学位論文要旨



No 115963
著者(漢字) 広津,崇亮
著者(英字)
著者(カナ) ヒロツ,タカアキ
標題(和) 線虫の嗅覚応答におけるRas-MAPK経路の機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 115963
報告番号 甲15963
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4007号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 助教授 榎森,康文
 東京女子医科大学 助教授 三谷,昌平
 東京大学 助教授 飯野,雄一
内容要旨 要旨を表示する

(序)

 Ras-MAPキナーゼシグナル伝達系は、主に細胞分化や増殖において必須の働きをしている。線虫C.elegansにおいても、この経路は陰門形成の誘導などいくつかの発生段階で機能していることが知られている。近年哺乳類では、Ras-MAPK経路が神経系でも発生や記憶学習に関与していることが明らかにされ、脚光を浴びている。しかし、線虫におけるこの経路の神経系での働きについては、未だに全く報告されていない。そこで私はRas-MAPK経路の神経系での機能に注目して解析を行い、この経路が嗅覚に関与することを見出した。

(結果と考察)

 線虫の揮発性物質(匂い物質)への誘引行動には、感覚神経AWAとAWCが関与している。AWCで受容されるイソアミルアルコールなどの揮発性物質に対して野生株は正の化学走性を示すが、Rasの機能上昇変異体let-60(gf)はこの化学走性に強い欠陥を示した。この表現型はRasの下流で働くKSR、MAPKK、MAPKの機能低下変異ksr-l(lf)、mek-2(lf)、mpk-1(lf)により抑圧された。またRas、Rafの機能低下変異体let-60(lf)、lin-45(lf)およびMAPKKの完全欠失変異体mek-2(0)でも、化学走性の低下が見られた。以上の結果は、AWCを介した嗅覚応答において、Ras-MAPK経路が機能していることを示唆するものである。またAWAで受容されるジアセチル、ピラジンやAWA、AWC両方で受容されるトリメチルチアゾールへの化学走性についても、同様の表現型が認められた。よってAWAを介した嗅覚応答にもこのシグナル伝達経路が働いていると考えられる。

 Ras-MAPK経路は細胞分化に働くことが知られていることから、化学走性に関わる神経の分化に関与している可能性が考えられる。そこでヒートショックプロモーターを用い、野生型で時期特異的にlet-60(gf)を発現させ化学走性への影響を調べた。神経細胞の分化する胚発生時期での発現は化学走性に影響を与えなかったが、成虫期での発現により、匂い物質に対する走性が低下した。同様に、let-60(lf)変異株においてlet-60(+)を発現させる実験でも、成虫期での発現により揮発性物質に対する走性が回復した。これらの結果より、Ras-MAPK経路は細胞の分化に関与しているのではなく、すでに成熟した細胞において働いていることが示唆された。

 次に、この経路が働いている細胞を同定する目的で、AWC特異的にlet-60を発現させて化学走性への影響を調べた。すると野生型のAWCでのlet-60(gf)の発現はイソアミルアルコール(AWC受容性)に対する走性を低下させたが、ジアセチル(AWA受容性)に対する走性には影響を及ぼさなかった。同様にlet-60(lf)株のAWCでのlet-60(+)の発現もイソアミルアルコールに対する走性のみ回復させた。これらの結果によりRas-MAPK経路は感覚神経AWCにおいて機能していることが示された。

 以上のことをまとめるとRas-MAPK経路は既に分化を終えた成熟した感覚神経において機能していることになる。実際に感覚神経AWCに特異的にGFPを発現させて、嗅覚に欠陥のある変異体のAWCの形態を観察したところ、大きな異常が認められなかった。またlet-60の発現パターンについてGFPレポーターを用いて調べたところ確かにAWCでの発現が認められた。これらの結果は先に述べた結論を補完するものである。

 それでは、Ras-MAPK経路はどのようなシグナルを受けて、感覚神経において活性化するのであろうか。そこで、そのシグナルを同定するために、抗活性化型MAPK抗体を用いて免疫組織染色を行った。その結果、イソアミルアルコール(AWC受容性)刺激を与えるとMAPKがAWCにおいて活性化することが明らかとなった。この活性化は刺激後10秒以内に見られる非常に早い反応であり、AWC神経の全体(神経突起、細胞体)に活性化型MAPKの染色が認められた。しかし、唯一感覚繊毛には見られなかった(図1)。

 次に、AWC神経において匂い刺激の伝達経路を形成している因子の変異体についても、同様の抗体染色実験を行った。AWC神経においては、レセプターが匂い刺激を受容すると、そのシグナルはG蛋白質αサブユニットODR-3を介してcGMP系へと伝えられる。次にcGMP濃度の上昇に応じて開く環状ヌクレオチド感受性イオンチャネルTAX-2/TAX-4が働く。脱分極により生じた電気的刺激は、電位感受性カルシウムチャネル(α1サブユニットはUNC-2)によって神経全体に伝えられると考えられる。odr-3、tax-2、tax-4、unc-2変異体では、匂い刺激に応答したMAPKの活性化は見られなかった。従って、Ras-MAPK経路はこれらの因子の下流に位置しており、匂い刺激に応じて活性化し神経機能を制御しているのではないかと考えられる。

 抗活性化型MAPK抗体を用いた免疫組織染色実験では、イソアミルアルコール刺激に応答して、AWC神経だけでなくAWB神経でもMARKの活性化が認められた。但し、AWBでは高濃度のイソアミルアルコールに対してのみMAPKが活性化された。AWBは、揮発性物質からの忌避行動を媒介する感覚神経である。そこで、イソアミルアルコールの濃度を高くして化学走性を調べてみると、誘引行動ではなく忌避行動を引き起こすことがわかった。機能的なAWBの存在しないlim-4変異体はこの忌避行動に欠陥を示した。また、odr-3、tax-2、tax-4変異体なども欠損の表現型を示した。よって、高濃度イソアミルアルコールは、AWB神経でこれらの因子を介して感知され、忌避行動を導くと考えられる。Ras-MAPK経路の変異体のうち、let-60(gf)、lin-45(lf)、mek-2(0)はこの忌避行動に異常を示すことから、Ras-MAPK経路は誘引行動だけでなく、高濃度の匂い物質からの忌避行動にも関与していることが示唆された。

 一方、私は嗅覚行動の可塑性の現象を発見した。10-4のイソアミルアルコール水溶液中に線虫を5分間おいてあらかじめ匂いを嗅がせると、10-2という通常の条件下で強い誘引行動を引き起こす濃度のイソアミルアルコールに対して、弱い忌避行動を示すようになった。この行動の可塑性は、ベンズアルデヒドやピラジン、チアゾールでも認められた。

 先述のlim-4変異体は、イソアミルアルコールについての可塑性に欠陥を示した。また、感覚神経AWCから入力を受ける介在神経AIYの機能が欠損したttx-3変異体も異常を示した。この結果は、イソアミルアルコールへの誘引行動を媒介するAWCだけでなく、忌避行動を媒介するAWBおよび介在神経AIYが可塑性に必要であることを示唆している。AWC、AWBで感知され下流に送られた誘引、忌避シグナルが、AIYを含む介在神経により処理され、行動変化が引き起こされるというモデルが考えられる。

 Ras-MAPK経路の変異体let-60(gf)、let-60(lf)、mek-2(0)は上記のすべての揮発性物質に対する化学走性の可塑性に著しい欠陥を示した。従って、Ras-MAPK経路は嗅覚応答の可塑性においても重要な働きをしていると考えられる。イソアミルアルコールをあらかじめ嗅がせる条件下(濃度10-4、5分)で、活性化型MAPKの抗体染色を行ったところ、可塑性成立に必要なことがわかっている3種の神経のうち、AWC、AIYでMAPKの活性化が認められた。この結果は、Ras-MAPK経路が可塑性において、感覚神経における嗅覚受容だけでなく、介在神経における情報処理の段階でも働いている可能性を示唆している。

 哺乳類のシナプス可塑性にはグルタミン酸レセプターが中心的な役割をしていることが知られている。線虫のAMPA型グルタミン酸レセプターホモログをコードするglr-1の変異体は、この嗅覚応答における可塑性に欠損を示した。よって、線虫においてもグルタミン酸レセプターがシナプス可塑性の成立に関与している可能性が考えられる。

(今後の展望)

本研究により、線虫のRas-MAPK経路が嗅覚に関与していることが初めて明らかとなった。この経路の嗅覚への関与は他の生物も含めて新規の知見である。他生物でも同様のメカニズムが成り立っているのかは非常に興味深い点であり、今後の解析が待たれる。Ras-MAPK経路は電位感受性カルシウムチャネルの下流に位置しており、匂い刺激に応答して活性化することがわかった。では、活性化したRas-MAPK経路はその下流で何をしているのか。その疑問点の解明が、今後の最大の課題である。それには、let-60(gf)変異体を用いたサプレッサースクリーニングが最も有効であると考えられる。また、MAPKの結合部位のコンセンサス配列をもとにして、ターゲット因子をゲノム上で検索し、逆遺伝学的手法を用いることも可能かもしれない。

 私は嗅覚応答の可塑性現象を発見した。今回見つけた可塑性は比較的短時間で成立すること、介在神経も含めた神経ネットワークが関与している点で大変興味深い現象だと思われる。この可塑性にはRas-MAPK経路が重要な働きをしていることがわかった。今後は、Ras-MAPK経路が感覚神経、介在神経どちらで、あるいは両方で働いているのかを明らかにし、実際にどのような機構を制御しているのかを解明したい。また、グルタミン酸経路との関係も明らかになれば、非常に面白いと思われる。

図1 匂い刺激に応答したMARKの活性化野生型にイソアミルアルコール(AWC受容性)刺激を10秒間与えた後に固定し、抗活性化型MAPK抗体を用いて免疫組織染色を行った。AWC神経を可視化するためにAWCにGFPを発現させ、抗GFP抗体との二重染色を行った(a)。bは抗活性化型MARK抗体による染色、cはaとbを重ね合わせたもの。匂い刺激に応答して、AWC神経においてMAPKが活性化した。活性化型MAPKの染色はAWC神経全体(神経突起、細胞体)で見られたが、唯一感覚繊毛には染色が認められたかった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は序、方法・材料、結果(全6章)、考察と今度の展望(全14部)よりなり、線虫C.エレガンスの匂い物質に対する化学走性の機構について、Ras-MAPKシグナル伝達経路の役割を中心に解析した結果を記載したものである。結果の第1章ではRas-MAPK経路の変異体の揮発性物質(匂い物質)に対する化学走性の欠損表現型が定量的に述べられている。第2章ではこの表現型について、発生過程でRasが機能する時期を同定した実験が述べられている。この実験の結果、論文提出者は発生完了後の成虫期にRasが機能することを明らかにしている。第3章ではRasが機能する細胞を同定した実験が述べられている。論文提出者はこの実験より、Rasが嗅覚神経で機能することを明らかにしている。第4章では、匂い刺激によりRas-MAPK経路が迅速に活性化されること、その活性化がおそらく嗅覚神経の興奮を介していることが示されている。第5章では線虫が高濃度の匂い物質に対しては忌避行動を示すという発見が述べられており、Ras-MAPK経路の変異体はこの忌避行動にも欠損を示すこと、したがって、Ras-MAPK経路は忌避行動にも関わることが示されている。第6章では、論文提出者はさらに匂い物質に対する化学走性の可塑性の現象を記載している。すなわち、高濃度の匂い物質にあらかじめ曝された線虫は、その物質に対する走性を失い、逆に弱い忌避行動を示すことが記されている。さらに、Ras-MAPK経路の欠損変異体がこの行動可塑性に強い欠損を示すこと、この可塑性には介在神経および忌避行動に関わる嗅覚神経が関わっていることが記載されており、この解析の結果、誘引行動と忌避行動のバランスを制御する神経ネットワークの存在とその行動可塑性における重要性が示唆されている。

 この論文は、細胞増殖、分化に主要な役割を果たすことがよく知られていたRas-MAPK経路が、嗅覚受容に関与しているという全生物種を通じて初めての発見を報告したものである。さらに、論文の後半ではこのシグナル伝達経路の機能が嗅覚忌避行動や化学走性の可塑性にも関わることを示し、それに関わる神経回路を明らかにしており、全編を通して優れた内容であると判断される。なお、主論文第1章〜第4章の大部分は佐伯智、山本正幸、飯野雄一との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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