No | 115844 | |
著者(漢字) | 藤崎,弘士 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | フジサキ,ヒロシ | |
標題(和) | 分子内非断熱過程の多モード性に関する理論的研究 | |
標題(洋) | Theoretical study on multimode effects in molecular nonadiabatic processes | |
報告番号 | 115844 | |
報告番号 | 甲15844 | |
学位授与日 | 2001.03.29 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第3888号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 物理学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 近年のレーザー技術、特にフェムト秒オーダーのパルスを用いた計測技術の進歩により、平衡状態(基底状態)から遠くはなれた、分子の高励起状態のダイナミクスを直接「見る」ことが可能になってきている。このような状況では分子科学で非常によく用いられる、電子と核の動きを一時的に分離するボルン-オッペンハイマー(Born-Oppenheimer)近似はしばしば破れ、分子内の多くのポテンシャル面は回避交差(avoided crossing)や円錐交差(conical intersection)をもつようになり、そこで非断熱遷移(nonadiabatic transition)が起こる。また同時に、多原子分子であればその振動自由度の多モード(多次元)性の効果も1次元の反応経路の概念の破れとともに現れることが予想される。しかし、多モード性と非断熱性を併せ持つ分子の高励起状態に関する研究は少ない。ただし、現実的な多原子分子をポテンシャル面などを精密に計算しながらダイナミクスまで含めた計算をすることは現在の計算機能力でも非常に難しい。そこで本研究では、分子内の非断熱性と多モード性の競合の効果をミニマルに取り入れたシンプルなモデルとして、Hellerの提案した二モード二状態系(two-mode-two-state system,以下TMTS系と略す)を取り上げる。 以下、TMTS系の特徴について述べる(図1):この系は二つの(仮想的な)電子状態AとBをもっており、その各状態での透熱ポテンシャル面は二つの異なる振動数をもつ調和ポテンシャルである(調和近似)。その際、異なる電子状態の透熱面がある角度で交わるという自由度が生じる。この角度はDuschinsky角θと呼ばれ、分子の多モード性の一つの現われとなる。また、その透熱面間の非断熱結合Jは定数としており(コンドン近似)、回避交差をもつ分子をモデル化するときによく用いられる。このようにTMTS系は分子をモデル化する際によく用いられる近似のもとに構成されているが、ここで注目したいのはこの系は非断熱性と多モード性をミニマルに取り入れたモデルにもなっている点である。そこで、この系を詳細に調べることにより、分子内の非断熱性と多モード性の効果を一般的に理解するための手がかりが与えられるのではないかと期待される。 分子科学において指導的な立場にあるE,J.Hellerは10年ほど前にTMTS系を「量子カオス」的な観点から数値的に調べた。ここで、量子カオスとは古典極限がカオスを示す量子系の研究を指す。古典系における非線形性の効果(カオスを含む)は非常によく研究されているが、量子系は線形のSchrodinger方程式に従うので、「量子系にはカオスはない」と標語的によく言われる。しかし、古典系の非線形性の効果は対応する量子系にも何らかの形で反映されるはずであり、その効果がどのように現われるかを調べることが量子カオスの目的となっている。この種の研究は分子科学(化学)だけでなく、原子核系やメゾスコピック系の物理、さらには音響学などとも深いつながりをもっており、非常に学際的な研究分野であると言える。ただし、これらの研究ではナイーブな意味での古典極限をもつ系を対象としているので、量子スピン系や非断熱遷移系のようなナイーブな意味での古典極限をもたない量子系に関する「複雑さ」の起源についてはあまり調べられていないのが実状である。HellerはTMTS系のような非断熱遷移系にも使える系の「複雑さ」の指標として「スペクトル基準」(spectral criterion)と呼ばれる測度を提案した。これはスペクトル強度だけに依存する量なので、系に古典極限があってもなくてもよい。彼はTMTS系が適切な非断熱結合とDuschinsky角をもっていれば、スペクトル基準から判断すると高励起状態は「カオス」的になりうることを主張した。しかし、他の測度で測ったときにその判別はどうなるのか、高励起状態の性質はもっと詳細にはどうなっているのか、その性質が吸収スペクトルや電子移動率のような観測量にどのように反映するのか、ということに関する議論は今までなされていない。そこで、われわれはTMTS系の「カオス」的な性質や分光的な性質をHellerとは異なる観点から数値的に調べた。 まず、TMTS系の「カオス」性を定量化するために、ここでは原子核系や量子カオス系の研究で非常によく用いられる幾つかの測度を用いる。それらはエネルギー準位の隣接間隔分布(nearest-neighbor spacing distribution)やΔ3統計量(delta 3 statistic)、固有関数の振幅分布(amplitude distribution)である。われわれはTMTS系の高エネルギー領域において、確かにこれらの統計量がすべて「カオス」性を示す(ランダム行列から期待されるものと一致する)パラメータ領域があることを見出した(図2,3)。これはHellerの結論とは矛盾しない結果である。更に、われわれは下断熱面だけがあり、非断熱結合のない系の統計的な性質も調べた。L.S.Cederbaumらドイツのグループはここ数十年、円錐交差のある非断熱遷移系の研究をさまざまな角度から精力的に行っているが、その一連の研究の中で「NO2のようなJahn-Teller分子では、下断熱面だけがある系の統計的な性質は非断熱結合のある分子のそれと強い相関がある」ということを示した。しかし、われわれの研究の結果、TMTS系の場合、非断熱結合のある分子が「カオス」性を示しても、下断熱面の系は強い「カオス」性を示さないことがありうることが分かった。すなわち、TMTS系の「カオス」性は透熱面や断熱面の非線形性によってではなく(TMTS系の透熱面はそもそも調和ポテンシャルである)、非断熱性によって引き起こされていると考えることができるので、この現象は「非断熱カオス」と呼ばれるにふさわしいものである。この結果は量子カオスの研究の新たな局面を切り開く可能性を示した。 以上はエネルギー準位や固有関数に統計的な処理を施して出てくる結論である。そこで次に、TMTS系の「個別の」固有状態の性質が反映することが予想される高励起状態の分光的な性質について調べた。ここでは初期波束に依存する吸収スペクトル(に類似の量)を考察の対象とし、非断熱結合のある場合と下断熱面だけの場合のスペクトルを計算した。その結果、上で調べた「カオス」的なパラメータ領域では、ナイーブに考えると「不規則」な吸収スペクトルが現れることが期待されるが、むしろ初期波束によってはエネルギーに対して周期的なスペクトルが現れてくる場合があることを見出した。これは系の固有関数が統計的な意味で「カオス」的になっているとはいえ、その中に「規則性」がまだ残っている(規則的なnodal patternを識別することができる)ことを示している。その際、非断熱結合の強さが透熱極限でも断熱極限でもないにも関わらず、固有関数は透熱面や断熱面上での固有関数の性質を強く引きずるものがあることを見出し、それを準古典的な考え(具体的にはsurface-hopping法)に基づいて説明した(図4,5)。また、これらの固有関数の存在は電子移動の観点からも重要であることを議論した。 以上はシンプルなモデル系から得られた結果であるが、これらは1次元系、もしくは断熱的な系に還元できない性質であり、分子内非断熱過程の多モード性の重要性を示したものである。ここで得られた概念は、生体分子などを含む本質的に多次元で非断熱性のある現実的な分子を理解するためにも重要になるものと思われる。また、多原子分子のレーザー制御の問題を考える際にも重要になるものと期待される。 図1:TMTS系の透熱面(模式図):左は等高線プロット、右はノーマルプロット。θはDuschinsky角であり、2αは透熱面のミニマムの間の距離、点線はcrossing seamを表す。また、そのミニマムのエネルギー差はΔεである。 図2:TMTS系のエネルギー準位の隣接間隔分布(左)とΔ3統計量(右)。J=1.5,θ=π/6の場合。ともにランダム行列理論から予測される曲線によくfitできることが分かる。 図3:TMTS系のA面上の固有関数の一つ(左)。右はその振幅分布。J=1.5,θ=π/6の場合。振幅分布は統計的に予測されるGaussianによくfitできることが分かる。 図4:左:J=1.5,θ=0.675の場合の量子スペクトル。中央:そのスペクトルの中に埋め込まれている固有関数の一つ(透熱表示)。右:surface-hopping法で計算した軌道。点線はcrossing seamを表す。図1とseamの向きが違うことに注意。 図5:左:J=1.5,θ=0,675の場合の量子スペクトル。中央:そのスペクトルの中に埋め込まれている固有関数の一つ(断熱表示)。右:surface-hopping法で計算した軌道。点線はcrossing seamを表す。図1とseamの向きが違うことに注意。 | |
審査要旨 | 本論文は、I.Motivation for this thesis, II.Basic concepts, III.Chaos induced by quantum effect due to breakdown of the Born-Oppenheimer adiabaticity, IV Highly excited vibronic eigenfunctions in a multimode nonadiabatic system with Duschinsky rotation, V.General summary, VI.Further aspectsの6章、及びAppendixからなる。 近年のレーザー技術、特にフェムト秒オーダーのパルスを用いた計測技術の進歩により、平衡状態(基底状態)から遠くはなれた、分子の高励起状態のダイナミクスを直接「見る」ことが可能になってきている。しかし、多モード性と非断熱性をあわせもつ分子の高励起状態に関する研究は少なく、現実的な多原子分子を計算をすることは現在の計算機能力でも非常に難しい。そこで本論文提出者は、分子内の非断熱性と多モード性の競合の効果を最小限に取り入れたモデル系として、Hellerの提案した2モード2状態系(two-mode-two-state system,以下TMTS系と略す)を用いた。 HellerはTMTS系のような非断熱遷移系にも使える系の「複雑さ」の指標として「スペクトル基準」(spectral criterion)という測度を提案した。それを用いて、系が適度な非断熱結合とDuschinsky角を有すれば、高励起状態は「カオス」的になりうることを示した。しかし、他の測度で測ったときにその判別はどうなるのか、高励起状態の詳細な性質はどうなっているのかということに関する議論はこれまでなされていない。本論文においてその提出者はHellerとは異なる観点からTMTS系の振る舞いを数値的に調べた。 まずIII章で、提出者は原子核系や量子カオス系の研究でよく用いられる幾つかの統計量:エネルギー準位の隣接間隔分布や△3統計量、固有関数の振幅分布を用いて、TMTS系の「カオス」性を測った。その結果、TMTS系の高エネルギー領域において、確かにこれらの統計量がすべて「カオス」性を示すパラメータ領域があることが見出された。これはHellerの結論と矛盾しない。更に、下断熱面だけがあり、非断熱結合のない系の統計的な性質も調べた。その結果、TMTS系の場合、非断熱結合のある系が「カオス」性を示しても、下断熱面のみの系は強い「カオス」性を示さない場合があることが分かった。すなわち、TMTS系の「カオス」性は透熱面や断熱面の非可積分性によってではなく、非断熱性のみによって引き起こされていると考えることができるので、この現象は「非断熱カオス」と呼ぶにふさわしいものである。この結果は量子カオス研究の新たな局面を切り開く可能性を示した。 III章ではエネルギー準位や固有関数の統計的性質について調べたが、IV章ではTMTS系の「個別の」固有状態の性質を反映する高励起状態の分光的性質について調べた。その際、非断熱結合のある場合と下断熱面だけがある場合の古典・量子スペクトルを計算し、比較した。その結果、上で調べた「カオス」的なパラメータ領域では、自然に考えると「不規則」なスペクトルが現れることが期待されるが、初期波束によってはエネルギーに関してむしろ周期的なスペクトルが現れてくる場合があることを見出した。これは系の固有関数が「カオス」的になっているとはいえ、その中に規則的なnodal patternがまだ残っていることを示している。その際、非断熱結合の強さが透熱極限でも断熱極限でもないにも関わらず、固有関数は透熱面や断熱面上での固有関数の性質を強く引きずるものがあることを見出し、こういった固有関数の存在は電子移動の観点からも重要であることを議論した。 以上はシンプルなモデル系から得られた結果であるが、これらは1次元系、もしくは断熱的な系に還元できない性質であり、分子内非断熱過程の多モード性の重要性を示したものである。また、ここで得られた概念は、多次元性と非断熱性をあわせもつ現実的な分子の理解や、そういった分子のレーザー制御の問題を考える際にも重要になるものと考えられる。 なお、本論文第III・IV章は高塚和夫教授との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できるものと認める。 | |
UTokyo Repositoryリンク |