学位論文要旨



No 115833
著者(漢字) 波多野,恭弘
著者(英字)
著者(カナ) ハタノ,タカヒロ
標題(和) 非平衡定常状態に拡張された熱力学のダイナミクスからの構成
標題(洋)
報告番号 115833
報告番号 甲15833
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第318号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 佐々,真一
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 教授 佐野,雅己
 国際基督教大学 教授 北原,和夫
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は非平衡定常状態の熱力学を、具体的な動力学モデルについて構成した研究についてまとめられたものである。「定常状態」の言葉通り、例えば時間的に巨視的変数が振動するような状態(が安定であるような系)はとりあつかっていない。

 平衡熱力学は19世紀末に完成された理論であるから、当然物理学者の次に考えることは非平衡への拡張である。すなわち非平衡熱力学も実に100年以上の歴史を持っているといってよいだろう。比較的初期の成果である線形領域での非平衡熱力学のアプローチはまず空間的に広がったマクロな系を考え、局所的に熱力学的諸量が定義されるとする。(様々な熱力学関数や温度、圧力などの示強変数など)。これはもちろん本論文でもとる立場でもあるが、違いは定義される熱力学的な量が依存する変数のとり方にある。すなわち古典的な線形非平衡熱力学では新たな変数などは加わったりせず、局所的な熱力学関数は平衡での熱力学関数と同じ関数形をもっているということである。これを言い替えれば、局所熱力学関数の定義される状態空間が平衡熱力学と何ら変わってはいないとすることができよう。

 だが考えてみれば局所系でみたときも、系に流れがある時とそうでない時では明らかにマクロな性質も違っているのに、熱力学関数が同じであるというのはおかしな話であり、局所的な熱力学関数も非平衡においては平衡の時の値から(他の全ての値が同じであっても)ずれるのではないだろうか?

 このような問題意識から熱力学関数の変数を非平衡の量を含むように増やす、言い替えるならば熱力学的状態空間を拡張する試みが1970年代後半から少しずつなされ始めた。だが、このアプローチの直面している問題点は

 ・まず理論の出発点となる状態空間の設定の仕方が不明。すなわち、何を新たな変数としてとってよいかの指針がない。

 ・拡張された状態空間において非平衡熱力学関数は存在するのか。

 ・状態空間をうまく設定し、非平衡熱力学関数が存在したとして、それらと熱や仕事などの操作論的な量を結びつけられるのか。

 の3点であろう。先行研究に対するこのような意識を持ちつつ、1998年に提唱されたのがOono-Paniconiの定常状態熱力学である。以下箇条書きの形式でエッセンスをまとめる。

 ・slow process:外からの操作を無限にゆっくり行なうならば、その過程の一瞬一瞬において系は定常状態にあるとみなせる、すなわち状態空間の中を動く。このような系をその状態空間の中での連続した軌跡で動かすような操作をslow processと呼ぶ。

・excess heat(余分な熱):slow processではかかる時間が無限大であるから、その過程における全発熱も当然無限大となる。よって系の状態の変化に対応する熱だけをとりだすためには無限大の全発熱から定常的に発生する熱を取り除かなくてはならない。その無限大となる原因となる定常的に発生する熱を「維持発熱」(house-keeping heat)とよぶことにする。(Qhkと書く)。系が外からの操作によって状態空間の中を動く時は、それに伴って維持発熱以外の熱が発生するはずである。その熱のことを「余分な熱」(excess heat)とよぶ。(Qexと書く)。すなわち全発熱をQtotと書くとQex=Qtot-Qhkである。(符号は熱浴にながれる向きを正にとる)。Qhkが測定可能な量ならば、Qtotも(原理的に)測定可能なのでQexも測定可能である。よって、操作論的に非平衡熱力学を構築しようという観点からはQhkが測定可能な量であることは重要である。

 ・定常状態熱力学第2法則:状態空間の任意点をとったとき、Qex=0となるslow processでは到達できない点が任意の近傍に存在する。(一般化されたCaratheodoryの原理)。もしくは、仕事を余分な熱に変える過程は不可逆である。

 この枠組はこれまでの非平衡熱力学とは操作論的な量と系の状態量を対応付けようという点でユニークなものだが、問題点は以下の通りである。

 1.維持発熱はそもそも存在するのか?

 2.存在するとしたら具体的な系における維持発熱の定義はどのようにすればよいのか。そしてそこからエントロピーが定義されるかどうか。

 3.どのようなマクロ変数を選べば状態空間を正しく設定できるのか?

の3点である。本論文ではこれらの問題意識をもって具体的な系について非平衡熱力学の構築を試みた。

 まず非平衡定常状態を示す簡単な動力学モデルとして非保存力の入ったLangevin dynamicsをとりあげた。この系について具体的に維持発熱Qhkを定義し、そこから決まる余分な熱Qexについて系のShannon entropyの差ΔSとの間に第二法則に対応する不等式が成立し、slow processではそれらが等号で結ばれる事を示した。また、維持発熱は操作論的な量であるので、系の状態量が操作論的な量から求まるという事であり、当初の目論見が達成できた事になる。

 またもう一つの具体例として一次元格子系での熱伝導をとりあげた。まず一次元系における固有の問題として流体力学モードによる輸送係数の発散という問題があるが、まずこの問題について考えた。ここで全運動量が保存する系では伝導率はかならず発散するという作業仮説を立て、それに唯一反すると知られていたdiatomic Toda latticeについてより系統的なシミュレーションを行ない、熱伝導率が実は発散する事を示した。またその際の指数も他の発散するモデルと同じ普遍的なものであった。

熱伝導系においてもLangevin動力学におけるのと同様、不等式および等式が熱とエントロピー(仕事と自由エネルギー)の間に成立することをみた。また熱流以外の自由度が平衡にあるとみなせる時は自由エネルギーの具体的な表式も求まり、そこからGibbs relationも求まる。これらの結果を計算機実験で直接検証する事が当面の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 非平衡状態における物質の特徴を体系的に記述しようする試みは、非平衡熱力学や非平衡統計力学として研究されてきた。前者では、流れと外場の関係を変分原理で特徴づけること、後者では、外場に対する流れの応答係数を計算する枠組を与えることを主眼としてきた。それらによって、少なくとも平衡に近い非平衡状態に関しては、十分に体系化されている、と考えられてきた。

 しかし、例えば、ずり応力などの非平衡力による液体の凝固点移動を決める物理量は何か、という素朴な疑問に対して、これらの理論は答えることができない。平衡に近い非平衡定常状態に限定しても、状態量の関係に対する理解が不十分であり、普遍的なものと個別的なものの分離がなされていないのである。さらに、非平衡定常状態を越えて、より多彩な非平衡現象を対象とするときには、量の関係を整理することが第1になされるべきことであり、その関係を踏まえて、ミクロな立場から現象の機構を明らかにしていくことが、今後、ますます重要になってくるだろう。このような状況を踏まえ、波多野恭弘氏は博士論文で、非平衡定常状態における量の関係を普遍的に記述する枠組である定常状態熱力学をミクロな動力学モデルに基づいて論じている。

 本論文はIII部12章130ページからなる。第I部では、こうした問題意識のもとで、非平衡熱力学や非平衡統計力学の発展を批判的にふりかえりながら、定常状態熱力学の位置付けが述べられる。現象論としての定常状態熱力学は複数の研究者によって提案されているが、本論文では、大野らによって提案された枠組が参照され、その妥当性がミクロな動力学モデルから問題とされる。定常状態熱力学の概略と先行研究が紹介され、現在までの到達点と限界が述べられる。

 第II部では、周期ポテンシャル中のブラウン粒子が、一定外場で駆動される場合が考察される。ブラウン粒子の集まりを対象にすると、外場による輸送という非平衡定常状態が実現する。この状態では、熱容量、ポテンシャル操作に伴う力、輸送係数という三つの特徴的な量を有するので、非平衡定常状態における量の普遍的な関係が議論できるもっとも簡単な題材になる。もし、外場がなければ、熱容量とポテンシャル変化にともなう力だけが問題となり、エントロピーなどの熱力学関数によって統合的に記述され、種々の熱力学関係式が導出されることは、平衡熱力学の範囲でよく知られている。そこで、問題の焦点は、エントロピーを非平衡定常状態に拡張し、三つの特徴的な量を統合的に記述することになる。

 この際、熱力学第2法則を非平衡定常状態間の遷移に適用できるように拡張することによって、非平衡エントロピーが定義される。具体的には、全発熱や全仕事から定常状態を維持するために必要な発熱である維持発熱をひいた過剰発熱や過剰仕事に対して、拡張されたケルビンの原理が成り立てば、熱力学と類似の方法により非平衡エントロピーが定義される。

 本論文のもっとも重要な寄与は、拡張された熱力学第2法則を導く維持発熱がミクロモデルから構成できることを示した点にある。そして、その結果として、同時に非平衡エントロピーの表現が導かれ、例えば、輸送係数の温度依存性が非平衡エントロピーの流れ依存性と関係するという非平衡に拡張されたマクスエル関係式などが得られる。

 一般的な非平衡定常状態間遷移に関する第2法則の存在を具体的に示したのは、本論文の研究が初めてなしとげた成果であり、これにより、いままで形式的な提案にとどまっていた定常状態熱力学という枠組を具体的に検討できるようになった。実際、簡単な動力学モデルで得られた定常状態熱力学の構成法をより現実的な非平衡系に適用していくことも可能になる。

 そのひとつの試みとして、第III部において、熱伝導が考察される。熱伝導を、ミクロな動力学モデルに基づいて考察するとき、熱浴モデルのデザインや相関の長時間振舞の異常性という、熱伝導固有の性質を明確に整理しなければならない。第III部前半では、これらについて従来の誤解を指摘し、正しい理解の仕方が示される。これを踏まえて、第II部で得られた知見が応用される。

 以上のように、波多野氏はその論文において、熱力学の非平衡定常状態への拡張をミクロな動力学にもとづいて構築する方法論を与えた。この方法論が幅広い非平衡定常状態系に適用できるのかどうか、そして、諸量の関係についてどれくらい明確な予言ができるのかどうか、については今後明らかにされるべきである。また、定常状態熱力学に対応する統計力学は、従来の非平衡統計力学を含んだ形になっているはずだが、その関係がどうなっていて、新しい部分として何が加わるのか、というのも興味ある問題である。さらには、非平衡定常状態を越えた方法論の探索も重要な課題であろう。このように、本論文は、非平衡系の一般的な研究に対して、新しい視点を明確な形で持ち込んだものであり、将来、大きく発展する可能性を秘めた研究の第一歩として位置付けることができる。

 なお、本論文の内容は、第II部の前段階の試みと第III部の前半がそれぞれ論文として出版されており、第II部の骨格部分が投稿中である。また、数値実験や具体的な応用について、投稿準備がすすめられている。

 以上の点から本論文は博士(学術)の学位を与えるのにふさわしい内容であると審査委員会は全員一致で判定した。

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