学位論文要旨



No 116014
著者(漢字) 王,潔
著者(英字)
著者(カナ) オウ,ケツ
標題(和) 中国都市絵巻図にみる<表層>の意味構造に関する研究
標題(洋)
報告番号 116014
報告番号 甲16014
学位授与日 2001.03.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4851号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 及川,清昭
内容要旨 要旨を表示する

 中国では、急速な近代化に伴い、多くの伝統的景観が失われつつある。現代都市の建築形態の意味が曖昧になってきたため、その集合としての都市景観からは秩序が見えにくくなっている。本論文は、従来の都市の景観計画、設計の概念に不足していた景観の意味構造に関する知見を得るために、中国の都市絵巻図を素材に、描かれている景観、特に<表層>に着目して、その形態要素の特徴と意味構造の解明を行った。

 <表層>とは、建物の正面と道路境界に挟まれた空間、およびその近傍空間を、特定の意味と機能を担うひとまとまりの空間として見なしたものである。中国の建築の<表層>には、「照壁」という特徴的な塀が街路空間に張り出して作られる現像が見られる。本論文が、照壁によって、公共空間の拡張された私的領域を上記定義の「近傍」とみなしている。

本論文の目的は、以下の3点である。

 (1)都市絵巻図から、描かれている街路景観、特に<表層>の形態要素を抽出し、それを定量的に読み取り、形態要素の多様性を明らかにすること。

 (2)現代記号論の考えに基づいて、<表層>の形態要素を記号として抽出し、記号の役割、記号の形態と記号の内容、記号の意味因子などから、<表層>の意味構造を解明すること。

 (3)日本の同種の描かれた街並みとの比較を通じて、(1)(2)から抽出した<表層>の意味因子が、空間の表現にどのように表れるかを明らかにすること。

 本論文は、序章と終章を加えて5章から構成されている。

 第一章は、表層論から都市絵巻図へのアプローチの方法を検討し、本論文で展開する<表層>の意味構造の解釈に理論的基盤を与える。そして、描かれた都市景観と中国都市絵巻図に関する既往研究を述べた上で、本論文の位置づけをする。

 第二章は、研究対象に関する考察である。

 まず、本論文の主な研究対象である「清明上河図」と「盛世滋生図」の概要を述べる。そして、「清明上河図」と「盛世滋生図」の歴史的背景と都市的背景を述べる。さらに、都市絵巻図の資料性について考察する。

 第三章は、街路景観の構成要素の抽出である。絵巻図に描かれている街路景観は、街路の形態、街路沿いの点的構成要素(点景)、街路沿い線・面的構成要素(<表層>)、で構成されていると定義した。本章の目的は、描かれている街路景観の形態要素を抽出し、その中の<表層>の形態要素を定量的に把握し、形態要素の多様性を明らかにすることである。

 まず、絵巻を地区別に分けて、描かれている景観を絵巻の流れに沿って、どのようなものが描かれているかを慨約した。「清明上河図」と「盛世滋生図」は、ともに絵巻図が広がりにつれ、街路や水路に沿って、周縁部から都市へ進む景観を描いていることが分かった。このような景観の描き分けがあることで、意味論的な研究が可能となる。そして、街路の形態と街路沿いの点景要素を述べる。市民の生活に欠かせない井戸や屋台が街路に設けられていることから、街路空間は単なる通行機能だけでななく、市民の日常生活の重要な場であることが分かった。さらに、<表層>の形態要素を、建築と街路との関係に関する要素、建築的形態要素、付属的形態要素に分けて、<表層>の形態要素を抽出し、集計結果として、以下のことが分かった。(1)「清明上河図」では、みせの[はみ出し]は一般的である。(2)「盛世滋生図」では、みせに看板を設けることが一般的である。(3)「盛世滋生図」では、街路沿いの<表層>に装飾要素を設けることは多い。(4)「清明上河図」と「盛世滋生図」には、ともに開放性の高い<表層>が描かれている。

 第四章は、<表層>の意味構造の定量的分析である。本章の目的は、前章の<表層>の形態要素の分析にもとづいて、<表層>の意味構造を解明することである。

 繰り返し現れる形態要素や特異な性質を持った<表層>の形態要素を記号とし、<表層>を構成する記号群を意味成分とみなすことで、<表層>に対する成分分析を展開する。<表層>の形態要素の分布状態(出現頻度)を調べることにより、示差的成分、補助的成分、共通成分という3類型に区別した。<表層>の類似性を表す共通成分から、都市絵巻図に描かれている<表層>の一般型を明らかにした。また、示差的成分の分析を通して、限られた数の記号から多様な記号のバリエーションを生成する仕組みを提示し、<表層>の多様性の形成に示差的成分が重要な役割を果たしていることを明らかにした。

 また、特定の意味を持つ記号の形態と記号の内容を分析した。いくつかの象徴的な記号と実用的な記号を取り出した。「清明上河図」では、「棟飾り+垂脊飾り」(記号)は屋根の「反り」と強い関連があることが分かった。実用的記号として、「川字幌子+川字暖簾」(記号)が[酒屋]を表わしていることが分かった。また、[涼棚+テーブルセットの溢れ出し](記号)が飲食と関係する[みせ]を意味していることが分かった。「盛世滋生図」では、[筒瓦]、[棟飾り]、[走獣飾り]、[斗きょう]など屋根の装飾要素は格式の高い形態要素であることが分かった。また、山門型門屋が[寺院]を象徴していることが分かった。実用的記号として[提灯]を設けることは、住宅の場合では行事の賑やかさを表し、みせの場合では立派な酒屋を表していることが分かった。

 さらに、「清明上河図」と「盛世滋生図」の散布図分析により、<表層>秩序のヒエラルキーを表す「身分(上)」と「身分(下)」という意味因子、<表層>の様相を表す「賑やか」・「開放的」と「静か」・「閉鎖的」という意味因子が読み取れた。これらの意味因子は、絵巻図の街路沿いの<表層>に共通して存在すると思われる<表層>の意味特徴を示すものである。

 散布図上で、距離の近い形態要素の集合により、<表層>を類型化した。官的<表層>、立派なもせ<表層>、素朴なみせ<表層>は2つの絵巻図に共通しているが、閉鎖的な<表層>は「清明上河図」にしか描かれてないことが分かった。2つの都市絵巻図の<表層>の類型の表現を比較すると、以下の特徴がみられた。

 1立派なみせの<表層>を表すとき、「清明上河図」と「盛世滋生図」では、共通する形態要素がみられない。言い換えれば、立派なみせの<表層>を形成する要素が、時代や地域によって変わることが分かった。 2絵巻図の散布図を比較して、「盛世滋生図」では、官的形態要素が集中して分布することが特徴であることから、表現されている官的建物の<表層>の形態要素の共有程度の高さから、官的建物の<表層>が様式化していることが分かった。

 3都市の景観を「光」と「闇」に分けて考える時、官的<表層>や立派なみせ<表層>が都市の「光」の部分を表している一方、閉鎖的な<表層>や素朴な<表層>が都市の「闇」の部分を表している。散布図の分析から、「清明上河図」では都市の「光」の景観と「闇」の景観が明確に表現されていることが分かった。一方、「盛世滋生図」には、官的<表層>や立派な<表層>で、都市の「光」の部分が豊かに描かれているが、素朴な<表層>がみせの一般型として描れており、都市の「闇」の景観の表現が少ないことが分かった。

 最後に、街路タイプ別と地区別に、記号の出現頻度と割合から、絵巻上記号の分布特徴を分析する。

 1街路タイプ別め記号の分布

 「清明上河図」では、河岸型の<表層>において、「身分(上)」と「賑やか」の形態要素の出現頻度と割合が陸路より低い。また、[みられる]・[入れる]の指標要素の集計から、河岸の<表層>が陸路の<表層>より公共性が低いことが分かった。総合して、「清明上河図」では陸路の<表層>と河岸の<表層>とが明確に描き分けられていることが分かった。一方、「盛世滋生図」の水路の<表層>に、「身分(上)」の形態要素が全然見られず、「賑やか」の形態要素も比較的少ないことが分かった。河岸と陸路の<表層>には、「身分(上)」と「賑やか」の形態要素の出現頻度と割合にあまり差がみられないことから、河岸沿いと陸路沿いとを明確に描き分けてないことが分かった。

 2地区別の記号の分布

「身分(上)」と「賑やか」・「開放的」の形態要素の地区別の出現頻度と割合の集計から、「清明上河図」では、絵巻図の広がりに伴い、郊外地区、水辺商業地区、城内繁華地区へ進むにつれ、上述した意味を表す形態要素も増えていく。つまり、<表層>の地区性が明確に描かれていることが分かった。一方、「盛世滋生図」では、蘇州城内において、「身分(上)」の形態要素の出現頻度と割合が高い。山塘街では、「賑やか」の形態要素の出現頻度と割合が高い。蘇州城内、特に描かれた蘇州城の西部における官署の多い性格と山塘街における有名な盛り場としての性格はこのような<表層>の地区性と一致することが分かった。

 第五章は日中の比較の視点から、第四章で抽出した<表層>の意味因子が、空間的にどのように表現されているを考察し、以下の知見がえられた。

 日本では形式化された立派な門屋が、<表層>の「格」をつくるのに重要な役割を果たした。中国では、塀が街路空間の異なる所に位置することにより、異なる役割を果たす。建物と街路との遮断としての塀、表層領域の凹型の形成としての塀、そして拡張としての塀などの形式で、街路空間と関わりながら<表層>の「格」つくりに重要な役割を果たすことが分かった。また、建物と街路の境界領域に注目してみると、中国の建物、特にみせは街路に対して開放的でありながら、みせ領域と街路領域が使い分けられることによって、街路の公共性を確保されていることが分かった。

 終章は各章のまとめを行い、今後継続すべき研究の課題を提示した。

 以上、本論文では定量的分析により、<表層>の形態要素を数量化し、<表層>の意味構造を明らかにした。そして、その意味構造から、絵巻図に描かれている街路景観を解釈した。

審査要旨 要旨を表示する

本論は、中国の都市空間の様子を描いた二つの絵巻の図像の意味論的解明を行ったものである。対象とした絵巻は北宋の開封を描いた「清明上河図」と清代の蘇州を描いたと「盛世慈生図」である。この二つの絵巻は、いずれも都市の人々の生活を生き生き描いたもので、当時の都市生活や都市風景を知る上でも貴重な資料と言える。

本論の筆者は、絵巻を記号の体系と捉えている。絵巻に描かれた様々な景観要素を取り出し、それらの出現頻度や出現時における他の景観要素との関連などを統計的な方法も援用しながら綿密に分析し、景観要素がどのような意味を担っている(担いうる)かを明らかにしている。

本論は5章と各章の結論をまとめた終章から構成されている。

第1章では、研究の方法論を概説している。表層論的な観点と記号論的観点を導入し、関連既往研究を概観している。

第2章では、最初に中国の都市絵巻図を歴史的に概観し、描写内容と閲覧の可能性から対象とした2つの絵巻が選ばれたことを説明いている。続いて、描写対象である、北宋代の開封と清代の蘇州の都市構造などについて全体的な説明を行っている。最後にこれらの絵巻がどの程度に、当時の状況を表現しているかについて検討して、信頼おける資料であることの確認をしている。資料の公開が不十分な中国にあっては研究上の様々な限界もあり絵巻の内容の真実性の検討と.しては必ずしも十分とは言えない。しかし意味を扱うという目的にとっては十分な検討といってよい(対象を正確に描いているかではなく、対象の意味の違いを描き分けているかが問題になるからである)。

第3章では、二つの絵巻の内容を、街路、点景、表層に分けて景観の形態要素を取り出している。合わせて、絵巻に描かれた画像から描写対象地区を平面図として推定復元している。また、図中の看板などに書き入れられた文字、点景の配置、人の振る舞いなどから、建物(正確には表層)の用途を推定している。最後に、抽出された形態要素の出現頻度から、それぞれの都市の風景の定量的傾向を読みとっている。

第4章では、意味構造の分析を行っており、本論の中心的な章である。意味分析は、最初に、形態要素の成分分析により形態要素の意味作用上の役割を、共通成分、補助的成分、示唆的成分に分けて捉えている。これにより表層の一般型を取り出し、単純な記号の組み合わせにより多様な景観と意味を創り出している様子を説明している。続いて、特定の形態要素が組み合わされて新たな意味が生み出されている様子を・要素の出現の相関から見ている。こうして抽出された(絵巻のなかの)都市景観の意味の要素が相互に関係しあって、全体としてはどのような意味の構造を作り上げているかを、数量化3類を使って解釈を試みている。「身分の上下」と「賑やか/開放的一静か/閉鎖的」の二軸を提示し「清明上河図」では「素表層」、「立派な表層」、「閉鎖的な表層」、「官的な表層」の4類型を、「盛世慈生図」では「素朴な表層」、「立派な表層」「官的な表層」の3類型を上げている。最後に、これらの意味づけられた形態要素を絵図に戻して、どのような空間配置になっているかを検討し、両図の時代の違いから意味構造の歴史的変化に言及している。

第5章では、二つの中国の絵巻から得られた意味構造に関する知見をベースに、日本の絵巻である「洛中洛外図」と「江戸図屏風」を比較して、日中の都市景観を比較している。

本論はこの種の研究として正統的な手続きを踏んで検討、論述されており、日本語による記述も簡潔でかつ適格である。その点で過不足は無い。また、形態要素の意味の分析は多面的に検討されており、その点でも研究方法として十分である。一方、分析結果(絵画に描かれたも要素の意味)は常識的な理解を大きく超えるものではなく、その点で本論の評価が分かれるかもしれない。このような結果は絵画のなかの形態要素のみから意味を探るという本論で採られた方法の限界と言える。その意味で、より豊かな意味をくみ取るためには研究者の側での幅広い歴史的知識が欠かせないことは言うまでもない。しかし、一方で、形態要素の描かれ方の統計的分析からだけでも、現在の知識に照らして十分合理性のある意味が析出されたということにこそ、この研究で取られた方法の妥当性と可能性を証明していると見るべきであろう。

本論の貢献は、都市風景における意味分析の方法の有効性を明らかにし、絵画資料への適用方法を示したこと、および中国の近世都市の風景の意味構造を明らかにしたことの3点にある。なお、5章で行われた日中の絵巻の比較は、今後の研究の展開を示唆するために挿入されたとみるのが妥当である。

以上みていきたことから、本論は博士(工学)の学位請求論文として合格として認められる。

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