学位論文要旨



No 115942
著者(漢字) 谷本,浩志
著者(英字)
著者(カナ) タニモト,ヒロシ
標題(和) GC/NICI-MS法を用いた東アジアにおける大気中PANの季節変化観測
標題(洋) The seasonal variation of atmospheric peroxyacetyl nitrate(PAN) in east Asia observed by GC/NICI-MS technique
報告番号 115942
報告番号 甲15942
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3986号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 巻出,義紘
 東京大学 教授 梅澤,善夫
 東京大学 教授 野津,憲治
 東京大学 教授 野崎,義行
 東京大学 教授 橘,和夫
内容要旨 要旨を表示する

 大気中のPAN(peroxyacetyl nitrate:CH3C(O)OONO2[peroxyacetic nitric anhydride])は窒素酸化物の共存下、非メタン炭化水素の酸化過程においてオゾンと共に生成する光化学オキシダントの一種である。特に北半球中高緯度における対流圏オゾンには春季に極大となる現象が古くから知られているものの、成層圏からの沈降、対流圏内での光化学生成といった2つの発生源があるためにその解明が難しい。PANはそのうちの後者のみに発生源を有し、オゾンの光化学的生成量を見積もる上で有効な指標となり得ることから、PANの季節変化に関する知見が重要になる。にもかかわらず、リモート地域におけるPANの季節変化に関する報告は極めて少なく、これまで数例に限られている。また報告された場合でも、輸送過程と化学過程の両方の寄与を受けるため、季節変動をもたらす要因の解明は十分なされているとはいい難い。本研究では、ガスクロマトグラフ/負イオン化学イオン化質量分析法を用いた大気中PAN測定装置を開発し、自動化した装置を北海道利尻島の地上観測ステーションに持ち込んで、長期にわたる濃度観測を行った。後方流跡線解析を用いて気塊(air mass)の性質により観測された濃度を分類することで、オゾンやPANの季節変化に与える東アジア地域の気候的特性を明らかにした。また、同時に観測した一酸化炭素、窒素酸化物、硝酸、非メタン炭化水素といった他の化学種濃度から、観測された気塊の化学的特徴について考察した。さらに、3次元グローバル化学輸送モデルから利尻において予測される濃度変動を実測濃度と比較することにより、季節変化を与える要因について輸送過程と化学過程の面から議論した。

1. ガスクロマトグラフ/負イオン化学イオン化質量分析法を用いたPANのフィールド測定装置の開発

 PANの観測にはガスクロマトグラフ/電子捕獲型検出器をベースにした高感度測定法が諸外国では広く用いられている。しかしながら、イオン源にラジオアイソトープである63Niを用いているため、わが国では野外に持ち出して観測を行なうことが不可能である。そこで野外観測の実現に向けて、ガスクロマトグラフ/負イオン化学イオン化質量分析計(GC/NICI-MS)を用いた測定装置の開発を行った。

 測定システムの概要を図1に示す。熱電子を付加することにより、PANはCH3C(O)OO-(m/z75),NO2-(46),CH3C(O)O-(59),NO3-(62)の4フラグメントイオンを生成する。そのうちイオン強度が最大かつノイズが最小の質量数62のみを時間軸に沿って計測することで、ガスクロマトグラムを得た。質量分析計の検出条件最適化とガスクロマトグラフの溶出条件などに改良を行った結果、検出下限:2pptvを達成することができた。また、図2に示すように、質量数62のみをカウントすることでPPN(CH3CH2C(O)OONO2),MPAN(CH2=C(CH3)C(O)OOONO2),PiBN((CH3)2CHC(O)OONO2),PnBN(CH3CH2CH2C(O)OONO2)といったPAN型化合物に選択的な検出を可能にした。一測定に有する時間はPPN,MPAN,PiBN,PnBNを含めても4分と、非常に高い時間分解能を達成することに成功した。実際の大気を測定するにあたって装置のキャラクタリゼーションを行った結果、感度の較正を高頻度で行えば、実大気の連続測定が可能であることを実証した。

 GC/NICI-MSの感度を高頻度で較正可能な装置を製作した(図1)。また、ノート型コンピューターで(1)測定・較正のモード切り替え・(2)測定開始信号の発信・(3)系の圧力・流量・PAN濃度の出力信号取得、などを行えるように自動化した。測定・較正の2つのモードを切り替えることで、GC/NICI-MSの感度変化を連続的に追うことを可能にした。

2. 北海道利尻島における地表オゾンと一酸化炭素濃度の長期連続観測

 北東アジアにおける大陸性バックグラウンド大気中のオゾンの季節変化を観測するために、北海道利尻島(45.07°N,141.12°E,海抜高度35m)に観測ステーションを設置した。日本の北端に位置する利尻島においては、人間活動の影響が極めて少ないシベリアを通過してくる大陸性清浄気塊を高頻度で観測することができる。PANの測定に先立って、オゾンと一酸化炭素(CO)の観測を行ってきた。オゾンには4月に極大、7〜8月に極小となる明瞭な季節変化が、COには3月に極大となる季節変化が見られた。これらは北半球中高緯度のリモート地域に予想される典型的な季節変化であり、定性的には東アジアの大陸性清浄気塊の特徴を反映していると考えられた。

 一方、1998年夏から秋にかけてCOにイベント的高濃度とベースラインの増大が観測された。COはOHラジカルとの反応で夏季に濃度が減少することが知られているため、この現象は夏季に何らかの大きなCO発生源が存在していたことを意味する。そこで後方流跡線解析を行い、観測されたCOの起源を推定することを試みた結果、東シベリア及びベーリング海に源を発し、かつ境界層内(高度2km以下)を移動してくる流跡線の時に高濃度となったことが判った。この時期、極東シベリアにおいて大規模な森林火災が起こっていることが衛星画像から報告されており、観測された高濃度イベントはシベリアの森林火災起源のプルームを通過してきていたことを見出した。衛星画像から算出された森林焼失面積の季節変化が夏季から秋季に観測された季節変化の増大と良く一致することから、シベリアの森林火災によるCOの放出が太平洋北部地域で重要であることが明らかとなった。

3. 北海道利尻島におけるPANと反応性窒素酸化物(NOx,HNO3)などの長期観測

 PAN測定装置を北海道利尻島の観測ステーションに持ちこみ、1年4ヶ月にわたるPAN濃度の間欠的観測を行った。また、2000年1月からはNOx,HNO3などの測定も追加し、反応性窒素酸化物の種類別測定を行うことで、より詳細な解析を試みた。

 冬季には日一日変動が観測され、それと対照的に夏季には日変化が観測された。PANの寿命は主に気温によって決まるので、このことは、PANの寿命が2ヶ月程度にまで長くなる冬季には長距離輸送が、寿命が1日以下にまで短くなる夏季には光化学的生成や地表面への沈着・熱分解などといった局所的な微物理・化学過程が短期的濃度変動を支配しているためと推定できる。季節変化にはオゾンとPANともに春季極大、夏季極小、そして秋季に第2極大となるような濃度変化が観測された。しかしながら、観測された轍動は、(1)夏季に見られた日変化などの局地的な濃度変動、(2)汚染気塊がもたらす東アジアスケールの地域的濃度増加、(3)清浄気塊がもたらすベースライン的季節変化、の重ねあわせでると考えられる。そこで、後方流跡線解析を用いて観測された気塊により濃度を分類することで、オゾンやPANの季節変化に与える東アジア地域の気候的特性を考察した。人間活動が盛んな地域を通過してくるかどうかによって分類した気塊の種類を図3に示す。このうち、N,BM,PMを清浄気塊、NW,PC,JPを汚染気塊と位置付けた。図4に気塊の種類によって分類されたオゾンとPANの季節変化を示す。明らかにBG気塊は年間を通じて低い濃度を有しており、これがべースラインの季節変化であることが分かった。また、汚染気塊は概して濃度が高く、特に春季のPANにみられる濃度増大はオゾンと比較しても特徴的であった。同時に観測したNOxやHNO3と合わせて考察した結果、春季はrANの生成が比較的活発で、かつ気温がまだ低いために、発生源付近で生成したPANがリモート地域まで輸送されやすい状況にあるためであると考えられた。

4. 3次元グローバル化学輸送モデルを用いたPANの季節変化要因の解析

 さらに、3次元グローバル化学輸送モデルから利尻において予測される濃度を観測値と比較することにより、バックグラウンド大気におけるRANの季節変化を与える要因について輸送過程と化学過程の面から検討した。PANのモデル予測値は観測値を大幅に過大評価する結果となったが、季節変化の特徴はよく再現された。したがって、モデルは少なくとも半定量的には利尻の現実の状況を再現していると考えられ、モデルを用いてPANの季節変化を与える要因を考察することは妥当であることが確かめられた。

 図5に利尻を含むグリッドにおけるPAN質量の相対変化を示す。冬季には利尻付近に輸送されてきたNOxとアルカンからの光化学的生成と低い気温によるRANの長い寿命がPANの正味の生成を維持し、夏季には気温の上昇による熱分解がPANの正味の消失をもたらしていることが判った。春季に観測された極大は、冬季にPANが蓄積されてきた結果であると推測された。一方、秋季には汚染地域からの流入と気温によるPANの寿命とのバランスの結果、第2極大が見られることが判った。

 最近のモデル研究から、オゾンの春季極大はリモート地域での光化学ではなく、発生源付近からの輸送であることが示唆されている。以上を考慮すると、これまでその類似性から同一の原因であると考えられてきたオゾンとPANの春季極大の原因が異なる可能性が指摘された。

図1 GC/NICI MS(Gas Chromatography/Negative Ion Chemical Ionization Mass Spectrometry)を用いたPAN自動測定システムの概要。太実線は気体流路を、細破線は電気的制御・出力信号系統を示す。(MS4A:Molecular Sieve 4A,AV:Air-actuator Valve,MFC:Mass Flow Controller,PS:Pressure Sensor,BPV:Back Pressure Valve,DPP:Diaphragm Pump,TMP:Turbo Molecular Pump,RP:Rotary Pump,SSR board:Solid State Relay board,A/D board:Analog to Digital board,PIO:Parallel Input&Output,UHP He:Ultra High Purity Helium)

図2 1999年3月に利尻島で得られた実大気のクロマトグラム(太線)。測定は質量数62の選択イオンモニタリングによって行なった。PANの他、PPN,PiBN,PnBNも併せて検出されている。MPANの検出位置を破線で示した。下は実大気を150度に加熱したステンレス管を通して測定した例(下方にずらして表示)。PAN型化合物のピークは全て消失し、他の気体成分からの千渉が無いことが分かる。

図3 後方流跡線解析を用いた利尻島における気塊の分類。

図4 利尻に到達する気塊の種類別オゾンとPANの季節変化。バックグラウンド気塊(BG=N+BM+PM)(●)、NW(○)、PC(Δ)、JP(□)について、月平均値を比較した。誤差棒は標準偏差を表す。

図5 モデルの利尻グリッドにおけるPAN質量の相対的な季節変化。輸送のみによる寄与(■)、グリッド内の化学のみによる寄与(□)、沈着による寄与(×)を分離して示した。毎月1日におけるグリッド内の質量を○で示した。

審査要旨 要旨を表示する

 大気中のPAN(peroxyacetyl nitrate)は窒素酸化物の共存下、非メタン炭化水素の酸化過程においてオゾンと共に生成する光化学オキシダントの一種である。本研究では、ガスクロマトグラフ/負イオン化学イオン化質量分析法を用いた大気中PAN測定装置を開発し、自動化した装置を北海道利尻島の地上観測ステーションに持ち込んで、長期にわたる濃度観測を行い、その観測結果を解析して、観測された季節変化や気塊の化学的特徴について考察している。また、モデルから予測される濃度変動と比較することにより、季節変化を与える要因について輸送過程と化学過程の面から議論している。

 本論文は全7章からなり、第1章では研究の背景、世界の現状、研究の目的などが記述されている。

 第2章では実験方法が記述されている。ガスクロマトグラフ/負イオン化学イオン化質量分析法を用いた大気中PANの高感度・高選択的な測定手法を開発した(検出下限は2pptv。イソプロピルナイトレートの干渉を完全に回避し、時間分解能は4分)。実大気の連続測定に向けたキャラクタリゼーションを行った結果、大気中に存在する微量成分の干渉がないことを長所として、感度変化が著しいことを短所として認めた。さらにオンサイト(現場)で較正可能な自動測定・較正システムを製作した。その結果、これまで不可能であった、アジアのリモート地域でのPANの野外観測を可能にした。

 第3章では、ユーラシア大陸性清浄大気の観測を目的として、北海道利尻島においてオゾンとCOの連続観測を3年間にわたって行った。概して、北半球中高緯度の大陸性リモート地域における特徴的な季節変化(オゾンに春季極大・夏季極小)が観測された。しかし、1998年の夏から秋にかけてCOに予期せぬ増大が観測された。この原因を衛星画像と後方流跡線解析で解析したところ、この時期に頻発した極東シベリアの森林火災が原因であることを見出し、シベリアの森林火災が北部太平洋のCO収支に与える影響を指摘した。

 第4章では、開発した装置を北海道利尻島に持ちこんで、アジア地域で初めてのPANの長期観測データを得た。その他、NOx,HNO3,NMHCsなど、オゾン化学に大切な成分の測定も平行して行った。短期的濃度変動についてはオゾンとPANに見られた濃度変動の原因が同一(冬は輸送過程、夏は局地的な化学過程)であることを見出した。後方流跡線解析を用いて、東アジアにおける大気の化学的・気候的特性をオゾンと反応性窒素酸化物の観点から明らかにした。特に4月に観測された特徴的なPANの極大は、活発になっていく光化学と低い気温により、発生源付近で生成したPANがリモート地域まで輸送されやすいためであることを見出した。一方、オゾンは春よりも夏にその濃度増加が著しく、光化学生成自体は夏に極大となっていること、PANとは寿命を決める要因が異なるため、極大となる季節に差が見られることを明らかにした。東アジアにおけるPAN以外の類似化合物(P PN, MPAN, PiBN, PnBN)の濃度レベルと特性を明らかにした。

 第5章では、3次元化学輸送モデルを用いてPANのバックグラウンド季節変化を与える要因を考察した。その結果、冬季のリモート地域で起こる正味の光化学的生成と長い寿命がPANの春季極大をもたらしていることが分かった。最近のモデル研究から、春季のオゾン極大は、リモート地域で起こる光化学ではなく、発生源付近で生成したオゾンが輸送されてきた結果であることが示唆されていることを考慮すると、これまで、その類似性から、オゾンとPANの春季極大は同一の原因であると考えられてきたが、両者の原因が異なる可能性が指摘された。

 第6章ではこれまで報告されていないPAN型化合物である、パーオキシアクリロイルナイトレート(APAN)が大気中に存在することを初めて見出した。その発生源にはまず人為起源(産業活動や車)が考えられたが、東京のみならず利尻島においても観測期間中1/3にわたって検出限界以上であった。前駆体となる1,3-butadieneや芳香族は利尻では濃度が低い、もしくは相関関係がないため、前駆体とはなっていないことが示唆された。一方、一年を通じて低分子アルケン(特にエチレン)と良い相関関係が見出され、APAN前駆体の発生源がエチレンの発生源と関係がある可能性が指摘された。APAN前駆体の発生源として、(1)極東シベリアの都市からの排出、(2)極東シベリアの森林火災、(3)利尻島沿岸の海からの前駆体(測定していない重いアルケン・アクロレイン)の放出が考えられた。

 第7章で、結論と将来展望が述べられている。

 なお、第2章で述べられている「ガスクロマトグラフ/負イオン化学イオン化質量分析法を用いた大気中PANの高感度・高選択的な測定手法」と、第3章で述べられている「シベリアの森林火災が北部太平洋のCO収支に与える影響」については、廣川淳、梶井克純、秋元肇らとの共著論文として発表されているが、論文提出者が主体となって開発、観測を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。その他の章の研究に関しても、同様である。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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