No | 115832 | |
著者(漢字) | 寺尾,浩志 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | テラオ,ヒロシ | |
標題(和) | 分子性水和結晶における動的水素結合 | |
標題(洋) | Dynamic Hydrogen Bonds in Hydrated Morecular Crystals | |
報告番号 | 115832 | |
報告番号 | 甲15832 | |
学位授与日 | 2001.03.29 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(学術) | |
学位記番号 | 博総合第317号 | |
研究科 | 総合文化研究科 | |
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 1. はじめに 近年、分子集合体の科学において、巧みな分子修飾・構造制御により、従来の有機化合物においては常識とされていた概念、例えば「絶縁体」、あるいは「反磁性体」などといった見方を覆すような物性の発現が、数多く報告されている。このような機能性分子を組織化する上で、水素結合がよく利用されるが、水素結合は、一方で、プロトン移動にともなう動的挙動を示すことでも注目されている。生体系におけるプロトン輸送や、氷の示す誘電性・伝導性などの性質は、この動的性質の側面によりもたらされているといえる。申請者は、分子修飾・結晶構造制御という有機物の特長を生かしつつ、結晶内に動的水素結合を持ち込むことにより、水素結合系内における結合の切り替えを通じて、荷電種が変位を起こすいくつかの系の構築に成功し、その電気的物性の発現機構を明らかにした。 2. 四角酸誘導体含水結晶及びアンモニウム塩の構造と誘電的特徴 有機結晶に動的水素結合を持ち込むにあたり、申請者は、2つの3-ヒドロキシエノン骨格が互いに直交して組み込まれた四角酸に注目した。強い酸性を示す四角酸は、短い水素結合距離を持つ2次元水素結合型結晶を形成し、結晶内で分子間プロトン移動を起こすことが知られている、数少ない分子のうちの一つである。従って、四角酸の水酸基の一つが置換されれば、残された水酸基でのプロトン移動と、置換基による構造的変調から、新たな動的過程の発現が期待できる。 新規の水素結合性構造体を構築し、その特徴的な動的挙動を考察するため、o-フェニレンビス四角酸(o-PBSQ)を合成し、2種類の含水結晶I,IIおよび、テトラメチルアンモニウムとの塩を得た。これらの結晶は、o-PBSQの分子内における四角酸部分同士の立体的な反発のため、それぞれ、らせん状、層状、二量体型水素結合系といった、特徴的構造を構築していることがわかった。含水結晶Iにおいては、モノアニオンとなったo-PBSQが互いに水素結合を形成しているが、分子自身の持つキラリティーのため・水素結合がらせん状となっている(図1(a))。一方、o-PBSQ・テトラメチルアンモニウム塩結晶においては、向かい合ったo-PBSQ同士で2点のアニオン-中性の水素結合により、二量体を形成している(図1(b))。この二重水素結合間では、交流誘電率測定・重水素置換効果の検討から、水素結合とは垂直の方向にプロトンが移動していることが示唆された。 以上ように、新規四角酸誘導体(o-PBSQ)は、作成条件・組成の違いにより、様々な構造を取りうるため、動的過程を持つ構造体構築の上で、有用な構成要素であることが分かった。 3. 四角酸誘導体結晶における水分子を含んだ1次元水素結合系における動的挙動 生体内におけるエネルギー輸送・情報伝達の面で、水分子による一次元系は注目を集めている。しかしながら、従来からその理論的モデルは提唱されながらも、実現は困難とされてきた。そこで、水分子を含んだ一次元系における動的挙動を検討する目的で、2つの四角酸部分をビフェニルで結んだビス四角酸ビフェニル(BSQB)を新たに合成した。この分子の結晶作成を試みたところ、含水結晶中には、複数の水分子と四角酸部分からなる一次元水素結合系が構築されていることが明らかになった。この結晶のX線構造解析の結果を図2に示す。結晶中、111平面上には、水分子4つと四角酸部分が交互に並び、シート構造を形成している。また、BSQBの四角酸部分の1,3位の炭素一酸素原子間距離から、結晶中では一部プロトンが解離しているとみられる。従って、水分子のいくつかはオキソニウムイオンとなり、低温では四角酸部分の近傍に位置していると考えられる。交流誘電率の測定により、室温付近で、周波数依存性をもつ誘電率の急激な上昇が観測された。また、290Kでの誘電正接tanδ(δ:損失角)の周波数依存性をプロットしたところ、周波数3.0kHzの比較的低周波領域に極大を持ち、この極大は、温度の低下とともに、さらに低周波側へシフトする傾向が認められた(図3)。 通常、気相などの孤立系における水素結合の切り替えは、ここで観測されたタイムスケールよりも、非常に短時間に起こる。従って、上記の実験結果は、局所的なプロトンの切り替えのみによるものでは解釈できず、協同的プロトン移動が起こっていることを示唆している。 この結晶の動的機構を、前述の構造解析の結果を踏まえ、検討を加えた。低温ではオキソニウムイオンはBSQBのごく近傍に位置している。従って四角酸アニオンの負電荷は、主に四角酸部分の1,3位の酸素原子のうちの一方に局在していると考えられ、この間に双極子モーメントが生じている。しかし温度が上昇すると、クラスター内の水分子の振動・回転運動が活性化し、エノレートの近傍にあったオキソニウムイオンは、プロトンを近接の水分子に受け渡すことが可能となる。それに伴い,四角酸部の負電荷は非局在化し、反対側のエノレート部にオキソニウムイオンを迎え入れることができるようになる。 このように、四角酸部分の負電荷密度の切り替えを伴いながら、分極の反転が隣接水クラスターに伝搬されることにより、図4のような強誘電的に配列したドメイン構造が形成される。しかし、本系のような一次元鎖は、単一ドメイン構造はとらず、それぞれ逆方向に極性が配列した強誘電的ドメインに別れていると考えるのが妥当であり、強誘電的なドメインの間には、電荷を担ったドメイン壁が存在し熱的に揺らいでいると考えられる。実際、観測された直流伝導は、この荷電ドメイン壁が電極方向に移動することに基づくと、解釈される。 以上のように、有機強酸を含む水-オキソニウムイオンの一次元水素結合系では、水分子クラスター間に介在する分極しやすいπアニオンが媒介となって、クラスター内でのプロトン移動の位相が伝達されることにより、長距離に至る協同的プロトン移動が起こっていることが分かった。 4.特異な導電挙動を示すBEDT-TTF水和塩の構造と物性 上述のような動的水素結合が、他の物性に変調を与える分子系の構築が望まれる。第4章で申請者は、その一例として、水和イオン層を内包したBEDT-TTFの導電挙動が、イオン層のダイナミックスにより変調されうる系について、その機構を明らかにした。 BEDT-TTFは有機物でありながら、数々の高伝導体を与えることで知られている。BEDT-TTF塩のカウンターアニオンに、水素結合網が導入された(BEDT-TTF)3Cl2。5H2O塩が、水を添加した条件での電解結晶化により得られた。この水和結晶は、直流電流の正負により、抵抗値が大きく変化するなど、一種の整流効果ともいえる特異な導電挙動(図5)を示した。 この結晶は、X線結晶構造解析や結晶面のSTM像から、BEDT-TTF分子によるドナー層と、C1-イオン及び水分子からなる対イオン層による、層構造を有する(図6)ことが判った。なお、これらの層構造には、何枚かごとの反転が見られる。電場を印可すると、イオン層において水素結合網を形成している対アニオン、および水分子が、電場誘起の再配向を起こすと考えられる。そのために、電場の向きにより、対イオンによって、導電ドナーカラム中の陽電荷の非局在化、または逆に局在化が起こり、ドナーの混合原子価状態に変調を与えるため、整流効果が起こるものと考えられる。5.最後に プロトン移動に伴う動的水素結合系が、四角酸誘導体を用いることにより実現された。特に、ビス四角酸ビフェニル含水結晶においては、プロトン化を受けた水分子を含む、水クラスター内でのプロトンリレーが、分極しやすい四角酸アニオン部を介し、結晶全体で連動的に伝搬する現象が見出された。またこれらの結晶が示す、荷電種の移動に基づく動的挙動は、今後外場などに応答する系の構築に重要な手掛かりを与えるものといえる。実際、そのプロトタイプと言える(BEDT-TTF)3Cl2・5H2O塩が構築され、その機構の一部が解明されたことの意義は大きい。 図1 o-PBSQ含水結晶I(a)とテトラメチルアンモニウム塩(b)の結晶構造とその模式図 図2 103KにおけるBSQB含水結晶の構造。クラスター状水分子をだ円により示した。 図3 誘電正接(tanδ=ε”/ε’)の各温度における周波数依存性 図4 一次元水素結合系におけるプロトン移動による協同的極性反転の模式図 図5 BEDT-TTF3Cl2・5H2Oの抵抗値時間依存性(矢印は電流の正負の切り替えを示す) 図6 BEDT-TTF3Cl2・5H2Oの結晶構造(右)とその模式図(左) | |
審査要旨 | 近年の分子集合体の科学における進展には、目を見張るものがある。そこでは単に新しい分子を合成するに止まらず、種々の分子間力を制御し、分子を望んだ配列に組み上げることで、集合体としての新しい性質を引き出す研究が、活発に展開されている。その際、分子配列制御の手段として効果的に使われている分子間力に、水素結合がある。ところで、この水素結合は、単に分子を特定の配列に並べるという静的な側面だけでなく、水素結合上でのプロトンの移動に基づく、動的な性質も発現しうる点に特徴がある。氷の示す誘電性・伝導性などの性質や、生体系におけるプロトン輸送は、この動的性質の側面によりもたらされていると言える。本研究は、水素結合鎖中における結合の切り替えにより、荷電種が変位を起こすいくつかの系の構築を行ない、その電気的物性を引き出すと共に、その発現機構について議論した独創性の高いものである。 第一章では、まず、水分子を含んだ低次元水素結合系の構築が、生体物質との関連からも、興味ある課題であることを指摘している。このような系は、膜タンパクなど、生体を構成する分子に見られる能動的プロトン輸送をはじめとする、情報・エネルギーの伝達機構解明に重要な知見を与えると期待されるからである。ついで、有機結晶にこのような動的水素結合を持ち込むにあたり、モデルとなり得るいくつかの具体例を挙げ、結晶構造とプロトン移動の相関について検討を加えている。中でも、申請者は、二つの3-ヒドロキシエノン骨格が互いに直交して組み込まれた四角酸(1)に注目している。強い酸性を示す四角酸は、短い水素結合距離を持つ2次元水素結合型結晶を形成し、結晶内で分子間プロトン移動を起こすことが知られている。従って、四角酸分子の性質を生かしつつ水素結合様式の制御を行えば、協同現象を伴った新物性を発現させることが可能となろうとの物質設計指針は、合理的なものといえよう。 第二章において申請者は、新規の水素結合性構造体を構築し、その特徴的な動的挙動を考察するため、o-フェニレンビス四角酸(2)を合成し、組成の異なる3種の結晶の構造と、結晶内プロトン移動の可能性について議論している。X線結晶構造解析により、化合物2は、分子内における四角酸部分同士の立体的な反発により、らせん状の分子構造をとっていることが示された。この分子構造を反映し化合物2は、らせん状、層状、二量体型水素結合系といった多様な結晶を与えている。特に、テトラメチルアンモニウム塩結晶中の水素結合性二量体において、交流誘電率測定・重水素置換効果の検討から、プロトンが水素結合とは垂直の方向に移動していることが明らかにされた。 第三章において申請者は、生体内におけるエネルギー輸送・情報伝達の面で注目を集めている、水分子による一次元水素結合系のモデル構築について記述している。四角酸骨格を、強力なプロトン供与体として導入することにより、多数の水分子を含む一次元水素結合系が、見事に構築された。具体的には、2つの四角酸部分をビフェニルで結んだビス四角酸ビフェニル(3)を採りあげ、この分子を新たに合成し、含水結晶を作成したところ、結晶中で、複数の水分子とオキソニウムイオンおよび四角酸部分からなる一次元水素結合系が構築されていることが示された。さらに、交流誘電率の測定により、この結晶は、巨大な誘電率を示すことが見出されたが、その運動の緩和時間は非常に長く、従来知られているような孤立系のプロトン移動とは大きく異なる。このような挙動は局所的なプロトンの切り替えのみによるものでは解釈できない。そこで申請者は、この一次元水素結合系で見出された、長距離に至る協同的プロトン移動を以下のように説明している。熱励起により起こるクラスター内でのプロトン移動は、荷電ソリトンとして振る舞い、水分子のクラスター間に存在する四角酸πアニオンの分極を介して、隣接するクラスターへと伝達されることに基づくのであろうと結論し、さらにこの解釈を、直流伝導度の測定により実証している。この現象の発見は、本論文中、最も重要な成果であり、審査員の高い評価を受けた。 続く第四章において申請者は、第三章で明らかとなった水素結合の動的挙動が、他の物性に変調を与えるような複合系の構築を提案している。具体的には、導電性錯体の構成分子としてすぐれた性質を持つ、BEDT-TTFという有機ドナー分子を、クロライドイオン存在下、水を添加した条件で電解結晶化を行い、対イオン系として水素結合網が導入された(BEDT-TTF)3Cl2・5H2O塩を得ている。この水和結晶は、直流電流の正負により抵抗値が大きく変化するなど、一種の整流効果ともいえる特異な導電挙動を示した。 さらに申請者は、解明された結晶構造に基づき、整流効果の観測される原因を、水和したクロライドイオンが、電場下で水素結合の切り替えを伴う非線形的な移動を起こすことと結びつけて、合理的に説明している。第三章で取り上げたプロトンダイナミックスを、巧みに伝導性と共存させ、物性の変調に応用したと言うことができよう。 本研究で見出された、含水有機結晶中でのソリトン様励起が関与した集団運動は、低次元誘電性といった固体物性の分野からも興味深い現象であるばかりでなく、この系がクラスター的な水分子の集団を内包している点で、能動的プロトン輸送を行う膜タンパクの機構解明にも有益な知見を与えるものと考えられる。これらの観点からみて、本研究は、単に有機化学・固体化学に止まらず、物性物理・生命科学といった周辺分野にも関連を持つ意義深い研究であるとの評価を得た。 本論文に記述されている成果のうち、第三章は本論文としてすでに投稿済みの他、関連研究を併せた総説が印刷中である。また、第二章、第四章に関しても投稿準備中であり、共著論文に関しては、それらを博士論文として提出することに関する、共著者の同意が得られている。 これらを総合して、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位にふさわしいものと判定した。 | |
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