学位論文要旨



No 115949
著者(漢字) 石井,智浩
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,トモヒロ
標題(和) 嗅覚受容体遺伝子のmono-allelicicな発現と嗅細胞の軸索投射
標題(洋)
報告番号 115949
報告番号 甲15949
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3993号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 中村,義一
 東京大学 助教授 榎森,康文
内容要旨 要旨を表示する

 哺乳類の嗅覚系では数十万種類の匂いが識別可能と言われ、これには一千種類に及ぶ嗅覚受容体多重遺伝子が対応している。個々の嗅細胞では、これら遺伝子群の中から一種類のみが選ばれ、かつmono-allelicに発現している。また嗅球への軸索投射に際しては、発現する嗅覚受容体の種類に応じて、約二千個存在する糸球のうちlateral側medial側、各々一対ずつを選んでターゲットとしている。本研究では嗅覚受容体遺伝子の相互排他的発現制御、及び嗅細胞の特異的な軸索投射のメカニズムを解明することを目的として、マウス嗅覚受容体遺伝子のノックインマウス及びトランスジェニックマウスを作製した。

嗅覚受容体遺伝子MOR28の相互排他的発現

 私は嗅覚受容体遺伝子M0R28を発現している細胞で同時にgap-GFPを発現させ、MOR28発現細胞を可視化することを試みた。gap-GFP融合蛋白質は、カルモジュリン結合蛋白質GAP43のN末端20アミノ酸からなる膜移行シグナル配列と蛍光蛋白質GFPとを融合させたものである。この蛋白質は効率よく軸索へ輸送されるので、神経細胞の軸索末端までGFPの蛍光が観察される。ノックインの手法を用いてIRES-gap-GFP構造をMOR28遺伝子の3'UTRに挿入、これによりMOR28発現細胞をGFP蛍光により可視化する事に成功した。次に、マイクロマニピュレーターを用いてこのGFP発現細胞を単離し、RNA-DNAFISH法によりMOR28がmono-allelicに発現していることを直接的に初めて証明した。具体的にはGFP発現細胞の核に、digoxigeninラベルされたMOR28のイントロンプローブをハイブリダイズさせ、M0R28mRNAの前駆体をin situで検出した。イントロンプローブはPri-mary transcriptとハイブリダイズするため、転写の行なわれている染色体部位を検出する。次にこの核に対しRNase処理後DNA変性を行ない、MOR28遺伝子領域約10kbをビオチンラベルしたプローブを用いてハイブリダイゼーションを行なった。これにより第14番染色体上のMOR28部位を同定した。RNAのシグナルはローダミンと結合した2次抗体により赤で、DNAのシグナルはFITCの結合したavidinにより緑で検出した。図1に示す様に、DNA-FISHによる緑の2つのシグナルの内一方のみがRNA-FISHによる赤の1つのシグナルと重なった。このことからMOR28遺伝子がmono-allelicに発現していることが直接的に証明された。

 次に、non-allelicなMOR28同士についても、同様に相互排他的発現が見られるのかどうかを検証するため、MOR28を含む460kbのYACクローンを用いたトランスジェニックマウスを作製し、先のノックインマウスと掛け合わせた。外来性MOR28遺伝子はtau-lacZで標識されているため内在性のM0R28と区別して解析することができる。嗅上皮の切片を作製して、内在性MOR28発現細胞をGFPの緑の蛍光で、外来性MOR28発現細胞を抗B-galactosidase抗体およびローダミン結合2次抗体により赤の蛍光で観察した(図2)。その結果、MOR28を発現する細胞のほとんどすべてが赤または緑、どちらか一方の蛍光で検出され、黄色に見える細胞は数千個以上調べた上でわずか4個だけであった。これらの結果から、maternal/paternalの関係にない同じ構造を持つ嗅覚受容体遺伝子の間にも相互排他的発現制御の働くことが判明した。

 嗅覚受容体遺伝子の排他的発現制御を説明するため、これ迄、複数の転写因子の組み合わせにより特定の遺伝子が選択的に発現するというモデルが考えられてきた。しかし、今回得られた我々の結果はこの可能性を否定するものであり、トランスでない、シスに働く制御メカニズムを考える必要が出てくる。免疫系など他の多重遺伝子系の例から類推して、抗原受容体遺伝子のDNA組み換えや、トリパノゾーマの抗原性の変化に見られる遺伝子変換なども可能性として考えられるが、嗅覚系に独特の機構の存在する可能性もあり今後の進展が期待される。

嗅覚受容体遺云子MOR28発現細胞の軸索投射

 GFP遺伝子で標識した内在性MOR28とlacZで標識した外来性MOR28は、それぞれ129/Sv(129)系統とC57BL/6(B6)系統由来である。この2つの系統の間ではMOR28コーディング領域に5箇所の塩基置換があり、その内の1個所がアミノ酸の変化を引き起こす。先の実験で、内在性2つの対立形質、更にトランスジーンとして導入された外来性MOR28は、それぞれ異なる細胞で発現することが判明した。そこでこれら3種類のMOR28を発現する細胞の軸索投射を遺伝的多型や、標識遺伝子の有無などいくつかのパラメーターに注目しながら解析した。

 まず父方と母方のMOR28を発現する細胞の軸索投射を区別して解析した。父方のalleleをGFP標識MOR28に固定し、母方のalleleに関して色々系統を変化させた。具体的には、母方のalleleをB6にした場合と129にした場合を比較した。M0R28プローブを用いたin situハイブリダイゼーションでは、輸送の関係上GFP標識のMOR28mRNAは軸索末端で検出されないので、ここでは主として標識されてない母方alleleの投射先を検出する。図3に示す様に、嗅球の連続切片を用いて、in situハイブリダイゼーションとGFPの蛍光によりMOR28発現細胞の投射先をallele毎に可視化した。GFP蛍光で観察される父方とin situハイブリダイゼーションで検出される母方の投射先は、(129GFP/129)の組み合わせのマウスにおいては、多少の分離は見られるもののかなりの部分重なって検出された(図3A)。一方、(129GFP/B6)の組み合わせのマウスでは同一糸球内ではあるが明瞭に投射領域が分離した(図3B)。以上のことから、内在性alleleを発現する細胞に着目した場合、父方母方それぞれの投射先は、遺伝的多型により同一糸球内においてその投射領域が分離することが初めて判明した。

 次に外来性MOR28と内在性MOR28を発現する細胞の投射先について解析した。X-gal染色により青く検出された外来性MOR28の軸索と緑の蛍光で可視化された内在性MOR28の軸索は近傍ではあるが別々の糸球に投射した(図4A)。MOR28の2つの内在性alleleをヘテロ(129GFP/B6)からホモ(129GFP/129GFP)にした場合、内在性MOR28に対する糸球は外来性MOR28の糸球から300-400μm(糸球4-5個分に相当)離れた位置に形成された(図4B)。更に、遺伝的多型や標識遺伝子の影響など何が投射のバラメーターになるかを調べるため、内在性MOR28について様々な組み合わせを設定しその投射先を検定した。これらの実験から、嗅覚受容体遺伝子によって規定される嗅細胞の軸索投射が、染色体上の位置や遺伝的多型、標識遺伝子の有無や種類によって影響を受けることが明らかになった。

 今日ある高等動物の嗅覚系は、遺伝子重複を繰り返し受容体遺伝子プールの拡大と突然変異の蓄積によって、におい識別のレパートリーを拡大してきた。その際嗅覚受容体遺伝子に変異が導入された場合、受容体のリガンド特異性や結合能の変化する事は十分予想される。遺伝子重複により倍加した受容体遺伝子のうち、一方のリガンド特異性が変化すると、嗅覚系は2つの受容体からのシグナルを別々に処理する必要が生じる。本研究で観察された様々な遺伝的要囚による投射先の分離は、嗅覚系がallele毎に異なる軸索投射先を用意する潜在能力を保持していることを示唆するものとして極めて興味深い。

図1 M0R28のmono-allelicな発現

M0R28発現細胞の核を用いてRNA-DNA FISHを行なった。核全体を可視化するためにサンプルはDAPI染色した。

(A)RNAシグナルの検出(矢尻) (B)DNAシグナルの検出(矢印)

図2 内在性・外来性MOR28の相互排他的発現嗅上皮の蛍光染色像。外来性MOR28発現細胞は抗β-gal抗体で検出し(矢印)、内在性MOR28発現細胞はGFPの蛍光(矢尻)で検出した。

図3 2つの対立形質に対する軸索投射先の同一糸球内での分離

父方MOR28発現細胞の投射先はGFP蛍光(左)で、母方MOR28発現細胞の投射先はin situハイブリダイゼーション(中央)で検出した。右側の写真はneutral red染色した嗅球切片の明視野像。(A)(129GFP/129)マウス(B)(129GFP/B6)マウス

図4 MOR28発現嗅細胞の軸索投射先

外来性MOR28の投射先(矢印)をX-galで青色に染色し、内在性MOR28の投射先(矢尻)をGFP蛍光で検出した。図は嗅球を側面から見たものである。

(A)(129GFP/B6)マウス (B)(129GFP/129GFP)マウス

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は高等生物の嗅覚系の解明を目ざしたもので、特定の嗅覚受容体遺伝子を発現する細胞を遺伝子組み換えにより可視化し、嗅覚受容体遺伝子の発現、及び嗅神経細胞の軸索投射の研究分野に大きな寄与をなしたものである。

 本論文は3章から構成されており、最初の序章では匂い認識のメカニズム、特に嗅覚受容体遺伝子の嗅上皮における発現と、それを発現する嗅神経細胞の大脳前部に位置する嗅球への軸索投射の特徴について解説している。提出者は、本研究の枠組みである基本的概念、即ちマウスにおいて約1,000種類存在する嗅覚受容体遺伝子が個々の嗅神経細胞ではmono-allelicに1種類しか発現しないこと、同じ種類の嗅覚受容体遺伝子を発現する細胞は嗅球上の特定の糸球に軸索を収束させていることの重要さについて問題提起を行っている。

 第2章は組み換えマウスという新たな実験系の構築と、それを用いて解析した嗅覚受容体遺伝子のmono-allelicな発現について記述している。これまで、嗅覚系の研究が困難であった理由の一つは、嗅神経細胞株が得られて居らず、モノクローナルで均一な細胞サンプルの入手が困難なことによっている。嗅上皮を実験材料として用いる場合、様々な嗅覚受容体遺伝子を発現するheterogenousな細胞集団を対象とすることになる。本研究では、この問題を克服するため、約1,000種類存在する嗅覚受容体遺伝子のうちの1つ、MOR28を発現する細胞で同時に蛍光蛋白質Green Fluorescent Protein(GFP)を発現するマウスを作製した。これによりMOR28を発現する細胞のみをmicromanipulaterを用いて集めることが可能になり、特定の嗅覚受容体遺伝子に注目して解析を行う実験系が構築された。提出者はこの系を用いて、嗅覚受容体遺伝子が単一alleleからのみ発現する事を可視化する事により証明した。この章ではこれらの結果をもとに、嗅覚受容体遺伝子のmono-allelicな発現の制御機構と匂い識別における意義について考察している。

 第3章は嗅神経細胞の軸索投射に影響を与える遺伝学的な要因について解析している。まずMOR28遺伝子は2つの系統のマウス、129/SvとC57BL/6の間で遺伝的多型があることを見出し、これに着目しながら、前述のマウスを用いて、嗅神経細胞の軸索投射をGFP蛍光とin situハイブリダイゼーションによりallele毎に可視化して解析した。提出者は、父方と母方に由来する嗅覚受容体遺伝子に多型がある場合、軸索投射先の領域が分離することを見出した。さらに受容体遺伝子の多型以外にも、染色体上の位置や、標識遺伝子の有無や種類によって軸索投射が影響を受けることを明らかにした。これらの結果から、嗅神経細胞の軸索投射に影響を与えるパラメーターについて考察し、遺伝学的要因の違いによって軸索投射先が変化することの嗅覚系における重要性ついて議論している。

 本研究は、これ迄主に生理学的アプローチにより扱われていた嗅覚系の解明に、分子遺伝学的手法を持ち込んだ点、独創的かつ斬新であり高く評価される。木研究は提出者が中心となって進めたものでその寄与は十分であると認められる。提出論文の主要内容は提出者を筆頭著者として欧文誌に受理されており、他に3編の欧文の共著論文がある。

 以上の事柄から判断して博士(理学)の学位が授与できると判定した。

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