学位論文要旨



No 115868
著者(漢字) 澤田,正博
著者(英字)
著者(カナ) サワダ,マサヒロ
標題(和) スピン分解光電子分光によるコバルト薄膜の磁気異方性の研究
標題(洋)
報告番号 115868
報告番号 甲15868
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3912号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 助教授 木下,豊彦
 東京大学 助教授 横山,利彦
 東京大学 教授 後藤,恒昭
内容要旨 要旨を表示する

 スピン分解光電子分光は、一般的な光電子分光法に光電子のスピン解析技術を組み合わせた実験手法であり、試料磁化に平行なスピンと反平行なスピンに分離して物質の電子状態を調べることができる。スピン分解光電子分光は、磁性体のスピンに依存した電子状態の情報を直接調べる手段として有用である。特に、系の磁性が強磁性価電子バンドによって支配される遷移金属磁性体の研究において、大きな役割を果たす。スピン分解光電子分光は、強磁性価電子バンドをブリルアンゾーンの任意点に対してプローブして、スピンに依存した各々のバンドを直接調べることができる。近年、真空技術や製膜技術の発展にともない、オングストロームスケールで膜厚制御された金属多層膜や人工格子の作成が可能になり、その物性評価も盛んに行われるようになってきた。特に、人工原子層に磁性金属を適用した磁性薄膜および磁性多層膜については、磁気記録メディアの開発をはじめとする工学的応用の面からも重要視され、多くの研究がなされてきた。しかしながら、それらの研究の多くは、微視的に制御された構造をもつ物質系に対する研究にもかかわらず、巨視的な磁性を評価するものにとどまっている。遷移金属磁性膜の磁性は、それらの強磁性価電子バンドに支配されて、微視的構造など基板結晶や製膜条件に依存する薄膜の多様性は、その価電子状態に反映される。したがって、微視的視点で遷移金属磁性薄膜の考察をするためには、価電子状態の理解が要になる。スピン分解光電子分光は、強磁性価電子バンドをプローブするとともに、そのプローブ長が数Åから数十Åであるから、遷移金属磁性薄膜の微視的研究の手段としてふさわしい。本論文は、スピン分解光電子分光により、原子スケールの膜厚で積層されたコバルト薄膜の電子状態を調べて、磁性薄膜の磁気異方性と電子状態の関連を考察する実験研究についてまとめたものである。

 磁性薄膜および磁性多層膜では、磁性層の膜厚に依存した磁気異方性が実現していることが明らかにされている。磁性薄膜および多層膜のCo/Pd(111)とCo/Au(111)は、薄膜極限で磁気異方性エネルギーの符号が反転して、垂直磁気異方性(PMA)が出現する薄膜系として有名である。膜厚に依存した磁気異方性と薄膜極限におけるPMAの出現は、現象論的に、膜厚減少とともに表面界面磁気異方性の効果が優位になることで説明される。ところが、現象論的な扱いを越えて、表面界面磁気異方性の起源とその出現機構に関する研究が行われるようになったのは、比較的最近になってからであり、その本質に肉薄する研究は少ない。Brunoらは、表面界面磁気異方性の起源について理論的な検討を行い、その出現機構をいくつかのモデルにまとめている。これらのうち軌道異方性に基づくモデルについては、StohrらによるMCD実験によってコバルト多層膜に対する検討がなされ、界面における軌道モーメントの異方性と磁気異方性の間に直接的な関係があることを示唆する実験結果が報告された。この結果は、界面電子状態の存在が薄膜の磁気異方性に寄与することを意味しており、磁気異方性エネルギーの第一原理計算が与える描像とも一致する。しかしながら、実際の磁性薄膜界面における価電子バンドと磁気異方性の関係を検討した実験は、今まで行われてこなかった。そこで、磁性薄膜のCo/Pd(111)とCo/Au(111)を対象にスピン分解光電子分光実験を行い、コバルトの強磁性バンドを直接調べて、界面電子状態と界面磁気異方性の関係を詳しく検討することにした。

 Co/Pd(111)とCo/Au(111)は、基板結晶が異なるものの、同じCo(111)界面が形成されて、基板上には調密構造のコバルト膜のfcc-Co(111)またはhcp-Co(0001)が成長する。どちらの薄膜系においても、膜厚が十分大きい場合、バルク的な価電子バンドが実現していることを確認できる。実験では、fccブリルアンゾーンのГ-∧-L対称線に沿った価電子バンドをプローブした。この対称線のs偏光配置による測定では、結晶場分裂準位のeg状態に属する面直軌道(xz,yz軌道)がtight-bindingして形成される∧3、対称性のUpperバンドと、t2g状態に属する面内軌道(xy,x2-y2軌道)によって形成される∧3対称性のLowerバンドが観測される。コバルト結晶の軌道磁気モーメントは、結晶場とバンド分散の効果のため、そのほとんどが消失している。しかしながら、スピン軌道相互作用を通じてわずかながら軌道磁気モーメントが誘起されており、磁気異方性を考える上で重要な役割を果たす。スピン軌道相互作用の行列要素を調べると、面内軌道は面直磁気モーメントの起源となり、面直軌道は面内磁気モーメントの起源となることがわかる。また、コバルトは、強い強磁性金属として多数スピン状態を完全占有しているため、少数スピン軌道の電子占有の状態が、スピン磁気モーメントおよび軌道磁気モーメントを決定する。したがって、スピン分解光電子分光実験によってプローブされる強磁性価電子構造において、少数スピン状態のUpperバンドとLowerバンドの振る舞いに注目することで、系の軌道異方性を考察することができる。

 コバルト薄膜の価電子帯を調べる実験では、スピン分解光電子分光のプローブ厚が数原子層程度である。したがって、薄膜試料の膜厚を変化させてスピン分解光電子スペクトルの観測を行うと、膜厚が十分に薄い薄膜極限では界面の情報を反映したスペクトルが得られて、膜厚増加とともにバルク的な電子状態を反映するスペクトルに近づいていくことになる。厚膜試料と薄膜極限試料に対するスペクトルを比較して差異があれば、界面においてバルク電子状態と異なる界面電子状態が実現していることがわかる。そこで、Co/Pd(111)とCo/Au(111)に対して、スピン分解光電子スペクトルの膜厚依存性の測定を行い、界面電子状態の存在を確かめる実験を行った。Co/Pd(111)とCo/Au(111)は、それぞれ7Åと12Åを転移膜厚として磁気異方性が変化するが、実験はこれらを含む膜厚範囲で行われた。

 Co価電子帯のスピン分解スペクトルの膜厚依存性の測定から、Co/Pd(111)とCo/Au(111)の両方の場合について、薄膜極限でバルクと異なる電子状態の存在することが明らかになった。スペクトル解析から、Co価電子帯の少数スピン状態を構成するUpperバンドとLowerバンドの結合エネルギーが、膜厚依存性をもつことが明らかになり、薄膜極限の界面電子状態では、各バンドの結合エネルギーが、バルクのそれより低結合エネルギー側にシフトしていることが明らかになった。少数スピンUpperバンドの低結合エネルギーシフトは、面直軌道成分の減少を意味しており、少数スピンLowerバンドの低結合エネルギーシフトは、面直軌道のエネルギー重心がフェルミ準位に近づくことを意味する。このことは、界面における少数スピン状態の電子占有がバルクの場合と異なることを示しており、軌道異方性を出現させる。この場合、界面電子状態にあらわれる軌道異方性は、面直軌道磁気モーメントを優勢にする。このとき、スピン磁気モーメントは、スピン軌道相互作用によって軌道磁気モーメント平行に整列させられるから、垂直磁気異方性(PMA)に寄与することになる。

 薄膜の成長過程や微視的構造などは基板結晶に依存するので、薄膜極限における微視的状態は基板結晶に依存し得る。ところが、本論文で取り上げたCo/Pd(111)とCo/Au(111)については、Co価電子帯の膜厚依存性において定性的に同等な振る舞いが観測され、どちらの場合も界面電子状態の存在が確認できた。界面電子状態の少数スピン状態は、どちらの系においても、バルクに比べ、面直軌道(xz,yx)の占有率が低下して、面内軌道(xy,x2-y2)の状態密度の重心がフェルミ準位に近づいている。また、このような界面電子状態の存在は、軌道磁気異方性によるPMAの出現を正当化する。基板が異なる系で同様の性質の界面電子状態が実現することは、基板に関わらずCo(111)界面の存在そのものが、Co界面の電子状態密度を決める重要な要素であることを示している。したがって、一般に、Co(111)界面を伴うコバルト薄膜の界面磁気異方性の起源は、Co(111)界面電子状態の軌道磁気異方性にあると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文で報告されている研究は、スピン分解光電子分光を用いて非磁性金属上にエピタキシャル成長したコバルト薄膜の磁気異方性と3d電子状態の関連を議論したものである。非磁性金属上の強磁性遷移金属薄膜では、多くの場合磁気異方性が膜厚とともに変化することが知られている。本研究で取り上げたパラジウム(111)および金(111)表面上のコバルト薄膜では、膜厚が厚い場合には磁化の向きは面内にあるが、薄膜極限では磁化は面に垂直方向を向くことが報告されている。このことは、薄膜極限において、表面界面に起因する磁気異方性が形状による磁気異方性よりも支配的になることを意味するが、その微視的な機構についてはまだ十分に理解されていない。本研究では、少数スピン状態dバンドのうちの面垂直軌道から構成されているUpperバンドと面内軌道から構成されているLowerバンドのエネルギーと膜厚との関係を調べ、軌道磁気モーメントの異方性の変化を議論している。

 本論文は、6章と補遺から構成されている。第1章は序論で、スピン分解光電子分光およびコバルト薄膜の磁気異方性に関するこれまでの研究が簡単に紹介されたのち、研究の目的が述べられている。第2章では、スピン分解光電子分光の方法が詳しく述べられ、実際に用いた実験装置の説明がなされている。第3章では、遷移金属および表面界面における磁性と電子状態との関係、およびコバルト薄膜の磁気異方性についてこれまでの知見がまとめられている。第4章と5章では、それぞれ、パラジウム(111)面上および金(111)面上のコバルト薄膜の実験結果が示され、それらに基づき、薄膜極限での表面界面磁気異方性の起源について議論がなされている。また、第4章では、パラジウム4pのスピン分解光電子分光とコバルト3pの磁気線2色性の実験結果が示され、界面の磁気モーメントについて議論されている。第6章はまとめにあてられており、補遺には、ニッケル(110)面における円偏光を用いたスピン分解光電子分光の研究が述べられている。

 以下に本論文において得られた主な成果を記述する。

1. コバルト少数スピン状態dバンドのエネルギー:

パラジウム(111)面上と金(111)面上ともに、膜厚が小さくなるとコバルト少数スピン状態3dバンドの結合エネルギーは小さくなり、厚膜では一部占有されていたUpperバンドが薄膜極限では非占有となる。このとき、軌道モーメントが面垂直方向であるLowerバンドのみが占有され、軌道磁気異方性が増大することになる。この軌道異方性がスピン軌道相互作用を通じて、薄膜極限での面垂直磁気異方性の原因となっていると結論した。

2. パラジウム4p電子のスピン偏極:

パラジウム(111)面上にコバルトを4A蒸着した試料で、パラジウム4pにスピン偏極が生じている。これは、界面パラジウムに磁気モーメントが誘起されていることを意味する。

3. コバルト3pの磁気線2色性:パラジウム(111)面上でコバルトの膜厚が3.7Aの場合は、さらに厚い膜と比べてコバルト3pピークの磁気線2色性が大きい。これは、界面の磁気モーメントが増大していることを意味する。

 審査委員会は、これらの研究において、超高真空中の困難な実験が限られたビームタイムの間に計画的かつ十分注意深く行なわれ、その解析及び考察が適切な手法でなされていると判断した。このような研究を行うことにより、コバルト薄膜の3d少数スピン状態エネルギーの膜厚依存性と磁気異方性との関係、および界面磁気モーメントの異常を明らかにしたことの意義は大きい。

 なお、本研究は、柿崎教授(元指導教官)およびその他の研究者との共同研究となる部分を含むが、著者が研究計画から計算及び解析・考察のすべての段階で主導的な役割を果たしており、主体的寄与があったものと認められた。

 したがって、審査委員全員は、本論文が博士(理学)の学位論文として合格に相当するものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク