学位論文要旨



No 115846
著者(漢字) 陣内,修
著者(英字)
著者(カナ) ジンノウチ,オサム
標題(和) 束縛系量子電磁力学の研究 : オルソポジトロニウム崩壊率の精密測定
標題(洋) Study of Bound state QED:Precision Measurement of the Orthopositronium Decay Rate
報告番号 115846
報告番号 甲15846
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3890号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 蓑輪,眞
 東京大学 教授 荒船,次郎
 東京大学 教授 駒宮,幸男
 東京大学 助教授 相原,博昭
 東京大学 助教授 森,俊則
内容要旨 要旨を表示する

水素様システムの研究は現代物理学において、特に量子電磁力学(以後QED)の発展に多大なる寄与をしてきており、QEDの計算は非常に高次の項まで検証されている。しかしながら束縛系のQEDに関しては、自由粒子に対するQEDのような摂動的取り扱いが出来ず、高次項の計算は自由粒子の場合のように機械的なものに帰する方法が確立されていない。ところが近年、理論側で非相対論的QED(以後NRQED)という実効的な理論の枠組みが発展し、高次の項の計算が精力的に進められるようになった。

 ポジトロニウム(以後Ps)は電子と陽電子が束縛し合っている最も軽い原子であり、電磁相互作用以外の効果を受けない為、そのスペクトラムや崩壊率は非常に高い精度で計算が行える。そのためPsの精密測定はこの実効的な理論の最適な検証の場になりうる。

 基底状態のPsは総スピンの大きさにより、一重項でスピン0のパラ・ポジトロニウム(以後p-Ps)と3重項でスピン1のオルソ・ポジトロニウム(以後o-Ps)の2種類に分けられる。p-Psは125psecの短い寿命で崩壊し、その崩壊率はo-Psとの混合を用いて間接的に測定されている。この値は1999年に得られたNRQEDによるα2次の計算と一致していることが確認されている。

 一方、o-Psの寿命は約142nsecと比較的長く、直接測定でQEDの検証が行える数少ない例の一つである。崩壊率の計算はα1次の項までは1980年代初頭には得られていたが2次の項に関しては部分的な計算しか得られておらず、実験側からの2次の項の検証が待たれていた。

 このような背景からミシガン大学を中心に過去25年に渡って行われてきたo-Psの崩壊率測定は200ppm程度の測定誤差で得られるようになったが、一貫してQED1次の計算よりも1000ppm近く大きく、その差を埋め合わせるには不自然に2次の項を大きくする必要があった。この理論と測定の大きなずれは「o-Psの寿命問題」と呼ばれ、その不自然さを回避する別の解として、o-Psの未知粒子への崩壊モード探索が様々なグループによって行われたが、どれも否定的な結果で終わった。

 ミシガン大学の測定は、陽電子線源をガス容器中に置き、ガス分子をターゲットにしてPsを生成させるガス実験と、真空容器中の酸化物ターゲットに陽電子ビームを打ち込みPsを生成させる真空実験の主に2種類の方法で測定を行ってきた。o-Psの崩壊率測定には、o-Psを構成する陽電子がターゲット分子中の電子と対消滅をするpick-offと呼ばれるバックグランド事象が必ず存在する。真空中での崩壊率を求めるにはこのバックグランド事象を取り除く必要がある。

 どちらの場合も、ガスの密度や真空容器の形状などを変えて何点かでo-Psの崩壊率を測定し、その値を密度ゼロ(ガス実験の場合)または真空容器の体積無限大(真空実験の場合)に外挿することにより、真空中でのo-Psの崩壊率を求めている。

 しかしながら、これらの方法にはo-Psの熱化による系統的な問題があることが指摘された。o-Psの熱化とは生成されたばかりのo-Psがターゲット分子との間で弾性散乱を繰り返すうちに、運動エネルギーを失いやがて室温で平衡状態になることを言う。この時pick-off率は平衡になるまでの間、徐々に減少していく。ミシガン大学の測定ではこの熱化が速い時間帯(150nsec)で既に終了していることを仮定し、それ以降のタイムスペクトラムを使って崩壊率のfitを行っていた。しかしながら最近の研究でガス中でのo-Psの熱化には600nsec程度の比較的長い時間がかかることが分かり、外挿による方法ではpick-offの効果を完全に除くことが出来ず、系統的に高い崩壊率を得ていた可能性がある。

 1995年に東京グループは外挿によらず、この熱化の効果を測定に直接取り込んで真空中での崩壊率を求める方法を考案し新しい結果を得た。この方法は、pick-offが2対の単色γ線に、o-Psが3体の連続γ線に崩壊することを利用し、非常にエネルギー分解能の高いゲルマニウム検出器(以後Ge)で崩壊γ線の時間とエネルギー情報を同時に測ることにより、pick-offとo-Ps崩壊を完全に分離し熱化の推移を正確に押さえる。これをタイムスペクトラムのfittingに取り込むことにより、熱化の効果を受けずに真空中での崩壊率を直接求めることが出来るというものであった。

 この方法で得られた値は、QED1次の計算と一致しミシガン大学の結果を否定するものであったが、測定誤差が400ppmと比較的大きく本来の目的であったQED2次の検証には到らなかった。また、この方法では原理的にfitting範囲のstart時間に因らず真空中での崩壊率が得られるという特色があるが、実際には220nsec以降でしか適用出来ず、それより前の速い時間帯では崩壊率が高くなり不明な部分が残った。またo-Ps生成物質として使用したシリカパウダーは系統的なテストの為に2種類使ったが、この2種類のパウダーにおけるo-Psの熱化つまりpick-off率の推移はほぼ同一の様相を呈したため、熱化の大きさや進み方に依らずに同じ結果が得られるという正当性を得ることが出来なかった。

 これらの事情をふまえて、新しく始められた測定は以下の項目を目的にして進められた。

 1. 220nsec以前の速い成分で不明だったものの解明。

 2. 熱化の補正がパウダーの種類に依らないことを示すために、全くpick-off率の異なる種類のパウダーを使って同じ結果が得られるかどうかを調べる。

 3. 統計誤差の軽減。

項目1の為にまず、タイミング関係のエレクトロニクスのセットアップ・デザインを一新した。特にTime to Digital Converter(TDC)に関係する積分線形性、微分線形性起源の系統誤差をクリアなものにするために、外部から2GHzのクロックを受け取るカウンタータイプの高性能TDCを開発し、絶対時間に対する信頼性を飛躍的にアップさせた。またGe検出器の時間特性を大幅に改良するために、今までConstant Fraction Discriminator(CFD)というハードウェアで行っていたシグナルの立ち上がり補正をやめ、3段階の閾値を用いてシグナルの立ち上がり情報をデータとして取り込み、オフライン解析の段階で正確にタイミング情報に焼き直す、全く新しい手法を導入した。この方法により、Ge検出器に特有のSlow Rise Timeイベント(SRT)を効率よく排除できるようになり、熱化過程の測定が非常に正確に行えるようになった。これによって得られた熱化のカーブを用いてpick-offの補正を行ったところ、100nsec以前にまでfittingのstart時間に依らず同じ値が得られるようになり、95年の測定に於ける不明な成分の理由を解明することが出来た。

 項目2に関しては粒子径、密度の全く異なる2種類のパウダーを用意し2回の長期測定で使用したところ、約1.5倍の違いを示して2種類のpick-off率のカーブが得られた。この2種類の異なるパウダーにより、pick-offの補正は約1.5倍違うことになるが、この2種類のパウダーで得られた値は、非常によい精度で一致しており、この方法の正当性を系統的に示すことが出来た。

 項目3に関しては、項目1と深く関わっている。崩壊のタイムスペクトラムのなるべく速い時間を使うことにより、イベント数が指数的に増大し統計精度が上げることが出来るようになった。また、これによりpick-offエネルギースペクトルを利用した系統誤差の評価において、統計精度の高いスペクトルを使うことが出来、系統誤差自体を抑えることが出来るようになった。

 最終的に測定値は230ppmの精度で得られ、最近理論側で得られたo-Psのα2次の計算と非常によい一致を見せ、1次までの補正値よりも2次までの補正値の方を支持する結果を示した。図1に今回得られた測定値と理論値、またこれまでに測定されてきた実験値を載せる。

図1:縦線はα2次までを含めた理論値を表し、帯の部分は100ppmのエラーを表す。実験値の誤差中、内側の線は統計誤差を、外側の線は更に系統誤差を含んだものを表す。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなり、第1章は導入説明、第2章はポジトロニウム崩壊率とその理論的記述および従来の実験の概観、第3章は実験装置の説明、第4章では実験データの解析と誤差の議論、第5章では最終結果が述べられている。

 量子電磁力学(以後QEDと略す)は最も成功した量子理論といわれており、QEDの摂動計算はかなり高次の項まで検証されている。また近年、非相対論的QEDという実効的な理論の枠組みが発展し、束縛系についても高次の項の計算が精力的に進められるようになった。

 ポジトロニウムは電子と陽電子が束縛し合っている最も軽い原子であり、電磁相互作用以外の効果を受けない為、その崩壊率または寿命は非常に高い精度で計算が行える。そのためポジトロニウムの精密測定はこの実効的な理論の最適な検証の場になりうる。2種類あるポジトロニウムのうちのオルソポジトロニウムの寿命は約142nsecと比較的長く、実験的に直接測定でQEDの検証が行える数少ない例の一つである。その崩壊率(寿命の逆数)の計算は微細港構造定数αの1次の項までは1980年代初頭には得られていたが2次の項に関しては部分的な計算しか得られておらず、実験側からの2次の項の検証が待たれていた。

 ミシガン大学を中心に過去25年に渡って行われてきたオルソポジトロニウムの崩壊率測定は200ppm程度の測定誤差で得られるようになったが、一貫してαの1次の摂動計算よりも1000ppm近く食い違っており、「オルソポジトロニウムの寿命問題」と呼ばれてきた。

 その理由としてポジトロニウムの熱化による系統的な問題があることが指摘されていた。オルソポジトロニウムの熱化とは、生成されたばかりのオルソポジトロニウムがターゲット分子との間で弾性散乱を繰り返すうちに、運動エネルギーを失いやがて室温で平衡状態になることを言う。一方、オルソポジトロニウムの崩壊率測定には、オルソポジトロニウムを構成する陽電子がターゲット分子中の電子と対消滅をするpick-offと呼ばれるバックグランド事象が必ず存在する。真空中での崩壊率を求めるにはこのバックグランド事象を取り除く必要がある。熱化の過程でpick-off率は平衡になるまでの間、徐々に減少していくが、従来の測定ではこの寄与をきちんと評価できていなかった可能性がある。

 1995年に東京大学グループは、この熱化の効果を測定に直接取り込んで真空中での崩壊率を求める方法を考案し新しい結果を得た。この方法は、pick-offが2対の単色γ線に、オルソポジトロニウムが3体の連続γ線に崩壊することを利用し、非常にエネルギー分解能の高いゲルマニウム検出器で崩壊γ線の時間とエネルギー情報を同時に測ることにより、pick-offとオルソポジトロニウム崩壊を完全に分離し熱化の推移を正確に押さえる。これをタイムスペクトラムのfittingに取り込むことにより、熱化の効果を受けずに真空中での崩壊率を直接求めることが出来るというものであった。

 この方法で得られた値は、αの1次の計算と一致し、ミシガン大学の結果を否定するものであったが、測定誤差が400ppmと比較的大きく本来の目的であったαの2次の項の計算の検証には到らなかった。また、この方法では原理的にfitting範囲のstart時間に因らず真空中での崩壊率が得られるという特色があるが、実際には220nsec以降でしか適用出来ず、それより前の速い時間帯では崩壊率が高くなり不明な部分が残った。またオルソポジトロニウム生成物質として使用したシリカパウダーは系統的なテストの為に2種類使ったが、この2種類のパウダーにおけるオルソポジトロニウムの熱化、つまりpick-off率の推移はほぼ同一の様相を呈したため、熱化の大きさや進み方に依らずに同じ結果が得られるという正当性を得ることが出来なかった。

 本論文では、測定電子回路に新しい工夫を持ち込むとともに、全くpick-off率の異なる2種類のパウダーを使って同じ結果が得られる事を確認してこれらの諸問題を克服した。その結果、最終的に測定値は230ppmの精度で得られ、最近理論側で得られたオルソポジトロニウムのαの2次の計算と非常によい一致を見せ、1次までの補正値よりも2次までの補正値の方を支持する結果を示した。

 以上に述べたように、この論文は、新しい工夫によりオルソポジトロニウムの崩壊率をはじめて230ppmの精度で測定し、微細構造定数の2次までの摂動計算と非常に良く一致することを示した。この論文は、学問的に大変有用なものであり、また論文提出者の独創性も十分であると認められる。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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