学位論文要旨



No 115872
著者(漢字) 高橋,泰城
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,タイキ
標題(和) ステロイドホルモンが海馬神経細胞に与える急性作用の解析
標題(洋)
報告番号 115872
報告番号 甲15872
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3916号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 若林,健之
 東京大学 教授 桑島,邦博
 東京大学 教授 佐野,雅己
 東京大学 助教授 能勢,聡直
内容要旨 要旨を表示する

脳神経系におけるシナプス伝達の効率変化は次のような過程を経ておこる。通常、前シナプス神経細胞から放出されたグルタミン酸を受けて、まずAMPA型グルタミン酸受容体が開口し、後シナプス神経細胞が脱分極し、NMDA型グルタミン酸受容体が開口して神経細胞内にカルシウムイオンが流入する。この過程が特定のシナプスにおいて繰り返されると、流入したカルシウムイオンによって細胞内タンパクのリン酸化などが起こり、長期増強と呼ばれるシナプス伝達効率の上昇がおこる。特に海馬CA1-CA3間の長期増強ではNMDA受容体の役割が非常に重要である。

通常のステロイドホルモンは副腎皮質細胞において、コレステロールから合成される。特にストレスステロイドホルモンは生体へのストレスに応答して分泌される。一方、硫酸プレグネノロンなどの神経ステロイドは脳内で合成されていることが明らかにされつつある。最近、ラットやマウスなど様々なモデル動物を用いた研究で、ステロイドホルモンが記憶・学習能に大きな影響を与えることが知られてきた。特に、ストレスに応答して分泌されるストレスステロイドが動物の記憶・学習能を低下させることが発見されているが、その神経機構は明らかになっていなかった。

本研究ではステロイドホルモンが記憶学習能にあたえる影響の神経機構を研究するため、記憶・学習の神経素過程であるシナプス可塑性がNMDA受容体経由のカルシウム信号によって引き起こされることに着目し、そのカルシウム信号が、ストレスステロイドや神経ステロイドによってどのように制御されているかを、神経細胞内カルシウムやミトコンドリアの膜電位の蛍光顕微イメージングによって解析した。

試料としては、誕生後3-5日目のウィスターラットより調製した海馬神経細胞を用いた。培養開始後7-10日経過後に蛍光測定をおこなった。

海馬神経細胞内カルシウムの蛍光顕微イメージングのプローブとして、カルシウム感受性蛍光色素fura-2を使用し、5μMの濃度で30分間海馬神経細胞内に負荷した。ミトコンドリアの膜電位の蛍光顕微イメージングのためにはrhodamine123を海馬神経細胞に0.2μMで負荷して蛍光測定を行った。

海馬神経細胞に100μMのNMDAを投与したところ一時的な細胞内カルシウム濃度上昇が94.6%の海馬神経細胞において発生し、一分程度で上昇した細胞内カルシウム濃度はNMDA刺激前の状態に戻った。一方、1μM以上のコルチコステロンで海馬神経細胞をインキュベートした後、100μMのNMDAを投与すると、単独でNMDAを投与した場合とは全く異なり、非常に延長された神経細胞内カルシウム濃度上昇が88.1%の海馬神経細胞において観察された。このように、コルチコステロンによってカルシウム信号が延長された海馬神経細胞の割合は、プレインキュベーションに用いたコルチコステロンの濃度を1μMから5μM、10μM、50μMと上昇させていったところ、88.1%,91.2%,92.4%,95.5%と増加した。

海馬神経細胞を10μMのコルチコステロンでインキュベートした後、100μMのNMDAを投与し、延長型のCa2+信号が発生している状態で、NMDA受容体の特異的チャネル阻害剤であるMK-801(10μM)を投与するという実験を行った。すると、MK-801の投与直後に、[Ca2+]iはすみやかに初期値にまで完全に低下し、Ca2+信号は消失した。このことから、コルチコステロンによるこの延長効果はNMDA受容体経由のカルシウムに対してはたらいているということが分かる。また、海馬神経細胞のカルシウムのくみ出しを阻害しているわけではないことが分かる。さらに、コルチコステロンの存在下によって、NMDAによって誘起されるカルシウム信号が延長型になっている状態でコルチコステロンを洗い流して取り除いてやると、延長型のカルシウム信号が消失し、その後NMDAを加えると再び一時的なカルシウム信号が発生した。この実験結果からコルチコステロンの作用は、不可逆的なものではないことが示唆された。次に、細胞内カルシウムストアの寄与を調べるためにタプシガルジンによって細胞内カルシウムストアを枯渇させた条件下で、コルチコステロン存在下と非存在下でNMDAを加えて、カルシウム信号を計測した。その結果、今回見出した、コルチコステロンによって延長されたカルシウム信号には、細胞内カルシウムストアの寄与はほとんどないことが分かった。

海馬神経細胞内にカルシウムを流入させる経路はNMDA受容体だけではなく、電位感受性カルシウムチャネルも存在し、神経細胞の脱分極(細胞膜電位の上昇)に応じてカルシウムを細胞内に流入させる。NMDAの投与により海馬神経細胞のNMDA受容体が開口し、カルシウムが流入するので細胞膜電位が上昇する。その結果、電位感受性カルシウムチャネルが開口し、開口した電位感受性カルシウムチャネルを介して流入するカルシウムイオンもある程度存在する。そのような電位感受性カルシウムチャネル経由のカルシウム流入がどの程度、本研究で測定しているカルシウム信号に寄与しているのかを調べるため、代表的な電位依存性カルシウムチャネルであるL-typeの電位依存性カルシウムチャネルを阻害した条件で、コルチコステロンの効果を解析した。

10μMのニカルジピン(L-typeの電位依存性カルシウムチャネルの阻害剤)で20分間前処理した(コルチコステロン存在条件の実験では同時に10μMのコルチコステロンで前処理)後、NMDAに対する海馬神経細胞のCa2+反応を測定した。その結果、細胞内カルシウム濃度上昇は、ニカルジピンによって多少低下したものの、統計的に有意な差ではなかった。また、延長型のCa2+信号を発した海馬神経細胞は、コルチコステロンが存在する場合には、たとえ電位依存性カルシウムチャネルが阻害されていても89.1%存在し、コルチコステロンのCa2+信号延長効果は消失しなかった。次に、海馬神経細胞を、10μMのコルチコステロンと同時に10μMのシクロヘキシミド(タンパク合成の阻害剤)で20分間インキュベートし、それから100μMのNMDAを投与した。その結果、85.1%の海馬神経細胞で、延長型のCa2+信号が観察された。古典的ステロイド作用は新規タンパク合成を経て効果を発揮すると考えられており、この実験結果は、その新規タンパク合成が起きなくてもコルチコステロンがCa2+信号を延長させるということを示しているので、コルチコステロンがNMDA受容体経由のカルシウム信号に与える効果が古典的ステロイド作用によるものではないことを示している。

神経細胞に0.2μMのrhodamine 123を負荷してから100μMのNMDAを単独で神経細胞に作用させたとき、rhodamine 123の蛍光を経時的に測定すると一時的な蛍光強度の低下が観察された。rhodamine 123を負荷した神経細胞を、20分間コルチコステロンでインキュベーションしてからNMDAを投与すると、rhodamine 123の蛍光は低下し、そのままミトコンドリアはもとの膜電位差を回復しない状態が継続した。このように、コルチコステロン存在下と非存在下におけるミトコンドリア膜電位の時間変化のパターンの違いは、Ca2+信号の場合と一致していた。さらにミトコンドリアの脱共役剤であるFCCP (carbonyl cyanidep-trifluoro-methoxyphenyl hydrazone)を神経細胞に投与したときrhodamine 123の蛍光強度が次第に低下していくのが観察された。これにより、rhodamine 123の蛍光を測定することによってミトコンドリアの膜電位の測定が行われていることが確かめられた。

 これらの結果から、コルチコステロンの存在下では、NMDA受容体経由のカルシウム流入が延長され、海馬神経細胞のミトコンドリア膜電位差を持続的に低下させることによって海馬の神経機能低下がおこることが示唆される。海馬神経細胞に対してコルチコステロンのアゴニストであるデキサメサゾン(1μM)やコルチゾール(10μM)存在下でNMDAを投与したところ、どちらの場合もほとんどの海馬神経細胞において、非常に延長されたカルシウム信号が観察された。NMDAに反応した海馬神経細胞のうち、延長型のカルシウム信号を発した細胞の割合は、デキサメサゾンによる前処理では94.2%であり、コルチゾールの場合では88.4%であった。即ち、ステロイドによる制御によってカルシウム信号が延長型になってしまった海馬神経細胞の割合は、10μMコルチコステロン,1μMデキサメサゾン、10μMコルチゾールの三者ではあまり違いが見られなかった。

 ステロイドによるNMDA受容体制御の阻害剤としても知られているプロゲステロンを10μMの濃度でコルチコステロンとともに海馬神経細胞に対して前処理してやると、コルチコステロンによるカルシウム信号への作用はやはり阻害された。しかし、プロゲステロンそれ自体はNMDA投与によるカルシウム信号には影響しなかった。ラットの空間学習能を向上させる硫酸プレグネノロンで海馬神経細胞を10-20分間インキュベートした後、NMDAを投与したところ、一時的な、有意に大きなカルシウム信号が大部分の海馬神経細胞において観察された。この条件下では、細胞内カルシウム上昇はNMDA単独で発生したカルシウム信号の場合の1.4倍であった。

これらの実験結果より、ストレスステロイドは古典的ステロイド効果とは異なる経路で急性的にカルシウム信号を延長させ、神経細胞のミトコンドリア膜電位を持続的に低下させ、機能低下させるのに対して、神経ステロイドである硫酸プレグネノロンはカルシウム信号を瞬間的に増大させ、長期増強を促進するということが示唆される。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究の目的はステロイドホルモンが記憶学習能にあたえる影響の神経機構を研究することである。論文提出者は、シナプス可塑性を調節するNMDA受容体経由のCa信号の時間変化が、ステロイドホルモンのうち特にコルチコステロン(ストレスステロイドの一種)によってどのように制御されているかを、神経細胞内Caやミトコンドリアの膜電位の蛍光顕微イメージングによって解析した。

 単一神経細胞での解析を行うため、論文提出者は、誕生後3-5日目のウィスターラットより調製した海馬神経細胞を用い、培養開始後7-10日経過後に蛍光測定をおこなった。

 Ca感受性蛍光色素fura-2を負荷した海馬神経細胞に100μMのNMDAを投与したところ一時的な細胞内Ca濃度上昇が94.6%の海馬神経細胞において発生し、上昇した細胞内Ca濃度は一分以内にNMDA刺激前の値に戻った。所が1μM以上のコルチコステロンで神経細胞を処理した後、100μMのNMDAを投与することにより、10分以上にわたる非常に延長された神経細胞内Ca濃度上昇が88.1%の海馬神経細胞において生じることを発見した。コルチコステロンによってCa信号が延長された神経細胞の割合は、前処理に用いたコルチコステロンの濃度上昇につれて増加することも見出した。

 海馬神経細胞を10μMのコルチコステロンで処理した後、100μMのNMDAを投与し、延長型のCa信号が発生している状態で、NMDA受容体を阻害すると、すみやかにCa信号が消失したことから、コルチコステロンによる効果はNMDA受容体経由のCa信号に対して作用していることと、神経細胞のCaの排出能は阻害されていないことが解明された。さらに、コルチコステロンの存在により延長型Ca信号が発生している状態でコルチコステロンを洗い流すと、Ca信号が消失し、その後NMDAを加えると再び一時的なCa信号が発生したことから、コルチコステロンの作用は可逆的であることが示唆された。次に、細胞内Caストアの寄与を調べるために細胞内Caストアを枯渇させた条件下で、Ca信号を計測した。その結果、今回見出した、コルチコステロンによって延長されたCa信号には、細胞内Caストアの寄与はほとんどないことが分かった。さらに、神経細胞膜上の電位感受性Caチャネル経由のCa流入が本研究で測定しているCa信号に寄与しているのかを調べるため、L-type電位依存性Caチャネルを阻害した条件で、コルチコステロンの効果を解析した結果、電位感受性チャネルの寄与は否定された。

 次に、海馬神経細胞を、コルチコステロンと同時にシクロヘキシミド(タンパク合成の阻害剤)で処理した後に100μMのNMDAを投与しても、85.1%の神経細胞で延長型のCa2+信号が観察された。この結果やコルチコステロンの効果が可逆的である事などから論文提出者はコルチコステロンがNMDA受容体経由のCa信号に与える延長効果が古典的ステロイド作用によるものではないと結論した。

 次に、Ca信号が海馬神経細胞機能に与える影響を調べるために、神経細胞に0.2μMのrhodamine 123を負荷してから100μMのNMDAを作用させ、rhodamine 123の蛍光を測定することにより一時的な蛍光強度の低下がおこることを見出した。神経細胞を、20分間コルチコステロンで処理してからNMDAを投与すると、rhodamine 123の蛍光は低下し、そのままミトコンドリアはもとの膜電位を回復しない状態が継続した。このように、コルチコステロン存在下と非存在下におけるミトコンドリア膜電位の時間変化のパターンの違いは、Ca信号の場合と一致していた。

 また、コルチコステロンのアゴニストであるデキサメサゾンやコルチゾールも海馬神経細胞において、Ca信号の延長効果を引き起こすことを発見した。

 さらに、プロゲステロンをコルチコステロンとともに海馬神経細胞に対して処理してやると、コルチコステロンによるCa信号への作用は阻害されるが、プロゲステロンそれ自体はNMDA投与によるCa信号には影響しないことも論文提出者は見出した。一方、ラットの空間学習能を向上させる硫酸プレグネノロンで海馬神経細胞を処理した後、NMDAを投与したところ、約1.5倍のCa信号が海馬神経細胞において観察されたがこのCa信号はコルチコステロンの場合と異なり、延長型ではなかった。

 以上を要約すると、論文提出者は、ストレスステロイドは膜上の受容体を介する全く新しい経路で急性的にCa信号を延長させ、神経細胞のミトコンドリア膜電位を持続的に低下させるということを発見した、という点において、神経生物物理学上有意義な貢献をしたものと認められる。よって審査員一同、博士(理学)にふさわしい研究であると判断した。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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