No | 115987 | |
著者(漢字) | 松岡,朋子 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | マツオカ,トモコ | |
標題(和) | カイコ無翅突然変異体flugellosにおける羽形成の分子機構 | |
標題(洋) | Molecular Mechanism of Wing Development in the Wingless Mutant (flugellos)of the Silkworm, Bombyx mori | |
報告番号 | 115987 | |
報告番号 | 甲15987 | |
学位授与日 | 2001.03.29 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第4031号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 生物科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 昆虫の変態は、幼虫から成虫への生活スタイルの変化に伴う体制の転換現象である。変態期には幼虫組織の退化・神経系の再構築など様々な現象が見られるが、中でも翅の劇的な変化は古くから注目されてきた。翅原基は幼虫期には胸部体節に小さな袋状の扁平な組織として存在し、終齢幼虫期から蛹期にかけて、体内のホルモン濃度の変化に伴って急激に形態が変化する。ショウジョウバエでは、体全体のパターン形成に関わる遺伝子の多くが翅の形態に異常をきたす突然変異として発見された経緯があり、翅形成の機構は発生遺伝学的研究の格好の対象となってきた。しかし、位置情報を担う遺伝子群が変態期にホルモンとどのように関わって形態形成を行うのか、その分子機構はほとんど未解明のまま残されている。また、昆虫の変態を促す脱皮ホルモン(エクダイソン)が種々の遺伝子の転写を誘導する経路については、情報伝達に関わる数多くの核内レセプターが単離されつつあるが(図1)、その複雑な遺伝子のネットワークが組織特異的な変化を引き起こすメカニズムの詳細はわかっていない。 カイコの無翅突然変異体flugellos(fl)は、4齢幼虫時まではほぼ正常な形態の翅原基を持つが、5齢(終齢)で原基の伸長、翅脈の形成といった分化が進行せず、蛹と成虫で無翅となる。しかし、他の組織に関しては野生型(WT)と形態的に大きな違いは見られないため、flでは変態時に翅だけで形態形成の進行が阻害されると考えられる。本研究の目的はflとWTの幼虫の翅原基での遺伝子発現を体系的に比較することによって、変態期の翅形成の分子機構を解明することである。 まず第1部では、WTとflの翅原基の培養実験を行い、エクダイソンによって誘導される遺伝子群の発現を定量的に比較し、flで発現量が低下する遺伝子を解析した。第2部では、WTとflの翅原基でmRNAディファレンシャル・ディスプレイ法を行い、flにおいて異常な発現パターンを示す遺伝子を探索した。得られた遺伝子群の中で、特にflで全く発現が見られない新規アネキシン遺伝子(アネキシンFと命名)がflの原因遺伝子そのものであるという可能性が考えられたため、第3部ではその検証を試みた。 第1部 fl翅原基におけるエクダイソン応答性遺伝子群の発現解析 これまでの研究によって、ホルモンのような体液性因子がflの翅の異常の原因ではないこと、fl翅原基をエクダイソンを含む溶液中で培養してもWTのような形態変化が起こらないことが示されていた。従って、flの翅原基はエクダイソンに対する応答性を失っているのではないかと想定された。この仮説を実証するために、エクダイソンレセプター(EcR)を始め、段階的に発現していくearly gene、early-late geneと呼ばれる転写因子、また、最終的に誘導される作動遺伝子、late geneの発現量を定量的RT-PCRによってWTとflで比較した。 エクダイソンの影響を直接、同条件で比較するために、5齢初期のWTとflのカイコから翅原基を単離し、エクダイソンの濃度を変化させたGrace's medium中で培養した。その結果、エクダイソンレセプターの構成成分であるEcRやUSP、比較的早い段階で誘導されるE75といった、転写活性化経路の上流の転写因子の発現量はfl翅原基においてもほぼ正常だった。これに対して、early-late geneであるBHR3、late geneに属するUrbainは、flではWTと比較して有意に発現量が低下していた(図2)。BHR3、はショウジョウバエの核内レセプター、DHR3のオーソロガス遺伝子である。ショウジョウバエではDHR3がEcRの負のフィードバック制御を行うという報告があり(図1)、flでもBHR3の低下に起因すると思われるEcR-B1の高発現が観察された。また、Urbainは高濃度のエクダイソンによって誘導され、翅特異的な発現を示すことから翅の形成に関わる作動遺伝子だと考えられている。 さらに、アクチンを含む4種類のハウスキーピング遺伝子は刀においても正常に発現しており、flの翅原基では組織崩壊などによって遺伝子発現が全体的に抑制されているのではなく、BHR3・Urbainの発現量が特異的に低下していることが明らかになった。in vivoの翅原基でも同様の結果が得られたが、同じステージの脂肪体・精巣を用いたノーザンブロッティングでは、BHR3はflの組織においても正常に発現していた。以上の結果から、flの翅原基ではエクダイソンによる情報伝達系の上流ではなく、early-late gene以降の遺伝子発現に異常があり、しかもそれが翅原基特異的であるため、翅の欠損という表現形に結びついたと考えられる。 第2部 flの翅原基で発現に異常をきたしている遺伝子の探索 第1部では、flにおける遺伝子発現の低下が翅原基特異的であることが示された。このような異常は、fl遺伝子の機能欠損のために引き起こされたと考えられる。そこでfl翅原基で発現パターンが異常になっている遺伝子を解析することによって変態期の翅の分化に関わる遺伝子を探索するとともに、fl遺伝子自体の機能を知る手かがりを得ようと考えた。5齢初期から前蛹期のWTとflの翅原基を用いてmRNAディファレンシャル・ディスプレイ法を行った。発現量に差の見られた10本のバンドを解析した結果、flの翅原基では、成虫原基の細胞増殖制御に関わると考えられているribosome-associated protein P40や、5齢期に翅原基特異的に発現する未知遺伝子などが過剰発現していることが明らかになった。特にP40は、WTでは4齢・5齢期を通してほぼ一定に発現しているのに対し、fl翅原基では前蛹期0日目にWTの10倍以上の鋭いピークが見られる。P40の過剰発現は翅原基の増殖を抑制すると考えられるので、この発現パターンはflの翅原基における細胞分裂の減少とよく合致するものである。また、細胞外マトリクスの成分であるクチクラタンパク質、LCP18も蛹化直前に過剰に発現していたflで発現量が増加するのは翅原基の形態異常によると考えられるが、LCP18は皮膚では幼虫脱皮時に発現する遺伝子として知られており、組織によって転写調節の異なる例として興味深い。さらに、flで発現量が低下している遺伝子を検索する過程で、Ca2+/リン脂質結合タンパク質・アネキシンの一種と考えられる遺伝子が刀の翅原基で全く発現していないことを発見した。この新規に発見されたアネキシン(アネキシンF)は翅で他の組織よりも強く発現しており、翅の形成に重要な働きを持つことが推測される。 第3部 flの原因遺伝子としてのアネキシンFの解析 アネキシンファミリーは10種類以上のメンバーからなり、植物から哺乳類に至るまで広く分布している。膜輸送、細胞増殖、アポトーシスなど、様々な生理現象とアネキシンとの関連が示唆されているが、生体内における正確な役割についてはほとんど知られていない。第2部で得られたアネキシンFは、N末端にこれまでに報告されているアネキシンには見られない特徴的なリピート構造を持つことから、新規のメンバーであると考えられる(図3)。 アネキシンFにはN末端の長さの異なる2つのアイソフォームが存在し、翅では両方が同程度発現するが脂肪体では短いアイソフォームが強く発現するなどの違いが見られた。アネキシンF遺伝子の様々な部位をプローブとしてWTとflでサザンハイブリダイゼーションを行い、flホモ個体のゲノム上では全領域が欠失していることを確認した。また、fl遺伝子は第10染色体13.0にマップされているが、この染色体上の9個のDNAマーカーについて45個体のF2 intercrossを用いた連鎖解析を行ったところ、うち一つがアネキシンFと連鎖した。すなわち、アネキシンFはfl遺伝子と同じ染色体にあり、2つが同一の遺伝子である可能性が強まった。さらに、ここまでflとして用いていたが系統ではなく、同じ遺伝子座位にあることがわかっているfl,fln系統についてアネキシンF遺伝子を調べたところ、N末端領域にアミノ酸置換が見られた。これらの結果はアネキシンFがfj遺伝子そのものである可能性を強く示唆する。 以上に示した一連の結果から、flの翅原基ではアネキシンFの機能欠損がエクダイソンによる転写誘導経路の阻害、さらに細胞増殖制御の異常を引き起こしたと考えられる。アネキシンF自体にはエクダイソン応答性は見られなかったが、今後の研究の進展によって、Ca2+による情報伝達経路とエクダイソンとの接点など、形態形成の分子機構に新たなカテゴリーを加えるものと期待される。 図1 ショウジョウバエにおけるエクダイソンによる転写誘導カスケードのモデル 図2 翅原基におけるエクダイソンによる転写誘導。5齢2日目の翅原基をエクダイソン(20E)存在下で培養し、mRNAを定量的RT-PCRによって測定した。(N=4-5) 図3 アネキシンFの構造(上)とアネキシンファミリーのドメイン構造(下)。(上)網掛けはリピート構造内の保存されたアミノ酸を示す。枠内はlong-isoform特異的配列。(下)灰色のボックスはCa2+結合部位を持つC末端リピートの単位、白いボックスはアネキシンFに特異的なN末端リピートの単位を表す。 | |
審査要旨 | 本論文は3章からなり、第1章ではカイコ無翅突然変異体flの翅原基におけるエクダイソン応答性遺伝子の発現異常を明らかにし、第2章ではfl翅原基で異常発現する遺伝子を網羅的に解析している。さらに第3章では新規アネキシン遺伝子(アネキシンF)がflの原因遺伝子であるという可能性を検証している。 完全変態昆虫においては、終齢幼虫期に体内のホルモン(エクダイソン)濃度の変化に伴って翅原基の形態が急激に変化する。flの劣性ホモ個体は4齢幼虫時まではほぼ正常な形態の翅原基を持つが、5齢(終齢)で原基の分化が進行せず、蛹と成虫で無翅となる。また、他の組織に関しては野生型(WT)と形態的に大きな違いは見られない。論文提出者は、flという変異体が変態時の翅特異的な遺伝子発現の解析に好適な材料であると考えた。 これまでの研究によって、fl体液中のエクダイソン濃度は正常であり、翅原基のエクダイソン応答が異常なのではないかと示唆されていたそこで、第1章ではエクダイソン応答性遺伝子群の発現量を定量的RT-PCRによってWTとflで比較した。その結果、エクダイソン受容体を構成するEcRやUSPなど、転写活性化経路の上流の転写因子がfl翅原基においてほぼ正常に発現していることが確認された。これに対して、昆虫ではエクダイソンによる転写誘導の要として知られる核内受容体・BHR3や、翅の表皮部分の形成に関わるUrbainは、flでは有意に発現量が低下していることが示された。また、flにおけるBHR3の発現抑制は翅原基だけで見られる現象であることが示された。従って、flの翅原基では、エクダイソンによる情報伝達系の上流ではなく比較的下流の遺伝子発現に異常があり、しかもそれが翅原基特異的であるため、翅の欠損という表現形に結びついたと結論づけられた。 第2章では、fl翅原基で発現に異常を来している遺伝子を解析することによって、fl翅原基における異常の分子レベルの解析とfl原因遺伝子の機能を推測を試みている。ディファレンシャル・ディスプレイ法を用いてWTとflの翅原基のmRNAを比較した結果、flの翅原基では、成虫原基の発達に関わるribosome-associatedprotein P40や、いくつかの細胞外マトリクス成分が過剰発現していることが明らかになった。特にP40については、fl翅原基では前蛹期にWTの10倍以上の過剰発現が検出されている。P40は翅原基の増殖を抑制すると考えられているので、このことがflの翅原基の細胞増殖低下の原因ではないかと想定される。また、細胞外マトリクスの過剰発現はflの翅の形態異常を引き起こすと考えられる。一方、Ca2+/リン脂質結合タンパク質、アネキシンの一種と考えられる遺伝子は刀の翅原基で全く発現していないことが示された。このアネキシン(アネキシンF)は翅で他の組織よりも強く発現しており、翅の形成に重要な働きを持つことが推測された。 第3章ではアネキシンFに注目し、flの原因遺伝子である可能性について解析を行っている。まずアネキシンF遺伝子をプローブとしてサザンハイブリダイゼーションを行い、flのゲノム上ではこの遺伝子の全領域が欠失していることを確認したまた、fl遺伝子がマップされている第10連関群上のDNAマーカーとアネキシンFについて連鎖解析を行い、これらがすべて連鎖する、すなわち、アネキシンFはfl遺伝子と同じ染色体にあることを示した。さらに、ここまで用いていたflkではなく、他のallele(fl,fln)についてアネキシンF遺伝子を調べ、N末端領域にアミノ酸置換を発見した。これらの結果はアネキシンFがfl遺伝子そのものである可能性を強く示唆する。アネキシンファミリーは植物から哺乳類に至るまで広く存在しているが、生体内における正確な役割についてはほとんど知られていない。論文提出者はアネキシンFのN末端に見られる特徴的なリピート構造や系統解析の結果からこれまでに見つかっていない新規のアネキシンであると考え、アネキシンFがCa2+による情報伝達経路とエクダイソン応答カスケードとの接点になる可能性について考察している。 以上の結果から、flではアネキシンFの機能欠損が翅原基におけるエクダイソン応答性遺伝子や細胞外マトリクスの発現異常を引き起こし、変態期の翅形成を阻害したことが示唆された。 なお、本論文はすべて藤原晴彦との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行っており、その寄与が十分であると判断する。 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。 | |
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