学位論文要旨



No 115830
著者(漢字) 高橋,誠志
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,セイジ
標題(和) 不規則散乱に起因する量子力学的遷移確率の揺らぎ
標題(洋)
報告番号 115830
報告番号 甲15830
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第315号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 氷上,忍
内容要旨 要旨を表示する

 第1章 序論

 化学反応の生起、進行する仕組みを理解し、また種々の複雑な反応のコントロールを実現させるためには、反応の遷移状態で起こる現象を解明することが不可欠である。多数の原子が関連する現象の理解のためにたとえば各原子の古典軌跡を追跡するような方法を用いるならば、膨大な計算量が必要となる。そこで、遷移状態理論、RRKM理論、および位相空間理論に代表される、いわゆる「化学反応の統計理論」が利用されている。これらの統計理論は、「等重率の仮定」すなわち、「エネルギー的に到達可能なすべての終状態は等しい確率で実現する」という仮定に基づいている。そのような「統計的振舞い」は、反応過程の中で原子の古典軌道がカオス的振舞いをするときによく成り立つと考えられてきた。

 しかし「状態から状態への化学」の進展により、統計理論が適用できないような強い状態選択性が存在することが明らかになってきた。すなわちレーザー分光学の進歩により、これまで統計的振舞いを示すと信じられてきた系は複雑な状態選択性を示すことが明らかになり、等重率の仮定が実現していると解釈できなくなった。

 最近では、統計的振舞いについて新しい解釈が提案されている。遷移確率、スペクトルの強度、および解離速度の分布などには、現実には従来の理論による結果からの「ゆらぎ」が生じている。すなわち、等重率に基づく理論から予測される値は結果の期待値であり、その期待値のまわりで「ゆらぎ」が生じるという考え方である。この「ゆらぎ」を探る最近の研究では、相互作用行列要素、フランクコンドン行列あるいは散乱のS行列の行列要素が正規分布に従うという視点で分析されてきている。しかし、それらの行列要素が正規分布に従う理由は未だに知られていない。

 本研究では、この「ゆらぎ」の原因が、衝突の古典カオスである「不規則散乱」で説明できることを示す。原子-二原子分子の共線形衝突について、半古典論の手法を用いて量子力学的遷移確率を計算し、不規則散乱の現象が生じる際に遷移確率が「ゆらぎ」を持つことを示す。また、S行列要素の「ゆらぎ」の成分が正規分布に従うことを示す。

不規則散乱

 不規則散乱では振動非弾性衝突の始状態の振動角変数φiに対して振動終状態の振動作用変数Jfの値をプロットしたグラフ「励起プロファイル」にフラクタル図形が現れる(図1)。そのフラクタル図形は無数の「つらら(icicle)」の名称で呼ばれる図形の折り畳みで形成されている。不規則散乱は、衝突過程での古典カオスの出現であり、「トラッピング(trapping)」に起因する。トラッピングは、非弾性衝突の際、入射粒子が瞬時に脱出せず捕捉される現象である。

半古典S行列

 半古典S行列の手法により、古典軌道を用いて振動励起・脱励起の遷移確率を求めることができる。Millerの半古典S行列の表式は、次の形になる。

和は衝突始状態の作用変数Jiから出発し、与えられたJfに到達する全ての古典軌跡についてとる。またrnはprimitive半古典S行列では、停留位相近似に基づき、

と表される。但し古典軌道の焦線では∂Jf/∂φiが0となり上式は発散する。

 停留位相の近似よりも高次の項を取り入れる手法がユニフォーム近似である。ユニフォーム近似を用いた場合、primitive法の場合と異なり、焦線近傍の古典軌道についても発散を回避できる。

 不規則散乱の場合、半古典S行列は無限級数となる。本研究では無限級数を絶対値の大きい順に項を足し上げ、充分に級数が収束したところで打ち切る処方を用いた。

第2章 漸化式モデルによる遷移確率の「ゆらぎ」の出現

 本章では、原子・二原子分子の非弾性衝突を単純化したモデル「漸化式モデル」を用いる。このモデルでは、少ない計算量で不規則散乱後の分子振動の終状態(Jf,φf)を得ることができ、励起プロファイル上でのつららのフラクタル図形を再現することができる。

半古典S行列の手法により遷移確率|SJf←Ji|2のJf依存性を計算した。遷移確率の変動が生じる様子が見られた。量子干渉を考慮しない場合、すなわち古典確率にはこのような変動は見出せなかった。すなわち、量子干渉効果が「ゆらぎ」の原因となっている。

 一方、トラッピングの起こらない「directな軌道」のみ散乱の場合では、その干渉の効果は遷移確率の単純な振動をもたらすに過ぎない。不規則散乱の場合にはじめて遷移確率の変動は予測を許さない複雑なものとなる。

 この複雑な変化が遷移確率の「ゆらぎ」である。その原因は不規則散乱の際のカオス的な古典軌道である。すなわち、不規則散乱では多数の古典軌跡がひとつのS行列要素に寄与する。その多数の古典軌跡の確率振幅が互いに干渉し、S行列要素にゆらぎをもたらす。この「ゆらぎ」は、〓→0の操作により特に顕著に出現する。

第3章 樋型モデルによる散乱

 本章では、不規則散乱の源であるトラッピングが起こるような最も単純化されたポテンシャル散乱を議論する。樋の形状を持つポテンシャルを組み合わせたモデルポテンシャルを用い、〓→0の操作を用いなくても遷移確率のゆらぎが出現することを示した。

第4章 共線型Xe+I2衝突における遷移確率の「ゆらぎ」

 単純化されたモデルではなく、共線形非弾性衝突Xe+I2の半古典S行列の計算を行った。

 S行列の各項の足し上げを行う際、絶対値の大きい項から順に足し上げ、有限項で打ち切る。最初の数項の和を「deterministic part」と呼び、S(D)と表す。S-S(D)を「fluctuating part」と呼び、S(F)と表す。

 数値計算によりS(F)を求めた。S(F)はJfに依存して非常に乱雑な変化を示す様子が見られた。

また、遷移確率|ΣS(D)+ΣS(F)|2と|ΣS(D)|2の差も、Jfの値の変化に従って非常に乱雑に変化した。(図2)。これは遷移確率に「ゆらぎ」が発生することが示された。

 S行列級数の各項の絶対値の度数分布を求めると、大きさの小さい項ほど多数存在することがわかる。その個数は両対数グラフで近似的に直線状に増加する。すなわち式(1)のrの大きさの分布P(r)について次式を得ることができる。

またS行列級数の各項rnの複素数の偏角の分布を調べた。偏角はいずれの角度にも偏ることなく一様に分布している様子が見出された。

第5章 確率分布関数の定式化

 半古典S行列の要素の各項の偏角の分布が一様であること、および中心極限定理を用いて、半古典S行列の行列要素の確率分布関数を導出した。分布関数は

のように表される。これは2次元等方正規分布である。分散Σ2は

で表される。但しrmaxはS(F)の級数に寄与する最大の項の大きさである。

漸化式モデルの、〓=0.01の場合について定式化の妥当性を検討した。半古典S行列の手法で求めた|SJf←Ji|2のヒストグラムを作り、式(5)および式(6)から導かれる|S(F)|2の分布関数と比較した。両者は一致し、定式化が妥当であることを確認できた。

 樋型モデルで同様の比較を行った。S(F)Jf←Jiの分布は、二次元等方正規分布の特徴を備えた分布となっていることが確認できた。

 Xe+I2非弾性衝突について、量子化されたJfの値を持つS(F)Jf←70.5の値の分布を調べた。S(F)Jf←70.5の値は複素平面上で二次元等方正規分布に従って分布する様子が見られた。また、|ΣS(D)+Σ3(F)|2-|ΣS(D)|2の値の分布は、正規分布に類似していることを確認できた。また、その分散Σ2は式(5)によって予測される値と合致することが確認された。

 以上により、多数の古典軌道からの遷移振幅の寄与が重なり合ってS行列要素にガウス揺らぎが生じるメカニズムが実証された。

第6章 遷移確率の予測

 前章で議論した確率分布をS行列要素の値の推定に応用することができる。励起プロファイル上の太いつららはS行列級数の大きな項に対応する。そこで励起プロファイル上の太いつららのみに着目し、有限個のrnからrnの分布(式(3))を推定する。式(5)を用いてS行列要素の確率分布(式(4))を求める。その確率分布は無限級数の和であるS行列要素の値の確率分布になっている。すなわち無限級数の和の値を確率予測できるわけである。漸化式モデル、He-I2非弾性衝突、およびXe-I2の非弾性衝突の場合について、複素平面上でS行列要素の値の収束先を予測する予報円を求めた。

図1: Xe+I2の衝突による励起プロファイル。(a)は全体像。(b)は(a)の一部の拡大図。

図2: Xe+12の衝突における|ΣS(D)+ΣS(F)|2-|Σ3(D)|2

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、第1章では研究の背景説明と研究目的が、第2章から第4章ではモデルを用いた理論解析の結果が記述されている。第5章ではモデル解析の結果を一般化する理論が提示され、第6章ではそれに基づく応用例が論考されている。

研究の背景と目的

 化学反応をミクロな視点から理解するには、化学反応途上での個々の原子の運動を逐一追跡するという方法がある。少数の原子が関与する化学反応ならばそれは可能である。しかし、一般の多原子分子の場合にはそのような方法は実用上不可能であるだけでなく、反応過程を定性的に理解する方針として有用ではなくなる。そのような場合、「化学反応の統計理論」が有用であることが知られている。統計理論は「エネルギー的に生成しうる全ての量子状態が等確率で実現する」という等重率の原理を基本原理としており、等重率の原理は対応する古典ダイナミクスがカオス的であるときに成り立つと考えられている。

 近年のレーザー分光学の進歩により、個々の量子状態の生成確率を精密に測定する、いわゆる状態から状態への化学が可能となった。その結果、個々の量子状態の生成確率は状態に依存して「ばらつき」を示すことが明らかにされた。この「ばらつき」は系統的な挙動を示しこれを状態選択性であると解釈できる場合も見出されたが、一方では系統的な解釈が絶望的であるほど複雑な挙動を示す場合も多く見られた。後者の場合の解釈として新しい統計理論が提案された。すなわち、ダイナミクスがカオス的であるとき、生成確率の「ばらつき」がランダムになるという考え方である。言い換えれば、生成確率の統計分布に着目し、生成確率すなわち反応終状態への遷移確率が「ゆらぎ」をもつという考え方である。この新しい統計理論を実証する実験結果も報告されている。しかし、どのようなメカニズムで生成確率がランダムになるかについての研究はなされていない。

 本論文の目的は散乱過程の古典カオスである不規則散乱を示す原子分子衝突のモデル系の散乱行列を半古典論の立場から解析し、終状態の生成確率に「ゆらぎ」をもたらすメカニズムを明らかにすることである。

論文の内容

 第2章では不規則散乱を記述する数理的モデルである漸化式モデルに基づいた解析について述べられている。不規則散乱に半古典論を適用する場合に解決すべき問題点が指摘され、それに対する処方が提案されている。その方法に基づいて半古典論をモデルに対して適用し、遷移確率の終状態依存性を数値的に解析し、次のような結論を得ている。プランク定数の値を人為的に小さくすると遷移状態は終状態の関数として複雑な変動を示す。これは遷移確率の「ゆらぎ」であると解釈できる。すなわち、遷移確率の「ゆらぎ」は古典極限で発現する。一方、量子力学的干渉効果を考慮しない純古典論にもとづく遷移確率は殆ど変動を示さない。このことから、遷移確率の揺らぎは量子干渉の効果であり、古典極限に近い状況でより顕著に現れることが示された。

 第3章では簡単な樋型のモデルポテンシャル上の散乱問題について遷移確率の振舞の半古典論に基づいた解析が報告されている。本章のモデルではプランク定数の値を人為的に操作することなく「ゆらぎ」が見出されている。

 第4章では原子分子衝突としてより現実的なモデルを解析している。すなわちXe原子とヨウ素分子の共線型振動非弾性衝突における遷移確率の振舞について論述されている。半古典論により導かれる散乱行列要素が、系統的な挙動を示す決定論的項と「ゆらぎ」をもたらす確率論的項の二つの部分からなることが示された。実際、確率論的項が遷移確率に「ゆらぎ」をもたらすことが数値計算により示された。

 第5章では前章までの数値解析の結果を踏まえて、遷移確率に「ゆらぎ」が現れるメカニズムを提案しそれに基づく定式化が展開されている。半古典論によれば量子力学的遷移振幅は、与えられた始状態と終状態を結ぶ古典軌跡からの寄与の和で表される。衝突のダイナミクスがカオス的であるとき、すなわち不規則散乱であるとき、無限個の古典軌跡が遷移確率に寄与する。各々の古典軌跡からの遷移振幅への寄与は複素数で表されるが、第2章から第4章の数値解析によると、その偏角がランダムであることがわかっている。その結果、遷移振幅は多数の乱数の和で表される。確率論の中心極限定理を適用することにより、遷移振幅のアンサンブルは複素平面上で二次元等方正規分布に従うことが示される。そして、遷移確率の「ゆらぎ」成分はカイ二乗分布に従うことが導かれる。第2章から第4章のモデル計算の結果は定量的にこの定式化が妥当であることを支持している。

 第6章では前章の定式化の実用的な目的への応用について論じられている。遷移確率の「ゆらぎ」成分の確率分布関数が定式化により与えられていることを利用して、遷移確率の値を統計学的に区間推定する方法である。第2章から第3章までに記述されたモデルを用いて、この方法が有効に機能する実例が示されている。

論文の意義

 化学反応の統計理論は多原子分子の化学反応を理解する上で重要な位置を占める。統計理論は、カオス的ダイナミクスがもたらすと期待されるランダム性を最初から仮定する現象論であるが、本論文は、狭く限定された条件の中ではあるが、カオス的ダイナミクスが何故ランダム性をもたらすかという問に対する可能な一つの答えを提案している。すなわち、決定論的ダイナミクスの立場から統計理論の成立根拠を確保する研究の端緒をつけるものである。従来独立に研究されてきた、決定論的ダイナミクスが支配するミクロな視点と、統計性が現れるマクロな視点の橋渡しに貢献する結果であると考えられる。

結び

 なお本論文中の第4章および第5章の一部は、染田清彦氏との共同研究であるが、論文の提出者が主体となって理論解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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