学位論文要旨



No 115944
著者(漢字) 松田,巌
著者(英字)
著者(カナ) マツダ,イワオ
標題(和) シリコン表面銀吸着層の表面電子構造と量子井戸状態
標題(洋) Surface electronic structures and quantum-well states of Ag overlayers on Si(001)
報告番号 115944
報告番号 甲15944
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3988号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 助教授 小森,文夫
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

 固体表面上に原子を吸着させると、量子ドット、量子細線、単原子層、量子薄膜などといったナノスケール(nm,10-9m)の(低次元)構造が形成される。これらナノ構造は、その大きさが固体中の電子の波長程度であることや並進対称性が破れていることなどからユニークな物性を持ち、その学問的研究価値があるだけでなく、最近ではその技術的応用が実現されてきている。しかしながら、それらナノ構造研究の歴史は浅く、その物理、化学的理解はほとんどなされていない。本研究では、半導体表面上金属吸着のモデル系であるAg/Si系を用いて、Ag/Si(001)表面吸着層及びSi表面上Ag(111)超薄膜といった貴金属ナノ構造を作成してその電子構造の詳細を明らかにし、半導体表面上金属ナノ構造の基本的曇子物性について調べた。

【Ag吸着Si(001)表面の電子構造研究】

Ag/Si系の研究対象としてはこれまで秩序相の存在からAg/Si(111)系が主に選ばれたが、Ag/Si(001)系においても2x3、c(6x2)、2x1相といった秩序相が最近観測され[1]、この系への関心も高まってきた。本研究では、これら報告された3つ全ての秩序相についてそのシングルドメイン(SD)表面、SDSi(001)2x3-Ag、ADSi(001)c(6x2)-Ag,、SDSi(001)2x1-Agを作成し、各表面電子構造を放射光を用いた角度分解光電子分光(ARPES,Angle-Resolved Photoemission Spectroscopy)法で調べた。実験はKEK-PF、東京大学スペクトル化学研究センターBeam Line-7Bにおいて行った。

 本研究では3つの表面において各表面状態を確認しさらに重要な結晶対称軸方向における分散を決定した。その内のSDSi(001)2x3-Ag表面とSDSi(001)c(6x2)-Ag表面のエネルギー分散の結果をFig.1に示す。Si(001)2x3-Ag表面とSi(001)c(6x2)-Ag表面はいずれも半導体的であり、またSi(001)2x1も同様に半導体的であった。Fig.1よりSDSi(001)2x3-Ag表面とSDSi(001)c(6x2)-Ag表面のFermi準位近傍での表面電子構造は周期差はあるものの類似性が見られた。また両表面においてSi(001)2x1清浄表面のSiダイマーに起因する表面状態の消失が確認され、この結合エネルギー領域はAg/Si系では一般的にSi基板の再構成の電子構造を反映している[2]ことから、両表面でのSi再構成構造の類似性が示唆された。

 一方、Ag4d準位については、Fermi準位近傍とは違って、Si(001)2x3-Ag表面とSi(001)c(6x2)-Ag表面で異なる電子構造を持つことが分かった。Figure2は、室温で〜0.7ML(1ML=6.78x10l4atoms/cm2)AgをSD Si(001)2x1表面に蒸着し、その後の加熱処理によるARPESスペクトルの変化である。Si(001)2x3-Ag表面及びSi(001)c(6x2)-Ag表面作成のためのAg蒸着量は等しく、わずかな加熱温度の違いで両表面は区別される。図から分かるように、表面の変化に伴いAg4d状態が劇的に変化している。詳細なARPES測定の結果、Si(001)c(6x2)-Ag表面では2つのAg4d状態があり、それらはスピン-軌道相互作用による非結合Ag4d状態と考えられる。一方、Si(001)2x3-Ag表面ではSD表面を用いて詳細に調べた結果、Fig.2に示すように計3つのピークが確認された。これら3つのピークの内、2つは非結合Ag4d状態であるが、もう1つは最近提案された構造モデル[4]と比較した結果、1次元的に配列したAg間で相互作用しているAg4d状態であると考えられる。これまでのAg/Si(111)系の研究でAg4d状態はAg-Si結合に殆ど寄与しないと考えられており[3]、今回の結果はそれを裏付けることとなった。一方、Fermi準位近傍での電子構造の類似性を考慮すると、Si(001)c(6x2)-Ag表面とSi(001)2x3-Ag表面はSi再構成構造は類似しているがAg原子配置が異なることが示唆される。

[Si(001)表面上Ag超薄膜の電子構造の研究]

金属/半導体系の量子閉じ込め効果はメソスコピック系としての学問的意義があるだけでなく、半導体/半導体系の短波長レーザー発振や金属/金属系の巨大磁気抵抗の発生などのような量子デバイスとしての可能性も秘めており技術的にも重要である。しかしこの系では量子閉じ込めに必須である上質な薄膜作成が困難であるためその研究はほとんど行われていない。典型的な半導体表面であるSi(001)表面でも金属原子のStranski-Krastanov成長モードは知られていたが、そのような薄膜の報告はなかった。しかしながら最近、Si(001)表面上に40MLAg(1 MLAg=1.39x1015atoms/cm2)Agを低温(130K以下)蒸着し、さらに室温まで加熱処理すると平滑なAg(111)超薄膜が作成されることが報告された[5]。このことからAg/Si(001)系において金属半導体系では珍しい量子閉じ込め効果の観測の可能性が示唆される。一方、半導体表面上の平滑な金属薄膜の形成過程はまだ分かっておらず、ごく最近になって薄膜内に量子化された電子状態が膜形成に量要な働きをしているという“electronic growth”と呼ばれる成長モデルが提案された[6]。しかし薄膜形成における成長過程と電子状態の系統的研究はまだ行われていない。

 本研究では、このSi(001)表面上のAg(111)エピタキシャル膜についてその成長過程とその電子構造をRHEED(Reflection Hight Energy Electron Diffraction)法、STM(Scanning Tunneling Microscopy)法、LEED(Low Energy Electron Diffraction)法、そして放射光を用いたARPESを用いて調べた。

 AgをSi(001)2x1表面上に低温(〜100K)蒸着すると、Agはテラス幅数10Aのナノクラスターを形成する。蒸着量が2〜3MLAgではクラスターのトップが平らなquasi-layer-by-layer filmを形成するが、5MLAgを超えると3次元性の高いクラスターが均等に形成されることが分かった(Fig.3)。低温蒸着後、300〜450Kまで加熱すると、蒸着量が5MLAgより低いものに関しては2次元島のパーコレーションネットワークが観測されたが、5MLAgよりも高いものは下地の各テラス全体に広がった単一高さのAg(111)薄膜ができることが分かった(Fig.3)。図中のピットホールの密度からこの薄膜の厚さが6MLと見積もられた。このことからSi(001)表面上のAg(111)エピタキシャル膜は厚さ6MLAg以上のものしか形成されないことが分かった。

 Fig.4は、Si(001)2x1表面上Ag低温(〜100K)蒸着時及びその後の加熱(〜300〜470K)処理におけるARPESスペクトルの蒸着量依存性である。測定はKEK-PF、東京大学理学部スペクトル化学研究センターBeam Line-7Bにおいて行なわれた。Fig.4に示すようにFermi準位直下にAg(111)表面状態(SS)及び結合エネルギー〜0.3〜3eVにAg5s起因の離散準位が5MLAg以上で観測できた。これら離散準位に関して標準的な畳子井戸理論である、phase-shiftquantization rule(位相シフト量子化則;PSQ則)に基づいたモデル計算と比較した。PSQ則によると、量子井戸状態(QWS)は以下の条件が満たされる時存在する。

 φvac(En)+2k⊥(En)d+φsub(En)==2πn -(1) ただしnは量子数、k⊥は表面垂直方向のブロッホ状態の包絡線関数の波数、dは膜厚である。φvac(En)とφsnb(En)は真空/薄膜/下地界面での反射による位相シフトである。(1)式を変形すると、エネルギーと膜厚の関係式、いわゆる“structure plot[7]”と呼ばれる式が導き出される。dn(En)=[n-1+2πφvac(En)+2πφsub(En)]/[1-k⊥(En)] -(2)ただしここではk⊥(E)はL点でのゾーン境界波数単位で表されている。(2)式を実験データと比較するためにはエネルギー分散と位相シフトが必要であるが、(1)式を用いて実験的にこれらを求めることができる。実験的に得られたk⊥(En)をtwo-band nearly free electron modelで最適化して、それを元にn=4について(1)式から2πφvac(En)+2πφsub(En)を求めてそのエネルギー依存性を1次近似で求めた。これら2つの関数を(2)式に代入した結果と実験結果をFig5に示す。今回得られた離散準位がこのPSQ則で記述されるQWSとよ<一致する一とが分かる。

 本研究ではさらにこの量子井戸状態に関して詳細に調べるためにSi(001)表面上に14MLAgのAg(111)薄膜を作成し面内分散についても調べた。その結果をFig.6に示す。Fig.6から明らかなように量子井戸状態のエネルギー分製が観測され、さらに各量子井戸状態の面内有効質量を計算した結果、結合エネルギーが小さくなると有効質量は増大することが分かった。今までの金属基板上でのAg簿膜の量子井戸状態の研究では、理想的なAg薄膜のように電子の面内分散は自由電子的に分散し、さらに面内有効質量は結合エネルギーが小さくなると減少することが知られていた。そのため本研究で観測された薄膜内の電子の挙動は金属/半導体系の量子閉じ込め効果由来の新物性として大変興味深い。通常固体表面上の薄膜は基板との格子不一致による構造的歪みを受け、その物性が変化する。しかしこの効果では有効質量のエネルギー依存性の逆転までは説明ができない。そこで本研究では下輝子構造の効果がその起因であると考え、Si(001)表面と異なる電子構造を持つSi(111)表面上にも同様な処理で16MLAgのAg(111)薄膜を作成しそのQWSの面内分散を調べた。Fig.7に、過去に報告された14MLAg-Ag(111)薄膜/Cu(111)表面とAgバルク状態の結果[8]もふまえて、各系における面内有効質量のエネルギー依存性を示す。図から明らかなように金属/半導体系の量子閉じ込め特有の電子の挙動はエネルギー的に下地のバルクバンドの存在領域内で生じており、下地の電子構造及び電子状態と密接な関係があることが分かった。

[結論]

以上、本研究によってAg/Si系を対象に半導体表面上の各貴金属ナノ構造の電子構造を詳細に明らかにし、さらにこの系特有の新量子物性を発見しその重要な知見を得ることができた。

Fig.1 Summary of the surface state dispersions of(a)single-domain(SD)Si(001)c(6x2)-Ag and (b)SDSi(001)2x3-Ag surfaces within the bulk band gap.The dispersions of surface states are guided by thick gray lines.The solid circles and diamonds are experimental points from the ARPES spectla taken at a photon energy of 17.4eV in different measurement geometries.

Fig.2(a)Normalized ARPES spectra taken along [110]for the 〜0.7ML Ag adsorption on a SD Si(001)2x1 surface at room temperature with subsequent annealing at〜200℃(SDSi(001)c(6x2)-Ag surface) and>300℃(DDSi(001)2x3-Ag surface).(b)Normalized ARPES spectra for a SD Si(001)2x3-Ag surface taken along[110](x2 direction) and [110](x3 direction).The photon energy used is 19.1eV and the photon incident angle(θi) is 45O.The peak positions of different Ag 4d states assigned are marked with different symbols.

Fig.3 An STM image for the 5MLAg deposition on a Si(001)surface at 65K(inset)and annealed at room temperature

Fig.4 A collection of ARPES spectra for the Ag films on Si(001)2x1 formed by deposition at 120 K and annealed at 300〜400 K at various Ag coverage

Fig.5 Comparison between the model calculation based on phase quantization rule(curves)and the experimental data(dots with error bars)for the binding energies of the QWSs for the epitaxial Ag(111)films on Si(001)as a function of thickness.Fig.4 The grey-scale EB-k// diagrams for the 14 ML- thick double-domain Ag(111) film on Si(001)substrate along the[110]axis of Si(001) crystal taken at hv=22.7 eV.The surface Brillouin zone (SBZ〕of the Ag(111) surface and the scanned SBZ line are also indicated in the figure. The parabolic fits of dispersions for the quantum-well states are depicted as black dashed lines.

Fig.5 In-plane effective mass,m//*,relative to free- electron mass mo as a function of the binding energy atk//=O for the Ag(111) film on Cu(111)(together with bulk Ag meta1,a solid line)[8〕,Si(111)and Si(001)substrates. Dasbed lines are the guides for tracing the experimental points.The shaded areas correspond to the energy regions below the substrate Valence band maximum.Solid circles, squares,and triangles represent the data taken at hv=22.7, 10.3 and 9.3eV,respectively.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文では、半導体表面上金属吸着層のモデル系としてAg/Si(001)系の表面電子構造及び量子井戸状態を詳細に研究している。

 第1章では、技術及び学問界における本研究の一般的な位置付けをし、本研究の主題である表面電子構造及び量子井戸状態に関するレビューを行っている。

 第2章は、本論文で用いられた分析法の原理とその実験装置について詳細に述べられている。用いられた分析手段は,低速電子回折(LEED),反射高速電子線回折(RHEED),放射光を用いた角度分解光電子分光(ARPES),走査トンネル顕微鏡(STM)である。またこの章では本論文におけるサンプル作成条件も詳細に述べられている。特筆すべきは、Si(001)基板の作成方法である。Si(001)基板は互いに90°回転した2つのドメインからなりARPESなどの表面分析法による研究は2つドメインの情報が重なりその解析が大変困難である。そこで論文提出者は一方のドメインのみを優勢に成長させるシングルドメイン化の方法を独自で開発し、そのシングルドメインSi(001)基板を用いて各Ag吸着表面層の研究を行い、その分析/解析をより信頼性の高いものにしている。

 第3章では、Si(001)上Ag吸着表面層の電子構造の研究結果が述べられている。Ag/Si(001)表面層の電子構造研究はこれまでなく、論文提出者は報告されている総ての秩序相(Si(001)2x3-Ag、Si(001)c(6x2)-Ag、Si(001)2x1-Ag)のフェルミ準位からAg4d準位までの電子構造をARPESによって詳細に調べた。総ての表面は半導体的であることを確認し、また各表面状態め2次元バンド分散を決定した。各表面電子構造を比較した結果、Si(001)2x3-Ag表面とSi(001)c(6x2)-Ag表面のFermi準位近傍での表面電子構造は周期差があるものの類似性が見られ、また両表面においてSi(001)2x1清浄表面のSiダイマ・に起因する表面状態の消失が確認された。現在のところ、これら3つの秩序相に関する表面構造は決定していないため、各電子状態の正確な帰属は行えない。そこで論文提出者は他の半導体表面金属吸着層との比較からFermi準位近傍の電子状態はSi再構成表面に起因するものと帰属し、このことから各表面のSi再構成表面構造の知見を与えた。また電子数計算からAg被覆率を精密に求め、さらにAg4d状態のバンド分散の異方性やARPES測定の直線偏光の入射角依存性などからAg原子配置に関する情報まで与えた。このように、本論文のAg/Si(001)表面層の研究は表面電子構造に留まらず、表面構造まで議論が発展している。

 第4章では、Si(001)表面上のAg(111)エピタキシャル膜の成長モルフォロジ・とその量子井戸状態の研究をRHEED、LEED、STM、ARPESを用いて詳細に行った結果が述べられている。Si(001)2x1表面上に5ML以上Agを低温(<130K)蒸着し、その後300〜470Kに加熱するとAg(111)エピタキシャル膜が形成される。膜厚30MLまでのエピタキシャルAg膜について、Fermi準位直下にAg(111)表面状態が、結合エネルギー0.3〜3.0 eVでAg5s起因のエネルギー離散状態が観測された。これら離散状態の結合エネルギー値は、標準的な量子井戸理論である位相シフト量子化則でよく再現されることが分かり、同時にエネルギー分散及び位相シフトのエネルギー依存性といったこの量子井戸状態の基本的な電子特性が明らかにされた。また、面内分散についてはこれまでに報告のない量子井戸状態の挙動、(1)量子井戸状態が、面内方向に異なる分散を持つ2つのサブバンドに分裂すること、(2)量子井戸状態の面内有効質量が結合エネルギーの減少と共に急激に増大すること、などが観測された。この新しい量子物性を詳細に調べた結果、Si(001)基板での量子井戸状態の波動関数の界面位相シフト変化で説明できることが示唆された。

 第5章は結語であり、まず本論文によって初めて明らかにされたAg/Si(001)系の表面電子構造についてまとめられている。そしてAg/Si(001)系を用いて初めて明らかにされた金属/半導体系の量子井戸状態という新しい系の基本電子特性及び新物性についてのまとめと今後の展望が述べられている。

 以上、本論文ではAg/Si(001)表面層の電子構造を初めて明らかにしただけでなく、この系をモデルとして今まで研究例のない半導体表面上金属薄膜の量子井戸状態へと発展させ、その基本電子特性を詳細に明らかにし、さらに新物性を発見しその原因を理論的に考察している。また実空間と逆空間の結果を注意深く相補的につき合わせて得られた研究結果は今後の半導体表面上金属吸着系の基礎となることは間違なく、物質科学全般にとっても重要な成果と評価できる。

 なお、本論文はH.W.Yeom教授、谷川雄洋氏、登野健介氏、長尾忠昭氏、長谷川修司助教授、太田俊明教授との共同研究であるが,共同研究者はあくまで実験の手伝い及び意見という形で貢献したにすぎず、論文中の研究はまぎれもなく論文提出者本人の研究である。したがって審査員全員により、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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