学位論文要旨



No 116001
著者(漢字) 鯉渕,幸生
著者(英字)
著者(カナ) コイブチ,ユキオ
標題(和) 東京湾における物質循環機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 116001
報告番号 甲16001
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4838号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京大学 教授 玉井,信行
 東京大学 教授 渡邊,晃
 東京大学 教授 佐藤,愼司
 東京大学 助教授 佐々木,淳
内容要旨 要旨を表示する

 人口に比して狭あいで厳しい自然条件にさらされている沿岸域を安全で快適なものにしていくためには、広い観点からの社会基盤整備が重要である。これまでの海岸工学の成果として、沿岸域の防災に関する技術は十分に培われており、津波や高潮など自然災害によって人命が失われることは極めて稀になった。一方、経済発展に伴う急速な人口増加や工業化は海域の汚濁負荷を急増させ、特に内湾では、後背都市からの大量汚濁負荷の流入と、海水交換を制限する特徴的な構造のために汚濁物質が蓄積し、東京湾、伊勢湾、大阪湾などの日本の代表的な内湾では、慢性的な富栄養化が問題となっている。

 近年施行された環境影響評価法では、開発行為による環境への影響を事前に予測・評価することが義務づけられた。さらに海岸法改正においても、「防護」に加えて「環境」と「利用」が内部目的化された。四面を海に囲まれる我が国の今後の沿岸域開発・利用には、安全性の確保を必須とした上で、水質・生態系への配慮、良好な沿岸環境創造の推進とそれを支える技術開発が緊急課題となっている。

 富栄養化の進んだ内湾の水質に関する研究はこれまでにも多く行われてきており、各所において月1回程度の頻度で水質モニタリングが実施されている。このような研究の成果として、富栄養化に伴う植物プランクトンの異常増殖(赤潮)が春先に起こりやすいことや、夏季の沿岸漁業に大きな被害を与える青潮が、沈降した植物プランクトンの酸化分解で形成される貧酸素水塊の湧昇により発生する機構が明らかにされている。しかしながら環境影響評価や環境創造へ向けての我々の知識は大きく不足しており、たとえば、富栄養化の原因物質である栄養塩の変動メカニズムを理解するにも不十分な点がある。

 そこで本研究では、世界的にも著しく富栄養化の進行した東京湾における物質循環の把握を目的として、複数水質項目の多点連続測定を実施した。この観測では、赤潮や青潮など、個々の現象の相互関係を把握するために、富栄養化の原因物質である栄養塩の動態や、物質循環の中心である植物プランクトン変動メカニズムや溶存酸素量の変動を明らかにすることを試みた。さらに観測結果を集約することで3次元生態系モデルを開発し、観測した水質変動の再現計算を行った。これにより観測だけでは不足する物質フラックスや時空間変動などの情報を補い、湾内の物質循環機構に考察を加えた。

 観測は1999年4月から2000年11月まで、東京灯標・千葉灯標・京葉シーバースの3地点で実施した(図-1)。測定項目は3地点共通であり、植物プランクトンの指標であるクロロフィルa(Chl.a)・水温・塩分・溶存酸素・pH・水中光量子・栄養塩(NO3-N、NH4-N、NO2-N、PO4-P、SiO2-Si、T-N、T-P)の鉛直分布を計測した。

 図-2は1999年4月から10月の千葉灯標における観測結果である。水温(図-2A)は4月中旬から7月にかけて、急激な成層化と一様化を繰り返しつつ、上層では8月上旬に最高値を記録した。特に8月上旬から10月上句において比較的風が弱いため、この時期に成層が発達し上下の水温差も大きくなる。成層化が解消されるのは10月上旬以降である。上層の塩分は主に河川流入の影響を受けて変動し(図-2B)、特に7月中句および8月中句には、上層から下層にかけて急激に低塩分化した。一方、下層における塩分は北風に伴う沿岸湧昇時に高塩分化し、逆に南風時には表層水が湾奥に堆積するため低塩分化するなど、主に風に起因した湾内流動と対応している。Chl.aは春季の5月上旬に高濃度となり、平常時の約6倍まで増加するなど、数週間の周期で増減を繰り返し、水温や塩分とは変動傾向が大きく異なることが分かる(図-2C)。植物プランクトンの変動メカニズムを明らかにするため、水温・塩分など様々な環境因子に対するChl.aの応答について検討を行ったところ、日射量の変動と最も対応がよいことが分かった。また3地点ともにChl.aが類似した傾向であったことからも、栄養塩の豊富に存在する東京湾における一次生産の変動が、主に光制限となっていることが示唆された。

 次に植物プランクトンの増減と栄養塩との関係について検討を行った。その一例として観測期間中Chl.aが最高値を記録した、5月上旬の東京灯標におけるChl.a・日射・PO4-Pの時系列をそれぞれ図-3〜5に示す。この図から植物プランクトン増加が日射とよく対応していること、またChl.aの増加に対応して、中層から上層でPO4-Pが急減していることが分かる。一方、下層においてはChl.a増加と同時にPO4-P濃度が増加しており、上層と下層では傾向が逆になっていることが分かる。ところで下層におけるPO4-Pの急増は、Chl.aの増加より日射量と対応がよい。また5月1日〜7日には日射量が長期間高いレベルにあるにもかかわらずChl.aの増加が見られないが、この時期、密度差が小さく成層構造が弱いことが明らかになっており、日射の増加と伴に増殖した表層の植物プランクトンが沈降し、下層において分解されたと考えると、下層でのPO4-P濃度増加が日射と対応がよいことが説明できる。同様の検討を他の期間においても実施したところ、湾内における栄養塩が月1回程度の従来の観測では捉えられない小さい時間スケールで変動していること、局所的な河川水の影響の度合いや湧昇等の影響に違いがあるものの、大局的な変動は湾奥部でほぼ同様であることが明らかとなった。各栄養塩はそれぞれ変動特性が異なり、窒素に関しては、陸起源の負荷による過剰供給が、リンや珪素は、河口付近で迅速に吸着・沈降することもあり、リンでは溶出が、珪素では下層での分解がその変動に重要な役割を果たしていると考えられた。これらの栄養塩は河口から離れた地点の上層において枯渇し、植物プランクトンの増殖を制限している可能性が示唆されるなど、植物プランクトンの変動メカニズムやそれに伴う水質変動の相互関係が明らかになった。

 さらに本研究で明らかになった水質変動メカニズムを、内湾における水質予測や物質循環機構の解明へと発展させるために、σ座標系に基づく3次元流動モデルと水質モデルの開発を行い最終的にこれらを結合することで東京湾に適用した。モデルの開発においては、赤潮の発生や貧酸素水塊の形成、湧昇、崩壊、それに伴う栄養塩変動などを再現する必要がある。そこで計算結果と現地観測結果を比較し、モデルの時空間的な再現性について検討を行った。ここでは、千葉灯標における水温・塩分・Chl.aの計算結果を図-6に示す。水温の計算結果(図-6A)を観測結果(図-2A)と比較すると、日射に対応した水温上昇や、風による成層の崩壊・沿岸湧昇が適切に再現されていることが分かる。東京灯標・京葉シーバースにおける水温に関しても同様の高い再現結果を得ることができ、湾奥部の水温を時空間的に高い精度で再現することができた。同様に塩分の計算においても、下層での塩分上昇や上下一様化のタイミングなどが再現されているおり、本モデルが、吹送流や沿岸湧昇を忠実に再現していることを意味している。最後にChl.aの計算結果を図-6Cに示す。本モデルでは植物プランクトングループを特徴の異なる珪藻類および渦鞭毛藻類に大別してモデルを実施することで、植物プランクトンの再現を行った。ここでは観測値に併せるため、体組成よりChl.aに換算し観測結果と比較した。計算と観測の結果を比較すると5月から6月にかけて観測された、植物プランクトンの大増殖(赤潮)が、タイミング、濃度ともに再現されていることが分かる。このように物質循環の中心でありながら従来再現が難しいとされた植物プランクトンの再現が可能になったことで、湾内の栄養塩の変動や下層における貧酸素水塊の時空間変動についても従来と比べ飛躍的に再現性が向上した。さらに本モヂルを用いて、東京湾の流入負荷削減効果予測、貧酸素水塊の形成メカニズムの検討、物質循環機構の定量的な把握を行った。この際、本モデルにおける検討は、年間での検討に留まっており、今後さらに長期間の検討を行う必要があるものの、PO4-P、SiO2-Siともに、たとえ流入負荷を半減させた場合でも、湾内の貧酸素水塊の規模が減少する可能性は低いことが明らかになった。

 以上、本研究では東京湾において長期間詳細な現地観測を行うことで、物質循環の中心である植物プランクトン・栄養塩の変動機構を解明した。さらに植物プランクトンの急増にともなう貧酸素化・栄養塩溶出など、一連の水質変動機構が明らかになった。最終的にこれらの知見を集約し生態系モデルを構築することで観測では困難な栄養塩や炭素、酸素の物質循環機構を定量化した。

図-1 現地観測地点

図-2 千葉灯標における水温(A)、塩分(B)、Chl.a(C)観測結果

図-3 3測点におけるChl.a時系列

図-4 短波放射時系列

図-5 東京灯標におけるPO4-P時系列

図-6 千葉灯標における水温(A)、塩分(B)、クロロフィルa(C)の計算結果

審査要旨 要旨を表示する

 経済発展にともなう急速な人口増加や工業化は海域に対する汚濁負荷を急増させた。特に内湾においては、河川からの汚濁負荷に対して外海との海水交換が限られているため、水質汚濁が進行しやすい。東京湾、大阪湾、伊勢湾などの代表的内湾では、慢性的に過栄養状態に陥っており、赤潮や青潮などと呼ばれる水質問題が深刻化している。このような内湾の水質に関わる問題を解明し、解決していくためには、内湾における物質循環過程を明らかにする必要がある。本研究においては、世界的に見ても水質問題が深刻化している東京湾を対象として、そこでの物質循環過程を把握するために、水質の多点・長期観測を実施するとともに、数値シミュレーションモデルを開発し、それらの結果に基づいて考察を行っている。

 第1章は緒論であり、研究の背景・目的および研究概要が述べられている。また、第2章においては既往の関連研究のレビューが行われている。

 第3章は、東京湾における水質の現地観測について述べられている。河川の影響の異なる湾奥部に位置する東京灯標、千葉灯標および湾央部に位置する京葉シーバースの合計3点において、係留系を用いて水温、塩分濃度、溶存酸素、クロロフィルaなどを連続観測するとともに、週1回の採水による水質分析と投げ込み式センサーを用いた水中照度などの測定を、1999年4月から2000年10月までの約1年半にわたって行っている。

 その結果、まず水温や塩分濃度の周年変動を見ると、3地点ともに4月から8月にかけて急激な成層化と一様化が起こっている状況が明らかになった。これは、本研究における10分間隔での連続測定により、従来の観測ではとらえられないような時間スケールの短い現象がとらえられた結果である。また、溶存酸素の増加は、クロロフィルaの増加との対応が明確であることから、植物プランクトンの光合成による酸素生産が原因であることが明らかにされた。また、下層の溶存酸素濃度の減少には上層からの酸素供給の低下と有機物分解による酸素消費が原因となっていることが推測された。植物プランクトンの増加が溶存酸素濃度の増加をもたらすことから、季節ごとに優先する植物プランクトンの種類についても調べた。その結果、珪藻類は11月から12月に減少する以外には比較的高い濃度となっていること、微細渦鞭毛藻類は8月から10月に多く、ラフィド藻類は5月から6月に多いことがわかった。栄養塩の周年変動についてもとりまとめられ、植物プランクトンによる無機態窒素の選択的取り込みや、無機体リンが制限因子となる期間があること、および珪素の増減と珪藻類の割合との関係などが明らかにされた。

 これらの現地観測結果を総合し、植物プランクトンの急激な増加、すなわち赤潮の発生は、主に気象条件によって規定され、日射量の増大がトリガーとなるとした。特に、日射量の増大時には南風が卓越するために湾内水が湾奥に停滞しやすく、植物プランクトンの増加が助長されるものと推測された。上層で生産された有機物はその後下層へ沈降して酸化分解され、その結果として下層水が貧酸素化し、さらにそれが底泥からの栄養塩の溶出を招く。そこで、北風の連吹によってこの水塊が湧昇すると表層水に栄養塩が供給されることになって、再び植物プランクトンの増殖を促進することになる。このように、本研究による詳細な現地観測は、従来得られなかったような精度で東京湾の物質循環過程を明らかにしている。

 続いて、3次元流動モデルおよび3次元生態系モデルを開発し、それを東京湾に適用して数値モデルの妥当性を検討している。流動モデルは水温や塩分濃度をよく再現しており、妥当性が確認された。また、生態系モデルでは、3種類の植物プランクトンを取り入れるなど、従来に比べてより精密なものとしている。その結果、夏期のプランクトン濃度などの再現性が不十分であるものの、5,6月の植物プランクトンの大増殖などはよく再現された。まだ改良は必要であるものの、水質改善策を施した場合の効果の予測を含めて、今後広い範囲に応用可能なモデルの枠組みが構築されたと言える。

 以上のごとく、本研究は東京湾の水質を決定する物質循環過程を、従来行われなかった精密さで現地観測することによって解明するとともに、水質予測につながる数値モデルを開発したものであり、価値ある成果を挙げている。よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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