学位論文要旨



No 115862
著者(漢字) 加納,英明
著者(英字)
著者(カナ) カノウ,ヒデアキ
標題(和) 超高速分光法によるポルフィリンJ会合体中フレンケル励起子の動力学
標題(洋) Dynamics of Frenkel excitons in porphyrin J-aggregates studied by ultrafast spectroscopy
報告番号 115862
報告番号 甲15862
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3906号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 助教授 瀬川,浩司
 東京大学 助教授 岩田,耕一
内容要旨 要旨を表示する

1. はじめに

 分子J会合体は、励起子超放射に起因する超高速光学応答、振動子強度の集中による高い非線形感受率、単量体の吸収帯よりも低エネルギー側に現れる、Jバンドと呼ばれる鋭い吸収帯などの、非常に特徴的な光学的特性を有するため、将来の有機光デバイス、人工光合成システムの候補として現在非常に盛んに研究が行われている物質である。また、会合体を構成する分子数が10個程度であり、分子的描像・バンド的描像の中間の描像が妥当な、メゾスコピックな系であるとも言える。この中でも、ポルフィリン誘導体により構成された分子会合体は、アンテナクロロフィルなどのモデルとしても注目されている系である。分子会合体中では、分子間の双極子・双極子相互作用により励起が非局在化し、フレンケル励起子を構成する。特に、ポルフィリンJ会合体では、分子のS2-,S1-吸収帯がいずれも励起子を構成するという特徴を有する。これまでのポルフィリンJ会合体の光学応答については、10ピコ秒程度の時間分解能の研究がほとんどで、より速い領域での励起子の動力学については依然未解明であった。そこで本研究では、ポルフィリンJ会合体を三準位フレンケル励起子系(S2-,S1-励起子)のモデルとして考え、時間分解発光・吸収・位相分光法を駆使して、フェムト秒からピコ秒にわたる時間領域での励起子の超高速非線形光学応答を研究した。

2. ポルフィリンJ会合体の構造及び基礎吸収スぺクトル

 本研究で用いたポルフィリン分子(tetraphenylporphine tetrasulfonated acid;TPPS)と提案されている会合体の構造について、図1に示す。高濃度のTPPS分子は一次元状に自己会合する。図1(c)に、ポルフィリン単量体と会合体の定常吸収スペクトルとそのイオン濃度依存性を示す。イオン濃度の増加に伴い、1.92,2.86eVにおける単量体の吸収ピークが減少し、1.75,2.53eVに吸収ピークが現れる。これら二つの吸収帯は、単量体の吸収帯よりも先鋭で、かつ低エネルギー側にシフトしており、J会合体の形成により生じた新たな吸収帯である。以降、1.75,2,53eVにおける吸収帯を、各々S1-励起子吸収帯(Q-バンド)、S2-励起子吸収帯(B-バンド)と呼ぶ。

3. 時間分解発行・吸収分光によるS1-,S2-励起子の動力学の解明

 ポルフィリンJ会合体のS2-励起子共鳴励起により、S2-励起子からS1励起子への内部転換及び、その後のS1-励起子の非線形光学応答、緩和過程について明らかにした。実験では、光カーゲート法による時間分解発光分光と、ポンプ・プローブ法による時間分解吸収分光とを行った。はじめに、時間分解発光分光の結果について述べる。本研究では、会合体からのS2-発光を、定常及び時間分解発光スペクトルとして測定することに成功した。図2に、時間分解発光スペクトルとその時間変化を示す。水のラマン散乱による2.60eVのピークの他に、2.53eVに先鋭な発光が見られた。この発光は単量体の時間分解発光スペクトルでは見られず、また、発光のスペクトル幅がJ会合体の定常吸収及び発光スペクトルの幅とほぼ一致したことから、J会合体からのS2-発光であると同定した。S2-発光の時間依存性をデルタ関数と指数関数の和でフィットすることにより、360±70fsの寿命を持つことがわかった。次に、時間分解吸収分光を行った。図3に時間分解吸収差スペクトルと、その遅延時間依存性を示す。励起直後に顕著に見られた2.53eVにおけるBバンドの褪色が、短時間で消滅している。特異値分解による解析結果から、褪色の回復に要する時間は300fs程度となり、時間分解発光分光で得られた結果と整合する結果が得られた。従って、S2-励起子の寿命は300fsであると決定した。次に、内部転換後のS1-励起子の緩和過程について考察した。吸収変化は300fsの減衰成分を含む4つの指数関数でよくフィットされ、特徴的な時定数として4,10,300psが得られた。4ps減衰成分については、Sn←S1による誘導吸収がブルーシフトすることから、S1-励起子の振動緩和過程であると同定した。また、10ps減衰成分については、S1-励起子のバンド内緩和過程であると同定し、溶媒などとの相互作用により冷却されると考えた。最後に、300ps減衰成分はS1-励起子の寿命であると同定した。以上のような実験結果と考察により、S2-,S1-励起子の動力学が、図4に示す直列型の緩和モデルで矛盾なく説明できた。

4. サブ5フェムト秒分光による励起子・振動相互作用の解明

 サブ5フェムト秒レーザーパルスにより、ポルフィリンJ会合体のQバンド共鳴励起を行い、励起子と分子振動との相互作用について研究した。時間分解吸収差スペクトルと、その遅延時間依存性を図5に示す。1.78eV(697nm)以下では褪色(一励起子状態と基底状態間の遷移)が、1.78eV以上では誘導吸収(n-励起子状態から(n+1)-励起子状態(n:正整数)への遷移)が観測された。さらに、フレンケル励起子と結合したコヒーレントな分子振動を、実時間上で測定することに成功した。周波数247cm-1のこの振動モードはラマンスペクトルでも見られており、ポルフィリン分子が波打つラフリング・モードであると同定した。このコヒーレントな振動は、褪色・誘導吸収のいずれにおいても見られていた。振動の位相を詳細に解析した結果、褪色・誘導吸収の信号強度は同位相で増減していることがわかった。また、Qバンド付近で信号を波長積分したところ、積分した結果も顕著な振動を示した。このことは、従来の波束理論では説明することが困難であった。そこで我々は、吸収変化信号の振動の起源が、ラフリング・モードを介した、BバンドからQバンドへのインテンシティ・ボローイングによる、Q励起子の遷移の双極子モーメントの変調によるものと解釈することで、実験結果を説明できると考えた。これを、動的インテンシティ・ボローイング(Dynamic Intensity Borrowing;DIB)と名付けた。図6にDIBの機構を示す。Qバンドの0-0遷移及び振動構造は、元来配置間相互作用及び振電相互作用によりBバンドから振動子強度を借りているので、分子振動に誘起されて、さらに振動子強度の貸し借りが生じると考えた。時間分解吸収差スペクトルから抽出した振動の振幅スペクトルを解析した結果、Q励起子の双極子モーメントは約3%変化していると見積もり、これから、Bバンドの双極子モーメントはDIBによりさらに1%だけQバンドの双極子モーメントと混じると結論した。本結果は、従来のモデルがフランク・コンドン型の波束生成であるのに対して、ヘルツベルグ・テラー型の波束生成であると分類した。

5. 会合体中励起子のコヒーレント長の推定

 一次元会合体の場合、“同じ分子に励起は二つ以上存在しない”とするパウリの排他律のために、一励起子状態から二励起子状態への遷移による誘導吸収スペクトルは、ΔE〓3π2|J|/N2だけ高エネルギー側にシフトする。ここで、Jは双極子・双極子相互作用の大きさ、Nは励起子のコヒーレンス長である。Qバンドの褪色が高エネルギー側で削れているのは、ブルーシフトした誘導吸収が重量しているためである。このブルーシフト量から、S1-励起子は8~15分子以上にわたって非局在化していると推定した。

6. 時間分解位相差・吸収差スペクトル同時測定

 線形分光においては、Kramers-Kronig(K.K.)変換により感受率の実/虚部を得ることができるが、時間分解分光においては、ある条件においてのみK.K.変換が成立する。このため、時間分解位相差スペクトル(TRDPS)は時間分解吸収差スペクトル(TRDAS)のK.K.変換からは求められない。従って、非線形感受率の実/虚部同時測定が必須となる。本研究では、フェムト秒サニャック干渉計を用いて、非線形感受率の実/虚部にあたるTRDPS,TRDAS同時測定を行った(図7)。J会合体は先鋭な吸収スペクトルを有するため、Qバンドの褪色のほぼ全域を連続スペクトルとして測定することに成功した。時間分解位相差・吸収差スペクトルを各々K.K.変換した結果、遅延時間ゼロ付近で若干異なるものの、すべての遅延時間で変換後のスペクトルは元のスペクトルとよく一致した。これは、ポンプ光により生じた非線形光学効果が、プローブ光に対して線形応答とみなせるということを意味する。従って、観測された信号は主にS1-励起子の実励起過程によるものであると結論した。

7. 結論

 三準位フレンケル励起子系であるポルフィリンJ会合体について、フェムト秒時間分解発光・吸収・位相分光を行い、S2-,S1-励起子の超高速非線形光学応答を多角的に研究した。この結果、S1-励起子は8~15分子以上にわたって非局在化していること、また、S2-励起子の寿命が300fsであることを明らかにした。さらに、サブ5フェムト秒レーザーパルスを用いて、フレンケル励起子に結合したコヒーレントな分子振動を観測し、DIB(動的インテンシティ・ボローイング)という新しいモデルを提唱した。

図1 (a):TPPS単量体,(b):会合体の構造,(c):定常吸収スペクトルとイオン濃度依存性

図2 (a)時間分解発光スペクトル,(b)S2-発光のゲート時間依存性

図3 (a)時間分解吸収差スペクトル,(b)遅延時間依存性

図4 S2-励起子吸収帯共鳴励起後のS2-,S1-励起子の緩和過程。斜線の領域はS1-励起子吸収帯

図5 時間分解吸収差スペクトル(左)と遅延時間依存性及び振動成分のパワースペクトル(右)

図6 動的インテンシティ・ボローイングの機構。基準座標の下にラフリング・モードの模式図を示した。

図7(a)定常位相,(b)定常吸収,(c)時間分解位相差,(d)時間分解吸収差スペクトル

審査要旨 要旨を表示する

 分子J会合体は、励起子超放射に起因する超高速光学応答、振動子強度の集中による高い非線形感受率などの、非常に特徴的な光学的特性を有する物質である。この中でも、ポルフィリン誘導体により構成された分子会合体は、アンテナクロロフィルなどのモデルとしても注目されている系である。本学位論文では、ポルフィリンJ会合体を二バンドフレンケル励起子系(S1-,S2-励起子:後述)のモデルとして取り上げ、時間分解発光・吸収・位相分光法を用い、フェムト秒からピコ秒にわたる時間領域での励起子の超高速非線形光学応答を研究している。

 本学位論文は七章からなる。第一章で本論文の概略を述べた後、第二章では、会合体中のフレンケル励起子について定式化している。第三章では、本研究で用いたポルフィリン分子(tetraphenylpolphine tetrasulfonated acid)とJ会合体の分光学的特性について記述している。定常吸収スペクトルに見られる1.75,2.53eVにおける吸収ピークを、各々S1-励起子吸収帯、S2-励起子吸収帯と同定し、本系が二バンドフレンケル励起子系であると解釈している。

 第四章では、時間分解発光・吸収分光を用い、ポルフィリンJ会合体のS2-励起子共鳴励起により、S2-励起子からS1-励起子への内部転換、及び、転換後のS1-励起子の超高速緩和過程について研究した結果をまとめている。特に、時間分解発光分光については自ら立ち上げ、独自の方法で実験を行っている。実験結果は、直列型の緩和モデルを導入することにより矛盾なく説明でき、その結果、次のような緩和過程の存在を明らかにしている。

・300fs:S2-励起子の寿命(S2-励起子からS1-励起子への内部転換)

・4ps:S1-励起子の振動緩和時間

・10ps:S1-励起子のバンド内緩和時間

・300ps:S1-励起子の寿命

特にS2-励起子の寿命については、時間分解発光分光で観測された先鋭なS2-励起子発光と、時間分解吸収分光で観測されたS2-励起子の褪色の消失との間に整合する結果が得られている。

 第五章では、フレンケル励起子と分子振動との相互作用について研究した結果をまとめている。世界的にも最超短パルスであるサブ5フェムト秒光パルスを用いた実時間分光法により、時間分解吸収差スペクトルを測定した結果、分子振動に起因する顕著な振動が観測されている。振動周波数247cm-1のこの振動モードはラマンスペクトルでも見られており、ポルフィリン分子が波打つラフリング・モードであると同定している。超高時間分解能を活かした振動の位相の詳細な解析から、実験結果は従来の波束理論では説明することが困難であると論じ、次のような新しいモデルを提唱している。すなわち、S1-吸収帯は、元来配置間相互作用及び振電相互作用によりS2-吸収帯から振動子強度を借りているので、247cm-1の分子振動に誘起されて、さらに振動子強度を借りると考える。これを、ダイナミック・インテンシティ・ボローイング(Dynamic Intensity Borrowing;DIB)と名付け、S1-励起子の双極子モーメントは約3%変化すると結論している。さらに、本結果は、従来のモデルがフランク・コンドン型の波束生成であるのに対して、ヘルツベルグ・テラー型の波束生成であると分類し、本報告が初めての実時間観測であることが強調されている。

 第六章では、フェムト秒サニャック干渉計を用いて、ポルフィリンJ会合体の非線形感受率の実・虚部同時測定を行った結果をまとめている。実験では、非線形感受率の実・虚部にあたる時間分解位相差・吸収差スペクトルを同時測定している。これらを各々Kramers-Kronig変換(K.-K.変換)し、時間分解分光においてK.-K.変換が成立する条件について議論している。

 第七章では、全体のまとめを行うと同時に、新しい実験の提案についても言及している。

 本研究は、三準位フレンケル励起子として興味深い光学的特性を有するポルフィリンJ会合体について、フェムト秒時間分解発光・吸収・位相分光を行い、S2-、S1-励起子の超高速非線形光学応答に関する重要な知見を得たものと認められる。また、一連の研究を通じて、超高速現象の解明に対する100〜サブ5フェムト秒レーザーパルスの有効性が示されている。本論文の中核をなす研究内容は指導教官らとの共著論文として学術誌に印刷公表済みおよび公表予定であるが、実験の遂行ならびに結果の解析の大部分は論文提出者が主体となって行ったものと判断される。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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