学位論文要旨



No 115826
著者(漢字) 池田,真吾
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,シンゴ
標題(和) N-フェニルグリシン類の増感光分解機構の研究
標題(洋) Mechanistic Studies of Sensitized Photodecomposition ofN-Phenylglycines
報告番号 115826
報告番号 甲15826
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第311号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 助教授 瀬川,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 21世紀に入り、我々の生活は携帯電話、パソコンに代表される情報電子技術の著しい発達によりますます便利になりつつある。これらの技術の一翼を担っているのは有機光化学である。有機光化学の研究者は表示部材・記録媒体として有用な光機能性材料を提供してきた。その一例が超微細加工技術等で知られる感光性樹脂である。こうした用途では更なる集積化や性能の向上のため、光反応の高効率化が求められている。この目的を効率良く達成するために、反応機構を解明することは非常に重要なことである。光化学反応には多くの場合、マイクロ秒以下の寿命の反応中間体が関与しており、この中間体の構造や反応性を理解し、制御していくことが反応の高効率化を達成するためには必須である。近年のレーザーフラッシュフォトリシス(LFP)による過渡吸収スペクトル測定法の有機光化学への導入により、このような反応中間体として介在する短寿命化学種の直接観測が可能となり、反応機構に関する有用な知見が得られるようになった。本論文では感光性樹脂に供するラジカル重合開始剤として実用化されているN-フェニルグリシン(NPG)に着目し、その分解機構を解明することを目的とした。NPGはアミノ酸であるため通常研究で用いられるアミンより毒性が少ないとされ、色素と組み合わせて歯科用接着剤の開始剤としても知られている。NPGを使用した重合速度の研究例はいくつか報告されているが、反応の初期過程を調べたものは少なく、本論文で述べられている分解機構の研究は、産業分野への応用を考える上で有用な情報を与えてくれると考えられる。本研究では溶液中紫外線領域の光源を用いて、物理化学的特性が良く調べられているピレンを増感剤としたNPGの光分解機構をLFP測定、けい光消光実験、生成物解析により調べた。さらにNPG光分解の高効率化を目的として、添加剤の効果、増感剤および置換基の分解効率に及ぼす影響を検討した。

ピレンを増感剤とするNPGの増感光分解機構 アセトニトリル中のピレンのけい光はNPGの添加とともに消光され、エキサイプレックスと思われる発光(λmaz=454nm)が見られた。また、ピレン、NPGを含むアセトニトリル溶液に高圧水銀灯を用いて光照射すると、主生成物としてアニリン、ホルムアニリド、N-メチルアニリン(NMA)が得られた。これらは既に報告されている多環芳香族炭化水素を増感剤とする結果と一致する。水素供与体としてBu3SnHを添加するとNMAの収率が増大した。これらの結果は、アニリノメチルラジカルが反応中間体として介在していることを示している。溶媒については極性の低い酢酸エチル、ベンゼン-アセトニトリル混合溶媒では分解が遅く、メタノール、アセトニトリルでは分解効率が良いことがわかった。次に反応の初期過程の情報を得るために、LFP(355nm,13ns,O.7mJ/pulse)によるピレン、NPGのアセトニトリル溶液の過渡吸収スペクトルを測定したところ、493nmにピレンラジカルアニオン(py-・)の生成が確認され(図1)、この反応が励起一重項ピレンからNPGへの電子移動によって開始されることが判明した。以上の結果からピレンを増感剤とするNPGの増感光分解機構をスキーム1のように推定した。

電子受容体の添加効果 ピレンとNPGを含むアセトニトリル溶液にp-ジシアノベンゼン(DCB)を添加して光照射してところ、NPGの分解速度は1.9倍程度増大した。DCB未添加に比ベピレンの消失量は減少し、NMAの収率は増大した。また、アニリノメチルラジカルとDCBが反応して生成したと考えられる付加体が単離された。これはDCB存在下では発生するアニリノメチルラジカルの濃度が高くなったことを示すものと考えられる。さらに還元電位の異なる様々な電子受容体について、分解速度の比較およびピレンのけい光消光を調べた。その結果、けい光消光の速度定数(kq)は還元電位の順となったが(図3)、NPGの分解速度(kdecrel、電子受容体未添加に対する相対値)は必ずしもこの順とはならなかった(図2)。特にテトラシアノベンゼン(TCB)ではけい光消光は非常に速いにもかかわらずNPGの分解は著しく遅かった。一方ジエチルイソフタレート(DEIP)はピレンのけい光をほとんど消光しないにもかかわらず、NPGの分解はDCBを添加した場合と同じ位速いことがわかった。そこで、電子受容体による反応性の違いを理解するために過渡吸収スペクトルの測定を行った。DCB存在下では445nmにピレンラジカルカチオン(py+・)および343nmにジシアノベンゼンラジカルアニオンの生成が認められた(図4)。このことからこの反応は励起一重項ピレンからDCBへの電子移動によって開始されることが判明した。py+・の減衰の速度定数のNPG濃度依存性を調べたところ、線形関係が得られ、py+・からNPGへのホール移動が確認された。その速度定数は、1.1x1010M-1s-1と見積もられ、ほぼ拡散律速で進行していることが判明した。一方DEP存在下では電子受容体未添加の場合と同様py-・が生成し、この系ではNPGから励起一重項ピレンへの電子移動によって反応が進行することが明らかとなった。py-・消失速度定数のDEIP濃度依存性から、py-・からDEIPへの電子移動が速やかに進行している事がわかった(ket=1.2x109M-1S-1)。以上のことから、電子受容体存在下のNPG増感光分解機構は受容体のピレンけい光消光速度に応じて2種類に分類することができる。一つはNPGより消光が速い場合でDCBなどがあてはまり、スキーム2で分解は進行すると考えられる。py+・からNPGへのホール移動は発熱反応(-7kcal/mol)であり、LFPの結果を支持する。TCBでは接触ラジカルイオン対における逆電子移動が速い(kblが大きい)ために、NPGの分解が遅いものと推察される。もう一つはNPGより消光が遅い場合でDEIPが相当し、基本的にスキーム1で分解は進行する。DEIPの存在は電荷分離を促進し、生成したラジカルイオンの電荷再結合が抑制されるためにNPG分解効率の増大に繋がったと考えられる。py-・からDEIPへの電子移動の自由エネルギー変化は-2kcal/molと見積もられ、速やかな電子移動が起こることと矛盾しない。一方、BNではこの電子移動の過程は+8kcal/molの吸熱反応となるために起こりにくく、分解速度の増大には寄与しないことが判断される。

増感剤の効果、置換基効果 ペリレン、9,10-ジフェニルアントラセン等366nmにおける吸光係数がピレンより大きな数種類の一重項増感剤を用いてNPGの増感光分解を行ったが、ピレンより効率の高い増感剤はなかった。このピレンの有効性は、光誘起電子移動で生成したラジカルイオン対の逆電子移動が、調べた増感剤の中で最も抑制されているためと考えている。次にNPGの芳香環のp-位に様々な置換基を導入してそのピレン増感光分解速度、ピレンけい光消光速度を比較した。得られた値をハメットの置換基定数σp+に対してプロットした(図5)。消光速度はV字型となり、電子移動以外の消光過程の寄与が示唆される。一方、誘導体の分解速度とσp+は良い相関があり、電子供与基ほどNPG分解効率を向上させることがわかる。そこでメチル基を導入したNPGのピレン増感光分解において、メチル基の数と位置を変えて分解速度に対する影響を調べた。その結果、2,4-位に導入すると最も分解効率が高くなる(46倍)ことを見出した。メチル誘導体の酸化電位と分解速度は図6のような関係となり、2,4-ジメチル体における分解効率の向上はその高い電子供与性のためと考えられる。この誘導体に対してDCBを添加すると分解速度は7.1倍に加速することがわかった。P-メチル置換体に対して過渡吸収スペクトルを測定したところ、NPGと同様、py-・が観測されたことから、同一の反応機構で分解が進行していると考えられる。また、DCB存在下ではpy+・の生成が認められ、ホール移動の速度定数を見積もったところ、NPGの場合とほぼ同じ値が得られた。

重合への応用 以上のように電子受容体の添加、メチル基の導入によりNPGの分解に加速が認められた。更にラジカル開始剤の分解効率とモノマーの重合効率との関連性を調べるため、モノマーを添加して、重合速度を比較した。モノマーとして鎖状ポリマーを与える数種類のアクリルモノマーを使用した。DCBの添加効果は粘性の高いモノマーに対しては見られないものの、基本的には添加により重合効率が増大した。また誘導体に関しては、分解効率と同様、電子供与性が大きい方が重合効率が高く、2,4-ジメチル体が最も高いことが確認された。一方p-メチル置換体ではモノマーによっては効果が得られず、これらの結果から、発生するアニリノメチルラジカル誘導体のモノマーとの反応性が分解効率とは逆の序列となっている可能性が示唆される。重合に関する反応機構は現時点では明らかではないが、本研究によって、より効率の良いラジカル重合開始剤を開発するための方向性を示すことができたと考えられる。

まとめ ピレンとNPGからなるラジカル重合開始系において、電子受容体の添加、メチル基の導入により、高効率な開始系を構築することができた。今後、実用への展開が期待される。さらに他分野への応用として、増感色素と組み合わせることにより高効率開始系を構築できる可能性も秘めている。

図1 過渡吸収スペクトル

スキーム1 NPGのピレン増感光分解機構

図2 電子受容体の還元電位EredとKdecrelとの関係

図3 電子受容体の還元電位Eredとkqとの関係

図4 過渡吸収スペクトル

スキーム2 電子受容体存在下のピレン増感NPGの分解機構

図5 ハメットプロット

図6 メチル基導入NPGの分解速度と酸化電位との関係

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、第1章は本論文における研究の背景の説明、第2章はピレンを増感剤としたN-フェニルグリシン(NPG)の増感光分解機構について、第3章はNPGの光分解におよぼす電子受容体の添加効果について検討した結果と考察がなされている。さらに、第4章ではピレン以外の増感剤とNPGに導入した種々の置換基の効果を検討した結果と考察が述べられ、第5章ではこの系を重合反応に適用した結果が記載されている。そして、第6章では本論文で得られた結果が要約され、今後の展望が述べられている。

 現在の情報化社会を支える技術のひとつとして、感光性樹脂を用いた超微細加工技術がある。本論文は、それに用いられる代表的なラジカル重合開始剤であるNPGの増感光分解の反応機構に関するものである。第1章では、ラジカル重合開始剤としてのNPGの有用性と、こめ物質についてこれまでに報告されている研究が要約され、特に、NPGの光分解の初期過程を詳細に検討した研究がほとんどないことを指摘している。さらに、反応機構の研究が産業分野への応用を考える上で重要な情報を与えると主張して本論文の研究目的が明確に述べられており、本論文の研究が十分な調査と動機に裏付けられたものであると判断される。

 本論文では、NPGの光分解機構を調べるための増感剤として、その物理化学的特性がよく調べられている芳香族炭化水素のピレンを主に用いた。NPGのピレン増感光分解の機構は、反応生成物解析とけい光消光実験に加えて、レーザーフラッシュフォトリシス(LPF)を用いた過渡吸収スペクトルの測定により短寿命化学種の直接観測を行なうことによって検討されている。その結果が第3章に詳しく述べられており、それに基づいて、NPGの光分解は、NPGから励起一重項ピレンへの電子移動によって開始し、プロトンと二酸化炭素の脱離を経てアニリノメチルラジカルを発生するという反応機構を確立させた。この結果は、これまで推定にとどまっていた芳香族炭化水素によって増感されるNPGの光分解の機構を、LFPを用いて初めて明確にした点で高く評価される。

 さらに、NPGの増感光分解に電子移動が関与していることに着想を得て、光分解の高効率化のための添加剤として電子供与体を用いることの有効性を検討した。第3章に詳述されているように種々の電子供与体を調べた結果、p-ジシアノベンゼン(DCB)やイソフタル酸ジエチル(DEIP)などの電子受容体を添加することにより、NPGのピレン増感光分解速度が2倍程度まで加速することを見いだした。これは、これまでには全く知られていなかった新しい発見であり、電子移動が関与するラジカル重合開始系の高効率化のために新たな手段を提供するものと評価される。さらに、LFPを用いてその加速効果の原因の解明を試み、電子受容体存在下におけるNPGのピレン増感光分解機構を明らかにした。それによると、反応機構は添加する電子受容体の還元電位によって異なり、高い還元電位をもつDCBを添加した場合には、ピレンの励起状態のDCBによる速やかな還元的消光と、それに続くピレンラジカルカチオンからNPGへの速やかなホール移動がNPGの分解に寄与していることが判明した。一方、比較的低い還元電位をもつDEIPの場合には、電子受容体が存在しない場合と同様に、NPGからピレンの励起状態への電子移動によって反応が開始されるが、発生したピレンラジカルアニオンからDEIPへ速やかに電子移動が起こり、これがNPG分解の加速に寄与していることをつきとめた。これらの結果は、有機光化学的な観点からも極めて興味深い結果である。なお、第2章と第3章で述べられている結果は、すでに学術雑誌に速報として、さらにはフルペーパーとして発表されており、このことからも、本論文の研究成果が学術的に高い意義を持つものと判断される。

 第4章においては、NPGの光分解効率の更なる向上を目的として、ピレン以外の増感剤の効果を調べ、またNPGに導入した置換基の効果を検討した。増感剤については、前章までに用いたピレンが実質的に最も良好な結果を与えることを示し、それに機構的な説明を与えた。また、置換基については、NPGの電子供与性を高める置換基が増感光分解を加速することを明らかにし、NPGの46倍の光分解性をもつ新規物質、N-(2,4-ジメチルフェニル)グリシンの開発に成功した。さらに、第5章では、前章までに得られた結果が、NPGを含むラジカル重合開始系に有効であるかどうかを調べるために、アクリル系モノマーを用いて重合実験を行なった。その結果、電子受容体の添加およびNPGへの電子供与性置換基の導入によるNPGの分解速度の増大は、多くの場合においてモノマーの重合速度の増大を引き起こすことが確認された。この結果は、本論文において解明されたNPGの増感光分解機構に基づいて設計された光化学反応系が、光重合開始剤として実用的な価値を持つことを示唆しており、本論文の結果が特定分野の学術的興味にとどまらず、他の分野へ波及するものとして高い評価が与えられる。

 第6章に総括されているように、本論文は、これまで推定にとどまっていたNPGの増感光分解機構を明らかにするとともに、その結果に基づいて、NPGの光分解効率を増大させる手段を考え、それを実証した。それにとどまらず、NPGを越える性質を有する新規物質を開発し、工業的実用化への展開が期待される結果も示されており、全体として極めて完成度の高い研究であると評価される。

結び

 なお、本論文中のLFPを用いた測定に関しては、東京大学大学院理学系研究科浜口宏夫教授および石井邦彦氏との共同研究であるが、論文の提出者が測定および結果の解析を行なったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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