学位論文要旨



No 116013
著者(漢字) 横手,義洋
著者(英字)
著者(カナ) ヨコテ,ヨシヒロ
標題(和) イタリア建築における中世主義に関する研究
標題(洋)
報告番号 116013
報告番号 甲16013
学位授与日 2001.03.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4850号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 安藤忠雄
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

■研究の目的と意義

 19世紀後半のイタリア建築に、中世主義という潮流がある。これは近代国家イタリアの誕生と密接に関わる建築潮流であるが、中世主義そのものはイギリス、ドイツ、フランスの動きに追随したものである。だが、この遅延こそを積極的に読み直すべきだと考える。ここにイタリアを扱う意味は、影響された側の史的可能性とともに、圧倒的な過去の建築遺産が、どのように新建築創造の論理に組み込まれたかを見極めることにある。すなわち、古い歴史的遺産を有するイタリアが近代においても興味深い対象となるのは、新しさという価値観が、一見するとそれに矛盾する歴史や伝統との関連においてどのように摂取されたのかという問題を考えるときなのである。この点に関して、19世紀の問題は現在の建築事清とも無関係ではない。本研究は中世主義を史的対象とするが、建築様式史の範疇にとどまるものではない。中世主義が提案された社会背景(国家の誕生、歴史学の成立、工学の発展、経済性の追求)を強く意識することによって、当時なされていた建築の議論に積極的に焦点を当てるものである。

 イタリア中世主義の中心的イデオローグは、ミラノを拠点として活躍したC.ボイト(Camillo Boito,1836-1914)である。既往研究を振り返ると、ボイトに関する研究、中世主義に関する研究のいずれもが、ここ半世紀の間に展開されたものであることに気づく。実際、関係史料はけっして見尽くされたとは言えず、2000年現在なお研究発展の余地がある。本研究は、主として当時の雑誌記事に裏づけられるイタリア中世主義の議論展開を追っているが、それを捉える手続きとして次のように複数の断面を設定した。まず、中世主義の理論的側面として、イタリアにおける中世建築研究の展開過程、歴史的正当性の構築、国家の様式としての議論を扱い、さらに、中世主義の実践的側面として、様式的修復、建築教育改革、都市計画への関与について分析を行う。

■中世主義の理論一歴史から未来の構築へ

中世建築研究の興隆

 イタリアにおける中世建築への関心は、大きく3段階に整理できる。まず、18世紀後半新古典主義の時代におけるゴシック建築批判。ついで、19世紀初頭のゴシックに対するデザイン上の好奇心。これはイギリス等で行なわれていたゴシック建築研究、あるいはもっと直接的に旅行を通じて生じたものである。最後に、イタリアの中世建築に対する研究の始まりである。これは国家の独立と統一という政治的な動機に裏打ちされたもので、北イタリアのヴェネト、ロンバルディア地方が中心的な場となった。こうした中世建築研究が、世紀後半に中世主義の理論的な基盤となる。

歴史的正当性の構築

 イタリア中世主義においては、「ロンバルディア建築」という用語が、歴史的正当性の構築において重要な役割を果たす。「ロンバルディア建築」は国外の中世建築研究において指摘されていたもので、ゴシック建築の萌芽的段階、いわゆるロマネスク建築を示す当時の便宜的な名称だった。しかし、それがイタリアに導入されるや、国家の独立と文化統一の道具として特別な意味合いが付加されるようになる。国家統一前において理論家たちは「ロンバルディア建築」を、ヨーロッパのゴシック建築に優るイタリア中世建築の優位を示すものとして理想化し解釈した。だが、こうした北イタリア発の中世主義は統一後になると、イタリア全土の建築文化において正当性を問われるようになる。

純粋な様式

 19世紀後半に行なわれた建築様式の議論は、国家的であることが不問の前提であり、その手がかりは歴史に求められた。折衷主義は国家の様式の一可能性として注目されたが、ボイトによって徹底的に攻撃され、イタリア技師・建築家会議のなかで公式に否定されるにいたった。ここで、折衷主義に対する中世主義の封じ込めは、求められる新しい様式にイタリアの特徴が表れるためには、過去の様式を複数混ぜてはならないという前提に基づいて行なわれた。こうして、国家様式に関する議論は一応の決着を見たが、この決着はそれまで封じ込められていた折衷主義が再び主張される前兆であった。そのときの折衷主義は、もはや国家の印を表すことにこだわる必要はなく、ただ新しさを追求すればよかった。こうして1890年頃から、新しさや合理性へ向かう純粋な要求が表面化し始めるのである。

■中世主義の実践一理論から現実の革新へ

歴史研究の実践:様式的修復

 フィレンツェおよびミラノ大聖堂におけるファサード設計競技は、中世主義理論が実践の機会を得るという点で重要な意味を持っていた。フィレンツェでの選考において、ボイトは同時代の他の大聖堂からの類推と美的な判断に基づく選考を批判し、ファサードは大聖堂本体の分析から導かれるべきだとした。この方法論は、客観的で合理的な態度を纏うことには成功した。だが、この同じ手法によって、ボイトはミラノ大聖堂のファサードに非イタリア的な要素を認めざるを得なくなる。北方のゴシック文化とロンバルディア文化の混在は、中世文化に国家のアイデンティティを認めるボイトの理論に大きな揺さぶりをかける結果となった。さらに、この設計競技がボイトの中世主義を危うくさせたのは、ファサードから排除されるべき非中世の遺産であった。あらゆる時代、あらゆる様式を等価に評価しなければならないという見解に譲歩したとき、「様式的修復」は中世主義とは完全に決別してしまうのである。

建築教育改革

 19世紀後半のイタリア建築教育の歴史は、工学的教養を備える技師の台頭によって危機に陥った建築家の地位をいかに取り戻すかという試行の連続そのものであった。このなかで、ボイトはミラノ高等技術学校(現ミラノ工科大学)の建築学部を通じて理想的な教育制度を完成させた。この教育制度改革は、二つの側面から評価できるだろう。まず、高等技術学校という機関それ自体としては、紛れもなくイタリアにおいて先鋭的な教育思想を反映したものであり、とくに中世主義の主唱者であったボイトの理想を、将来の建築家の養成を通じて具体化するという点ではきわめて操作的なイデオロギー装置になりえた。だが、高等技術学校の成立が建築家の危機的事態を変ええたかというと、結局のところ高等技術学校の建築教育は既存の美術アカデミーの教育と並行し競合こそすれ、その傍らで技師が実質的な建築家として大勢を占める状況に何ら有効な手をくだせなかった。

都市改造における躊躇

 ミラノ都市改造とボイトとの接点は、ミラノ大聖堂広場計画および世紀末に行なわれた都市改造計画(ベルート計画1884・1889)に認められる。ボイトは大聖堂広場計画案において中世様式を好み、平面計画においても中世の街区を保持する不整形な広場形状を支持するにいたった。しかし、この既存街区への敬意が彼を都市計画上のジレンマヘと追い込み、結果的に中世主義は都市の刷新に積極的な貢献ができなくなる。ボイトの中世主義は、建築様式から都市計画へその理論的射程を広げた時点で自己矛盾を来たし、完全に身動きが取れなくなってしまった。したがって、ベルート計画において、ボイトが自らをもはや建築様式の議論のみにとどめざるをえなかったのは当然の成り行きだった。こうして、ボイトはもっぱら建築様式の議論に関与するだけになった。しかし、その建築様式においても市による新しいミラノの理想を前に中世主義は敗北する。市による建築条例の制定は、都市建築の調和と質の向上を保障するにとどまらず、事実上、ネオ・ルネッサンス建築を誘導するものだったからである。

■中世主義:革新の方法論とその限界

 こうした諸相を踏まえると、建築設計、建築修復、建築教育のいずれにおいても、中世主義は現実に対処する手法の提示であったことが分かる。建築設計において、ボイトはオルガニズモとシンボリズモという対立する2要素を持ち出し、それらが一段高いレベルに止揚するところに理想的な建築を見た。たとえ、その姿が具体的に示されないとしても。建築修復において、ボイトはヴィオレ・ル・デュクとラスキンという相矛盾する前例の理想的統合を目指す。その統合は、まさに修復憲章というガイド・ラインとして具体化した。建築教育では、科学と芸術という2者の統一を目指し、美術アカデミーと高等技術学校を相互補完する形で理想的な建築教育機関を設立させた。こうした革新の軌跡は、まさしく対立する問題の弁証法的な乗り越え運動であったと言える。したがって、ヘーゲル弁証法の限界、すなわちそれが観念論的であるという限界も引き受けなければならなかった。裏返せば、理論主導であるがゆえに、中世主義は建築設計論、修復論、建築教育改革までに革新の跡を残すことができたのである。同時にそれは、ある理想への熱心な取り組みが、必ずしも制御不能な現実を捉えるものではないことも伝えている。ボイトの建築や理論が建築単体の自律的な問題にとどまっていること、中世主義が行政主導の都市計画において挫折するしかなかったことが、その裏づけとなる。このようにイタリア中世主義の革新と限界を見極めるとき、それがどれほど統一イタリアの建築という主題に翻弄されたものであったのかが明らかになるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、主として19世紀後半のイタリアにおける建築雑誌記事に裏づけられるイタリア中世主義の議論展開を追って、中世主義の理論的側面として、イタリアにおける中世建築研究の展開過程、歴史的正当性の構築、国家の様式としての議論を扱い、さらに、中世主義の実践的側面として、様式的修復、建築教育改革、都市計画への関与について分析を行なうものである。

 イタリア中世主義の中心的イデオローグは、ミラノを拠点として活躍したC.ボイト(Camillo Boito,1836-1914)である。既往研究を振り返ると、ボイトに関する研究、中世主義に関する研究のいずれもが、ここ半世紀の間に展開されたものである。

 中世主義は近代国家イタリアの誕生と密接に関わる建築潮流であるが、中世主義そのものはイギリス、ドイツ、フランスの動きに追随したものである。だが、この遅延こそを積極的に読み直すべきだと論者は考える。イタリアを扱う意味は、影響された側の史的可能性とともに、圧倒的な過去の建築遺産が、どのように新建築創造の論理に組み込まれたかを見極めることにあるからである。

 本論文の構成は下記のようになっている。

 1.中世主義の理論−歴史から未来の構築へ

中世建築研究の興隆

 イタリアにおける中世建築への関心は、大きく3段階に整理できる。まず、18世紀後半新古典主義の時代におけるゴシック建築批判。ついで、19世紀初頭のゴシックに対するデザイン上の好奇心。最後に、イタリアの中世建築に対する研究の始まりである。こうした中世建築研究が、世紀後半に中世主義の理論的な基盤となる。

歴史的正当性の構築

 イタリア中世主義においては、「ロンバルディア建築」という用語が、歴史的正当性の構築において重要な役割を果たす。国家統一前において理論家たちは「ロンバルディア建築」を、ヨーロッパのゴシック建築に優るイタリア中世建築の優位を示すものとして理想化し解釈した。だが、こうした北イタリア発の中世主義は統一後になると、イタリア全土の建築文化において正当性を問われるようになる。

純粋な様式

折衷主義は国家の様式の一可能性として注目されたが、ボイトによって徹底的に攻撃され、イタリア技師・建築家会議のなかで公式に否定されるにいたった。それは求められる新しい様式にイタリアの特徴が表れるためには、過去の様式を複数混ぜてはならないという前提に基づいて行なわれた。

 2.中世主義の実践−理論から現実の革新へ

歴史研究の実践:様式的修復

 フィレンッェおよびミラノ大聖堂におけるファサード設計競技は、中世主義理論が実践の機会を得るという点で重要な意味を持っていた。フィレンツェでの選考において、ボイトは同時代の他の大聖堂からの類推と美的な判断に基づく選考を批判し、ファサードは大聖堂本体の分析から導かれるべきだとした。この方法論は、客観的で合理的な態度を纏うことには成功した。だが、この同じ手法によって、ボイトはミラノ大聖堂のファサードに非イタリア的な要素を認めざるを得なくなる。

 建築教育改革

 19世紀後半のイタリア建築教育の歴史は、工学的教養を備える技師の台頭によって危機に陥った建築家の地位をいかに取り戻すかという試行の連続そのものであった。このなかで、ボイトはミラノ高等技術学校(現ミラノ工科大学)の建築学部を通じて理想的な教育制度を完成させた。この教育制度改革は、二つの側面から評価できるだろう。まず、高等技術学校という機関それ自体としては、紛れもなくイタリアにおいて先鋭的な教育思想を反映したものであり、とくに中世主義の主唱者であったボイトの理想を、将来の建築家の養成を通じて具体化するという点ではきわめて操作的なイデオロギー装置になりえた。だが、高等技術学校の成立が建築家の危機的事態を変ええたかというと、結局のところ高等技術学校の建築教育は既存の美術アカデミーの教育と並行し競合こそすれ、その傍らで技師が実質的な建築家として大勢を占める状況に何ら有効な手をくだせなかった。

都市改造における躊躇

 ミラノ都市改造とボイトとの接点は、ミラノ大聖堂広場計画および世紀末に行なわれた都市改造計画(ベルート計画1884-1889)に認められる。ボイトは大聖堂広場計画案において中世様式を好み、平面計画においても中世の街区を保持する不整形な広場形状を支持するにいたった。ベルート計画において、ボイトが自らをもはや建築様式の議論のみにとどめざるをえなかったのは当然の成り行きだった。こうして、ボイトはもっぱら建築様式の議論に関与するだけになった。しかし、その建築様式においても市による新しいミラノの理想を前に中世主義は敗北する。

 3.中世主義:革新の方法論とその限界

 こうした諸相を踏まえると、建築設計、建築修復、建築教育のいずれにおいても、中世主義は現実に対処する手法の提示であったことが分かる。建築設計において、ボイトはオルガニズモとシンボリズモという対立する2要素を持ち出し、それらが一段高いレベルに止揚するところに理想的な建築を見た。たとえ、その姿が具体的に示されないとしても。建築修復において、ボイトはヴィオレ・ル・デュクとラスキンという相矛盾する前例の理想的統合を目指す。その統合は、まさに修復憲章というガイド・ラインとして具体化した。建築教育では、科学と芸術という2者の統一を目指し、美術アカデミーと高等技術学校を相互補完する形で理想的な建築教育機関を設立させた。こうした革新の軌跡は、まさしく対立する問題の弁証法的な乗り越え運動であったと言える。したがって、ヘーゲル弁証法の限界、すなわちそれが観念論的であるという限界も引き受けなければならなかった。裏返せば、理論主導であるがゆえに、中世主義は建築設計論、修復論、建築教育改革までに革新の跡を残すことができたのである。同時にそれは、ある理想への熱心な取り組みが、必ずしも制御不能な現実を捉えるものではないことも伝えている。ボイトの建築や理論が建築単体の自律的な問題にとどまっていること、中世主義が行政主導の都市計画において挫折するしかなかったことが、その裏づけとなる。このようにイタリア中世主義の革新と限界を見極めるとき、それがどれほど統一イタリアの建築という主題に翻弄されたものであったのかが明らかになるのである。

 以上の論考えによって、これまでわが国で十分に研究されてこなかった19世紀後半のイタリア建築の理論的側面の歴史が明かにされた。こうした成果は、わが国において極めて研究の少ない時代と建築概念とを取り扱いながらも、西洋建築の根幹に触れる建築理論の成立とその意義を明かにしており、その価値は高い。本研究は、日本において欧米の建築史を研究する方法に新しい可能性を開いたところがあり、日本における今後の西欧建築史研究にとって、刺激となるものである。その意味で、本論文が明かにした事実と、そうした事実を明かにするための方法との両面において、本論文は価値がある。

 以上の論考は、西洋建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク