学位論文要旨



No 116015
著者(漢字) 加藤,耕一
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,コウイチ
標題(和) ゴシック様式の成立過程に関する研究 : 初期ゴシック時代の建築と社会
標題(洋)
報告番号 116015
報告番号 甲16015
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4852号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,道夫
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、ゴシックという新様式が現出したときの成立過程について考察するものである。一般にゴシックはサン=ドニ大修道院の後陣部分が完成した1144年に誕生したと考えられる。確かにサン=ドニの早熟ともいうべきデザインは歴然としてゴシックそのものであり、それについては如何なる反論も存在しえない。しかしながら、サン=ドニはゴシックという新様式を志向したものではなかったはずである。結果としてサン=ドニ的デザインがゴシック様式と呼ばれるようになったのであり、様式としての成立過程を考える限り、サン=ドニの模倣者に着目することこそ重要と考えられる.

 したがって本論では、初期ゴシックと呼ばれるゴシックの黎明期の様々な実験的な試みを主たる分析の対象とした.初期ゴシック時代とは一般に、サン=ドニ内陣の献堂(1144年)からロマネスク期のシャルトル大聖堂の火災(1194年)までの50年間と定義される.1200年に前後して着工したシャルトル、ランス、アミアンの大聖堂は、H・ヤンツェンによってゴシックの古典と称された.ここにおいて漸くゴシック大聖堂の一つの典型が完成したのであり、すなわちサン=ドニで現出した早熟なデザインが、古典期大聖堂においてゴシック様式として結実したということができる.

 したがって、本研究では上述の50年間に建設の進められた司教座聖堂を、主として取り扱った.具体的には、サンス、ノワイヨン、カンブレ、サンリス、ラン、アラス、パリ、ソワッソンの8司教座聖堂である.本論は全体を2部構成とし、第1部では初期ゴシック時代の建築デザインの発展について、第2部では初期ゴシック時代に多数の大聖堂が建設された社会的な背景についての再検討を試みた。

 第1部第1章では、サン=ドニ大修道院及びそれに続く上述の8司教座聖堂を概観した.これらの大聖堂の建設年代、デザイン上の特徴、またそれぞれの影響関係について詳論した.初期ゴシック様式は、イル=ド=ランスで発生したと説明されてきた.だが、確かにイル=ド=フランスにはサン=ドニの影響を受けた複数の初期ゴシック大聖堂が存在したが、一方で、遙か北方の現ベルギー国境付近においても、いくつかの初期ゴシック建築が見られた.これらには同じエスコー川流域のトゥールネ大聖堂からの影響が強く存在しており、初期ゴシックのもう一方の祖としてトゥールネ大聖堂が無視できないと結論づけられる。

 第1部第2章では、初期ゴシック大聖堂内に見られる特徴的な支柱である「添柱」について考察した.添柱(detachedshaft)はモノリスの細いシャフトで形成された独立柱であり、組積造の壁体と一体化した石積みの細円柱である「付柱」(attachedshaft)と区別される。サン=ドニの周歩廊以降、リブの対応柱として添柱がしばしば用いられた。これによりリブ・ヴォールトは、視覚的には壁面から独立した細い線材によって支持されることとなり、極めて軽快な印象を生成する一方、すべてのリブに添柱が対応するというゴシックの諭理性が獲得されたと考えられる.

 したがって初期ゴシック時代における添柱の使用は極めて重要であると考えられたが、古典期には湊柱の使用が放棄され、初期ゴシックにおいて添柱が用いられた部位にも組積造の付柱が用いられたことが確認された.しかしながらそれは、モノリスの添柱が使用された50年間に異なる論理が獲得され新たな地平に昇華された所産と考えられ、初期ゴシック時代の添柱の重要性を損なうこととはならないであろう.

 添柱はトゥールネ大聖堂で既に用いられていたこと、さらに添柱に適した大理石がトゥールネ地方で大量に産出されたことから、特にエスコー川流域の北フランスで盛んに用いられた。カンブレ、アラス両大聖堂が現存しないため、詳細は不明であるが、この地方の添柱の用法は装飾由なものであったと考えられ、カンタベリー大聖堂にも影響を及ぼしたと考えられる.

 さらに第1部第3章では、初期ゴシック大聖堂に連続水平線という要素を導入したラン大聖堂に注目し、そのデザイン手法を分析することでランの特異性を明らかにした.ランの身廊立面では、垂直部材であるウォール・シャフトを水平部材であるコーニスが乗り越えるデザインが見られる.これはシャルトル以降の古典期大聖堂でも見られるデザインであり、既にヤンツェンによってラン大聖堂からの影響が示唆されていた.だがランにおいては添柱が用いられ、シャルトルにおいては付柱が用いられた点において、両者は異質なものであった.

 ランでは、添柱で形成されたウォール・シャフトを壁面に固定する重要な部材である石造のリングを利用して、そこに構造的意味のみならず装飾的意味までも付加したと考えられる。すなわちシャフトを分割するリングの高さを壁面を分節するコーニスの高さと一致させ、のみならず両者を一体化させることで、身廊立面に連続する水平線を現出させた.さらに初期ゴシック時代のラン以外の大聖堂におけるウォール・シャフトとリングの形式を3種類に分類して分析した結果、ランほどに水平性が強調されたデザインは他に見られないことが明らかとなった.

 したがって、ランと同様のコーニスによる連続水平線が実現されたシャルトル以降の古典期大聖堂に対しては、確かにランからの強い影響が存在したと結論づけられる.しかしそれはランにおいて実現された添柱によるデザインを、付柱の使用により形態のみ模倣したものと考えられた.

 第2部第1章では、フランス王権と初期ゴシックの関係性について考察した。王権とゴシックの結びつきは先行研究でもしばしば指摘されるものであるが、ここではその指摘の正当性の検証及び国王から具体的に如何なる関与があったかを考察した.初期ゴシックと同時代のフランス国王はルイ7世であり、彼は聖界との良好な関係で知られた国王であった。このことが初期ゴシックと王権との結びつきの指摘にもつながったと考えられる。

 しかしながら、ルイ7世による大聖堂建設への資金援助と、王立司教座に対する王権による支配の実態を検証した結果、多額の資金援助も強い支配力の発揮も存在しなかったことが明らかになった。したがって、ルイ7世が初期ゴシック時代に大聖堂建設のパトロンとして存在したとは考えられず、既存の研究が指摘する両者の結びつきの指摘は誤りであると結論づけざるを得ない。

 第2部第2章では、コミューンと初期ゴシックの関係について考察した。コミューンとの関係については19世紀のゴシック研究では散見されたが、20世紀のゴシック論ではほとんど採り上げられることはない.しかしながらコミューン運動と大聖堂の建設とはともに12世紀における重要な都市的な現象であり、両者がしばしば同じ都市で発生していることは注目に値する。斯様な観点から両者の結びつきの有無について再検討を試みたが、明確な結論は得られなかった.だが、おそらくコミューン住民たちが積極的に大聖堂建設に関与したという事実はなく、単に都市部の発展が引き起こした共通の現象であったと考えられる.

 第2部第3章では、大聖堂建設と都市部の社会背景の実態を把握するために、具体例としてラン大聖堂の建設を採り上げ考察した。ランにおいては大聖堂建設の半世紀ほど前に、司教とコミューンの住民たちの間で苛烈な争いが繰り広げられたことが知られ、両者の関係は良好とはいいがたいものであった.したがって、大聖堂建設に対して住民たちの協力が見られなかったことは驚くには当たらない.他方、ランに対する国王の介入もほとんど見られなかった.10世紀頃までのランはフランスの首都の一つとして繁栄していたが、ルイ7世の治世後半には、ランからの急速な王権の乖離が見られた。国王が有していた、司教の遺産没収権が放棄されたことは、大聖堂建設中であったラン司教にとっては極めて有利に働いたと考えられる.また大聖堂の建設に当たっての土地の買収などには聖堂参事会が尽力していた様子がうかがえ、司教と聖堂参事会が独自に大聖堂の建設に取り組んだものと考えられる.司教にとってランのコミューンの存在は、税収の滅少に結びつきあまり好ましいものではなかったようだが、これの破棄を試みることはなかった.他方、ラン周辺の農村住民たちが都市部と同様のコミューンの権利を要求したときは、これを徹底的に弾圧しており、建設費用は主として彼らからの税収入によって賄われていたと推察された.

 本論はゴシック様式の成立過程を明らかにすることを目的とした。その結果、ランのデザインが初期ゴシック時代の集大成として重視すべきであることが理解された.添柱を用いたゴシックの論理的明瞭さと構造的軽快さとは、サン=ドニの周歩廊に端を発しているといえるが、ラン大聖堂のデザインにはトゥールネ大聖堂からの強い影響も無視できないものであった.両者の間で建築工匠の移動があったことなどを示す史料はまったく知られていないが、第2部第3章において、ランとトゥールネの聖堂参事会において両司教座を兼任する人物が多数存在することが明らかとなったことが注目に値する9参事会員は、大聖堂建設の事務的な業務を遂行したと考えられ、彼らの存在は今後の研究で極めて重要な地位を占めることとなると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本学位請求論文は,サン=ドニ修道院の献堂からロマネスク期のシャルトル大聖堂の火災までの約50年間における司教座教会の形態的特性とその建設に関わる当時の社会状況を分析することで,後にゴシック様式と称されることになるフランスにおける建築様式の成立過程を考察するものである。

 本研究は,序論と2部の本論,および結論から構成される。序論は先行研究を概観し,本論文を位置付けるものと言える。第1部は,初期司教座教会の形態的特徴を論じるものであり,特にモノリスの添柱の使用法に着目するものである。第2部は司教座教会を生み出した杜会状況の分析,具体的には王権とコミューンとの関係を論じるものである。結論は,第1部,第2部で得られた知見を総合し,その結果を整理するものである。

 第1部第1章ではサン=ドニ大修道院と8司教座教会のデザインの特徴およびそれぞれの影響関係を論じている。その結果,当時に建設の始められた司教座教会がイル=ド=フランス地域よりも北に存在すること,および,トゥールネ大聖堂の影響が大きいことを論証している。この論証は,これまでのイル=ド=フランス地域と関連づけた説明に修正を迫る知見を提供するといえる。

 第1部第2章では,初期ゴシック大聖堂に見られる支柱に見られるアン・デリと呼ばれるモノリスの添柱に着目し,その使用のあり方をサン=ドニ修道院と8司教座教会について分析している。モノリスの添柱の使用そのものの指摘は既知である。しかし,それを,系統立ててゴシック様式の大聖堂について論じるものは少ない。また,これに着目する先行研究としてボニを挙げることができるが,その関心の中心はイギリス初期ゴシックへの影響であり,フランスにおけるゴシック様式の成立過程を論じるものとはいえない。この意味で本学位請求論文は,フランスにおけるゴシック様式の成立過程に関して新たな見方,方法を提供するものと言える。

 第1部第3章では,添柱と支柱や壁面に見られるコーニス等の周辺部材との関係に着目し,聖堂のデザイン原理というべきものに迫っている。その結果,ラン大聖堂において,添柱を繋ぐリングとコーニスの一致が見られ,この意味においてラン大聖堂は一貫した水平分割に基づいていることを明らかにしている。更に,ラン大聖堂以外の初期ゴシック大聖堂においては,そのような明快な水平分割が見られないことを明らかにすることで,シャルトル大聖堂以降の古典期大聖堂に見られる一貫した水平分割がランからの強い影響であると結論づけている。ゴシック様式のデザイン原理として垂直性を指摘する研究は多いが,その水平分割の一貫性の有無について詳細に論じたものは少ない。この意味で,本論文が明らかにした水平分割の一貫性の存在とその起源がラン大聖堂にあるという指摘はゴシック様式の成立に関わる重要な発見と言える。

 第2部第1章では先行研究で指摘されるフランス王権と初期ゴシックの関係について論じている。王権からの資金援助の観点から分析し,初期ゴシック時代の王であるルイ7世からの資金援助はなかったことを明らかにすることで,王権とゴシックとの強い結びつきはないことを論証している。

 第2部第2章では,コミューンと初期ゴシックの関係について論じている。この関係も従来の研究に散見されるものである。しかし,コミューンと初期ゴシック聖堂の建設が同一都市に見られるものの,現時点での史料からは直接的な影響関係を示すものが存在せず,したがって,コミューンと初期ゴシック聖堂の密接な結びつきを史料から断定することはできないと結論づけた。この論証は,史料の少なさもあって,必ずしも十全とはいえないと判断される。しかし,少なくとも,コミューンとの結びつきが単純には受け入れられるものではないということは明らかにしているといえよう。

 第2部第3章ではラン大聖堂の建設をとりあげ,当時の社会背景との関係を論じている。この章は,第1章,第2章に見た王権との関係,コミューンとの関係をラン周辺という特殊な地域において例証するものといえる。

 主としてギベール・ド・ノジャンの『回想録』を見ることで,そこに王権の乖離が見られることを論証し,またコミューンの存在が司教にとって必ずしも資金調達には有利には働かないものであることを明らかにしている。また,ランとトゥールネの両参事会を兼任する人物が,多数存在したことを明らかにした。この発見は大聖堂間の影響関係を支える人的要因と考えられ,これについての今後の研究がまたれる。

 以上,本研究は,添柱という部位の使用法に着目することで,初期ゴシックにおける新たなデザイン特性を明らかにしている。なお,この部位の使用法に着目したフランスにおけるゴシック様式の成立過程に関する系統立てた分析は,先行研究には見られないものである。その成果は,フランス初期ゴシック様式の成立過程に関する新たな知見を提供するだけでなく,ゴシック研究に新たな方法を提示する優れた業績といえる。

 また,第2部では,従来の研究で指摘された王権やコミューンと初期ゴシックの関係について,少なくともこれまでの指摘には無理があることを明らかにしたいえる。また,大聖堂間の影響関係の人的要因として,複数の参事会を兼務する人物の存在の可能性を示唆することに成功している。

 よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク