学位論文要旨



No 116008
著者(漢字) 佐野,奈緒子
著者(英字)
著者(カナ) サノ,ナオコ
標題(和) コミュニケーション成立のための音環境における手掛り情報に関する研究
標題(洋)
報告番号 116008
報告番号 甲16008
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4845号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 平手,小太郎
 東京大学 教授 鎌田,元康
 東京大学 教授 坂本,雄三
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 佐久間,哲哉
内容要旨 要旨を表示する

 高層集合住宅における遮音性能の高いプライバシーの確保された居室にみられるように、建築設備の技術的進歩とそれによる生活の利便性の向上が進んでいる。その一方で、伝統的な建築が伝えてきた人や自然の気配、生命感を感じさせる空間が失われつつあり、居住者に孤立感、環境刺激の少なさ等のストレスを与えている。今後はこのような問題への対応として、建築に対しその内外で起きる出来事と人との関係を構成する動的な環境構築という視点が求められると考えられる。近年生活関連ロボットの開発が進められているが、さらに建築空間にコミュニケーションの機能が組み込まれ、建築空間がユーザーにとってアトラクティブな環境を提供する場として利用されることが予想される。環境の持つ動的魅力を建築内外に構築するためには、基礎的知見として環境内部で音や光によってもたらされる出来事を、コミュニケーションとの関係から人がどのように認知するかについて検討する必要があると考えられる。本研究では、以上によりコミュニケーションと環境認知の関係に注目した。コミュニケーション時、注意は環境から特定の対象に向かう。多くの環境情報の中から短時間にコミュニケーションの対象に注意を向けることが経験されることから、対象の峻別にはコミュニケーション対象の特徴を示す手掛り情報が用いられていることが考えられる。本研究はコミュニケーション成立の手掛りとなる情報を探索し、これを明らかにすることを目的とした。なお、認知科学では環境情報の特徴抽出に関わる研究として検討が進められているが、コミュニケーション対象を検出する情報については、人を対象とした検討は少ない。脳の情報処理に関する研究においても、主体の行動との関連からコミュニケーション対象を検出する情報処理過程について検討した例は見あたらない。

 検討対象としてコミュニケーションの媒体として一般的な音に注目し、第1に手掛り情報の探索・絞り込みを行なった。この結果を受けて、第2に手掛り情報の有効性を検討した。コミュニケーションを前提としない状況で手掛り情報による環境音の聴き分けの発生の有無により有効性を検討した。その際情報の脳内表現に注目し、事象関連電位から手掛り情報による音の情報処理の特徴を明らかにした。さらに手掛り情報とコミュニケーション時の空間行動との関係について考察した。

 本研究により3つの新たな知見が得られた。

 第1に、およそ0.7s以内の間隔で主体の発声行動と音事象が交互に出現することが、環境からコミュニケーション対象を峻別する手掛り情報であることが明らかになった。

 第2に、主体の発声を基点とした時間情報による、主体の発声−環境下の音事象間の関連性の検出に関わる情報処理の特性を明らかにした。即ち主体の発声行動と音事象が交互出現する場合、音事象の発生に伴い聴覚野一前頭連合野が発生源と推定されるNl抑制一高次情報処理亢進の時間的連携が生じることが見出された。

 第3に、人間−環境系研究に対し行動学的・認知科学的アプローチを取り入れ、コミュニケーション時に観察される空間行動に対し新しい解釈を与えた。Ha11の観察したコミュニケーション時にみられるpersonaldistanceはコミュニケーションの際の呼応間隔の維持に従属して生じ得ることを示した。

 以下、各章を追って概説する。

 第1章では研究の背景について述べ、関連する既往研究を概観した。これに基づき研究の目的について述べ、本稿で用いる言葉についての定義を行ない、最後に研究の構成を示した。

 第2章では、本研究で用いる生理的測定指標についての概説を行なった。

 第3章では、コミュニケーション時にその行為により維持されている情報が、環境下でコミュニケーション対象を見出す手掛り情報としても利用されていると仮説を立て、コミュニケーション行動の観察により維持されている情報を探索した。その結果、コミュニケーション時には(1)呼応の時間間隔はおよそ0,7s以内に維持されていることが明らかになった。また(2)呼応の時間間隔は距離の影響を受け、2mまでは一定しているが4mで延長し、同時に発声の大きさも大きくなることがわかった。動作、音声コミュニケーションの手段の違いに関わらず、2者間のやりとりの時間間隔が維持されることから、およそ0.7s以内の時間間隔の維持が手掛り情報である可能性が示された。

 第4章では、第3章の結果及びその結果が主体の行動−事象間の交互の出現に起因することから、手掛り情報の候補として行動と音事象の(1)交互出現、その(2)時間間隔に注目した。

 実験4-1では、手掛り情報候補の有効性を検証するために、コミュニケーションを前提としない状況で、環境音から手掛り情報の有無により特定の音源に対し注意状態が生じるかについて検討した。主観レベル、認知レベル、行動レベルの3つの側面から手掛り情報による聴き分けの有無とその状態について検討した。

 検討の方法は、はじめに(1)発声後の主観的な評価として音源に対する注意状態を問い、特定の音に対し注意が向けられているか、即ち音を聴き分けているかについて検討した。次に(2)事象関連電位から聴取状態の差及び手掛り情報のある音の情報処理過程について検討した。これらは環境からの情報入力に伴う主観・認知という内的な情報処理状態を検討するものであったが、最後に(3)環境からの情報入力の結果環境に出力される行動について検討した。

 実験4-1の結果として、(1)主観的には環境音のなかに手掛り情報のある音が存在することを知らされていない状況において、およそ0.7s以内に交互出現する音が最も注意を引く音として評価された。この傾向は音源の種類の違いによる影響を受けず、主観的に短い間隔で相互出現する音に注意が向けられていることが分かった。また手掛り情報のある音が環境音として存在する場合、無関係な環境音のみある場合よりも発声がしやすいと評価された。

 次に(2)事象関連電位から手掛り情報の有無による聴取状態の違いについて検討した。検討に先立ち、測定指標である事象関連電位とその電位成分について概説した。

 はじめに手掛り情報(1)行動と音事象の交互出現について検討した。環境音の状況、主体の構えの異なる全ての試行の呼応間隔0.6s条件を対象として主体の発声に対して交互出現する音としない音の電位成分の差の有無を検討した。その結果、聴性成分であるN1を含む複数の電位成分に交互出現の有無による差が認められた。交互出現する音ではNl潜時が早く早期に処理を進めながらも振幅は抑制されている。Nlから潜時300msにかけては手掛り情報のない環境音の処理が優位となる。再び300ms潜時以降から交互出現する音の場合に処理が優位に立ち、次の音が出力される直前に至るまで時間的に長期にわたり認知や予期に関わる高次の情報処理が行われている。以上により第1に行動と音事象の(1)交互出現の有無により異なる情報処理が行われていること、第2に交互出現する音では音入力に関わる感覚情報処理レベルでは注意状態が抑制されるが、認知に関わる高次の情報処理状態が活性化することが分かった。

 また環境音2音が連続して出現し、音事象間に(2)時間間隔の情報が生じ主体と音事象との間の手掛り情報と競合している場合の主観的な発声のしやすさについて検討した。その結果、主体と音事象の(1)交互出現が先行して成立している状態では外乱があると主観的に発声がしにくいと評価された。

 行動と音事象の(1)交互出現、その(2)時間間隔の手掛り情報の有効性を、その他の聴き分けの手掛りとなる情報のない状況において検討した。手掛り情報の有無による差を顕著に示したのは、-200-0ms潜時のCNVに関連すると考えられる陰性電位成分であり、およそ0.7s以内に生じる手掛り情報のある音の聴取に伴い顕著に増加した。CNVは予期と期待を反映して出現することからおよそ0.3〜0.7s以内の間隔で応答する音は予期されているとが示された。

 引き続き交互出現の(1)時間間隔の違いが聴取状態に与える影響を検討した。環境音及び主体の構えの条件が異なる場合について検討し、先の結果と同傾向の-200-0ms潜時の陰性電位の上昇が0.3〜0.7s以内の時間間隔の場合に認められた。

 事象関連電位の検討のまとめとして、全被験者の事象関連電位の平均波形の特徴から行動と音事象の(1)交互出現とその(2)時間間隔の手掛り情報の有無と情報処理状態の違いについて検討した。

 最後に(3)音の聴き分けに伴う行動上の変化について検討した。(2)時間間隔の違いによる主体側の発声間隔と発声の音響パワーレベルの関係について検討した。自由な間隔で発声する場合、(2)時間間隔の短縮に従い発声間隔はやや短くなった。また発声の大きさも同様に変化した。発声間隔と発声の大きさを調整する行動からも、(1)交互出現の手掛り情報を持つ音に注意が向けられていることが示された。また短い間隔で呼応する場合発声が小さくなることから、(2)時間間隔の手掛り情報として3章で見出された0.7s以内の時間間隔は、情報性とエネルギー消費効率の2つの機能性を持つことが分かった。

 実験4-2では、実験4-1の検討の補足として主体の行動と音事象の交互出現による注意状態についての基礎的検討を行なった。行動に起因し出現が時間差なく同期して生じる音に対する事象関連電位について検討した。その結果、N1潜時が早くN1-P2振幅が大きく、実験4-1における環境音のない場合における主体の発声と交互出現する音と処理状態は同傾向であることが分かった。これにより時間差のない場合にも、また発声ではなく動作による場合においても行動の先行性が確保される場合は交互出現とほぼ同様な情報処理が行われていることが確認された。

 以上により、環境音のなかでコミュニケーションを成立させるために必要な特定の対象への注意をもたらす手掛り情報として、行動と音事象の(1)交互出現とその(2)時間間隔は有効であることが確認された。これにより、およそ0,7s以内の間隔で主体の行動に対し音事象が交互出現することが、環境音からコミュニケーション対象を見出すための手掛り情報であり、同時にコミュニケーション時に維持されている情報であることが明らかになった。

 第6章では第3章から5章までで得られた結果についてまとめ、既往研究を踏まえて考察を行なった。手掛り情報による音の聴き分けに関わる情報処理について、実験結果に基づき仮説的な情報処理モデルを示した。また手掛り情報の維持とコミュニケーション時にとられる距離の関係について新たな解釈を提案した。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、コミュニケーションの媒体として一般的な音に注目し、コミュニケーションにおける手掛り情報の手掛り情報の内容、その有効性について明らかにしたものである。特に、情報の脳内表現に注目し、事象関連電位などから手掛り情報による音の情報処理の特徴について検討し、手掛り情報とコミュニケーション時の空間行動との関係について考察している。

 第1章では、研究の背景、関連する既往研究の概観、研究の目的、用語の定義、研究の構成を示している。

 第2章では、本研究で用いる生理的測定指標についての概説を行なっている。

 第3章では、コミュニケーション時にその行為により維持されている情報が、環境下でコミュニケーション対象を見出す手掛り情報として利用されているとの仮説を立て、コミュニケーション行動の観察により維持されている情報を探索している。その結果、コミュニケーション時には(1)呼応の時間間隔はおよそ0.7s以内に維持されていること、(2)呼応の時間間隔は距離の影響を受けていることなどを見出している。そして、動作、音声コミュニケーションの手段の違いに関わらず、二者間のやりとりの時間間隔が維持されることから、およそ0.7s以内の時間間隔の維持が手掛り情報である可能性を示している。

 第4章では、手掛り情報の候補として行動と音事象の(1)交互出現、その(2)時間間隔に注目した実験的検討を行っている。

 まず、実験4-1では、手掛り情報候補の有効性を検証するために、コミュニケーションを前提としない状況で、環境音から手掛り情報の有無により特定の音源に対し注意状態が生じるかについて検討している。すなわち、主観レベル、認知レベル、行動レベルの3つの側面から手掛り情報による聴き分けの有無とその状態について検討している。

 まず、発声後の主観的な評価として音源に対する注意状態を問い、特定の音に対し注意が向けられているか、音を聴き分けているかを検討している。その結果、およそ0.7s以内に相互出現する音が最も注意を引く音として評価されおり、この傾向は音源の種類の違いによる影響を受けず、主観的に短い間隔で相互出現する音に注意が向けられていることを導いている。

 次に、事象関連電位から聴取状態の差及び手掛り情報のある音の情報処理過程について一連の実験を通じて検討している。その結果として、(1)行動と音事象の・交互出現の有無により異なる情報処理が行われていること、(2)交互出現する音では音入力に関わる感覚情報処理レベルでは注意状態が抑制されるが認知に関わる高次の情報処理状態が活性化すること、(3)主体と音事象の・交互出現が先行して成立している状態では外乱があると主観的に発声がしにくいこと、などを導いている。さらに、全被験者の事象関連電位の平均波形の特徴から行動と音事象の交互出現とその時間間隔の手掛り情報の有無と情報処理状態の違いについて検討している。

 以上のような環境からの情報入力に伴う主観・認知という内的な情報処理状態の検討に対して、最後に音の聴き分けに伴う行動上の変化について検討を加えている。その結果として、時間間隔の短縮に従い発声間隔はやや短くなり、発声の大きさを調整する行動から、交互出現の手掛り情報を持つ音に注意が向けられていることを導いている。

 実験4-2では、主体の行動と音事象の交互出現による注意状態の基礎的検討として、行動に起因し、出現が時間差なく同期して生じる音に対する事象関連電位について検討している。その結果として、実験4-1における環境音のない場合における主体の発声と交互出現する音と処理状態は同傾向であることを示し、さらに、時間差のない場合でも発声ではなく動作による場合でも、行動の先行性が確保される場合は、交互出現とほぼ同様な情報処理が行われていることを確認している。

 以上により第4章では、環境音のなかでコミュニケーションを成立させるために必要な、特定の対象への注意をもたらす手掛り情報として行動と音事象の交互出現とその時間間隔は有効であることを確認し、これにより、およそ0.7s以内の間隔で主体の行動に対し事象が交互出現することが環境音からコミュニケーション対象を見出すための手掛り情報であり、同時にコミュニケーション時に維持されている情報であることを明らかにしている。

 第5章では第3章、第4章の実験結果についてまとめ、既往研究を踏まえて考察を行ない、手掛り情報による音の聴き分けに関わる情報処理について、実験結果に基づき仮説的な情報処理モデルを示している。また手掛り情報の維持とコミュニケーション時にとられる距離の関係について新たな解釈を導いている。

 本研究により、およそ0.7s以内の間隔で主体の発声行動と音事象が交互に出現することが環境からコミュニケーション対象を峻別する手掛り情報であることを導き、主体の発声を基点とした時間情報による、主体の発声−環境下の音事象間の関連性の検出に関わる情報処理の特性を明らかにしている、このことは、今後の建築学における情報環境構築技術に寄与する知見であると判断できる。さらに、人間−環境系研究に対し行動学的・認知科学的アプローチを取り入れ、コミュニケーション時に観察される空間行動に対し新しい解釈を与えたことも特筆できるものである。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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