学位論文要旨



No 115937
著者(漢字) 飯泉,謙一
著者(英字)
著者(カナ) イイズミ,ケンイチ
標題(和) 電子エネルギー損失分光を用いたフラーレン単層膜の電子状態に関する研究
標題(洋)
報告番号 115937
報告番号 甲15937
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3981号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 小林,昭子
内容要旨 要旨を表示する

 C60に代表されるフラーレンは、例えばアルカリ、アルカリ土類金属ドープによる超伝導の発現など様々な興味深い物性を展開する物質系であり、C60の大量合成が可能となった1990年以降、急激な勢いで研究が進められている。一方、分子性結晶の超薄膜作製は、その分子固有の性質を生かした新しいデバイスの創成という観点から近年注目をあびている。様々な性質を持ったフラーレンは機能性超薄膜の作製に対して非常に有望な物質系である。機能性分子超薄膜の物性の解明、制御には表面第1層の電子状態、及び界面における相互作用に関する正確な情報といった基礎科学的な知見が不可欠である。

 本研究では様々な基板表面上にC60単層膜を作製し、その電子状態を表面敏感度が著しく高い手法である電子エネルギー損失分光(EELS)を用いて解明した。また逆にC60単層膜の電子状態からC60分子-基板表面の相互作用の大きさを見積もる手法を確立した。一方、金属内包フラーレンであるLa@C82の単層エピタキシャル膜をMoS2基板上に作製することに成功し、EELSによりその電子状態を明らかにした。

[種々の表面に作製したC60単層膜の電子状態]

 表面にダングリングボンドが存在するSi(111)-7×7表面、表面ダングリングボンドを異種原子で終端したSi(111)-〓3×〓3-Ag,Si(111)-〓3×〓3-Ga,Si(111)-1×1-As表面、及び表面にダングリングボンドが存在しない層状物質であるMoS2劈開面にそれぞれ基板温度100℃にてC60単層膜を作製し、EELSを用いてC60分子の電子状態を調べた。測定の結果、これらのスペクトルを“TypeI”,“TypeII”,“TypeIII”という3つに分類することができた。(図1)C60分子と基板表面との相互作用が強ければC60分子の電子構造は変調を受ける。すなわち、これらのスペクトルの差異は表面の活性度を反映していると考えられる。“TypeII”(C60/MoS2,C60/Si(111)-1×1-As)ではスペクトルがバルクC60のものとほぼ一致し、C60分子と基板表面との相互作用はファンデアワールス力であり、これら2つの表面は不活性であることが分かった。これに対して“TypeI”(C60/Si(111)-7×7,C60Si(111)-〓3x〓3-Ga)ではスペクトルがバルクC60のものとは大きく異なっており、電子構造が強い変調を受けていることが見いだされた。従ってこれら2つの表面は活性な表面であることが確認された。“TypeIII”(Si(111)-〓3x〓3-Ag)ではスペクトル形状がバルクC60と似ているが、C60分子のLUMO(t1u軌道)への遷移に対応する2.2,3.4eVのピークが弱化していることが分かる。従ってSi(111>〓3×〓3-Ag表面とC60分子間の相互作用はファンデアワールス力より強く、基板からC60分子へごくわずかな電荷移動があると考えられる。

 表面の活性度は表面の安定化、結晶成長など多くの点で重要な問題であるにも関わらず、適切な測定手段がなく定量的議論はされていないのが現状である。これに対して上記のように、ある表面上にC60単層膜を作製し、その電子状態から表面の活性度を見積もる「C60分子をプローブとした表面の活性度評価」という手法を確立したと言える。本研究に用いた基板表面の活性度はSi(111)-7×7,Si(111)-〓3×〓3-Ga≫Si(111)-〓3x〓3-Ag>Si(111)-1×1-As,MoS2の順に高いことが分かった。

[C(1s)内殻励起スペクトルによるC60分子・基板表面相互作用の解明]

 前項にてC60/Si(111)-7×7,C60/Si(111)-〓3×〓3-GaにおいてはC60分子基板表面相互作用が強いことが分かったが、これがどのような相互作用かはπ-π*遷移を観測していただけでは議論することは困難である。そこで変調を受けたπ*軌道を直接観測することによって相互作用の本質を探求することができるのではないかと考え、EELSによるC(1s)内殻励起スペクトルを測定した。(図2)その結果、C60/Si(111)-7×7,C60/Si(111)-〓3×〓3-GaにおいてはC60のLUMO由来のピークがバルクC60に比べて高エネルギー側にシフトしていること、LUMO+1(t1g軌道)由来のピークが消失していることが分かった。従ってC60分子・基板表面相互作用はどちらの系においても共有結合的であり、主としてC60分子のLUMO+1が関与していることが分かった。エネルギー準位の低いLUMOではなく、より高いLUMO+1が基板の表面準位と結合を作るのはLUMO+1の方がLUMOより空間的な広がりが大きく、摂動を受けやすいためと考えられる。

[La@C82のエピタキシャル成長と電子状態]

 金属内包フラーレンの中でもその存在が最初に明らかになったLa@C82は合成量が比較的多く、その電子構造、磁気的性質に関する実験が行われているが、これらは極めて小さなバルク単結晶や蒸着アモルファス膜に対して行われたものであるLa@C82の良質なエピタキシャル膜の作製が実現すれば電気伝導、光起電力効果や様々なガスとの反応性などといった物理的・化学的性質を詳しく研究することが可能となり、応用への道も開拓されることが期待できる。またLa@C82は内包La原子からC82ケージへ3個の電子が移動し、電子が1つだけ詰まったSOMO(Singly-Occupied-Molecular-Orbital)が存在するという特異な性質を持っており、その電子構造は興味深い。

 La@C82をMBE法を用いてMoS2劈開面上にエピタキシャル成長させることに成功した。

反射高速電子線回折観察よりLa@C82分子はMoS2基板上で六方最密格子を組み、その分子間距離は1.13±0.03 nmとなり、この値は溶媒であるCS2を含まない六方最密構造La@C82バルク単結晶の分子間隔とよく一致することが分かった。またLa@C82エピタキシャル膜の主軸はMoS2基板の主軸と平行であった。

 La@C82エピタキシャル膜の電子状態の解明を目的として単層膜に対してEELS測定を行った。図3(a)は入射電子エネルギー20e VにおけるLa@C82エピタキシャル膜のEELS測定の結果である。入射電子エネルギーが20 eVの場合、プロービング深さは0.5 nm程度となり、この値はLa@C82分子の直径より小さい。従ってLa@C82エピタキシャル膜の電子構造に関する情報のみが得られることになる。図3(a)では5つのピークが0.9,1.3,3.1,5.4,6.7 eVに見られ、さらにいくつかの肩が見られる。後方散乱電子強度が小さくなるバンドギャップ領域は見られない。このことはLa@C82エピタキシャル膜が金属、あるいは半金属の性質を持っていることを示している。二階微分スペクトルを図3(b)に示す。8つのピークが0.9,1.3,1.9,2.5,3.1,4.3,5.4,6.7 eVに見られ、これらのピークをロスエネルギーの順にA-G,Pと名付ける。C60, C70及びグラファイトのようなπ電子系では6-7 eVにπプラズモン励起が観測される。従ってピークPはπプラズモン励起によるものと結論でき、その値はC60及びC70のπプラズモン励起エネルギー(それぞれ6.4,6.3 eV)よりも少し大きい。残りのピークA-Gはpπ-π*遷移に対応すると考えられる。

 このEELS測定の結果からNagaseらによるLa@C82分子軌道の理論計算を考慮に入れたLa@C82エピタキシャル膜のエネルギーダイアグラムを考案した(図4)。理論計算によるとHOMOとSOMOとの間隔が3.8 eVであるため、まず3.8 eVの間隔を持った2つの準位:L,Sを考えた。ロスエネルギーが3.8 eVより小さい5つのピークは準位Sに関係したものであり、ピークF,Gは準位Lに関係したものと考えられる。その結果5つの準位:H(-0.9e V),I(-1.3 eV),J(-1.9e V),K(-2.5 eV),M(-3.1 eV)の存在が明らかになった。ピークA,B,C,D,EはそれぞれH→S,I→S,J→S,K→S,M→S遷移に帰属される。またこれらの準位のエネルギー間隔を考慮すればピークF,GはそれぞれH→L,I→L遷移に対応すると考えられる。

 上記のようにMBE法とEELSの組み合わせは大量合成が難しい物質の電子構造の解明に対して非常に有用であることを実証した。またこの組み合わせは理論計算が中心であった他の金属内包フラーレンの電子構造解明のブレークスルーとなる。

図1 各表面上におけるC60単層膜のEELS測定結果。入射電子エネルギーは40 eV。

図2 C(1s)内殻励起スペクトル・入射電子エネルギーは450 eV。

図3 La@C82エピタキシャル単層膜のEELSスペクトル。入射電子エネルギーは20 eV。

図4 La@C82エピタキシャル膜のエネルギーダイアグラム。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は8章からなり、第1章では本研究の背景について、第2章では本研究に関する基礎的事項について、第3章では実験装置について、第4章ではC60をプローブとした表面の活性度ついて、第5章ではC60/Si(111)系におけるC(1s)内殻励起スペクトルについて、第6章ではC60/Si(111)系におけるC(1s)内殻励起スペクトル活性度ついて、第7章ではLa@C82のエピタキシャル成長と電子状態について、そして第8章では本研究のまとめについて述べられている。

 本研究ではまず、表面にダングリングボンドが存在する Si(111)-7×7表面、表面ダングリングボンドを異種原子で終端したSi(111)-〓3×〓3-Ag, Si(111)-〓3x〓3-Ga, Si(111)-1×1-As表面、及び表面にダングリングボンドが存在しない層状物質であるMoS2劈開面にそれぞれ基板温度100℃でC60単層膜を作製し、電子エネルギー損失分光を用いてC60分子の電子状態を調べた。測定の結果、これらのスペクトルは3つに分類された。すなわち、C60/Si(111)-7×7,C60/Si(111)-〓×〓-GaではスペクトルがバルクC60のものとは大きく異なっており、電子構造が強い変調を受けていることが見いだされた。従ってこれら 2つめ表面は活性な表面であることが確認された。これに対してC60/MoS2, C60/Si(111)-1×1-AsではスペクトルがバルクC60のものとほぼ一致し、C60分子と基板表面との相互作用はファンデルワールス力的であり、これら 2つの表面は極めて不活性であることが分かった。Si(111)-〓×〓-Agではスペクトル形状はバルクC60と似ているが、C60分子のLUMO(t1u軌道)への遷移に対応する2.2,3.4eVのピークが弱い。従ってSi(111)-〓×〓-Ag表面とC60分子間の相互作用はファンデルワールス力よりは強く、基板からC60分子へごくわずかな電荷移動があると考えられた。

 上述のように、ある表面上にC60単層膜を作製し、その電子状態から表面の活性度を見積もる「C60分子をプローブとした表面の活性度評価」という手法が本研究で確立された。これによれば、基板表面の活性度はSi(111)-7×7,Si(111)-〓×〓-Ga≫Si(111)-〓×〓-Ag>Si(111)-1×1-As,MoS2の順に高いことが分かった。

 一方、EELSによるC(1s)内殻励起スペクトルを測定した結果、C60/Si(111)-7×7,C60/Si(111)-〓×〓-GaにおいてはC60のLUMO由来のピークがバルクC60に比べて高エネルギー側にシフトしていること、LUMO+1(t1g軌道)由来のピークが消失していることが分かった。従ってC60分子-基板表面相互作用はどちらの系においても共有結合的であり、主としてC60分子の広がったLUMO+1軌道が関与していることが分かった。

 金属内包フラーレンの中でもその存在が最初に明らかになったLa@C82は合成量が比較的多く、その電子構造、磁気的性質に関する実験が行われているが、これらは極めて小さなバルク単結晶や蒸着アモルファス膜に対して行われたものである。本研究では、MBE法を用いてLa@C82をMoS2劈開面上にエピタキシャル成長させることに成功した。反射高速電子線回折観察よりLa@C82分子はMoS2基板上で六方最密格子を組み、その分子間距離は1.13±0.03 nmとなり、この値は溶媒であるCS2を含まない六方最密構造La@C82バルク単結晶の分子間隔とよく一致することが分かった。さらにLa@C82エピタキシャル膜の電子状態の解明を目的として単層膜に対して電子エネルギー損失分光測定を行い、La@C82分子軌道の理論計算を考慮に入れたLa@C82のエネルギーダイアグラムを提案した。

 以上述べたように,本論文によって,各種基板上のC60ならびにLa@C82エピタキシャル膜の電子状態が解明された。また、表面活性度を調べる新しい方法が明らかにされた。なお本論文の第4〜7章は,小間篤氏ならびに斉木幸一朗氏、上野啓司氏、内野康訓氏、稲田康平氏、永井清恵氏、岩佐義弘氏、三谷忠興氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める。

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