学位論文要旨



No 115889
著者(漢字) 松原,雅彦
著者(英字)
著者(カナ) マツバラ,マサヒコ
標題(和) 遷移金属化合物における共鳴X線発光スペクトルの理論
標題(洋)
報告番号 115889
報告番号 甲15889
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3933号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,淳
 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 助教授 末元,徹
 東京大学 助教授 溝川,貴司
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

 第1章:内殻準位の分光法により得られるスペクトルには物質内部の電子状態に関するさまざまな情報が反映される。内殻電子の励起手段として軟X線等の高いエネルギー領域の光を用いる分光学的な手法は一般に高エネルギー分光法と呼ばれ、X線光電子分光法(XPS)やX線吸収分光法(XAS)はその代表例といってよい。

 物性研究上興味深い物質を多く含む遷移金属化合物の電子状態を探るうえで、XPSあるいはXASは長い間重要な役割を果たしてきた。遷移金属化合物に限っていえば、CuやNi等を含む重い遷移金属化合物の電子状態の解明に対して大きな成功をおさめてきている。一方Ti、V、Crといった軽い遷移金属化合物のスペクトル解釈に対しては、これまでのところそれほど成果があがっていないのが現状である。

 軽い遷移金属化合物の2p-XPSやXASに現れるサテライト構造の起源を説明するものとしてこれまでのところ2種類の描像が提案されている。一つは励起子型の描像と呼ばれるもので、配位子軌道の分極が内殻正孔の遮蔽に関与しているとするものである。もう一つは電荷移動型の描像と呼ばれるもので、配位子軌道から遷移金属軌道への電荷移動が内殻正孔の遮蔽に関与しているとするものである。どちらの描像が正しいのかについては、今のところはっきりとした決着はついておらず、サテライト構造の起源に関する統一的な見解は得られていない。

 本研究で主に用いる手法は共鳴X線発光分光法(RXES)で、その研究活動は、近年の光源の高輝度化や実験技術の進歩と共に徐々に活発化しつつある。RXESは中間状態にXASの終状態を持つ2次の光学過程であり、始状態と終状態で価電子数が一致している。この時スペクトルには基底状態(弾性散乱)のほかに励起状態(非弾性散乱)の情報も含まれることになり、電子素励起についてのさまざまな知見を得ることが可能となる。更に本論文ではシンクロトロン放射光の著しい偏光特性に着目し、これを積極的に採り入れたRXESの研究を行う。これまでのところ偏光を活用したRXESの研究はほとんど報告されていないのだが、更なる光源の高輝度化や実験技術の進歩に伴い、今後は盛んに行われるようになるものと期待される。

 本研究の主たる目的は、偏光を考慮したRXESの解析を行い、物質内部の電子状態の知見を得ることにある、研究の対象には軽い遷移金属化合物を選ぶ。この新しい手法である偏光依存RXESを軽い遷移金属化合物に適用することで、その電子状態について従来よりも多くの情報を得ることが可能となることが予想され、上述したようなスペクトル解釈の不一致についてもはっきりとした結論を出すことができるものと期待される。

 第2章:はじめに本論文で取り扱う物質の結晶構造について述べ、MX6クラスターモデルによる取り扱いが妥当であるかどうかを確認した。続いてMX6クラスターでの基底の取り方を述べ、それに基づいてモデルハミルトニアンを記述した。このハミルトニアンは原子内多重項構造を完全に含むものであり、これに加えて固体を記述する電荷移動エネルギーΔ、内殻正孔ポテンシャルUdc、混成相互作用V(Γ)等のパラメータも含むものとなっている。

 続いて、散乱の一般理論によって固体による光の吸収確率及び散乱確率を導出し、XPS、XAS、RXESの各分光法のスペクトル関数の定式化を行った。さらにRXESの表式については、遷移演算子を入射光の偏光を考慮する形に書き直し、偏光に起因する選択則について述べた。

 第3章:代表的な3d0物質であるTiO2(rutile)を対象に、電荷移動型の描像に基づいた偏光依存RXESの解析を行った。偏光の配置は図1に示した通りである。polarized、depolarized両配置におけるRXESのスペクトル計算を行い、両者をRaman shiftエネルギーの関数として描いて比較した結果、スペクトル形状に大きな差異が認められた。depolarized配置の時には7eVから9eVに非弾性散乱のスペクトルが現れるだけであったのだが、polarized配置ではこの非弾性散乱スペクトルに加えて、入射光エネルギーがXASの主ピーク位置に設定された時には弾性散乱ピークが、サテライト構造位置に設定された時には約14eVの位置に前述のものとは別の非弾性散乱スペクトルが現れ劇的に増大していた。このような結果はHaradaらによる実験結果とも非常によく一致していた(図2)。

 上記のスペクトルの振る舞いを説明するために、はじめに全エネルギー準位の模式図を用いてスペクトル構造の解釈を行った。その結果、RXESに現れた3つの構造、弾性散乱ピーク、7eVから9eVに現れる広がった非弾性散乱スペクトル、及び14eVに現れる鋭い非弾性散乱スペクトルは、それぞれ|3d0>と|3d1L->状態が混成することにより生じた結合状態、非結合状態、反結合状態に対応すると考えることで無理なく理解できることがわかった。中間状態(XASの終状態)についてもまったく同様の解釈が成り立つことから、Ti2p-XASに現れていたサテライト構造は、配位子から遷移金属への電荷移動に起因するもの(電荷移動型の描像)と考えるのが妥当であると結論づけた。

 続いてRXESスペクトルに現れる顕著な入射光偏光依存性を明らかにするために群論的な考察を行った。偏光に起因する選択則を導き出してこれを適用した結果、depolarized配置ではRXESの終状態において結合状態及びそれと同じ対称性をもつ反結合状態への遷移は禁止されているのだが、polarized配置ではいずれの状態への遷移も許容となっていることがわかった。

 第4章:TiO2と同じく3d0系に属するSc化合物(ScF3、ScCl3、ScBr3、ScI3及びSc203)を対象に解析を行った。まず始めにXPS、XAS、RXESの実験結果から固体パラメータを見積もった。続いてこのパラメータを用いてXPS、XAS及び偏光依存RXESの計算を行った。こうして得られた計算結果はそれぞれの実験結果とよく一致しており3つの異なる分光法によるスペクトルを1組のパラメータで統一的に解釈することに成功した。そしてXPS、XAS、RXESの各スペクトルに現れる構造については、全てTiO2の時と同様に電荷移動型の解釈で十分理解できることがわかり、ここでも前章での結論を裏付ける結果が得られた。

 第5章では基底状態において3d電子を含む化合物を対象にして偏光依存RXESの解析を行った。具体的に用いた物質は3d1のTiF3、3d2のVF3、3d3のCr203である。やはり電荷移動型の描像に基づいてこれらの物質の偏光依存RXESの計算を行った結果、弾性散乱ピークの強度変化に関しては3d3と3d0の間で似た傾向が見られ、一方3d1と3d2の間でも似た傾向が見られた。選択則に基づいてその理由を調べたところ、3d3では3d0と同様にdepolarized配置では弾性散乱ピークへの遷移は禁止になっているのだが、3d1と3d2ではどちらの偏光配置でも許容になっていることが分かった。このことは君t2g軌道のみを考えた場合に3d0と3d3、3d1と3d2は電子と正孔の相補状態になっていることから考えてもっともな結論であるといえる。

 弾性散乱ピーク以外に目を向けると3dn(n=1,2,3)系ではいずれの物質でも弾性散乱から約2〜4eV離れた位置にスペクトルが現れていた。これは3d0系では存在しなかったもので、始状態電子配置での励起状態にあたる、いわゆるd-d励起構造を起源に持つスペクトルである。d-d間の遷移は双極子禁制であるため、従来の分光法ではこのようなスペクトルを観測することは不可能であったのだがRXESを用いればかなりはっきりとその構造を見ることができるということが示された。

 もう一つ3d0系とは異なる点として、反結合状態に対応するピークの共鳴増大の有無が挙げられる。3d0系では、polarized配置の場合に入射光エネルギーを2p-XASのサテライト構造位置に設定すると、反結合状態に対応するスペクトルが劇的に増大する様子が認められた。しかしながら、本章で取り扱った物質では反結合状態のピークの増大は偏光配置に関わらず認められなかった。その原因を調べるために、混成効果の大きさと中間状態での多重項の影響という観点から考察を行ったところ、反結合状態ピークの増大が現れるためにはある程度の大きさの混成効果が不可欠であり、また十分な共鳴の効果を得るためにはXASのサテライト強度にもある程度の大きさが必要であるということが分かった。

図1:実験の幾何学的配置の模式図。(a)Polarized配置:入射光の偏光ベクトル(∈)が散乱面に垂直な配置。(b)Depolarized配置:入射光の偏光ベクトルが散乱面に平行な配置。両方の配置ともに入射光と放出光のなす角(散乱角)は90°である。

図2:TiO2に対するTi2p-XASの(a)実験結果と(c)計算結果。aからhの指標はRXESの入射光エネルギーを表す。(b)と(d)がTi2p→3d→2p RXESの実験結果と計算結果。実線はpolarized配置によるスペクトルで、点線はdepolarized配置によるスペクトルである。実験、計算いずれにおいても、polarized配置の時に入射光エネルギーがXASのサテライト構造位置(すなわちg、h)に設定されると、約14eVに位置するスペクトルが劇的に増大している。一方depolarized配置の時にはこのようなスペクトル増大の様子は見受けられない。

審査要旨 要旨を表示する

 近年、放射光を用いたX線発光による固体の電子状態の研究が盛んに行われるようになってきた。とくに、入射X線のエネルギーが内殻励起のエネルギーしきい値周辺に差しかかると、通常のX線発光(NXES)に加えて、内殻X線吸収(XAS)とX線発光が2次光学過程として1段階で起こる共鳴X線発光(RXES)の確率が増大することが実験的に示されている。NXESでは基底状態の占有状態密度がわかるのに対して、RXESでは電子-正孔対励起状態に関する情報が得られる。さらに最近は、放射光の偏光特性を利用したRXESの偏光依存性の研究が行われている。本論文は、偏光依存性を考慮に入れたRXESスペクトルの解析を行うことによって固体の電子状態に関するより詳しい知見を得ることを目的としている。対象とする物質は軽い遷移金属の化合物で、理論モデルとして配置間相互作用を取り入れたクラスターモデルを用いている。

 本論文は本文6章と付録からなる。第1章では、まず本研究の背景として、内殻分光の一手法としてのRXESの紹介と最近の発展について紹介し、軽い遷移金属の化合物のXASスペクトルと内殻X線光電子分光(XPS)スペクトルに現われるサテライトの起源がいまだ未解決であることを述べている。そして、本研究の目的が、これらの物質のRXESの実験結果を偏光依存性も含めて解析することによってこの問題を解決し、電子状態に関してさらに新しい知見を得ることであることを述べている。

 第2章では、本論文で取り上げる物質とその結晶構造を示し、解析に用いるクラスターモデルの説明を行う。クラスターモデルでは、RXESの始状態、中間状態、終状態の波動関数がそれぞれ、複数の電子配置の重ね合せとして表現される。電子状態に関する定量的な情報は、クラスターモデルが持つパラメータ(電荷移動エネルギー、原子内クーロンエネルギー、移動積分等)の値を、計算結果が実験を再現するように調節することによって得られる。実際の実験配置に対して、RXESスペクトルの偏光方向依存性を解析的に導き、その詳細を付録に述べている。クラスターモデルでは、遷移金属原子と配位子間の電荷移動によりサテライトが生じるので、クラスターモデルでサテライトが正しく再現されれば、電荷移動機構がサテライトの起源と考えられるとしている。

 続く第3章で、電子配置d0を持つ代表的な化合物であり、RXESの偏光依存性の実験が報告されているTiO2について、詳細な理論解析を行っている。実験結果の特徴である弾性散乱ピークの偏光依存性、いくつかの非弾性散乱ピークの特徴的な偏光依存性が計算でよく再現され、サテライトの起源が電荷移動機構によると結論している。

 第4章では、TiO2以外のdO系として、いくつかのSc3+酸化物およびハロゲン化物のXPSスペクトル、XASスペクトル、RXESスペクトルを解析し、物質間で系統的に変化するパラメータの組を用いてXPS、XAS、RXESスペクトルを統一的に解釈できることを示している。これによって、サテライトが電荷移動機構によるという全章の結論を裏付けている。

 そして第5章で、第3章、第4章でd0系に対して行ったRXESの解析をd1系(TiF3)、d1系(VF3)、d3系(Cr203)に拡張している。d2系、d1系の実験結果がd0系と大きく異なる偏光依存性を示しているが、このこともクラスターモデルによる計算によって再現されている。最後の第6章で、まとめと今後の展望について述べている。

 以上のように本論文は、電子構造研究の新しい実験手法として注目され将来の発展が期待されるRXESについて、実験で得られるスペクトルを偏光依存性まで含めて説明したこと、遷移金属化合物の電子構造についてさらに詳細な情報を与えたことで高く評価された。従って、論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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