学位論文要旨



No 115827
著者(漢字) 河野,行雄
著者(英字)
著者(カナ) カワノ,ユキオ
標題(和) 量子ホール効果素子における非平衡電子のイメージング
標題(洋)
報告番号 115827
報告番号 甲15827
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第312号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 前田,京剛
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 教授 吉岡,大二郎
 東京大学 助教授 久我,隆弘
 東京大学 助教授 深津,晋
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

 縦抵抗Rxxが消失し、ホール抵抗RHが量子化値h/e2の整数分の1に一致する量子ホール系における電気伝導には、バルク状態の電子局在やエッジ状態に絡んだ非局所的な伝導など、多彩でかつ重要な物理が盛り込まれていることが知られている反面、基本的な部分で未だに理解の進んでいない問題も依然として残っている。その1つに、熱平衡状態にある電流端子とランダウ量子化された二次元電子系との接続という問題がある。ホールバー型伝導体の場合、電流端子近傍に非常に大きな電場が集中しているため、これが、端子からの電子注入や端子への電子抽出の過程に影響を与えたり、また抵抗量子化の局所的な崩壊を起こしたりすることが予想される。これらは、一般に無散逸の電流が流れるとされる量子ホール系の電気伝導に本質的に関わってくる問題であるが、にもかかわらず、これまで未解決のまま放置され続けた。その背景には、従来の測定対象が電気抵抗という物理量にほぼ限られてきたという事情がある。これだけでは、伝導体内部の電子状態を探るには限界がある。そこで、本研究は、電流端子の役割を解き明かすために、(i)電子系内部における熱平衡状態からずれた非平衡な電子の空間分布を観察する実験方法を確立し、(ii)そこから得られた結果をもとに、それがRxxやRHとどう相関し合っているかを明らかにする、という段階を踏んで実行された。

2. 実験方法

 非平衡電子分布をイメージングする方法としては、非平衡電子がランダウ準位間でエネルギー緩和するのに伴って生じるサイクロトロン発光(遠赤外光)の空間分解測定を用いるいう新しい手法を採用した。サイクロトロン発光測定は、ランダウ量子化された二次元電子系から生じるものだけを観測することになるため、端子中の散逸も含んでしまう熱散逸測定とは質的に異なっており、二次元電子系内の非平衡電子の振る舞いを直接的にプローブするための強力な手段となる。実際の測定では、伝導体の各位置から生じる光は極めて微弱であるため、高感度な遠赤外光検出器が必要となる。ところが、遠赤外光検出器には、高性能なものが世の中一般に存在せず、必然的に確立されたイメージング技術がない。そこで、本研究では、検出器の開発研究、高分解能測定のための光学系の構築にまず着手した。

 検出器は、同じく量子ホール効果素子のサイクロトロン共鳴光吸収を利用したものを開発した。この検出器は、市販のものよりも高感度で、さらに光応答スペクトルが狭帯域(波長選択性が高い)という特徴を有するため、余計な散逸を含まないサイクロトロン発光だけを検出し、量子ホール電子系内の純粋な非平衡電子分布のみを抽出することが可能となった。一方、イメージング測定のための方法としては、図1に示したようなソリッドイマージョンレンズによる顕微計測法を用いた。これは、基板の裏側にSi製の半球レンズをのせ、GaAs、Si結晶の高い誘電率を利用してその分だけ波長の大きさを減少させ、高分解能な画像化を可能にしようとする方法である。実際の空間分解測定は、試料が貼り付けてあるX-Y可動ステージを二次元方向にスキャンすることにより行った。今回得られた分解能は、約50μmである。

 以上の高感度狭帯域検出器と光学系とを組み合わせることにより、非平衡電子分布の詳細な観測が可能となった。

3. 実験結果

 図2に、ランダウ準位の電子による占有数2のときの、ホールバー全体にわたる非平衡電子分布の観測結果と試料両端に沿った電圧分布を示す。3つの異なる電流値I=70、250、400μAで測定されている。I=70μAでは、電子が注入されるコーナー、電子が抽出されていくコーナーの2箇所で非平衡電子分布が生成していることが分かる。電圧分布との対応から、この分布は有限の縦抵抗には全く結びついておらず、試料全体にわたって量子ホール効果状態が正しく保たれている、という驚くべき事実が明らかにされている。この2つの分布の発生には、ソース電極とドレイン電極との電気化学ポテンシャル差Δμsd=hωc/2(hωc:サイクロトロンエネルギー)に相当するしきい電流値が存在することが見出された。

 I=70μAからさらに電流を増大させていくと(I=250μA、I=400μA)、新たな別の分布がソース端子側においてのみ広がっていくのが見て取れる。ここでは、有限の縦抵抗が発生しており、この電圧分布は、電流の増大とともに試料内部に向けて広がっている。この縦電圧分布と新たに広がった非平衡電子分布は、さらなる詳細な測定から、量子ホール効果崩壊領域として、お互い正確に相関し合っていることが見い出された。

4. 議論

 今回明らかにされた非平衡電子分布と電圧分布との相関は、電流端子が電子伝導、抵抗量子化に与える影響について明確な解答を与えており、以下のように合理的に理解される。

 Δμsdが〓ωc/2を越えた場合は、フェルミ準位よりも1つ高次のランダウ準位の底がソース端子の電気化学ポテンシャルに一致する状況に相当する。この場合、ソース端子からは、本来空であるはずの高次のランダウ準位にトンネルによって非平衡電子が注入される。一方、ドレイン端子側では、電子が端子によって吸収される直前にランダウ準位間で電子遷移により、非平衡電子分布が生成される。ところが、これらの分布が、試料端に形成されるエッジ状態から空間的に離れた場所に位置している限りは、エッジ電流を介して電気的に結合している端子に、影響を及ぼすことはなく、試料全体にわたり抵抗量子化が保たれる。

 電流が増大すると、トンネル注入とは別の効果として、ソース端子側の大きな電場によって加熱された熱い電子の分布が、端子に沿って伸びていく。この電子が、電子注入位置とは反対側の試料端に達したときに、散乱によってエッジ状態の電気化学ポテンシャルを変化させる。その変化分が、有限の縦抵抗として端子間に局所的に現れる。

 一般に量子輸送現象では、電子溜と量子化された伝導体との接続が、しばしば問題になるが、以上の議論から、ホールバー型の量子ホール効果伝導体の場合、その抵抗量子化/崩壊は非常に特異な形で起こっており、磁場中の電子伝導に特徴的な現象であるということが言える。

5. 結語

 本研究によって、電子の空間分布と抵抗の発現とを精密に照らし合わせながら議論することが初めて可能となった。今後、本研究で開発された遠赤外光イメージングシステムに、さらに波長分解性、時間分解性を付加すれば、よりダイナミカルな電子の挙動を追跡することができるだろう。

図1 サイクロトロン発光イメージングのための光学系

図2 上段:異なる3つの電流値におけるサイクロトロン発行の空間分布。磁場は紙面の裏から表の方向に印加されている。

下段:試料両端における電圧分布。すべて、量子化ホール電圧分は差し引いている。左図が試料左端、右図が試料右端における分布に対応している

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなり、第1章では研究の背景、目的が、第2章では実験方法が説明されている。第3章では、前半で実験結果が示され、後半でそこから得られた知見をもとに第1章で提起された問題が詳しく議論されている。第4章は、実験装置の一部である遠赤外光検出器の開発研究について詳述されている。第5章では、結論が述べられた後、今後さらに展開可能な研究が提案されている。

内容

 本論文では、強磁場中の二次元電子系が示す(整数)量子ホール効果が一貫した研究の舞台になっている。

 第1章では、ホールバー型の量子ホール効果伝導体において、電流端子とランダウ量子化された二次元電子系との間の接続が、実は、電子の伝導や抵抗の量子化に微妙な問題をもたらしている可能性があることを指摘している。具体的には、電流端子における電子の注入・抽出の過程に変更を与え、さらに、電流端子近傍で抵抗量子化のブレークダウンを引き起こすことを予想している。これらの問題は、電子系内を無散逸の電流が流れるとされる量子ホール効果の根幹に関わる問題であるにもかかわらず、過去の量子ホール効果の伝導現象に関する研究ではほとんど見過ごされており、十分な理解が得られていないままである、と問題提起している。論文提出者は、この現状が、従来の研究における実験手段が電気抵抗測定のみにほぼ限られてきたためであると指摘している。そこで、本研究では、その打開策として、量子ホール効果伝導体から生じるサイクロトロン発光の空間分解測定により、発光に関与する非平衡電子の空間分布を観察するという新奇な方法を開発している。この方法は、電子の空間分布と伝導体の各位置での抵抗の発現とを厳密に照らし合わせながら議論することができるという点で、従来の測定にはない利点を有している。なお、この測定において、発光の波長は遠赤外光領域に属するが、この波長領域での技術は一般的に未開拓に止まっているため、遠赤外光のイメージング技術を立ち上げるということが本実験の技術的背景になっている。

 第2章では、実験の一連の過程、実験装置(試料の特性/作製方法、冷却・励磁系、使用した電子機器、イメージング測定の方法など)が記述されている。この中で、特にイメージング測定の光学系については、GaAs結晶の裏面に直接Si製の半球レンズをのせ、GaAs結晶の高い誘電率の分だけ光の波長を減少させることにより、高分解能な顕微を可能にしているという点で、工夫が見られる。

 第3章では、まず、サイクロトロン発光イメージング測定の結果と試料両端に沿った電圧分布の結果を比較させて示し、お互いの相関を明らかにしている。得られた結果から、次の事実が見出されている:

(i) 電子注入位置、電子抽出位置の2箇所において、非平衡電子分布が生成するものの、伝導体の全領域において有限の縦抵抗や接触抵抗は生じず、2端子抵抗は量子化値に一致したままである。

(ii) (i)とは独立に、電流増大とともにソース端子において伸びていく非平衡電子が、電子注入位置と反対側のコーナーに達したときに、はじめて有限の縦抵抗が生じる(量子ホール効果ブレークダウン)。このとき、試料内部、ドレイン端子側では、量子ホール効果が保たれたままになっている。

以上の知見から、電流端子と二次元電子系との間の電子注入・抽出のメカニズム、またそれが抵抗量子化/ブレークダウンに与える影響について、エッジ状態との関係をもとに、その描像を提示している。これは、第1章で提起された問題に対する明確な解答にもなっている。論文提出者は、さらに、量子ホール効果ブレークダウンに関係する非平衡電子の密度分布が、局所的な電場分布には単純に従っていないことも見出しており、このことが、ブレークダウンの微視的な機構そのものに端を発したものであることを考察している。第3章の最後には、今回の研究で開発されたサイクロトロン発光イメージング測定が、従来の熱分布測定と比べ、どのような点で優れているかを具体的に検証している。

 第3章で記述されているサイクロトロン発光の強度は極めて微弱であるが、高感度で狭帯域検出可能な遠赤外光検出器が世の中一般に存在しないという事情から、本研究では、その検出器の開発研究も同時に行っている。第4章は、この遠赤外光検出器の研究に関する内容について記されている。この研究では、量子ホール効果素子のサイクロトロン吸収に着目し、光応答が様々な実験パラメーターにどう依存するかを系統的に調べている。そこから、光応答の背景にある微視的な機構の理解を得るとともに、検出器としての最適な条件(ホール素子の形状、動作条件など)の抽出も行っている。時定数測定によるフォトキャリアの再結合過程の研究や電子加熱の仮定に基づいた簡単な計算結果との比較などから、光応答の発現はサイクロトロン吸収によるゆっくりとした電子温度の上昇として理解できることを示している。また、検出器としては、低雑音高感度(雑音等価パワー〜10-14W/Hz1/2)・狭帯域(Δν/ν〜2%)・分光可能(100〜150μmのダイナミックレンジ)という性能を達成している。これらの特性は、総合的に見て、従来の光伝導型検出器よりもはるかに優れている。第3章に記されたサイクロトロン発光測定の遂行は、この検出器の開発の成功が下地になっている。第4章後半では、さらに、試料端で生じる特異な光応答について調べた結果も記述しており、上記の検出器とは別に、高感度アレイ型検出器として新たな機能を発揮する可能性があることを指摘している。

 最終章である第5章では、前半において、本研究により得られたことを、技術面・物理面の両面にわたりまとめている。後半では、今回開発した測定方法に、さらに波長分解性、時間分解性を取り入れることで展開可能となる新たな研究について、具体的に提案している。

結び

 なお、本論文中の第3章の一部は、久永幸博氏、小宮山進氏、第4章の一部は、竹ノ内弘和氏、久永幸博氏、小宮山進氏との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって試料作製、測定、解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認める。

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