を考えるため、単なる境界条件としての細胞膜ではなく、内側に閉じ込められた自己触媒反応によって動的に代謝され、維持される構造としての細胞膜を持つ細胞のモデルを構成し、その振舞いをシミュレーションした。

 まず一つ目のモデルでは、細胞膜の形成をシミュレーションするために、二次元空間上をブラウン運動する粒子のダイナミクスを考える。粒子の種類に疎水性、親水性、中性のものがあり、それぞれ異なる強さで反発し合うことを考える。細胞膜を構成する両親媒性の分子は、バネでつながれた疎水性、親水性の二つの粒子として表現される。分子同士の反発により、二重層からなる膜が自発的に形成され、膜胞を作る(図1a)。

 次に、分子の確率的な化学反応を導入する。膜分子を代謝することのできる自己触媒系を考え、膜胞の中に閉じ込めることによって、自己維持的な細胞構造をモデル化することができる(図1b)。代謝のリソースとなる粒子は、系の外部から一定の速さで供給され続けていると仮定している。リソース粒子が細胞膜をある程度透過できることを仮定すると、細胞はリソースを吸収しながら成長することができる。細胞の成長と膜の成長がずれ、膜の成長が速い場合、細胞の内外の圧力差によって細胞の形が変化してゆき、最終的には自発的な分裂が起こることが示された(図1c)。

 次に、より長いタイムスケールでのダイナミクスを考えるために、粒子の振舞いをより単純化したもう一つのモデルをシミュレーションした。このモデルでは粒子の運動は離散格子上のランダムウォークでモデル化されている。一つ目のモデルと同様に分子の疎水性相互作用と、自己触媒サイクルによる代謝を導入することで、細胞の成長と自発的な分裂が示された。

 また、図2では、特別な構造のない一様な初期条件からの発展を示す。この場合、膜の持つ半透性から、分子の浸透によって空間的に一様な状態が不安定化し、リソースが特定の領域に集中するようになる。その結果、原始細胞に相当する構造が自発的に形成されてくることが示された。また、このリソースの集中の効果により細胞を作るような自己触媒系が進化的に有利になり得ることがわかった。これらの結果は、前細胞的な化学進化の中から原始的な細胞が進化的に発生してくるシナリオを示唆していると言える。

 今後の課題としては、代謝系に遺伝的な変異を許し、細胞がどのように進化してゆくかを調べることなどが考えられる。

図1:細胞形成のモデル。(a)膜胞の自己組織化。(b)代謝系を持つ細胞。(c)細胞の分裂。

図2:一様な初期条件からの細胞の創発。左からt=30000,120000,180000.

審査要旨 要旨を表示する

 学位論文として提出された小野直亮氏の博士論文は、自己複製系の出現のメカニズムを探ることを目的とし、特に細胞膜と化学反応ネットとの相互作用という観点からコンピューターによるモデルシミュレーション実験という手法で解析したものである。

 本論文は全5章から成っている。第1章では、生命の起源に関する生化学的な知見とそれに対する理論的なアプローチについてサーベイされている。特に原始細胞の生成とそれに関わるこれまでの理論が簡単に議論されている。以下3つの章で、著者は3つの可能なモデルを紹介している。

 まず第2章では、1次元空間上での自己触媒型の化学反応システムを、確率的な粒子シミュレーションによって取り扱う。各化学物質は疎水、親水、中性のものがあり、それぞれが異なる強さで反発しあう。また代謝のリソースは常時外から注入される。このとき代謝反応の生成物のひとつが膜のような壁を形成し、この壁に挟まれた格好で代謝反応自身が維持する構造が、あるパラメター下で安定に維持することが示された。さらにこの壁で囲まれた「細胞」は分裂し、その数を増やすことが示された。

 第3章、第4章では2次元空間上での細胞の生成と分裂が報告されている。第3章では、平面上の粒子の運動や分子間力は、妥当なポテンシャル関数の中での運動としてモデル化される。ただし分子同士の化学反応は確率的に行なわせる。これにより二重層からなる膜が自発的に形成され、膜胞を作ることが示された。この膜胞は代謝反応を内部に持ち、細胞はリソースを吸収しながら反応を進めることで、成長することができる。細胞の成長と膜の成長がずれ、膜の成長が速い場合、細胞の内外の圧力差によって細胞の形が変化してゆき、最終的には自発的な分裂が起こることが示された。

 第4章では、粒子の運動は2次元離散格子上の確率粒子シミュレーションで扱われている。3章でのモデルと同様に分子の疎水性相互作用と、自己触媒サイクルによる代謝を導入することで、2重膜に囲まれた反応領域(細胞)の成長と自発的な分裂が示された。特に、初期に構造のない一様な状態から発展させても膜構造によるリソースの流れが生じ、空間的に一様な状態が不安定化してリソースが特定の領域に集中するようになる。その結果、原始細胞に相当する構造が自発的に形成されてくることが示された。これらの結果は、前細胞的な化学進化の中から原始的な細胞が進化的に選ばれることを示唆している。

 第5章は全体の総括であり、「膜と代謝系の相互維持」という視点から自己複製系のモデルを捉え直していこうという論文提出者の姿勢が伺われる。本論文は、膜というものの意味を、単に反応ネットワークの「囲い」ではなくて内部の反応そのものを積極的に保持するという研究の方向を、シミュレーションによる構成論的な視点からとらえ直したものである。各章で扱われたモデルは、細胞の形成と細胞の分裂の発生について、ミニマルな代謝系ネットワークをもとに議論したものである。それらは一定の決着をつけつつも、その結果浮上した新たな問題点を提起しており今後の研究の発展が期待されるものである。

 以上、当博士論文の研究は、十分に独創的なものであり、原始細胞系の生成と進化とを今後考えていく際に、基本となるものをいくつも指し示したといえるだろう。第5章の最後にも触れられているように、細胞の多細胞化や分化へのモデルの発展も含め、今後の研究の発展が十分に期待できる。

 本論文で挙げられた結果のうち第2、および第4章の一部が、論文としてすでに専門誌に掲載済みあるいは投稿中である。第3章は投稿準備中である。また共著論文に関しては、それらを博士論文として提出することに関する共著者の同意が得られている。

 以上のように論文提出者の研究は、自己複製系の理解に関して重要な寄与をなしていると考えられる。これらの点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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