学位論文要旨



No 115863
著者(漢字) 上岡,隼人
著者(英字)
著者(カナ) カミオカ,ハヤト
標題(和) コヒーレント励起によるフェムト秒領域での素励起緩和過程の研究
標題(洋)
報告番号 115863
報告番号 甲15863
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3907号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 山本,智
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 小林,孝嘉
 東京大学 助教授 勝本,信吾
内容要旨 要旨を表示する

1 研究の背景

 電子・格子をはじめとする固体の構成要素の集団連動を量子化して考えたとき「準粒子」として扱われる“素励起”に関する研究は、固体物理の研究において大きな位置を占めている。これまで固体中の素励起の研究は、中性子散乱や磁気共鳴(NMR,ESR)、そしてラマン散乱分光、赤外吸収、発光分光などの定常的な測定を通じてなされてきた。これに対し、非定常的なこれら素励起の生成と緩和の過程をその固有振動そのものを時間的に追う形で直接観測することができれば、それは励起状態のダイナミクスに対する極めて直接的な視点を与えることになる。

 素励起緩和過程はピコ秒(1ps=10-12s)さらにはフェムト秒(1fs=10-15s)程度で進行するが、近年ではモードロックチタンサファイアレーザーを始めとする超短パルスレーザー装置が進歩したことで、純光学的測定系で数fs台の時間分解能が達成されるまでに至っており、このような光源を用いて光励起に伴う素励起の超高速緩和過程が精力的に研究されている。このパルスレーザー光源からの光を励起光(ポンプ光)と検索光(プローブ光)に分割し、両者に光路差を付けることでプローブ光の相対遅延時間を変化させて信号を取り出すいわゆるポンプ・プローブ分光法が、このサブピコ秒領域における時間分解測定の基本的な方法となっている。この時間分解測定は、プローブ光のスペクトル変化で素励起のエネルギー緩和の観測を可能にしたが、励起状態の緩和過程を研究する上では、これらエネルギー緩和に加えてその位相緩和過程を明らかにすることも重要となる。

 超短パルスレーザーはその広いスペクトル幅がカバーするエネルギー領域内にある素励起を一つのレーザーだけで且つコヒーレントに誘起することが出来る。このようにして生成された素励起の中で特にフォノンは「コヒーレントフォノン」と呼ばれている。このコヒーレントに生成されたフォノンすなわち格子振動は、試料の誘電率にマクロに揃った周期的変化を生じさせるので、プローブ光の反射率(または透過率)を時間的に変調する。これを観測するのが「コヒーレントフォノン測定」と呼ばれている方法である。この手法を用いれば、振動の位相そのものの情報を手にすることができる。実験結果の時間-強度プロファイルをフーリエ変換すれば、位相情報の代わりにフォノンのエネルギースペクトルが得られ、これは通常の分光測定で得られるスペクトルと対応づけることができる。このコヒーレントフォノン測定法では、フォノンと同様にプラズモンやマグノン等の素励起が誘電率を変調すれば、その時間発展を反射率(透過率)変化を通じて時間軸上で追跡できる可能性がある。本研究では主としてフォノン以外も含めた素励起の位相緩和過程を対象としている。

2 本研究の目的

 これまでにもコヒーレントに励起された素励起(主にフォノン)を通じた研究が幾つかの物質においてなされてきた。しかしながらこのコヒーレント励起による時間領域測定の全体数はまだ少なく、普遍的な測定法としてはまだ確立されていない。また、どのような物質で測定が可能であり、そのような物理的情報が得られるのかもまだ明確にはされていない。このような現状から進展をはかるには更に多様な物質における研究が必要となる。こうした背景を基に、本研究では素励起緩和過程を実時間観測する手段としてのコヒーレントフォノン測定法の適用範囲を拡大することを目的としている。

3 本研究の内容

 コヒーレントフォノン実験においては極めて小さな反射率変調を検出する測定系が必要とされることから、まず外界および光源からの雑音の影響を取り除き信号の検出感度を高めた時間分解反射率変調測定系を製作した。最終的にはコヒーレントフォノン測定系としては最高レベルであるΔR/R〜10-7の変調まで検出できる測定系が得られている。

 この測定系と、プローブ光を偏光分離してその反射率の差を検出するREOS測定配置により、狭バンドギャップ半導体InAs,InSbにおけるコヒーレントプラズモン・フォノン結合モードを初めて観測した。InAsではLOフォノンモードとプラズモン・フォノン結合モードのL-分枝が観測され、励起強度に依存した両者の強度比の変化が見出された(図1,2)。弱励起においては、L-分枝のエネルギー値が計算により得られた結合モードの分散曲線から逸脱する傾向が見出されており、それはランダウ減衰の概念で解釈される。InSbでは結合モードとLOフォノンの位相緩和の寿命によるスペクトル幅の広がりがLOフォノンとTOフォノンのエネルギー差程度になっていることからL-分枝のみが観測されている。また強励起下で不可逆な損傷が生じること、その結果試料内にSbのドメインが生成されることをREOS法による偏光選択則で示した。更に、このプラズモン・フォノン結合モードを記述するモデルに従いInAsの表面電場内における分極振動および格子振動の実時間振動のシュミレーションを行ない、これが測定された時間領域測定結果とそのフーリエスペクトルををほぼ再現できることを示した。両者を比較することにより、プラズマ振動に対して非常に速い数フェムト秒程度の位相緩和時間の見積もりを与えた。

 次に、強相関電子系の一種であり、温度Tc以下で電荷整列状態に転移し格子歪みが生じるとともにスピン一重項状態を形成する二次元スピン系物質NaV2O5において測定を行った。相転移近傍の温度領域でこの物質の持つ素励起の位相緩和過程を観測した結果、このような二次元スピン系においてもコヒーレントに励起されたフォノンモードを観測できることを初めて示した。また、これまで注目されていなかった303cm-1に位置するフォノンモードが、磁気的なモードと同様に転移温度以下で線形にその強度を増大させる傾向を見出した。これにより電荷整列相転移に伴うスピン配列がこのフォノンモードと密接に関連していることを示した。さらに、この二次元スピン系に対しREOS測定配置を用いるとともに円偏光によるポンプ・プローブ測定を行なうことで、相転移温度以下で線形に強度を強める新たな磁気モードを観測することに初めて成功した(図3,4)。さらにこれが三重項状態(S=1)の2-マグノンに対応するスピン束縛励起状態であると推察されることを示した。このようにマグノンをゼロ磁場状態でコヒーレントに励起しフェムト秒領域で検出できる方法を示したことで、他のスピン系においてもコヒーレントに励起されたスピンの超高速時間発展を観測し研究することが出来る可能性がある。また、NaV2O5は相転移温度以下での構造が未だ決定していないが、これに関して多数の偏光の組み合わせを用いて行なった時間分解REOS測定の結果を用いた考察を行なった。最後にこれら磁気的なモードに対し各々の位相緩和時間を時間分解フーリエ変換の方法で与えた。

4 今後の展望

 以上の様に本研究では、このコヒーレント励起による時間領域測定がフォノンに留まらず他の素励起に対しても有効であり、励起後の位相緩和過程について直接的な視点を与えることを示した。さらにREOS測定法を円偏光と組み合わせて用いることで、スピン波(マグノン)に対してもその位相緩和過程を知ることが出来ることを初めて示唆している。特に後者はNaV2O5以外の一次元および二次元スピンギャップ系にも適用できることが予想され、スピンダイナミクスを知る上で有力な方法になり得ると考えられる。電荷整列型相転移によるスピン秩序は、例えば同様に強相関電子系の物質であるペロブスカイト型マンガン酸化物においても観測されて別、本研究で用いた時間領域測定はこの物質が巨大磁気抵抗を示す温度領域でのスピン波の時間発展等の興味深い部分に対する研究手段となり得る。また、コヒーレントに生成されたマグノンが存在することに着目すれば、時間差を付けた第二の励起光を照射すりことでこのモードを選択的に増強および消滅させるスピン制御への可能性も今後開かれている。

図1: InAsにおける時間分解反射率の微分信号における励起強度依存性.

図2: InAs時間分解反射率の微分信号のフーリエスペクトルにおける励起強度依存性.挿入図はプラズモン・フォノン結合モードとLOフォノンモードのピークの強度の励起強度依存性.

図3、円偏光プローブを用いたREOS測定における温度依存性

図4:NaV2O5における円偏光を用いた測定結果の温度依存性

審査要旨 要旨を表示する

 フォノン、エキシトン、プラズモン、マグノンなどの素励起の緩和過程は、固体物理学の基礎および応用分野における重要なテーマの一つであり、近年、活発な研究が展開されている。これまで、固体中の素励起の研究は、おもに中性子散乱、磁気共鳴、ラマン散乱、赤外線分光などの方法により、時間平均された平衡状態について測定が行われてきた。しかし、素励起の動的挙動を調べるには、ピコ秒からフェムト秒の時間分解が必要であり、近年の超短パルスレーザーによって、その研究の端緒が開かれつつある。本研究では、その流れを大きく発展させるねらいから、素励起による誘電変調を実時間観測する時間領域分光法を新しく開発し、いくつかの基本的物質系に応用した。

 時間領域分光に用いた装置は、論文提出者が自ら手作りで組み上げたものである。モードロックチタンサファイアレーザーを光源とし、25fsの時間分解能を達成している。また、シェーカー法と呼ばれる光路長を変調する方法を採用することによって感度を高め、10-7のオーダーの誘電変調まで観測できるシステムを作り上げた。

 これを用いて、狭ギャップ半導体であるInAs,InSbについて時間領域分光測定を行い、コヒーレントプラズモン・フォノン結合モードの観測に成功した。プラズモンとフォノンに関する結合モデルを用いてシミュレーション計算を行ったところ、InAs中のプラズマ振動の位相緩和時間が4fs以下であると見積もられた。

 さらに、上記の測定法を二次元スピン梯子物質であるバナジウムブロンズ(NaV2O5)に対して適用した。サンプル表面の状態をよく選別することによって、この物質に対する時間領域分光を実現させた。資料の温度を変化させながらスペクトルをとっていくと、スピン整列がおこる臨界温度(35K)前後でスペクトルの様相が大きく変わった。特に、300cm-1のバンドは、臨界温度以下で強度が大きく増大することから、これがスピン秩序状態と相関をもったフォノンモードであると考えられる。さらに、円偏光を用いることにより、基底状態からのコヒーレントなスピン波励起(コヒーレントマグノン)と思われるモードを初めて見出した。この結果は、論文提出者が開発した時間領域分光法が、コヒーレントなスピン波励起の研究に大きなブレークスルーをもたらしうることを意味している。

 このように、本論文は固体中の素励起に関して、一般性のある新しい方法論を開拓するとともに、それを実際の物質系に適用し、意義ある科学的成果を収めたものである。また、本論文における成果は、研究協力者の助言の下、すべて論文提出者が自らの着想と努力で切り拓いたものである。よって、審査委員会は全員一致で、論文提出者が博士(理学)の学位を授けるに十分な資格を有すると判断した。

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