学位論文要旨



No 116011
著者(漢字) 伊藤,香織
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,カオリ
標題(和) 都市空間の事象性に関する研究
標題(洋)
報告番号 116011
報告番号 甲16011
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4848号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 曲渕,英邦
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 藤井,明
 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 助教授 西出,和彦
内容要旨 要旨を表示する

 事象とは,「もの」に対する「こと」を指す.われわれが実際に生活するなかで体験する都市空間は,物質としての静的な都市というだけではなく,さまざまな出来事によって時間的に体験される動的な都市である.

 本研究は,時間的厚みをもった動的な都市の様態を客観的に記述しようとするものである.従来の都市・地域研究では,そのような刻々と変化する都市の様態の記述は定性的なものにとどまっていた.しかしながら,事象の多様性や多数性に特徴づけられる都市の体験を記述するためには,事象に関する大規模かつ網羅的なデータを用いた定量的なアプローチが必要である.従来の研究で時間的厚みをもった網羅的なデータが用いられてこなかったのは,データ取得およびその記述方法が容易でないことに起因する.そこで,本研究では,大規模で詳細な時空間データを作成する手法と,作成した時空間データを記述・分析する手法をともに提案する.ケーススタディとしてそれらの手法をテナントデータに適用し,手法の有効性を示すとともに,テナントの持続と交替という事象がなす地域の時空間的きめという新たな観点からの都市像を描き出す.

 本論は序,第1章から第5章,およびAPPENDIXで構成される.第1章から第5章は4つに大別される.第1章は「基礎的問題」として,事象という視点から都市空間を捉え直すという本論の基礎的な問題意識について述べる.第2章,第2章は「理論」的な部分であり,テナントの時系列データ作成手法および地域分割による分析手法の提案をする.第4章は「分析」の部分で,第2章,第3章の理論を東京のテナントデータに適用して分析する.第5章は全体の「総括」で,結論と展望を述べる.

 第1章「都市空間の事象性」では,都市を時空的な出来事の集まりとして捉え直すための概念の整理をして,本研究の問題意識を提示するとともに,「理論」部分での手法構築のための基礎となる概念的問題を明らかにする.まず出来事に関する論考を紹介してその概念を整理する.次に,出来事の集まりとしての時間や空間にはどのような性質があるか,都市空間や場所の概念が出来事という視点からどのように説明できるかを述べる.ここで《co-presence of occurrences》という概念を提示し,都市空間が多様な出来事の並存によって立ち現れる空間であるという観点を説明する.さらに,具体的な観察対象としてテナントを取り上げることの意義を述べる.テナントの持続と交替という事象は都市の「きめ」をなすと言えるが,ここではテナントの持続・交替の時空的現れの代表的パターンをミクロな視点から示すことによって,次章以降で大規模なデータを扱う理論を構築するための基礎を築く.

 第2章と第3章では,大規模かつ詳細な時空間データを扱うための理論を展開する.

 第2章「《テナント》時系列データ」では,大規模な時系列データを作成する手法を提案する.従来の都市研究では,網羅的で時間的厚みをもったデータによる都市の様態の記述・分析は非常に少なく,ある時間断面のみが扱われるか非常に限られた空間要素の時系列変化が扱われることが多い.時空間情報は都市の様態を動的に捉えるためには必要不可欠な情報ではあるが,広範囲にわたる網羅的な時空間情報を得ることは容易ではないからである.近年,情報の電子化が著しく,時系列分析に堪えうるデータが時間的に蓄積されつつあるが,空間情報の蓄積を時系列データに構成しなおす手法が確立していないために,情報の蓄積が活かされていないのが現状である.そこで本研究では,逐年版の電子住宅地図データベースを時系列データとして構成し直す方法を提案する.まず時空間情報に関する概念的,技術的な問題点を明らかにする.時空間情報の構築・管理には,オブジェクトに識別子をもたせてその同一性を一意に決定することが重要である.しかし地図および地図外情報にはさまざまな誤差や曖昧さが含まれており,異なる年次の住宅地図同士を照合したときにオブジェクトの同一性が一意に決定されない.そこで,二段階のクラスタリングによって異なる年次間のテナントの同一性を判断する.まず建物名称と建物位置から建物間の非類似度を定義してクラスタリングを行い,一つのクラスタに分類されたものを同一建物と判断する.次に,同一性が確定した建物の中で,テナント名称による同様のクラスタリングを行うことによって,テナントの同定を行う.この同定手法に基づいて,山手線全域を含む東京中心部約160km2の範囲内のテナントを網羅する時系列データを作成する.得られたデータは,158万余のテナントに関する1995〜1999年の5年間の時系列データである.

 第3章「《テナント》動態のモデル化」では,テナントの時空的動態を確率論的にモデル化する.大規模で詳細なデータにおいて個々のデータのもつ情報を活かしつつ地域全体の空間構成を観察するためには,適切な分解能で現象を記述するモデルが必要である.そこでまず,テナントの位置と寿命を表わす確率モデルを組み立てる.次に,似たような様態の空間範囲をそれぞれひとくくりにするように,対象地域全体を分割する方法を定式化する.ここでは,さまざまな地域分割から最適な分割を選択する方法を取る.分割の良さは,情報理論のモデル選択基準であるMDL基準(Minimum Description Length;最小符号長)に基づいて判断する.既往都市研究では統計学のモデル選択基準であるAIC(赤池情報量規準)に基づいた地域分割の研究が散見されるが,AICはデータ数を増加させたときに選択された真のモデルに収束する「一致性」をもたないので,本研究ではAICではなくMDL基準を採用する.MDL基準は,あるモデルが与えられたときに実データを記述する符号語長を算定し,符号語長が最短となるモデルを最適とみなす.選択肢としてのさまざまな地域分割の生成には,効率的な分割探索アルゴリズムである2分木による方形分割を採用する.MDL基準のもつ「モデル自動生成」的機構と2分木のもつ再帰的構造により非常に少ない計算量で効率的に適切な分割モデルを求めることができる.この地域分割手法にテナントの位置と時間軸での見え方のモデルを適用して,テナント密度および寿命という観点において似たような様態をなす空間範囲をひとつの空間セグメントとするような最適な地域分割の生成を定式化する.ここでは対象地域全体の各辺を2Nに分割して最小単位を37m四方の正方形とし,地域分割を定式化する.その際,建物ポリゴンの代表点に集中しているテナントの位置座標を建物面積に従って分散させておく.

 第4章「PSマップによる《テナント》動態の分析」では,理論に基づき,ケーススタディおよび分析を実践する.第2章で作成したテナントデータに第3章で定式化した地域分割手法を適用する.その結果として対象地域はさまざまなサイズの空間セグメントに分割される.一つ一つの空間セグメントがそれぞれ「場所」を表わしているとみなせる図であるので,これを“PSマップ(Place Segment Map)”と呼ぶ.ここに示されるPSマップは,テナントの持続と交替という事象がなす都市時空間の「きめ」を表現している.ここではテナント密度,テナント寿命のそれぞれによるPSマップ,および両者によるPSマップを作成し提示する.これらのPSマップにおいて,相対的な密度分布,相対的な寿命分布,空間セグメントサイズの分布を観察することによって,東京という都市を構成する局所的な場所性と東京中心部全体の動的な空間構造を分析する.テナントの寿命は中央付近で短く,対象地域内北側や南側では比較的長い.場所はそのスケールの大きい方から,東京湾岸の埠頭地域,皇居,大規模公園等,住宅地,の順で現れる.テナント密度の比較的高い場所が一様に広がっているのは,豊島区,品川区,台東区などの住宅地である.個々の場所の細かく分割されているのは,渋谷,銀座などの繁華街である.また,ここで出力された結果を受けて,前章のモデル化についての理論的考察を加える.

 第5章「結論と展望」では,本論全体の結論と展望を総括する.本研究で提案した方法論の意義と分析の結果明らかになった東京の動的な空間構造を総括するとともに,問題点および今後の展望を述べる.本研究の意義は主に次の3点である.(1)既存の住宅地図データベースから時系列データを作成する手法を提案し,東京中心部のテナントに関する大規模かつ詳細な時系列データを作成した.(2)テナントの分布と寿命という観点から似たような様態の空間範囲をそれぞれひとくくりにするような地域分割モデルを定式化した.(3)既往研究には見られないほどの大規模で網羅的なテナントデータをモデル化することによって,都市の時空的変化の「きめ」を描き出した.(1)(2)に関しては,他の都市事象にも適用可能な十分に汎用性をもつ手法であり,本研究が都市・地域研究一般に寄与する点である.(3)については,今まで得られたことのなかったデータによる東京中心部の都市像を描き出したという意味で,本研究の独創性を示す.

 APPENDIXとしては,スケールを上げたPSマップと,および本論の理論的補完をしている.詳細なPSマップによって,東京中心部の各地区のテナント密度と寿命の様子が詳細にわかるようになっている.参考資料としてプログラムリスト,参考文献を載せる.

審査要旨 要旨を表示する

 「都市空間の事象性に関する研究」と題する本論文は,時間的厚みをもった動的な都市様態の客観的記述が試みられたものである.ここに“事象”とは,「もの」に対する「こと」を指す.実際に生活のなかで体験される「都市空間」とは,物質としての静的な都市というだけでなく,さまざまな出来事によって時間的に体験される動的なものと捉えることも可能であろう.本論文では都市の本質の所在を「構築」よりむしろ「事象の現象する場」に見出すことが提案される.しかしながら,事象の多様性や多数性に特徴づけられる都市の体験を論理的に記述するには,事象に関する大規模かつ網羅的なデータを用いた定量的なアプローチが必須と考えられる.従来の都市研究がこの観点からなされなかったことには,大規模なデータの取得およびその経時的記述方法の困難さが大きく影響している.本研究では,大規模で詳細な時空間データを作成する手法と,作成した時空間データを記述・分析する手法がともに提案され,ケーススタディとしてそれらの手法をテナントデータに適用し,その手法の有効性を示すとともに,テナントの持続と交替という事象がなす地域の時空間的「きめ」という新たな観点からの都市像が描き出されている.

 本論は序,第1章から第5章,およびAPPENDIXで構成される.

 第1章「都市空間の事象性」では,都市を時空的な出来事の集まりとして捉え直すための概念の整理がなされ本研究の問題意識を提示されている.特に《co-presence of occurrences》という概念が示され,都市空間を「多様な出来事の並存によって立ち現れる空間」とする観点が説明される.

 第2章「《テナント》時系列データ」では,大規模な時系列データを作成する手法を提案される.近年,情報の電子化は著しく,時系列分析に堪えうるデータが時間的に蓄積されつつあるが,空間情報の蓄積を時系列データに再構成する手法が確立していないため,情報の蓄積が活かされていないのが現状である.これを踏まえ本研究では逐年版の電子住宅地図データベースを時系列データとして再構成する方法が提案される.時空間情報の構築・管理には,オブジェクトに識別子をもたせてその同一性を決定することが重要である.ここでは同一性を仮定するモデルが提案され,それに基づき山手線全域を含む東京中心部約160km2範囲内のテナントを網羅する時系列データが作成される.得られたデータは,158万余のテナントに関する1995〜1999年5年間の時系列データである.

 第3章「《テナント》動態のモデル化」では,テナントの時空的様態が確率論的にモデル化される.ここでの統計量の有効性と安定性を得るための被観察空間分割法として,情報理論のモデル選択基準であるMDL基準(Minimum Description Length;最小符号長)が採用される.

 第4章「PSマップによる《テナント》動態の分析」では,理論に基づき,ケーススタディおよび分析が実践される.第2章で作成したテナントデータに第3章で定式化した地域分割手法が適用され,結果として対象地域はさまざまなサイズの空間セグメントに分割される.これらの全体を“psマップ(Place Segment Map)”と称し,テナントの持続と交替という事象がなす都市時空間の「きめ」を表現する図とみなされる.psマップにおいて,相対的な密度分布,相対的な寿命分布,空間セグメントサイズの分布が観察され,東京を構成する局所的な場所性とその中心部全体の動的な空間構造が分析される.

 第5章「結論と展望」では,本論全体の結論と展望とが総括されている.

 結果として本論文が提示する新たな知見は概ね以下のとおりである.

1.既存の住宅地図データベースから時系列データを作成する手法の是案

 この手法により時間的蓄積のある既存のデータを活かして時系列データとして構成し直すことが可能となり,結果として都市地域分析に時間の次元を導入したさまざまな時空間分析が可能となっている.

2.東京中心部のテナントを網羅する時系列データの構築

 1.の手法を市販住宅地図データベースに適用してテナント時系列データが作成された.得られたデータは158万余件におよぶテナントの発生・持続・消滅に関するデータである.このような大規模で網羅的なテナント時系列データは得られたことのないものである.

3.MDL原理の単位空間モデルへの適用

 これにより,膨大で複雑な時空間データから個々のデータがもつ詳細な情報を十分に活かしつつ全体構造の抽出が可能になっている.モデルには空間と時間の情報が同時に取り込まれており,一般的な大規模データによる事象記述のための基礎となりうる.

4.東京中心部のテナントの持続と交替がなす時空的様態の具体的記述

 作成されたテナント時系列データにMDL原理による地域分割手法を適用して得られた結果は,時間断面による分析からは得られない東京の動的様態を記述している.時間的厚みをもった網羅的・具体的テナントの動態によって都市空間の再考を促す,という点は本研究の特に独創的な成果である.

 以上要するに,本論文においては従来ない大規模データによる都市時空間分析の手法が提案され,具体的にその有効性が示されている.その手法は事象記述のための基礎的研究として十分な汎用性をもつものであり,結果として都市・地域研究における基礎的な手法を確立することに貢献している.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認めるものである.

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