学位論文要旨



No 116010
著者(漢字) 中島,智章
著者(英字)
著者(カナ) ナカシマ,トモアキ
標題(和) ルイ14世治世下のヴェルサイユ城館および庭園と同宮殿の美術作品群の図像主題をめぐる研究
標題(洋)
報告番号 116010
報告番号 甲16010
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4847号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

 アンシアン・レジーム下の宮殿建築の代表たるヴェルサイユ宮殿と王権との関わりを追求することで、建築活動が、それを推進しようとする何らかの意志の表れという社会の営みの一つであり、建築家など建築関係者の意図の及ばぬところで展開する場合もあったことを明らかにするというのが本論文を導く視点である。

 方法の一つとして、その意図を表す有効な手段としての、広間の天井画や庭園彫刻などに注目する。それらは当時の知識階層に広く共有された教養体系に則って構想されているゆえに、研究を進める上でかなり確たる結論を得られるだろう。1980年代以来、様々な学問分野で以上の如き研究がある中、建築史界では幾つかの注目すべき研究の他は未だ多くはないのが現状である。

 ヴェルサイユ宮殿自体も、西洋世俗建築を代表する作品であるにも関わらず、作品論、様式論、建築家論などの伝統的方法では建築史上にうまく位置付けることができなかった。それは当宮殿造営が、欧州覇権をめぐる戦争と並んで王権の全てをかけた事業であり、建築家はその手足に過ぎなかったからである。

 本論文では、古典主義建築における「ふさわしさ」の概念の重要性の指摘、空間的機能的な建築評価以外の見方の提示と、当時のスペクタクルとの主題上の同調の探求を行うという修士論文で掲げた関心に加え、建築家より上の諸段階の意志の働きという観点から、この課題を継続する。本論文は3部構成である。第1部では「包囲建築」と呼ばれるル=ヴォー設計の新城館北棟と南棟に設けられた国王と王妃の各アパルトマンが対象となる。

 ヴェルサイユ宮殿造営史の中でも、「包囲建築」の建設をめぐって多くの研究者が議論してきた。しかし、彼らの説の間には、たとえば、着工時期、競技設計に関する事情、着工案について大きな相違があり、これは建設長官コルベールの書いた3文書に日付がないことに大きく由来する。この問題を解きほぐすには、これら先行研究における関連史料の分析を比較することが必要だろう。この結果、着工時期やコンペで選ばれた案についてなど、幾つかの点は整理できたものの、着工案の姿がどうだったのかなど、史料の分析だけでは自ずと限界があり、実測調査のような別の方法も必要だと思われる。

 つまり、ルイ13世の小城館を保存するのか否か、また、着工時の計画案の姿について意見の一致をみていないことは、コルベールの書いた3文書の解釈の難解さに大きく由来し、この問題を解きほぐすには、これら先行研究における関連史料の分析を比較するのに加えて、実測調査も考慮せねばならない。その結果、当初から小城館の保存が前提とされていたことが分かった。また、コルベールの示した数値は、完成案以前に別の計画案が存在したことを示しており、彼の数値からそれを復元することも可能である。

 その新城館北棟に設営された国王のアパルトマンは、当初、7つの広間からなっており、それぞれ、七惑星を象徴する古代の神々が天井に描かれた。天井湾曲部には、中央の古代神に関連する諸美徳、および、その諸美徳の現れたる古代史の場面が描かれ、これらによってルイ14世の徳や広間の機能と結び付けられた。これは南翼の王妃のアパルトマンでも同様である。しかし、先行研究によると着工案は竣工案とは別の姿をしていた。二つの案を比較して、その変更理由を考察すると、竣工案では広間数が一つ増えて七つとなり、寝室前後の広間数が等しくなったことから、太陽を中心とする七惑星主題がある程度の影響を与えたと考えてよい。

 一方、王妃のアパルトマンは宮殿中央軸を挟んで国王のそれと対称に配された。しかし、この配置はフランス王室の伝統ではないという。本論文では両アパルトマンの対称性を確認し、当時の宮廷社会のあり方とスペインとの外交関係という内外の要素からその背景を考察する。両アパルトマンの対称性は間取と機能だけでなく、共に七惑星主題に基づく天井画主題の面でも確認された。一方、当時の貴族邸宅では夫妻が同格で、ゆえに前庭を挟んで対称に両者のアパルトマンが配されていた。また、着工直前にフランスはスペイン領低地地方の王妃による継承を企てていた。これら恒常的時事的条件が、王妃のアパルトマンの配置を導いたのである。

 第2部ではルイ14世によって編纂された「ヴェルサイユ庭園案内法」を足掛りに当時の庭園の鑑賞の力点と方法や庭園自身の全体構成を明らかにする。

 「案内法」は施主自身の手で編纂されており、庭園とその見方に対する当時の考え方を最もよく伝えているものと思われる。本論文ではその邦訳を試みた後、ラ=フォンテーヌのヴェルサイユ礼讃詩と比較しながら、本文や、そこで示された鑑賞法の特徴を導き出したい。まず、鑑賞の対象物を列挙するだけという簡潔さが目を引き、その中では噴水の美に最も力点が置かれていることが分かる。鑑賞法については、特定の「眺望点」に立ち止まって、そこから眺めるという極めて静的なものである点で一貫しているが、ボスケなど閉じたところと、花壇、泉水や園路など開けたところとでは、異なったところもみられることが指摘できる。

 一方、ヴェルサイユ宮殿の図像解釈学的研究は、1980年代以降、盛んに行われているが、「案内法」は記述の簡潔さゆえ、あまり参照されていない。しかし、そこで示された鑑賞法から庭園の全体構成を導きうるという点で有益な情報を提供するはずである。特に中央軸線と直角に交わり城館前を通る南北軸については、その存在を重視しなかったり、南北軸を一体と見なす先行諸研究の解釈に対して、各眺望点からの鑑賞対象への視線を分析することにより、城館を中心として南北に分かたれるという説を提出することができた。つまり、城館の南北でそれぞれ異なった世界が構想された可能性があるということである。

 この王の案内記の記述からはまた、ヴェルサイユ庭園の美の中でも噴水が重要な位置を占めていることが分かる。とはいえ、その実現のために多大な物的人的知的資源の投入が必要だった。多くの試みの中で最も王を満足させたのが「マルリーの機械」である。その作者は誰かという点について、諸家の意見はレヌカンとドゥ=ヴィルの間で分かれており、一般には経験豊富な職人レヌカンの作だといわれている。本論文では、18世紀以来繰返されてきたこの論争を整理し、もって筆者自身の見解を明らかにする。その結果、問題はドゥ=ヴィルの水利工作物の知識に関するものに絞られた。彼の出身階層とイエズス会の学院で教育を受けたことを考えると、技術面への関与を完全に否定しさることもできないと考える。

 第3部では庭園の中央軸線の寓意物を検討していき、それを受ける位置にある鏡の間の天井画主題の変遷と、それが庭園と城館の関係に及ぼした影響について論ずる。

 ヴェルサイユを飾る主要な絵画彫刻は、少なくとも1670年代まで、オウィディウスの「変身物語」の太陽神の宮殿を描いたくだりに基づく主題によっていた。その中でも「昇る太陽」を表すアポロンの戦車の泉水と「沈む太陽」を表現してるテティスのグロットは、同一軸線上にはないものの、1kmを隔てて対のものとして構想され、しかもそこにルイ14世=太陽神のイメージが封じ込められた。ここに庭園の中央軸線は位置だけでなく、象徴の上でも宮殿の中枢たりえたのである。

 次に庭園中央にあるラトーヌの泉水を取上げて、図像解釈学的側面と庭園構成が如何に密接に関わっているかを明らかにする。史料からは確実ではないが、太陽神の母神たるラトーヌはルイ14世の母后アンヌ、蛙などに変身させられている周りの人々はフロンド党だと信じてよい。ヴェルサイユ遷都の一因ともいわれるフロンドの乱を表した群像を中央に置くことによって、この宮殿の誕生を顕彰している可能性がある。このようにラトーヌの泉水は位置的かつ象徴的にも庭園の中心なのである。

 これら「太陽の軸線」の寓意物をファサード上で受けるのが黄道12宮擬人像群である。これらは西洋の慣例に反して右から左へ白羊宮=3月から順番に配置された。理由として、「春」を南、「冬」を北というように四季と方位を結び付けたということや、庭園からの眺めではなく城館内部から見て左から右に流れるように配置したのだということが挙げられるものの、何れも説得力に欠ける。ヴォー=ル=ヴィコントの楕円形大広間の天井画周りの寓意物の検討から、筆者は天球における黄道12宮の配列法に従ったのではないかと考えた。

 実はヴォー=ル=ヴィコント城館こそ、ヴェルサイユ宮殿の太陽神神話に関わる図像主題の供給源だったのである。本論文では具体的にそれを指摘していった。ただし、城館と庭園、広間と広間の間を図像解釈学的側面からも結び付けようという意志は未だみられず、ヴェルサイユ宮殿でこそ展開することになる。

 本論文では最後に庭園中央軸線と鏡の間を対象にして、天井画計画の図像主題の変遷を追いながら、その意味するところや城館と庭園の関係に与えた影響について論じる。この歩廊は、マンサールの登場、離宮から首都へという宮殿の性格の変化、鏡を用いた新しい美学の実践などの見地からも重要な転回点を画した。一方、当初の天井画主題は太陽神アポロンを中心としたものだったが、そこからヘラクレスの12の功業へと移行し、さらには神話を止めてルイ14世自らが主人公となる。つまり、図像解釈学的側面でも一大画期だった。しかし、それに伴って、当初は「太陽神の宮殿」の要として庭園とも密な関係を持っていたにも関わらず、最終的にはそれと全く異なる戦争の要素が導入され、全体の調和は保てなくなってしまったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、ヴェルサイユ宮殿と王権との関わりを追求することで、建築活動が、それを推進しようとする何らかの意志の表れという社会の営みの一つであり、建築家など建築関係者の意図の及ばぬところで展開する場合もあったことを明らかにするということを目的としている。

 本論文は3部構成である。

 第1部では「包囲建築」と呼ばれるル=ヴォー設計の新城館北棟と南棟に設けられた国王と王妃の各アパルトマンが対象となる。ヴェルサイユ宮殿造営史の中でも、「包囲建築」の建設をめぐって多くの研究者が議論してきた。しかし、彼らの説の間には、たとえば、着工時期、競技設計に関する事情、着工案について大きな相違があり、これは建設長官コルベールの書いた3文書に日付がないことに大きく由来する。先行研究における関連史料の分析を比較することにより、着工時期やコンペで選ばれた案についてなど、幾つかの点が整理できた。しかし着工案の姿がどうだったのかなど、史料の分析だけでは自ずと限界があるので、今後の実測調査などが参照された。

 その結果、当初から小城館の保存が前提とされていたことが分かり、また、コルベールの示した数値は、完成案以前に別の計画案が存在したことを示しており、彼の数値からそれを復元することも可能となった。

 新城館北棟に設営された国王のアパルトマンは、当初、7つの広間からなっており、それぞれ、七惑星を象徴する古代の神々が天井に描かれた。天井湾曲部には、中央の古代神に関連する諸美徳、および、その諸美徳の現れたる古代史の場面が描かれ、これらによってルイ14世の徳や広間の機能と結び付けられた。これは南翼の王妃のアパルトマンでも同様である。しかし、先行研究によると着工案は竣工案とは別の姿をしていた。二つの案を比較して、その変更理由を考察すると、竣工案では広間数が一つ増えて七つとなり、寝室前後の広間数が等しくなったことから、太陽を中心とする七惑星主題がある程度の影響を与えたと考えてよい。

 一方、王妃のアパルトマンは宮殿中央軸を挟んで国王のそれと対称に配された。しかし、この配置はフランス王室の伝統ではないという。本論文では両アパルトマンの対称性を確認し、当時の宮廷社会のあり方とスペインとの外交関係という内外の要素からその背景を考察している。第2部ではルイ14世によって編纂された「ヴェルサイユ庭園案内法」を足掛りに当時の庭園の鑑賞の力点と方法や庭園自身の全体構成を明らかにする。

 ヴェルサイユ宮殿の図像解釈学的研究は、1980年代以降、盛んに行われているが、「案内法」は記述の簡潔さゆえ、あまり参照されていない。しかし、そこで示された鑑賞法から庭園の全体構成を導きうるという点で有益な情報を提供するはずである。特に中央軸線と直角に交わり城館前を通る南北軸については、その存在を重視しなかったり、南北軸を一体と見なす先行諸研究の解釈に対して、各眺望点からの鑑賞対象への視線を分析することにより、城館を中心として南北に分かたれるという説を提出することができた。

 また、庭園のなかの噴水の実現には多大な物的人的知的資源の投入が必要だった。多くの試みの中で最も王を満足させたのが「マルリーの機械」である。その作者は誰かという点について、諸家の意見はレヌカンとドゥ=ヴィルの間で分かれており、一般には経験豊富な職人レヌカンの作だといわれている。本論文では、18世紀以来繰返されてきたこの論争を整理し、もって筆者自身の見解を明らかにした。

 第3部では庭園の中央軸線の寓意物を検討していき、それを受ける位置にある鏡の間の天井画主題の変遷と、それが庭園と城館の関係に及ぼした影響について論ずる。

 ヴェルサイユを飾る主要な絵画彫刻は、少なくとも1670年代まで、オウィディウスの「変身物語」の太陽神の宮殿を描いたくだりに基づく主題によっていた。その中でも「昇る太陽」を表すアポロンの戦車の泉水と「沈む太陽」を表現してるテティスのグロットは、同一軸線上にはないものの、中心軸を隔てて対のものとして構想され、しかもそこにルイ14世=太陽神のイメージが封じ込められた。ここに庭園の中央軸線は位置だけでなく、象徴の上でも宮殿の中枢たりえたのである。

 次に庭園中央にあるラトーヌの泉水を取上げて、図像解釈学的側面と庭園構成が如何に密接に関わっているかを明らかにする。史料からは確実ではないが、太陽神の母神たるラトーヌはルイ14世の母后アンヌ、蛙などに変身させられている周りの人々はフロンド党だと信じてよい。ヴェルサイユ遷都の一因ともいわれるフロンドの乱を表した群像を中央に置くことによって、この宮殿の誕生を顕彰している可能性がある。このようにラトーヌの泉水は位置的かつ象徴的にも庭園の中心なのである。

 これら「太陽の軸線」の寓意物をファサード上で受けるのが黄道12宮擬人像群である。これらは西洋の慣例に反して右から左へ白羊宮=3月から順番に配置された。理由として、「春」を南、「冬」を北というように四季と方位を結び付けたということや、庭園からの眺めではなく城館内部から見て左から右に流れるように配置したのだということが挙げられるものの、何れも説得力に欠ける。ヴォー=ル=ヴィコントの楕円形大広間の天井画周りの寓意物の検討から、筆者は天球における黄道12宮の配列法に従ったのではないかと考えた。

 実はヴォー=ル=ィコント城館こそ、ヴェルサイユ宮殿の太陽神神話に関わる図像主題の供給源だったのである。本論文では具体的にそれを指摘している。

 そして、最後に庭園中央軸線と鏡の間を対象にして、天井画計画の図像主題の変遷を追いながら、その意味するところや城館と庭園の関係に与えた影響について論じる。この歩廊は、マンサールの登場、離宮から首都へという宮殿の性格の変化、鏡を用いた新しい美学の実践などの見地からも重要な転回点を画した。一方、当初の天井画主題は太陽神アポロンを中心としたものだったが、そこからヘラクレスの12の功業へと移行し、さらには神話を止めてルイ14世自らが主人公となる。つまり、図像解釈学的側面でも一大画期だった。しかし、それに伴って、当初は「太陽神の宮殿」の要として庭園とも密な関係を持っていたにも関わらず、最終的にはそれと全く異なる戦争の要素が導入され、全体の調和は保てなくなってしまったのである。

 本論文はヴェルサイユ宮殿とその庭園の建築計画と図像配置という、これまでさまざまに論じられてきたふたつの部分とふたつの側面を、総合的なかたちで説明しようとするものであり、きわめて野心的な試みである。こうした論考は、資料の収集・分析と実際の遺構の調査の両面にたった研究であり、建築史学に新しい知見をもたらしたものでもある。その成果はフランス古典主義建築という、わが国では研究者の層の薄い分野における貴重な研究業績として、価値が高い。

 こうした成果にいたる過程は、日本における西欧近代建築史研究の方法においても新しい可能性を開いたところがあり、日本における今後の西洋建築史研究にとって刺激となるものである。その意味で、本論文が明かにした事実と、そうした事実を明かにするための方法との両面において、本論文は価値がある。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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