学位論文要旨



No 115972
著者(漢字) 藤木,友紀
著者(英字)
著者(カナ) フジキ,ユウキ
標題(和) 植物の糖飢餓への応答機構:分岐鎖アミノ酸代謝酵素の発現調節の解析
標題(洋) Studies on the sugar-regulated expression of genes for branched-chain α-keto acid dehydrogenase:signaling pathways to the gene expression under sugar starvation
報告番号 115972
報告番号 甲15972
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4016号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員  東京大学 助教授 西田,生郎
 東京大学 教授 黒岩,常祥
 東京大学 教授 東江,昭夫
 東京大学 教授 福田,裕穂
 東京大学 助教授 高橋,陽介
内容要旨 要旨を表示する

高等植物の生育は環境に極めて強く依存している。なかでも、光は光合成に必須なエネルギー源として植物の生存に重大な影響を及ぼしている。そのため光合成のできない環境に長期間置かれた植物は、なすすべもなく枯死せざるをえないと思われてきた。しかし、近年、当研究室を中心に緑葉で暗所特異的に発現する遺伝子が相次いで単離されたことにより、植物は暗所のような劣悪な光環境にも柔軟に対応する能力を備えているのではないかと考えられるようになった。

 私はシロイヌナズナの緑葉で暗黒条件特異的に発現する遺伝子の探索を試みる過程で、植物では初めてとなる、分岐鎖αケト酸脱水素酵素複合体(BCKDH:branched-chain α-ketoacid dehydrogenase)のE1β,E2サブユニットのcDNAクローニングを報告している(Fujiki et al., 2000)。動物のBCKDHは分岐鎖アミノ酸(Val,Leu,Ile)をエネルギー源として利用する代謝経路の鍵酵素としてよく知られている。私は、分岐鎖アミノ酸の代謝は光合成のできない環境下での植物の生存にとっても必須の機構ではないかと考え、本研究では糖飢餓に陥った細胞におけるBCKDHの生理的な機能とその発現制御を明らかにすることを試みた。

 糖飢餓特異的な遺伝子発現のシグナルとして、私は光合成能の低下による細胞内の糖レベルの低下に着目した。これまでにも糖は、光合成遺伝子群をはじめ、種子で発現しているアミラーゼや貯蔵蛋白質、塊茎のように特殊化したシンク器官での糖代謝に関わる酵素などの発現制御に、シグナル物質として働くことが報告されている。しかし、これらの研究はいずれも糖レベルの上昇をシグナルとして捉えたものであり、糖飢餓のような糖レベルの低下も異なるシグナルとして働きうるという視点に欠けていた。本研究ではBCKDHの発現調節の解析を通して、糖のシグナル物質としての新たな側面、すなわち糖飢餓応答性の遺伝子発現を支配する制御因子としての一面を明らかにすることができた。

結果と考察

1. BCKDHの糖飢餓応答性の発現

暗所に置かれたシロイヌナズナ緑葉でのBCKDHの発現を、転写産物、タンパク質の蓄積(図1)、さらに酵素活性の上昇によって確認した。これらの結果から、暗所で光合成による糖の供給が絶たれた細胞では、分岐鎖アミノ酸代謝の鍵酵素であるBCKDHの働きによって、分岐鎖アミノ酸を糖に替わるエネルギー源として利用している様子がより鮮明になった。

 このように暗所特異的な遺伝子発現は糖飢餓と密接に関わった現象であり、その発現制御には糖がシグナルとして用いられている可能性が考えられた。そこで、糖飢餓と遺伝子発現の関係をより直接的に捉える簡便な実験系として、シロイヌナズナの培養細胞T87に注目した。対数増殖期のT87細胞をショ糖を含まない培地に移すと、BCKDHの各サブユニット遺伝子の転写産物、タンパク質の著しい蓄積が観察された(図2)。このように本葉組織だけでなく培養細胞の系でもBCKDHが糖飢餓応答性の発現を示すことが分かったので、T87を糖飢餓研究のモデル系としてさらに研究を進めた。

2. 糖によるBCKDHの発現制御

グルコースアナログに対する遺伝子発現の応答の違いから、植物の糖シグナリングには少なくとも3つの経路があると考えられている(Smeekens,2000)。BCKDHの発現についてみると、ヘキソキナーゼによるリン酸化は受けるが解糖系までは代謝されにくい2-デオキシグルコースでも、抑制のシグナルとして十分であったのに対し、ヘキソキナーゼの基質とならない3-0-メチルグルコースでは発現の抑制が見られなかった(図3)。この結果は、ヘキソースをリン酸化する反応自体が糖シグナリングに重要なのであって、下流の代謝産物は発現の抑制には必要でないことを意味している。すなわちBCKDHの糖による発現の抑制には、3つのシグナリング経路のうち、ヘキソキナーゼを介した糖シグナリングが関与している可能性が高いと考えられる。

 ヘキソキナーゼのシグナリングは糖の存在を感知するシステムである。では、糖飢餓のシグナルはどのように伝わるのだろうか。蛋白質合成の阻害剤であるシクロヘキシミドの添加により、BCKDHの糖飢餓応答性の転写産物の蓄積が阻害された。このことは、糖飢餓による発現の誘導には、単にヘキソキナーゼを介した糖による抑制が解除されるだけでなく、新規の蛋白合成を必要とする複雑なシステムが必要であることを示している。以下に示すように、このような糖飢餓のシグナリングにはプロテインキナーゼ、プロテインフォスファターゼが関与していることが示唆された。

 Ser/Thrプロテインキナーゼの阻害剤であるK-252aにより、BCKDHの糖飢餓応答性の発現は阻害された。逆にプロテインフォスファターゼ(PP1,PP2A)の阻害剤であるオカダ酸を投与することにより、糖除去時の転写産物レベルが増加した(図4)。これらの阻害剤は糖による発現の抑制には影響を与えなかった。以上の結果は、糖による発現調節にはヘキソキナーゼを介した糖による発現抑制とは独立に、糖飢餓特異的なタンパク質のリン酸化脱リン酸化による制御が働いていることを示唆している。

 さらに、シロイヌナズナ緑葉の暗所特異的な遺伝子(din遺伝子群)や、糖による発現抑制を受けることが知られている様々な遺伝子についても同様の実験を行った結果、多くの遺伝子がヘキソキナーゼを介した糖による発現抑制を受ける一方、糖飢餓応答性の発現に関しては異なるプロテインキナーゼ、プロテインフォスファターゼが関与する複数のシグナリング経路があることも明らかになってきた。

3. BCKDHの糖飢餓応答性の発現制御に関与するシス配列の特定

グルコースアナログや阻害剤の利用により、BCKDHの発現制御に関わるシグナリングの一端が明らかになったので、糖のシグナルがどのように遺伝子の転写機構に伝えられるのかが、次の課題となった。そこでBCKDHサブユニット遺伝子のプロモーター解析を通して、糖飢餓応答性の発現制御の実体に迫りたいと考えた。まず、インバースPCR法によってE1β,E2の5'上流のプロモーター領域をシロイヌナズナゲノムからクローニングし、ルシフェラーゼ(LUC)遺伝子をつないだ融合遺伝子をタバコ培養細胞BY-2に導入して形質転換体を作出した。培養液からショ糖を抜いて細胞を飢餓状態にするとLUC活性が上昇し、これらのプロモーター活性が糖飢餓応答性を示すことが分かった(図5)。この糖飢餓特異的なLUC活性の増加はK-252aによって阻害され、オカダ酸によって促進された(図6)。糖飢餓の情報はリン酸化脱リン酸化を介して、確かにプロモーター上の転写機構に伝えられていると考えられる。

 次にE1β,E2の5'欠失型のプロモーターにLUCを融合させてBY-2へ導入し、ショ糖を除去した際のLUC活性の上昇をもたらすのに必要なプロモーター領域を探った。その結果、E2プロモーターでは-184から-92の間に糖飢餓応答性の発現に必要な領域があると予想された(図7A)。この-184から-92の93bpの領域のみでも、CaMV-35Sのプロモーター断片(TATA配列)に糖飢餓特異的な活性を賦与できた。そこで、この区間を5'から更に段階的に削ったところ、-159から-140bp(3-6B領域)および-113から-103bp(3-6E領域)の二カ所に、発現の誘導に必要なシス配列が含まれると予想された(図7B)。ゲルシフト解析によって、それぞれの配列に特異的に結合するタンパク質が存在することも明らかになっている(図8)。この2つの領域にはTGATGTからなる6bpの配列が共通して含まれており、この配列に変異を導入するとE2の発現制御に異常を来すことを確認している。さらに、5'欠失型のプロモーター解析から糖飢餓応答性の発現制御に関与すると予想されたE1βのプロモーター領域中にも、3-6E領域のTGATGTを含む13bpの配列が完全に保存されていた。 この13bpを破壊したE1β,E2プロモーターは糖飢餓応答性の発現を示すことができない。以上の結果から、この配列はBCKDHの各サブユニットの遺伝子を、糖飢餓の際に協調的に発現させる機構に関与している可能性が高いと考えられる。さらに、他の暗所特異的な遺伝子群のプロモーター中にも、TGATGTを核として類似した配列が存在していた(図9)。この配列は、光合成の遺伝子やαアミラーゼで報告されている糖応答性のシス配列とは明らかに異なっており、暗所応答性の遺伝子群に特異的に働く糖飢餓シグナリングが存在していることも考えられる。今後、このシス配列を介したシグナリングの解明によって、緑葉における糖飢餓への応答機構の理解が進むことが期待できる。

図1 暗所に置かれた緑茶でのBCKDHの発現

 シロイヌナズナの緑葉を暗所に移したときの、BCKDHの各サブユニットの転写産物とE2タンパクの蓄積をそれぞれRNAゲルブロット(A)、イムノブロット(B)法で経時的に観察した。

図2 BCKDHの糖飢餓応答性の発見

 シロイヌナズナの培養細胞T87をショ糖を除去した培地に移したときの、BCKDH各サブユニットの転写産物とE2タンパクの蓄積をそれぞれRNAゲルブロット(A)、イムノブロット(B)法で経時的に観察した。

図3 グルコースアナログの効果

 細胞を2%ショ糖を含む培地(1)、糖を含まない培地 (2)、10mMグルコース(3)、0.5mM2-デオキシグルコース(4)、10mM3-0-メチルグルコース(5)を含む培地中で12時間培養を行った。

図4 プロテインキナーゼ、プロテインフォスファターゼの阻害剤の効果

 細胞をプロテインフォスファターゼ(PP1、2A)の阻害剤オカダ酸1μM(O)、セリンスレオニンプロテインキナーゼの阻害剤K-252a 4μM(K)、チロシンヒスチジンプロテインキナーゼの阻害剤ゲニスタイン75μM(G)の存在下、および阻害剤の非存在下(C)で12時問培養を行った。

図5 E1β,E2サブユニットのプロモーター活性の糖飢餓応答性

 E1β,E2プロモーターおよびコントロールとしてCaMV-35Sプロモーターとルシフェラーゼのキメラ遺伝子を導入した形質転換BY-2をショ糖を除去した培地に移し、ルシフェラーゼ活性の変化を経時的に測定した。

図6 E2プロモーターの活性に対するプロテインキナーゼ、プロテインフォスファターゼの阻害剤の効果

 E2-LUCの形質転換BY-2を、0.05%のDMSO(D)、0.3μMのオカダ酸(O)、1μMのK-252a(K)の存在下で12時間培養を行い、ルシフェラーゼ活性を測定した。

図7 E2の5'欠失型プロモーターの糖飢餓応答性

A,E2の5'欠失型プロモーターにルシフェラーゼをつないだ融合遺伝子をBY-2に導入して形質転換体を作出した。各形質転検体をショ糖を含む培地(+Suc)、または糖を除去した培地(-Suc)中で14時間培養し、ルシフェラーゼ活性を測定した。B,E2プロモーターの-184から-92の領域でさらに5'欠失型プロモーターを作製し、同様の解析を行った。

図8 ゲルシフトアッセイによるE2プロモーター

 BY-2を、ショ糖を除いた培地で16時間培養を行い、核蛋白質を描出した。3-6B、3-E領域それぞれについて、DNA-タンパク質の複合体が形成された(2)。過剰量の非標識ヌクレオチドを特異的な競合体として加えると複合体の形成が阻害された(3)。TGATGTを含む領域に変異を導入した3-6B-MUT,3-6E-MUTをそれぞれ非特異的な競合体として用いた(4)。プローブのみのコントロールを(1)に示した。

図9 BCKDHの糖飢餓特異的な発現制御に関与するシス配列

E1β,E2それぞれの糖飢餓応答性のシス領域中で、完金に一致する13bpの配列を示した(Elβの-187から-175、E2の3-6E領域中の-112から-100)。さらに他の暗所応答性の遺伝子群のプロモーター中にもTGATGTの配列を中心に相同性の高い配列が見つかった。Elβ,E2で保存された13bpの配列と同一の塩基を*で、各遺伝子間で保存されていると予想される配列(Consensus)を赤字で示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、分岐鎖アミノ酸の代謝および、その代謝の鍵酵素遺伝子の発現制御に注目し、植物の糖飢餓に対する応答機構を、生化学、分子生物学の両面から考察している。

 高等植物の生育は環境に強く依存している。なかでも、光は光合成に必須なエネルギー源として植物の生存に重大な影響を及ぼしている。そのため光合成のできない環境に長期問置かれた植物は、なすすべもなく枯死せざるをえないと思われてきた。しかし、論文提出者は、分岐鎖αケト酸脱水素酵素複合体(BCKDH:branched-chain a-ketoacid dehydrogenase)のサブユニット遺伝子に注目し、分岐鎖アミノ酸の代謝などを通して、植物が暗所のような劣悪な光環境にも柔軟に対応する能力を備えているのではないかという仮説を提唱している。本論文は以下の4つの章からなり、糖飢餓に陥った細胞におけるBCKDHの生理的な機能とその発現制御を通して、植物が生育環境の悪化に応答する機構について解析を行っている。

1.BCKDHの糖飢餓応答性の発現

暗所に置かれたシロイヌナズナ緑葉でのBCKDHの発現を、転写産物、タンパク質の蓄積、さらに酵素活性の上昇によって示している。これらの結果は、暗所で光合成による糖の供給が絶たれた細胞では、分岐鎖アミノ酸代謝の鍵酵素であるBCKDHの働きによって、分岐鎖アミノ酸を糖に替わるエネルギー源として利用していることを示唆している。

 さらに糖飢餓と遺伝子発現の関係を直接的に捉える簡便な実験系として、シロイヌナズナの培養細胞丁87に注目している。T87細胞をショ糖を含まない培地に移すと、BCKDHの各サブユニット遺伝子の転写産物、タンパク質の蓄積が起こることを示し、T87の糖飢餓研究のモデル系としての有用性を明かにしている。

2.BCKDHの発現制御に関わる糖シグナリングの解明

 2章では、糖のアナログや阻害剤を用いて、BCKDHの糖飢餓のシグナリングに関する詳細な解析を行っている。

 BCKDHの発現は、2-デオキシグルコースによって抑制されるが、ヘキソキナーゼの基質とならない3-0-メチルグルコースでは抑制されず、発現制御にヘキソキナーゼを介した糖シグナリングが関与している可能性を示唆している。

 次に蛋白質合成の阻害剤であるシクロヘキシミドの添加により、BCKDHの糖飢餓応答性の転写産物の蓄積が阻害されることを示し、糖飢餓による発現の誘導には、新規の蛋白合成を必要とする複雑なシステムが必要である可能性を指摘している。さらに、プロテインキナーゼ、プロテインフォスファアターゼの阻害剤を利用し、BCKDHの発現調節には糖飢餓特異的なタンパク質のリン酸化脱リン酸化による制御が働いていることを明らかにしている。

3.BCKDHの転写活性化をもたらす糖飢餓のシグナリング

 次に糖飢餓のシグナルがどのように遺伝子の転写機構に伝えられるかという課題に取り組んでいる。

3章では、BCKDHのE1β,E2サブユニットの5'上流のプロモーター領域をクローニングし、ルシフェラーゼ(LUC)遺伝子との融合遺伝子をタバコ培養細胞BY-2に導入して形質転換体を作出している。培養液からショ糖を除去するとLUC活性が上昇し、糖飢餓のシグナルが実際にプロモーター活性、すなわち転写の活性化を導くことを示している。さらに糖飢餓特異的なLUC活性の増加はK-252aによって阻害され、オカダ酸によって促進されることを示し、糖飢餓の情報はリン酸化脱リン酸化を介して、確かにプロモーター上の転写機構に伝えられていると論じている。

4.BCKDHの糖飢餓応答性の発現制御に関与するシス配列の特定

 次にE1β,E2の5,欠失型のプロモーターにLUCを融合させてBY-2へ導入し、糖飢餓応答性の遺伝子発現に必要なシス領域を探っている。一連の5'欠失型のプロモーター解析から、E2プロモーターでは-159から-140bpおよび-113から-103bpの二カ所に、発現の誘導に必要なシス配列が含まれると推察している。この2つの領域にはTGATGTからなる6bpの配列が共通して含まれており、BCKDHの各サブユニットの遺伝子を、糖飢餓の際に協調的に発現させる機構に関与している可能性が高いと述べられている。

これまでにも糖は、様々な遺伝子の発現制御に、シグナル物質として働くことが報告されている。しかし、従来の研究はいずれも糖レベルの上昇をシグナルとして捉えたものであり、糖飢餓のような糖レベルの低下も異なるシグナルとして働きうるという視点に欠けていた。本論文ではBCKDHの発現調節の解析を通して、糖のシグナル物質としての新たな側面、すなわち糖飢餓応答性の遺伝子発現を支配する制御因子としての一面が明らかにされている。論文提出者によって提示された糖飢餓シグナリングは、緑葉における糖飢餓への応答機構を理解するうえで極めて重要で新規な知見を与えるものであった。

 本論文は渡邊昭(物故)・西田生郎・伊藤正樹・佐藤(旧姓 山下)篤行との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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