学位論文要旨



No 115878
著者(漢字) 冨本,慎一
著者(英字)
著者(カナ) トミモト,シンイチ
標題(和) 次元ハロゲン架橋白金錯体における励起子の超高速緩和過程
標題(洋) Ultrafast relaxation process of excitons in quasi-one-dimensional halogen-bridged latinum omplexes
報告番号 115878
報告番号 甲15878
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3922号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,信方
 東京大学 教授 柳田,勉
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

 電子的励起により引き起こされる物質の構造変化は、多様な物質系において見られ、光誘起化学反応や、光による固体中の格子欠陥生成に代表される普遍的現象である。その動力学については、近年の超短パルスレーザーのめざましい発展と普及にともなって、さかんな研究が行われている。本研究は、特に1次元的な電子格子系において、このような電子的励起による構造変化がどのような時間発展を示すかを調べるため、代表的な擬一次元物質である「擬一次元ハロゲン架橋白金錯体(Pt-X)」の光励起状態をフェムト秒時間分解分光法により研究した。

 擬一次元ハロゲン架橋白金錯体は、ハロゲンイオン(X=Cl,Br,I)と白金イオン(Pt)が交互に並んだ1次元鎖からなる結晶であり、白金イオンの価数の揺らぎが固定した電荷密度波状態(CDW状態)が基底状態となっている。この物質は、電荷移動励起子(CT励起子)による光吸収帯を、可視から近赤外の波長領域にもっている。この吸収帯を光励起することによって生じる励起子は、強い電子格子相互作用によって1次元鎖上に局所的な構造変化を引き起こし、いわゆる自己束縛励起子(self-trapped exciton、STE)となることが知られている。このSTEによる発光を時間分解測定することによって、1次元鎖上の局所的構造変化の時間発展を調べることが出来る。この構造変化は通常、格子振動の1周期、すなわちサブピコ秒程度の時間スケールで進行するので、これを調べるためには発光をフェムト秒領域で時間分解測定することが非常に有効である。

 本研究では、発光のフェムト秒時間分解測定の方法として、周波数上方変換法(アップコンバージョン法)を用いた。この方法は、固体の発光とパルスレーザー光(ゲート光)をひとつの非線形光学結晶上で重ね合わせ、発生する和周波光の強度を、ゲート光パルスの遅延時間の関数として測定することにより、発光を時間分解測定する手法である。この方法では、時間分解能は主に、用いるレーザー光のパルス幅によって決まる。現在、100fsを切る時間分解能が得られる唯一の方法である。

 右上図にハロゲンイオン(X)が臭素イオンの場合(Pt-Br系)の、時間分解発光の測定結果の一部を示す。試料の励起は、CT励起子吸収帯の低エネルギー側の裾に対応する1.6eVの光による。Pt-Br系におけるSTEによる発光帯は、0.8eV付近にそのピークをもっている。図の実験結果のうち、(a)はこのSTE発光帯の高エネルギー側の裾に対応する1.3eVでの発光の強度の時間変化を示す。このエネルギーでは発光強度は約290fsの周期で振動しながら、1ps以内に減衰する。一方、(b)はSTE発光帯のピークに近い1.0eVでの発光の強度の時間変化を示す。このエネルギーでは、約290fsの周期で振動しながら発光は立ち上がる。

 このような発光の時間変化は右下図のようなエネルギーダイヤグラムを用いて説明することが出来る。この図の左側は、光によって生成された励起子の波数を横軸にとったエネルギー分散曲線(励起子エネルギーバンド)である。右側は、励起子によって引き起こされた1次元鎖上の局所的な構造変化(格子歪み)を表す配位座標Qを横軸にとったエネルギーポテンシャル図である。系ははじめ、格子歪みのない状態(Ground stateのポテンシャル曲線の底)にある。そこから、CT励起子吸収帯を励起することにより、エネルギーバンドの中に励起子が作られる(図中、Excitationと示された上向きの矢印)。この励起子バンドの中で、フォノンとの非弾性散乱によってエネルギー緩和(Intraband relaxation)した後、系は局所的格子歪みを引き起こし、STEと示された励起状態のポテンシャル曲線上を下へと緩和する(Lattice relaxation)。ここで重要なことは、1次元系においては、励起子がこの局在電子状態に移る際に、通常の3次元系とは異なり、ポテンシャルエネルギーの障壁が存在しないということである。この差異は、変形ポテンシャルを通じた励起子と格子の相互作用による緩和エネルギーの、局在化半径に対する依存性が、系の次元によって異なっていることに起因する。エネルギー障壁の存在の有無の差異から、次元によって全く異なる発光の時間的振る舞いが現れる。十分な時間を経た後では、系はSTEのポテンシャルの底で熱平衡化している。観測している発光は、STEのポテンシャルから基底状態(Ground state)のポテンシャルへの遷移に対応している(図中、Luminescenceと示された数本の下向きの矢印)。ピークエネルギー近くでの発光(b)はSTEのポテンシャルの底近くからの遷移であるので、このポテンシャル上での振動緩和によって、強度は時間とともに増大する。一方、STE発光帯の高エネルギー側の裾での発光(a)は、STEのポテンシャルの坂の高い位置からの遷移であるので、振動緩和によって、強度は急速に減衰する。振動緩和過程は具体的にはSTEポテンシャル曲線上でのフォノン波束の減衰振動であるが、発光の時間依存性に見られる周期が約290fsの振動はこの波束振動の周期を表している考えられる。このように、Pt-Br系における発光の時間変化はSTEのポテンシャル上での振動緩和によって良く理解されることがわかった。生成直後の振動励起状態にあるSTEにおいて波束振動を実時間観測したのは、本研究が初めてであり、波束振動の観察における時間分解発光分光の有効性を示した。実験結果は、振動緩和によるホットルミネッセンスを記述するモデル計算と比較され、非常に良く一致することが確かめられた。このモデル計算との一致から、固体中の局在電子の励起状態における格子緩和が、その緩和モードを構成しているバルクフォノンモードの間の位相緩和によって起きるということが確かめられ、局在電子状態(STE)と相互作用するバルクフォノンの周波数スペクトルの概形がフィッティングにより求められた。振動エネルギーは、これらのバルクフォノンモードによって結晶全体に散逸される。波束振動が実時間観測されたことの重要な結論は、バンド状態にある励起子(自由励起子、FE)が局在化し局所的格子歪みを作るまでの過程が、STEのポテンシャル上における振動のコヒーレンスを崩さないということである。このことは、本研究により初めて実験結果として観測された。FEからSTEへの状態変化がエネルギー障壁を熱的に越えることによって起こる通常の3次元系において、コヒーレントな振動状態が生成されることは難しく、本研究の実験結果は系の次元性を強く反映したものであると考えられる。

 ハロゲンイオンが塩素イオンの系(Pt-Cl系)においても同様に、STE発光の時間変化は振動緩和過程によってよく説明でき、Pt-Brにおいて用いられたものと同じ計算モデルにより、Pt-Clにおける発光の時間変化も非常に良く再現できた。

 時間分解発光測定によって、STE発光の寿命も測定される。発光寿命は、生成されたSTEの寿命を表す。本研究では、Pt-Cl系、Pt-Br系とともにハロゲンイオンがヨウ素イオンの系(Pt-1系)でも発光の時間分解測定を行い、これら3つの系での発光寿命を比較した。室温での寿命はPt-Cl系では約30ps、Pt-Br系では約5.5ps、Pt-I系では約0.65psである。ハロゲンイオンが重くなるほど、寿命が短くなるという結果が得られた。Pt-BrとPt-Iについては、STP発行帯の全域が赤外波長領域にあり、発光寿命を測定できたのは本研究が初めてである。発行寿命はSTE状態の安定性を反映しており、実験結果はハロゲンイオンが重くなるほど、STE状態が系統的に不安定化していることを表している。擬一次元ハロゲン架橋白金錯体におけるSTEの寿命は右上のポテンシャル図において、矢印(2)で表されている基底状態への無輻射的緩和過程により決まっていると考えられている。上記の実験結果はSTE状態のポテンシャル曲線と基底状態のポテンシャル曲線との交叉点(Crossing point)を通過する際のエネルギー障壁の高さが、ハロゲンイオンが重くなるほど低くなっていることを示唆していると考えられる。

 以上、本研究は擬一次元ハロゲン架橋白金錯体における光励起状態の時間発展をフェムト秒時問分解発光分光法により研究した。最も重要な成果は、STEにおけるフォノン波束振動の実時間観測である。これは、系の1次元性を強く反映した現象であると考えられ、発光分光において初めて明瞭に観測された。フォノン波束、すなわちコヒーレントな振動状態が生成されるか否かは、STEの場合、励起子のバンド内緩和過程や局在化過程の詳細に強く依存していると考えられる。STEが生成されるような電子格子強結合系における励起子のバンド内緩和過程や局在化過程の詳細については、現在まで一般的な理解がほとんどない。これらを研究する手段として、擬一次元系のフェムト秒時間分解発光分光が非常に有力な手段になりうる可能性を本研究は示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は序論から結論に至る5章から構成され、論文題目に関する実験的研究が英文で書かれたものである。

 近年高速レーザー技術の目覚しい進歩によって、光励起される固体の電子状態やそれに誘起される固体の構造の変化を非常に早い時間スケール観測できるようになった。これによって、電子励起の初期過程やそれに伴って起きる格子緩和の結果現れる準安定電子励起状態の動的機構を微視的に調べることができ、高速レーザー分光学の主要な研究課題の一つとなっている。

 本研究は、所属する研究グループで開発したTi-サファイヤレーザー基本とする高速非線形分光の一手法である周波数上方変換法(Frequency Up-Conversion Method)を活用して、擬1次元電子構造をもつハロゲン架橋白金錯体(以下Pt-X,ただしX=Cl,BrIと略する。)の結晶における、電荷移動励起子の自己束縛過程およびその後の緩和過程を、自己束縛励起子の示す発光強度の時間的変化の観測から調べたものである。この方法は非線形結晶によって基本光パルスと試料より出る赤外領域の発光との和周波光をつくり、その混合のタイミングを時間的にずらせることによってその発光の時間的変化をフェムト秒の時間スケールで精度よく測定できるものである。従来の過渡吸収分光に比べて、終状態が電子の基底状態であるために、励起状態の形態を知るうえで曖昧さが少ない利点がある。

 1960年代初頭、豊沢は3次元結晶において音響フォノンと電子系との短距離型相互作用の特長の一つとして、自由に運動する電子が自ら周りの格子を歪ませることによって自己束縛し、ある格子点に局在する過程を理論的に初めて論じた。これは電子系が格子との相互作用によって格子をひずませる力とそれを押し戻す格子の復元力とのバランスによって発生する。三次元系では格子の弾性エネルギーが当該電子系を取り囲む体積に比例する。このため、当該系のエネルギーは、自由な状態と自己束縛した状態の二つの極値を格子緩和に対してもち、その間にエネルギー障壁が出現する。

 その後、1次元系では、弾性エネルギーが電子の束縛する領域の長さに比例するために、このエネルギー障壁がなくなることが理論的に予想された。これを励起子系に適用すると、光で作られた励起子は光を放出して消滅する前に、障壁がないことを反映して速やかに格子が緩和し自己束縛することが予想される。本研究は、フェムト秒光パルスによってコヒーレントに共鳴励起された電荷移動型励起子が、このように次元性を反映して障壁なく自己束縛する過程を蒔間的に追うことを狙ったものである。

 本研究では、申請者の発案によりハロゲンイオンをCl,Br,Iとその質量を系統的に変化させた実験を行い、次の主要な結果を得た。Pt.Clでは、自己束縛励起子の安定点へ緩和する前の発光強度の立ち上がり時間が、発光の光子エネルギー、1.4〜1eVに対して、およそ50〜500fsと遅くなることがわかった。また、それとは別に30±10psの時定数で減衰する成分を観測した。論文提出者は、前者が自己束縛に寄与するフォノンの波束が断熱ポテンシャル上を運動するの伴って励起子が発光するためと考え、また後者は、大きく歪むときに基底状態の断熱ポテンシャルが交差することによって起きる無輻射緩和の効果と考えた。

 Pt.Brでは、発光の立ち上がり時間帯に鋭く明瞭な振動構造が観測された。申請者は、先ほどのモデルを基にこの構造を理論的に解析し、関係するフォノン波束の準平衡点を中心にして振動する様子が、発光の光子エネルギーに依存する強度の時間変化に見えたものであることを明らかにし、その振動数が290fsであることが求めらた。なお、この系での緩和励起子の発光の緩和時間として5.5±1psを得た。この系で見られたような波束の振動を発光の観測によって得た例はこれまで報告されていない。

 本研究では、以上の結果を基に、さらに重い沃素イオンの効果を調べるためにPt-Iについても実験を行った。この物質では観測される発光の起源がこれまで解明されていなかった事情から、まず発光の偏光特性の測定によって自己束縛発光を特定した。次に、その発光について同様な手法を適用した。この結果、この系では発光の光子エネルギーによらず、発光は0.65±0.05psの時定数で減衰することがわかった。これから、ハロゲンイオンの質量が大きくなるにしたがって減衰時間が短くなり、基底状態の断熱ポテンシャルとのポテンシャル障壁が、重いイオンほど低いことがわかった。

 なお、光励起直後の信号の時間変化は、本研究で採用される解析モデルによって完全に再現されるものではなく、その原因を明らかにするためには装置の時間分解能の改良などが今後の課題として残されている。多数のPt-X分子において起きる格子緩和が、波束のコヒーレントな運動として観測される機構についてはまだ定説はなく、本研究はその機構を明らかにする端緒を提供するものであり、この分野の知見を深めたものと認められる。

 また、本研究は指導教官をはじめとする複数の研究者との共同研究で行われたが、論文提出者が実験、および実験結果の解析などにおいて、主体的な寄与が十分認められる。審査員全員は、本研究にかかわる若干の基礎的な物理的内容について論文提出者の注意を喚起した上で、本研究は、博士(理学)の学位を十分に授与できると認めた。

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