学位論文要旨



No 115964
著者(漢字) 古川,浩康
著者(英字)
著者(カナ) フルカワ,ヒロヤス
標題(和) ムスカリン受容体に結合したリガンドの構造
標題(洋)
報告番号 115964
報告番号 甲15964
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4008号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 豊島,近
 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 田之倉,優
内容要旨 要旨を表示する

 アセチルコリンは神経伝達物質として同定された最初の物質であり、中枢神経、および末梢神経で二種類のアセチルコリン受容体(ニコチン性とムスカリン性)に作用し、生理活性を引き起こす。

 受容体に結合していないアセチルコリンの構造はX線結晶構造解析により1966年にPaulingらにより解明された。その構造はN-Cα-Cβ-Oの二面角が約60°をとるgauche型であった。ニコチン性アセチルコリン受容体に結合したアセチルコリンはtrans型の立体配座をとっていることが、Transferred Nuclear Overhauser Effect(TRNOE)測定とエネルギー計算から予測された。またムスカリン作用を引き起こすアセチルコリンの構造は、回腸の筋収縮などを指標にした立体配座を固定したアセチルコリンのアナログ化合物の作用実験からtransであることが予測されている。ところが、Gタンパク質共役受容体であるムスカリン性アセチルコリン受容体に結合したアセチルコリンの構造を直接的に証明した例が無い。そこで、我々は、TRNOE測定によりムスカリン受容体と結合したアセチルコリンのアナログ化合物である(S)-メタコリンと(+)-ムスカリンの立体構造を決定した。

 TRNOE法は巨大なタンパク質(MW≫1,000Da)に結合した小さなリガンド(MW≪1,000Da)の構造解析に広く用いられており、定量的な立体構造解析には速い解離速度を必要とする。アセチルコリンは、受容体との結合親和性がそれほど高くなく(Kd=10-5〜10-4M)、TRNOEの測定に適した解離速度を持つが、その2組のメチレン基のそれぞれ2個のプロトンのNMRシグナルが分離せず、NMRを用いたコンフォメーション解析には適さない。一方、アセチルコリンのメチル化体である、(S)-メタコリンは、アセチルコリンと同等の解離速度及びGタンパク質活性化能を保持し、それぞれのプロトンが独立したNMRシグナルを与えるため、NMR/TRNOEを用いた立体配座解析に適している。そこで、我々は、まず、受容体と結合した(S)-メタコリンの立体構造、特にCα-Cβ間の内部回転角をTRNOEを用いて解析することにした。

 TRNOE測定に用いたムスカリン受容体M2サブタイプには、1)N末端の糖鎖付加部位の除去、2)加水分解を受け易い第3細胞内ループ中央部の除去、3)C末端へのヒスチジンタグ(hexa histidine tag)の付加、の3点につき変異を加えた。ムスカリン受容体は生体内の組織・器官に微量にしか発現していないので、我々は、Sf9/baculovirusの系を用いて受容体の大量発現を行った。ウイルスの感染多重度、感染時間、培地中の糖、溶存酸素の濃度を調節することにより、定常的にリットルあたり1mgのムスカリン受容体を得る事ができた。精製はABT-agarose affinity column、ヒドロキシルアパタイト、ゲル濾過カラムを用いて行った。最終的に50μMのムスカリン受容体、その30倍濃度である1.5mMの(S)-メタコリン、そして1.5mg/mlのアゾレクチンを含んだ溶液を調製した。

 NMR試料溶液のNOESY(TRNOE)スペクトルの測定は、Bruker社のARX600MHz NMR装置で行った。NOESYスペクトル上にあるTRNOEクロスピークは、空間的に近い距離(<5Å)にある1H(プロトン)同士を見い出している。また、それぞれのTRNOEシグナルの強度は、対応するプロトン間の距離の6乗分の1と比例関係にあることから、TRNOEを検出することで、その立体構造を求めることができる。そこで、まず、上記で調製した試料溶液でTRNOEを測定した。

 スペクトル上には、受容体(タンパク質)のbroadな負のNOEとともに、受容体結合時の(S)-メタコリンのTRNOE(強い負のNOE)が観測された。次に、同じ試料溶液に親和性がより強いatropine(antagonist)を追加すると、(S)-メタコリンのTRNOEクロスピークは、受容体への競合的阻害によりほとんど消失した。これは、TRNOEピークが受容体のリガンド結合部位に結合した(S)-メタコリンの立体構造を反映していることを示している。従って、両者の差スペクトルが結合状態の立体構造を定量的に反映する真のTRNOEクロスピークを与えることになる。そこで、その差スペクトルからTRNOEクロスピークを抽出し、それらの相対的なNOE強度を比較することで、(S)-メタコリンの立体構造を検討した。得られたNOE強度にはいくつか矛盾するものがあった。つまり、Hβ/Hα2間のNOE強度は、Hβ/Hα1間のNOE強度とほぼ同等であり、かつ、βMe/Hα2間のNOE強度とβMe/Hα1間のNOE強度もほぼ同等であった。そのような立体配座は存在していないことから、spin diffusion由来の間接的NOEがスペクトルに影響を与えていることが示唆された。そこで、そのspin diffusion由来の間接的NOEを除去する目的で、NOEの混合時間(mixing time)をより短くしてTRNOEの測定を行った。また、trROESYスペクトル上で、間接的なtrROEは正(対角ピークと同じ方向)となることから、試料溶液のtrROESYスペクトルを測定し、間接的trROEの検出を行った。

 混合時間を150ミリ秒から50ミリ秒に短くしてTRNOEを測定することで、Hβ/Hα2間のNOE強度は、Hβ/Hα1間のNOE強度よりかなり小さくなった。また、trROESYスペクトルを測定すると、Hβ/Hα2間のtrROEは対角ピークと同じ方向に出ることから、このNOEはspin diffusion由来の間接的NOEであることがわかった。更に詳細なTRNOEスペクトル(mixing time=50ms)の解析から、Hβ/Hα2間のNOE強度がHβ/Hα1間のNOE強度に比べ弱いこと、βMe/Hα2間のNOE強度とβMe/Hα1間のNOE強度がほぼ同等であることが分かり、ムスカリン受容体結合時の(S)-メタコリンの立体配座は、二面角N-Cα一Cβ-Oが約60°のgauche型であると決定した。この立体配座は、溶液中の(S)-メタコリンの立体配座(二面角N-Cα-Cβ-Oが90°)が約30°回転したものであった。

 次に、ムスカリン受容体に結合した(S)-メタコリンの立体構造を確認するため、(+)-ムスカリン(2S,3R,5S)の受容体結合時の立体配座解析を行った。ムスカリンは、受容体との親和性および解離定数がアセチルコリンや(S)-メタコリンと同程度である。また、化学構造はアセチルコリンとよく似ているが、よりrigidであることから、得られるTRNOEの情報は多い。そこで、(S)-メタコリンと同様の測定を行い、ムスカリンの水溶液中および受容体結合時の立体構造を求めた。溶液中のムスカリンの立体配座は、二面角N-Cα-Cβ-Oが約90°のgauche型に近い配座であるという結果を得た。また、ムスカリン受容体結合時は、二面角N-Cα-Cβ-Oが約60°±10°のgauche型であることが予想され、(S)-メタコリンの時と同様、溶液中の(+)-ムスカリン(2S,3R,5S)の立体配座(二面角N-Cα-Cβ-Oが90°)が約30°回転したものであった。

 以上の結果から、(S)-メタコリンと(+)-ムスカリン(2S,3R,5S)の二面角N-Cα-Cβ-Oは、受容体に結合することにより、溶液中の90°から約60°に移行することがわかった。結合型のリガンドの立体配座はムスカリン作用を引き起こすと予測されているtranf型のものとは異なる事がわかった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は7回膜貫通型Gタンパク質共役受容体であるムスカリン性アセチルコリン受容体(ムスカリン受容体)に結合したムスカリンリガンドのNMR構造をNMRを用いて調べたものである。

 アセチルコリン(CH3COO-CH2-CH2-N+(CH3)3)は神経伝達物質として同定された最初の物質である。アセチルコリンの結晶構造は1960年代X線構造解析により決定され、N-C-C-Oの二面角がgauche型をとる事がわかっている。一方、このC-Cと結合の分子内回転を抑制したアセチルコリンアナログを用いた実験から、ムスカリン受容体に作用するリガンドはtrans型の構造を持つことが推測された。これから、ムスカリン受容体に結合したアセチルコリンはtrans型を取るものと考えられてきたが、その直接的証拠はなかった。本論文では、TRNOE(Transferred Nuclear Overhauser Effect)法を用いて、ムスカリン受容体M2サブタイプに結合したムスカリン性リガンド、メタコリンとムスカリンの構造を決定したものである。

 アセチルコリンはNMRスペクトル上で4つのメチレンプロトンのシグナルが分離せず、NMR情報のみから構造を決定する事ができない。そこで、NMRスペクトル上でシグナルが分離するメタコリン(βメチルアセチルコリン)とムスカリンが選ばれた。また、TRNOEの測定には受容体との結合親和性があまり高くない必要がある(Kd=10-5〜10-4)。メタコリンとムスカリンについて、受容体への結合活性を調べ、解離定数がTRNOEの測定可能範囲に納まっている事が確認された。また、受容体本来の活性であるGタンパク質の活性化をアセチルコリンと同等に誘導する事も確認された。

 TRNOEの測定を行うには50μM程度の濃度の受容体が必要である。ムスカリン受容体のような膜タンパク質は一般に大量発現が困難である。種々の発現系を検討した結果、昆虫培養細胞Sf9とbaculovirusを用いた系を改良する事により、1リットルの培養液中に約1mgのムスカリン受容体を定常的に発現させることが可能になった。ムスカリン受容体を発現する膜画分を単離し、ジギトニンにより可溶化し、ABT(Aminobenztropine)を用いたligand affinity columnで受容体を精製した。さらに、NMR上におけるジギトニン由来の非特異的シグナルの消去のため、コール酸ナトリウムによるジギトニンの置換を行った。

 上記の様に精製したムスカリン受容体に30倍量(モル比)のリガンドを混合して測定を行い、TRNOEのシグナルを二次元スペクトル上で得た。また、ROESY(Rotating-frame Nuclear Overhauser Effect Spectroscopy)の測定を行い、間接的NOEの寄与を調べた。それらの結果から、ムスカリン受容体に結合したメタコリンの構造はN-C-C-Oの二面角が60°のgauche型である事がわかった。また、ムスカリン受容体に結合したムスカリンの構造もメタコリンと同様の測定を行う事により、gaucheである事がわかった。これは、transという当初の予想とはまったく異なる結果であった。

 2つの点が考察された。1つは、回転が制限された化合物の2つの異性体は、アセチルコリン、メタコリン、ムスカリンなど回転自由度を持つ化合物のtrans型とgauche型に必ずしも対応しない可能性である。他の1つは、受容体に結合したムスカリン性リガンドはgauche型とtrans型両方の構造を取る可能性である。Gタンパク質と再構成したムスカリン受容体はアゴニストに対し高親和性と低親和性を示す。GTPまたはGDP存在時には低親和性で、グアニンヌクレオチド不在下では高親和性である。Gタンパク質の結合しない受容体が低親和性、グアニンヌクレオチドフリーのGタンパク質と受容体の複合体が高親和性と考えられる。

今回のgauche型という結果は、Gタンパク質フリーの受容体と結合したリガンドの構造である。Gタンパク質・受容体複合体に結合したリガンドはtrans型を取るという可能性が考えられる。グアニンヌクレオチドフリーGタンパク質とアゴニスト結合受容体の複合体は、受容体がGタンパク質に作用する際の遷移状態と考えられる。リガンドがgaucheからtransに構造変化するのと同時に受容体の構造変化が起こるという仮説が考えられる。

 以上本論文は、ムスカリン受容体とリガンドの相互作用について、リガンドの構造という観点から新しい知見を提供すると共に、検証可能な新たな作業仮説を提案している。また、本申請は、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分なものと判断される。よって、博士(理学)の学位に値するものと認められる。

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