学位論文要旨



No 115829
著者(漢字) 關,浩二
著者(英字)
著者(カナ) セキ,コウジ
標題(和) イオン錯体,希ガス-HCO+および希ガス-HN2+,のマイクロ波分光
標題(洋) Microwave Spectroscopy of Ionic Complexes, Rare gas-HCO+ and Rare gas-HN2+
報告番号 115829
報告番号 甲15829
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第314号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 増田,茂
内容要旨 要旨を表示する

[1]序

 イオン錯体とは、電荷を持った分子イオンと中性分子が分子間相互作用により錯体を形成した系である。その分子間相互作用は主に電荷−誘起双極子相互作用に起因し、双極子−誘起双極子相互作用などにより錯体を形成する中性錯体とは大きく異なった性質が期待される。更に、水溶液中や星間空間中では分子イオンが安定に存在できることが知られており、このような条件下ではイオン錯体の存在も期待できる。このようなイオン錯体の中でも、プロトン(H+)を含む分子イオンと中性分子が作るイオン錯体は、プロトン交換反応、AH++B→A+HB+、の反応中間体と見なすことができ、特に興味が持たれる。これらのイオン錯体については、これまでほとんどの情報が赤外領域での前期解離分光法により得られているが、この方法には前期解離の解離限界を超えたエネルギー準位のみしか観測されないという不利な点がある。一方、赤外領域やマイクロ波領域での直接吸収分光法はこのような制約を受けない利点があるが、実験条件下でのイオン錯体の存在量が極めて低いことから、直接吸収分光法によるイオン錯体の研究例はこれまでに数例しかない。特にマイクロ波分光法は赤外分光法に比べて非常に高い周波数分解能を持っており、マイクロ波分光法をイオン錯体に適用できれば、イオン錯体の分子構造や分子間振動に関する詳細な情報を得ることが期待できる。

 本研究では、分子イオンの中で最も詳しく研究されているHCO+イオン、HN2+イオンと希ガスとが形成するイオン錯体Rg-HCO+およびRg-HN2+の一連の系を取り上げた。これらのイオン錯体はプロトン交換反応、RgH++CO→Rg+HCO+およびRgH++N2→Rg+HN2+、の反応中間体とみなすことができる。HCO+、HN2+の両イオンは1970年代に星間空間中で初めて発見されたのち実験室分光によって種の同定がなされた。その後も星間分子としての重要性から天文観測だけでなく実験室中においても広く研究がなされている。また、実験室中ではこれまでにRgH+イオンに関する研究も多く行われている。前述のプロトン交換反応はRg-H伸縮座標とH-X(X=C or N)伸縮座標による2次元のポテンシャルエネルギー曲面上で進行すると考えられ、この反応の始状態、終状態であるHCO+、HN2+、RgH+に関する研究が広く行われていることから、これらを含むイオン錯体の分子構造や分子間振動に関する情報が得られれば、これらのイオン交換反応のポテンシャルエネルギー曲面の極小点付近での挙動を論じることができるはずである。

 更に、イオン錯体Rg-HCO+およびRg-HN2+の分子構造や分子間振動などの性質は希ガスと分子の相対的なプロトン親和力に依存すると考えられ、希ガスのプロトン親和力が分子の値に近づくにつれ、錯体内でのRg-H間の相互作用が大きくなると予測される。このような意味でもこれらの一連の系を研究することは興味が持たれる。

 本研究では、パルス放電ノズルを用いて超音速ジェット中にこれらのイオン錯体を効率良く生成することに成功し、フーリエ変換型マイクロ波分光法によりイオン錯体Rg-HCO+、Rg-HN2+の純回転遷移を観測できた。

[2]イオン錯体Kr-HCO+のマイクロ波分光

 イオン錯体Rg-HCO+の一連の系に関しては、これまでに赤外前期解離分光法により、希ガスが大きくなるにつれて、錯体内におけるHCO+イオンのH-C伸縮振動の振動数が徐々に減少(レッドシフト)することが知られている。これは希ガスが大きくなるにつれて希ガスのプロトン親和力が相対的に大きくなるためと考えられる。一方、Ar-HCO+に関してはマイクロ波分光法により詳細な分子構造や分子間振動に関する情報が求められており、中性錯体の場合よりもずっと大きなRg-H相互作用が存在することがわかっている。本研究では、Arよりも更に大きなプロトン親和力を持つKrに注目し、マイクロ波分光法によりイオン錯体Kr-HCO+の研究を行った。

 測定の結果、Kr-HCO+の6種類の同位体種に対して計28本の純回転遷移を観測した。同位体種の測定とソレノイドコイルを用いた測定からKr-HCO+の帰属が確認された。観測された遷移周波数を最小二乗解析することにより、Kr-HCO+の各同位体種に対して回転定数、および遠心力歪み定数を決定した。

 観測されたスペクトルパターンからこのイオン錯体が直線構造を持つことが確認された。各同位体種の回転定数からKr-HCO+のrs構造を決定できたが、rs構造における錯体内のC-O距離がHCO+単体の値より若干短くなっているだけなのに対して、H-C距離は単体の値よりも非現実的に短い値となった。同様の現象がAr-HCO+の場合にも見られており、これは錯体中でHが重心に近い位置にいるためrs構造がこの場合適当ではないことによる。そこで本研究では、HCO+イオンが錯体内で大振幅な変角振動をしているモデルを解析に用いた。さらに、実験と並行して行ったab initio計算により、錯体形成に伴いH-C距離が0.026Å伸びることが示唆されたので、その効果も取り入れて解析を行った。

 その結果、Kr-HCO+のKr-H距離、Kr-H伸縮振動の力の定数を表1のように決定した。Kr-HCO+のRg-H距離はAr-HCO+と比べて約0.1Å長い値となっており、これはArとKrのvan der Waals半径の差とほぼ同程度であり、両者のRg-H相互作用に本質的な違いは見られなかった。一方、このRg-H距離は中性錯体の場合より0.5Å-0.7Åも短くなっており、イオン錯体中に強い分子間相互作用が存在することが確認された。また、Kr-HCO+のRg-H伸縮の力の定数はAr-HCO+の場合より約25%も大きくなっており、Kr-HCO+中にAr-HCO+よりも強いRg-H相互作用が存在することがわかった。

[3]イオン錯体Rg-HN2+のマイクロ波分光

 イオン錯体Rg-HN2+の一連の系に関しては、これまでに赤外前期解離分光法により、希ガスが大きくなるにつれて、錯体内におけるHN2+イオンのH-N伸縮振動の振動数が徐々にレッドシフトすること、またレッドシフトの度合いがRg-HCO+の場合よりずっと大きいことが知られている。これはN2のプロトン親和力がCOよりも小さいために、希ガスのプロトン親和力が相対的に大きくなるためと考えられる。Rg-HN2+の系に関してはこれまでにマイクロ波分光法による詳細な分子構造や分子間振動に関する研究が報告されていなかった。本研究では、Rg-HN2+の一連の系に注目し、マイクロ波分光法によりイオン錯体Ar-HN2+、Kr-HN2+の研究を行った。

 測定の結果、Ar-HN2+の6種類の同位体種に対して計21本、Kr-HN2+の3種類の同位体種に対して計8本の純回転遷移を観測した。帰属の確認は同位体種の測定によって行った。更にRg-HN2+の純回転遷移には複雑なスペクトルパターンが見られたが、平行型ビーム法によるマイクロ波分光法の測定により、複雑に分裂した吸収線をすべて窒素核の核スピンに由来する超微細成分によるものと確認した。観測されたスペクトルパターンはこれらのイオン錯体が直線構造を持つことを示していた。測定した遷移周波数を最小二乗解析することにより、Ar-HN2+、Kr-HN2+の各同位体種に対して回転定数、遠心力歪み定数、および2つの窒素核の核四重極子結合定数を決定した。

 Rg-HCO+の場合同様、Ar-HN2+に対して得られたrs構造では、H-N距離がHN2+単体の値よりも非現実的に短い値となった。そこで本研究では、HN2+イオンが錯体内で大振幅な変角振動をしているモデルを解析に用いた。さらに、実験と並行して行ったab initio計算により、錯体形成に伴いH-N距離がAr-HN2+に対しては0.050Å、Kr-HN2+に対しては0.073Å伸びることが示されたので、その効果も取り入れて解析を行った。

 その結果、これらのイオン錯体のRg-H距離、Rg-H伸縮振動の力の定数を表2のように決定した。Rg-HN2+のRg-H距離はRg-HCO+に比べて約0.25Å短くなっていた。このことはRg-HN2+中により強いRg-H相互作用が存在することを示している。また、Kr-HN2+のRg-H伸縮の力の定数はAr-HN2+の場合より約26%も大きくなっており、Kr-HN2+中にAr-HN2+よりも更に強いRg-H相互作用が存在することがわかった。

 さらに、Rg-HN2+中の2つの窒素核に対して得られた核四重極子結合定数から、錯体形成に伴うHN2+のH-N結合の変化に関する情報が得られた。Ar-HN2+、Kr-HN2+中の外側の窒素核の核四重極子結合定数は、HN2+、N2の値と大きな違いはないが、内側の窒素核の核四重極子結合定数は、HN2+、Ar-HN2+、Kr-HN2+の順に大きくなりN2の値に近づいている。このことは、HN2+イオンがRgと錯体を形成することによりH-N結合が弱くなりプロトンが希ガス側に引きつけられていることを示している。

表1 Kr-HCO+のRg-H距離、Rg-H伸縮振動の力の定数

r(Rg-H):Rg-H距離(単位:Å)、ks:Rg-H伸縮振動の力の定数(単位:mdynÅ-1)括弧内の数字:末尾の数字に対する誤差

表2 Rg-HN2+のRg-H距離、Rg-H伸縮振動の力の定数

r(Rg-H):Rg-H距離(単位:Å)、ks:Rg-H伸縮振動の力の定数(単位:mdynÅ-1)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなり、第1章は導入の説明、第2章は実験手法に関する説明にあてられている。第3章、4章が実際の実験結果であり、第3章ではKr-HCO+の実験結果、解析、得られた結果の考察が行われており、第4章ではAr-HCO+及びKr-HCO+について同様の内容の説明があり、その後第3章の結果も含め本論文全体のまとめの議論がなされている。

 本論文では、フーリエ変換マイクロ波分光法により電荷を持つイオン錯体の分光を行い、錯体の構造、分子間相互作用に関して得られた新しい知見に関して議論している。一安定な中性分子どうしの分子錯体の構造や分子間相互作用に関しては、近年のフーリエ変換マイクロ波分光法などの発展により、多くの実験データが集積され、詳細な議論が行われるようになってきている。これに対して電荷を持つ分子イオンを含む分子錯体は、このような錯体がイオン分子反応の反応中間体として重要視されているにも拘わらず、これまで定量的な実験データが極めて限られていた。近年になって、パルス放電ノズルを組み合わせた超音速ジェット法により稀ガスと陽子付加イオンであるHCO+の錯体、Ar-HCO+のフーリエ変換マイクロ波分光が行われ、新しい可能性が開けてきた。論文請求者は、この研究成果を受け、同様の系の更に系統的な研究を目指した。

 稀ガスと陽子付加イオンの分子錯体は、RgH++(分子)−Rg+(分子)+の反応の反応中間体であり、この反応は稀ガス及び(分子)の相対的な陽子親和度で反応エネルギーが支配される。そのため、イオン錯体の構造、分子間ポテンシャルが稀ガス及び相手の分子の陽子親和度を系統的に変化させることでどのように変化していくかに大きな興味がもたれる。論文請求者は、稀ガスをArからより陽子親和度の大きなKrに変化させたKr-HCO+、および相手となる分子をCOからより陽子親和度が小さく稀ガスに近いN2に変化させた系を取り上げ、それらのマイクロ波分光を行い、詳細な分子構造を求めると共に、これらの系の分子間相互作用に関し検討を行い、実際に陽子親和度の変化とともに構造や、分子間相互作用が系統的に変化していることを実証することを目指した。第1章ではこのような問題の位置付け、先行する研究のレビューを行っている。第2章で説明した実験装置は、基本的には先行する研究に使用したものであるが、更に多様な系に適用するために装置に様々な改良を施しており、その説明にあてられている。その一つが電荷を持つ分子種を中性分子から区別するためのコイルの設置であり、これにより効率的にイオン種を分別することができるようになった。また、もう一つの点としては、窒素原子を含む錯体の場合に問題になる複雑な超微細相互作用分裂を分解能よく分離するための超音速ビームの生成方法の改良が挙げられる。

 このように改良を施した装置により、第3、4章で実際の分光結果を示している。そのうち第3章では既報のAr-HCO+の系の稀ガスをKrに替えた系であるKr-HCO+の結果について述べている。これらの系では共にCO分子の陽子親和度が稀ガスより大きいためにイオン錯体は、HCO+イオンにArが付加した形を取るが、Krの方がArより陽子親和度が大きいため稀ガスと分子イオンの分子間相互作用は、Kr-HCO+の方が大きくなることが期待される。本研究ではこの系の様々な同位体種の分光を行うことで実際に結合が強くなっていることが確認された。

 第4章では、相手の分子をCOからN2に替えた系であるAr-HN2+およびKr-HN2+の系を論じている。これらの系の場合、N2の陽子親和度がCOのそれに比べかなり小さくなるため稀ガスとの相互作用がかなり強くなり、錯体の構造にも大きな変化が生じることが期待される。実際、稀ガスと陽子との結合距離がCOを含む錯体の場合に比べ0.2Å以上短くなっていることが確認された。また、窒素を含む分子錯体では窒素核に起因する超微細分裂が期待され、その解析から錯体形成に伴う電子構造の変化に関する情報が得られる。本研究で論文請求者は、超微細分裂により信号強度が格段に弱くなっているにも拘わらず、注意深い解析により超微細分裂定数を決定することができた。決定した定数をArとより陽子親和度の大きなKrの系に対し比較することにより、実際に相手の稀ガスの陽子親和度の増大がより大きな電子構造の変化を生じていることを見い出した。

 このように本研究は、先行する研究であるAr-HCO+のフーリエ変換マイクロ波分光を更に発展させ、(稀ガス)−(陽子付加分子イオン)に関する系統的な結果を得たものであり、その学術的な価値は高いと評価できる。

結び

 なお、本論文中の第3、4章の一部は、遠藤泰樹、住吉英吉氏との共同研究であるが、論文の提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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