学位論文要旨



No 115851
著者(漢字) 我妻,竜三
著者(英字)
著者(カナ) アヅマ,リュウゾウ
標題(和) 計算機シミュレーションによるDNAゲル電気泳動法の研究
標題(洋) Computational Studies on Gel electrophoresis of DNA
報告番号 115851
報告番号 甲15851
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3895号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 西,敏夫
 東京大学 教授 小谷,章雄
内容要旨 要旨を表示する

 DNAゲル電気泳動法はDNAを長さによって分別するクロマトグラフ技術の一種である。ゲル電気泳動の歴史の初期の頃は、定常電場を用いていたが、非定常電場法が開発されて、今日では、長鎖DNA(20kbp-数Mbp)の分別が可能となった。しかしながら、これらの手法に対する統計物理学的な解釈は定常電場法についてさえ確立していない。本研究は、定常電場ゲル電気泳動におけるDNA1分子の運動のメカニズムを統計物理学の見地から明らかにすることを目的とする。

 短いDNA(〓20kbp)の分離のメカニズムに対してはOgstonらによってsieving理論が提唱されている。この理論は、DNAが糸掬状の形態を保ったまま、ゲル繊維のネットワークの中をランダムに駆けめぐる結果得られる平均の移動度を予測する。一方、長鎖DNAに対しては、慣性半径がゲルの平均の網目間隔よりも十分大きく、また柔軟であることをふまえて、ゲル電気泳動に対するレプテーション理論が提唱された。この理論は、DNAがゲルの繊維で制約された仮想的な管の中を、拡散運動しながら電場方向に泳動すると見倣す。ところが、分子動力学法による計算機シミュレーションを用いた研究によって、思わぬ運動、即ちDNAが伸び縮みを繰り返す運動、があることが予言された。最近蛍光顕微鏡法によってDNA1分子の運動がリアルタイムで観察できるようになったこともあり、実験においても予言を裏付けるように、定常電場ゲル電気泳動においてDNAが伸縮運動を準周期的に繰り返す運動が見い出された。

 このような運動の核心部分は高分子鎖の形態の持つエントロピーが重要な働きをしていると考え、我々は先ず、高分子の格子模型の一つであるボンド揺らぎ模型によるモンテカルロ法シミュレーションによってこの問題の解明に取り組んだ。同模型では、高分子鎖は、同じ格子点を同時に2つ以上占拠できない条件(排除体積効果)を課せられたビーズと、長さと方向を変えることができるボンドで構成される。この模型を用いると、ボンド同士が擦り抜けることが回避されるので(自己回避鎖)、分子動力学法などに比べ絡み合いのある高分子系の計算機シミュレーションを効率良く実行できる。しかしこの方法を定常電場ゲル電気泳動に適用すると、鎖が障害物(ゲル)に架かって極端に引き延ばされた配位を容易に抜け出すことができなくなる困難に直面する。そこで、我々は先ず本論文第1章で、2次元ボンド揺らぎ模型に対して、たるんだセグメント(s-monomer)が、その前後の引き延ばされた部分の任意の場所に遷移することのできる準局所的試行を導入した(拡張したボンド揺らぎ法)。この遷移を平衡状態において詳細釣合を満たすように定め、これを定常電場ゲル電気泳動に適用したところ、この困難を克服するとともに、実験で観察されている伸び縮み運動を再現することができた。さらに、平衡状態における運動についても計算に必要な実時間が従来の方法に較べて数倍程度短縮されることがわかった。

 次に第2章では、この新しいアルゴリズムを用いて、定常電場ゲル電気泳動におけるDNAの運動を、準周期的挙動との関連性から調べた。慣性主軸長軸の半径Rl(t)の時間発展をみると、鎖の伸び縮み運動に対応した三角形状のピークが次から次へ現れる。そこで、Rl(t)の自己相関関数CRRを測定したところ、排除体積のある実在鎖では実験で観察されている減衰振動が再現されなかったが、自己回避条件を無視したファントム鎖では減衰振動が見られた。この理由を探るため、Rl(t)のピークの幅(鎖が一つの障害物にトラップされてからこれを抜けるまでの時間)とピーク間隔(次の障害物にトラップされるまでの時間)を測定したところ、実在鎖では後者が前者より著しく大きな幅を持つことが確認された。2次元空間では自己回避条件が極めて強い制約になっていることを示す結果であり、実際に、第3章において3次元空間における拡張したボンド揺らぎ法を構築し、実在鎖のシミュレーションを行なったところ、自己相関関数の減衰振動を伴った実験と良く符合する伸縮運動を検証することができた。このように、詳細釣合を満たす確率遷移を高分子鎖モデルに採り入れるだけで、実験における現実の伸び縮み運動を再現することができるのは最も興味深いところである。この結果を踏まえると、実験的に観測される伸縮運動は、Deutschらが唱えたようにエントロピーが全く関与しない過程として起こっているのはむしろ稀であり、実際には、エントロピーに起因する実効的な力学が支配していると考えられる。

 高分子鎖の持つ形態エントロピーは電場の力が弱い極限で最も強くその性質を発揮することが予想される。第4章では、上記の2次元実在鎖を周期的に配置された障害物中で拡散運動させ、平衡のダイナミクスに対してエントロピー的な要素がどのように関わっているかを見るため、鎖の中心のセグメントの平均2乗変位φM/2(t)=〈(RM/2(t)-RM/2(0))2〉(Mは鎖の長さ)を詳しく解析した。φM/2(t)は次の4つの時間領域で特徴的な振舞いを示した。最初の時間領域では、自由空間における冪依存性φM/2(t)∝t0.6を再現した。次に、2番目と3番目の時間領域でそれぞれφM/2(t)(∝t3/8,t3/4の冪依存性、さらに最後に自由拡散領域φM/2(t)∝t1を観測した。第2と第3領域の冪依存性は我々が初めて見い出したもので、自己回避条件を満たす実在鎖によって形作られる管の中をブロッブ(管に沿った方向に自己回避条件が遮蔽されるある長さを持った部分鎖)が拡散するレプテーションを仮定してスケーリングによって求めた指数と一致することを検証した。

 次に、第5章では、モンテカルロ法の確率によるダイナミクスによって高分子鎖の運動を理解しようという上述の立場を更に堀下げ、運動方程式から出発する分子動力学法によって定常電場ゲル電気泳動のダイナミクスを考察した。この目的のため、我々は3次元連続空間上の、自己回避条件を満たす実在高分子鎖を表すビーズ鎖モデルを考え、これに対するLangevin方程式の解を効率良く得ることのできるブラウン動力学法(BD)アルゴリズムを新たに開発した。この方法によるBDシミュレーションを行なったところ、先ず以下のことが見い出された。即ち、我々のシミュレーションの平衡状態で観測されるs-bead(たるんだ部分を代表する)の平均間隔(約6ビーズ分に相当する)をDNAの持続長(約60nm)であると読み替えることにより、BDシミュレーションの鎖の移動度の電場依存性が実験におけるDNAのそれをほぼ定量的に再現する。また、M=160,240においてCRRの減衰振動がはっきりと現れる。

 このように、長い鎖M〓100(ゲルの間隔α=17)において支配的になる準周期的な伸び縮み運動の起因を詳しく調べるため、鎖を平衡のs-bead間隔程度のブロック(10ビーズ=1部分鎖)に分割し、伸縮過程における形態の平均の時間変化Xi(t-tmax)-XG(tmax)、(tmax:ピーク時間、XG:重心の位置)を先ず調べたところ、順に、V字、I字、及びContracted(縮んだ)の形態の時間発展を得た。また、先頭部分がほぼ一定速度で泳動することが示された。このV-I-Contracted運動はMasubuchiらによって調べられた綱引き模型、即ち非線形弾性紐が支点(障害物=ゲル)を境にしてそれぞれ逆符号に帯電し、引っ張り合う模型、の運動と符合するので決定論的であるようにみえる。

 我々は、V-I-Contracted運動の本質をより明確にするため、バネビーズ模型(バネはフック則に従い、更に、鎖端ビーズに過剰の粘性係数を与え、先頭の追い越しを許さない条件が課されている)に対して、同様の綱引き運動を考察した。その結果、先頭が一定速度で泳動する特徴を含め、BDシミュレーションにおける鎖の形態変化(V-I-Contracted)を定性的に良く説明することができた。

 次に、BD鎖の部分鎖間の有効張力(=任意ビーズ間排除体積+隣接ビーズ間束縛力)Ti(eff)(t-tmax)の時間変化を調べたところこれも上記の単純な線形バネビーズ鎖の張力変化とほぼ定量的に一致することが示された。一方、先頭部分鎖がその内側から受ける有効張力は常に一定で、その値は障害物(ゲル)の入らない時に観測される任意の隣接部分鎖間の有効張力T∞と一致し、鎖のトラップによって生じた余剰の張力は先頭付近にほとんど達していない。従って、先頭付近の部分鎖は、電場の力と熱揺動力に応じて自由に動き回れる一方、障害物に対する反発力も強く受け、実効的に粘性係数の増大した一定速度の泳動をすると理解することができる。これらのことから、ゲル電気泳動におけるDNA1分子の運動は形態エントロピーからもたらされる‘ゴム弾性’及び先頭付近の遅い運動が反映された高分子鎖特有の運動と考えられる。

 第6章で我々は、このブラウン動力学法によって、拡張したボンド揺らぎ法のミクロな立場からの基礎づけを行なった。モンテカルロ法のs-monomerの移動距離のヒストグラムとブラウン動力学法のs-beadの移動距離のヒストグラムの比較を行なった結果、s-monomerの運動はs-beadの運動を定性的に良く再現していることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

修士(理学)である我妻竜三提出の本論文はゲル中のDNAの電気泳動のメカニズムを考察したもので、英文で4章から成る。

DNAゲル電気泳動法はDNAを長さによって分別することのできる、クロマトグラフ技術の一つである。しかしながら、この分別は基本的に経験に基づくものであり、理論的なメカニズムについては、定常電場法と非定常電場法とを問わず確立していない。この研究は、定常電場ゲル電気泳動法によるDNA一分子の運動のメカニズムを統計物理学的な見地から明らかにする目的で、モンテカルロシミュレーションと分子動力学計算を併用して行なわれたものである。

ゲル中、電場下でのDNAの運動については、ゲル繊維での制約を仮想的な管の中での運動に置き換えたレプテーション理論が提唱されており、ある程度の理解が得られている。ところが分子動力学計算と蛍光顕微鏡による実時間観察の両方で、電気泳動中にDNAが実際には準周期的な伸縮運動を繰り返すことが見い出され、そのメカニズムは十分には理解されていない。このメカニズムを詳細に明らかにする目的で、本研究では、第二章で独自に工夫したモンテカルロシミュレーション、第三章で分子動力学計算を行なった結果を考察している。まず第二章では格子模型に基づいてボンド揺らぎ模型を用いたモンテカルロ計算の手法を工夫し、実行した結果が解析されている。この手法では現実に起きている現象を格子上で考えるという大胆な簡単化がおこなわれるものの、排除体積効果を効率良く取り込める特長をもっている。一方従来から知られているこの手法では、鎖がゲルにひっかかって極端に引き延ばされた時に、その配位を抜け出すことができなくなる困難があった。木研究では実際には鎖に生ずる張力によってDNAは運動を続けられるはずであることに着目して、張力による運動を模擬する目的でたるんだセグメントの準局所的な移動を可能にする運動のアルゴリズムを組み込むという工夫を行なった。この結果、計算が効率的になっただけでなく、2次元系での予備的な考察の後、排除体積効果を取り込んだ3次元空間のシミュレーションにおいて、準周期的な減衰振動が再現されることを見い出した。

また同じアルゴリズムでのモンテカルロ計算によって、本研究では電場がない時のDNAの拡散運動について今まで知られていなかった特徴を見い出した。すなわち拡散の過程でのセグメントの重心の平均二乗変位の時間依存性が4つの時間領域に分かれ、最初の時間領域で時間の0.6乗、それより長い第2の領域で3/8乗、第3の領域で3/4乗、最も長時間の領域で1乗となる。特に第2、第3の領域は、本研究ではじめて数値的に明らかにされたものであるが、またその臨界指数はレプテーション理論を仮定するとよく説明できることも見い出した。モンテカルロ計算で再現された減衰振動の結果は伸縮運動がエントロピーに起因する弾性力から生じているのではないかという新しい推測を生むこととなったが、モンテカルロ計算の中には上に述べたように実際には存在しない人為的な運動のプロセスが組み込まれており、準周期運動のミクロなメカニズムを明らかにすることはできない。そこで第三章では分子動力学計算を行なってよりミクロに減衰振動のメカニズムを追究している。排除体積効果を取り込んだランジュバン方程式を数値的に解くブラウン動力学法と呼ばれる方法を改良工夫しているが、この方法はモンテカルロ計算にくらべれば効率は悪く長時間の振る舞いを見るには困難がある。一方DNAの鎖をある程度粗視化したビーズの鎖で置き換えるという簡単化が行なわれてはいるが、連続空間での運動を忠実に追いかけていることと、あからさまには張力の存在を何も仮定していないため、準周期運動が生じるミクロなメカニズムを調べられるモデルになっていると考えられる。本研究ではこのブラウン動力学を実行した結果、はっきりとした減衰振動が数値計算結果に再現された。またこの結果をあからさまにフック則に従うバネをつなげた鎖のシミュレーションと比較して大変良く似た振る舞いを行なうことを見い出し、準周期運動の原因がエントロピーを原因として生じた張力であるという推定に根拠を与えている。

本研究にはいくつか課題が残されている。第一にモデルの簡単化の正当性であり、特に溶液中のDNAの形態形成には静電長距離相互作用や水素結合に伴う引力などが重要な役割を担っていることが知られているが、本研究ではそれらのミクロな詳細が無視されている。また減衰振動の原囚がエントロピーであるという主張はバネのあるモデルとの比較に基づく間接的なものである。より直接的には温度依存性などを詳細に検討した上で結論すべきものである。これらの将来に残されている課題についても本論文では議論と指摘がなされていると判断される。

以上の問題点や成果について種々議論した結果、本論文審査委員会委員全員によって、本研究は博士(理学)の学位論文として合格として判定された。

なお本研究は、指導教官高山一教授との共同研究の部分があるが、主要部分について論文提出者が主たる寄与をなしたものであることが認められた。

UTokyo Repositoryリンク