学位論文要旨



No 115835
著者(漢字) 安江,崇裕
著者(英字)
著者(カナ) ヤスエ,タカヒロ
標題(和) 遷移金属−ボリル錯体の合成,構造および性質
標題(洋)
報告番号 115835
報告番号 甲15835
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第320号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 助教授 尾中,篤
内容要旨 要旨を表示する

(文章中,Cp*=η5-C5Me5,Cp#=η5-C5Me4Et,Cp=η5-C5H5である.)

 ホウ素は13族元素であり,その価電子数は原子価軌道の数に比べて一つ少ない3つである.このためモノボランBH3は,単独ではホウ素がオクテットを満たすことができずに不安定であり,三中心二電子結合を介してジボランB2H6を形成したり,ホウ素上の空のp軌道にルイス塩基が配位したボラン・ルイス塩基付加物を形成することによってその電子不足を補い,安定化している.スキーム1に示すトリメチルホスフィンボランBH3・PMe3(1)は四配位(sp3型)のホウ素を持ち,メタンと等電子等構造の電気的に中性なボランである.本研究では1から形式的に1つの水素を取り除いた形の化学種ボリル基、-BH2・PMe3が遷移金属とシグマ結合を有する化合物,ボリル錯体の合成と,その構造および性質を究明することを目的としている.この錯体中でホウ素は四配位であり,メチル錯体と等電子等構造になっている.

 四配位のホウ素と遷移金属との間に結合をもつ錯体には形成する錯体にはボラン錯体,ボリル錯体およびボリレン錯体の3つが考えられる(スキーム2).ボラン錯体はボランのBH結合が金属に配位した,いわゆるσ錯体であり,当研究室において既にその構造が明らかにされている.等電子的な関係にあるアルカン錯体は非常に不安定であるのに対し,ボラン錯体は単離できる安定性を持ち,構造解析が行われている.ホウ素が2つの金属原子を架橋する形式で結合しているボリレン錯体も当研究室で既に合成されている.

 しかしながら,ボリル錯体はこれまでほとんど知られていなかった.一方,三配位ボリル錯体は多くの例が知られている.これらはほとんどの場合ホウ素の空のp軌道が隣接するヘテロ元素や芳香環からのπ相互作用を受け,安定化されている(スキーム3).

 ところで,シグマ結合の金属に対する酸化的付加は,σ軌道から金属に対する電子供与と金属からσ*軌道への逆供与を経て進行すると考えられている.ボラン錯体は金属の逆供与が不十分なためにBH結合の酸化的付加が不完全な状態で止まっているものとみることができる(スキーム4).そこで電子供与の大きな配位子を持つ電子豊富な金属錯体を用いれば逆供与が大きくなり,BH結合が切断されてボリル錯体が生成するのではないかと考えた.

 この考えをもとに,第二章では光反応を用いることで未開拓のままになっていた四配位ボリル錯体の合成を目指した.モリブデンメチル錯体Cp*Mo(CO)3CH3と1に対して光照射を行ったところ,初めての四配位のボリル錯体Cp*Mo(CO)3(BH2・PMe3)(2a)を収率58.8%で得た(式1).2aはX線結晶構造解析によりその分子構造を明らかにした(図1).2aの分子構造は「四脚ピアノ椅子型」構造をしており,PMe3とCp*は立体的反発によりanti配座をとっていた.モリブデンーホウ素間距離は2,496(6)Åであり,Mo-B間には単結合が存在している.2aの11B-NMRでは,ボリル基のシグナルは原料の遊離の1に比べて12.4ppm低磁場側にシフトしていた.また,IRスペクトルにおいてカルボニルの吸収vCOは原料のメチル錯体Cp*Mo(CO)3CH3のそれに比べて平均で76cm-1低波数側に現れていた.これらの分光学的な性質はホウ素上の電子密度が減少し,金属上の電子密度が増加していることを表しており,2aにはMo(-)-B(+)の分極が存在していることが分かった.この分極は(式2)に示す反応性からも裏付けられる.また以下の章と合わせ,11B-NMRにおける遊離のBH3-PMe3とボリル錯体の化学シフトの差△δおよびIRにおけるメチル錯体とボリル錯体のvcoの差△vcoが金属−ホウ素結合の分極の有効な指標となることが分かった.2aと同様に無置換のCpが配位したメチル錯体を原料として用いた場合にもボリル錯体2bを得ることができたが,こちらは熱的に不安定であり,単離には至らなかった.光反応によるボリル錯体の生成は,光によってカルボニルが脱離することで生成した金属の配位不飽和錯体がBH結合を活性化するものである.本研究のボリル錯体の合成により,四配位のホウ素が金属と形成する錯体の基本的なシリーズが揃ったことになる.

 第三章では第二章の結果を拡張するために,8族の鉄やルテニウムで同様な錯体を合成することを考えた.鉄のメチル錯体Cp*Fe(CO)2CH3と1に対して光照射をしたところ,鉄ボリル錯体3aを収率5.3%で得た(式3).無置換のCpが配位した錯体3bも同様に合成したが,2bと同じく熱的に不安定であり,単離できなかった.また,ルテニウムのメチル錯体と1の光反応は,ルテニウムーカルボニルの結合が光照射によっても解離せず,進行しなかった.そこで光反応以外の方法を試みた.鉄およびルテニウムの二核錯体[Cp*MCO)2]2(M=Fe,Ru)を還元して得られる陰イオン性の錯体K+[Cp*M(CO)2]-と,ハロボランBH2X・PMe3を反応させたところ,ホウ素上での求核置換反応が起こり,鉄ボリル錯体(3a)[Cp#Fe(Co)2(BH2・PMe3)](3c)およびルテニウムボリル錯体(4)の合成に成功した(それぞれ収率144%,8.8%)(式4).陰イオン性錯体[Cp*M(CO)2]-は遷移金属−典型元素結合を形成するためにしばしば用いられる.本研究により,この陰イオンを用いた反応が四配位のボリル錯体の合成にも適用可能であることが明らかになった.また新たに合成した鉄ボリル錯体3cとルテニウムボリル錯体4についてX線構造解析を行った(図2).どちらの場合も分子の構造は2aに関連深い「三脚ピアノ椅子型」構造であり,ホウ素-鉄およびホウ素-ルテニウムの結合距離(それぞれ2.195(14)Å,2.43(8)Å)から,これらの結合は単結合と考えられる.鉄に関してはこれまでに数多くの三配位ボリル錯体が報告されており,それらを2aと鉄-ホウ素間距離について比較すると、2aは他のどの錯体よりも長くなっている.これは三配位ボリル錯体のホウ素は,その空のp軌道に金属から逆供与を受けるためFe-B間が二重結合性を持つのに対し,2aのホウ素はp軌道が既にホスフィンの配位によって占められており,逆供与が起きないためである(スキーム5).2aと同様に11B-NMRおよびIRスペクトルの結果から金属-ホウ素間にはM(-)-B(+)となる分極が存在している.ボリル錯体同士の比較をするとモリブデンは非常に分極が強く,ルテニウムは比較的分極が小さいことが明らかになった.また,電子供与性がCp*に比べて小さいCpが配位したボリル錯体2b,3bが共に熱的に不安定であることから,配位子からの強い電子供与により金属が電子豊富になることがボリル錯体の安定化に重要な役割を果たすことが考えられる.

 上述のようにして合成したボリル錯体はいずれも金属上にシクロペンタジエニル系配位子を有する類似の構造をしている.そこでボリル錯体の領域を拡張していくために,第四章ではこれまでとは異なった構造のボリル錯体の合成を行った.マンガンメチル錯体Mn(CH3)(CO)4L (L=PMe2Ph,CO)と1に対して光照射を行うと,八面体構造のマンガンボリル錯体Mn(BH2・PMe3)(CO)4L (5a: L=PMe2Ph; 5b: L=CO)が得られた(式5).これにより,互いに類似の構造のものしか知られていなかったボリル錯体の系列に,これまでとは異なる構造のものを加えることができた.分光学的な結果から,5にもMn(-)-B(+)の分極があるが,それはあまり大きくないことが分かった.X線結晶構造解析により5aの構造を解明した結果,マンガンーホウ素距離は2.314(2)Åであり,Mn-B間結合は単結合であることが分かった(図3).またM(-)-B(+)の分極が分子全体の幾何構造に影響を与えていることを見出した.

 次に,5aに対してH+(Et2O)2|(TFPB)(TFPB=[B{3,5-C6H3(CF3)2}4]-),を作用させることでM-B結合のプロトン化を試みたところ,陽イオン性ボラン錯体[Mn(ηl-BH3・PMe3)(CO)4(PMe2Ph)]+(TFPB)(6)という,これまでにない全く新しい化学種が生成していることが分かった(式6).6では中性のボラン錯体と同様にホウ素上の水素が架橋とターミナルのものが非常に速く交換するというフラクショナルな挙動を行っている(スキーム6). 6の生成反応はボリル錯体がボラン錯体へと変化する,全く新しいものである.しかしながら7はこれまでのところ単離できていない.

 本研究では光反応によるボランのB-H結合活性化を伴う反応によって,モリブデン,鉄およびマンガンのボリル錯体が得られた.この反応はアルカンのC-H活性化のモデル反応としても意義深いものであり,今後も様々な金属の錯体に適用が可能であると思われる.またホウ素上の求核置換反応によって鉄およびルテニウムのボリル錯体を得た.そしていずれの錯体に関してもその構造を解明し,その性質についても様々な知見を得た.また,ボリル錯体のプロトン化によって合成した陽イオン性ボラン錯体は,錯体自身も,その生成過程もまったく新しいものであった.本研究により,これまで全く研究のなされていなかった四配位ボリル錯体の化学が,他の系と比肩し得る豊かさを持つことを示すことができた.

スキーム1 等電子等構造の関係

スキーム2 四配位ホウ素が形成する錯体の形式と例

スキーム3 三配位ボリル錯体の例

スキーム4

図1 モリブデンボリル錯体の分子構造

図2 鉄およびルテニウムボリル錯体の分子構造

スキーム5

図3 マンガンボリル錯体の分子構造

スキーム6 フラクショナルな挙動

審査要旨
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